le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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なぜひとを尊重しなくてはならないか。

ひとが神を愛する、ひとが仏を信じるではなくて、神がひとを愛する、仏がひとを信じる。そうでなければ宗教など理解できない。それは主観でもなければ客観でもない。

人間中心主義の思想、「ひとがひとを理解する」「ひとがひとを愛する」という思想をわたしは信じない。

ひとはひとを理解できない。だからひとはひとを尊重しなくてはならない。
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テーマ:思うこと - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/03/08(木) 12:07:42|
  2. 身辺雑記
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ブレッソンの批評精神

私の「研究ノート」、某仏教系研究会の会報に載せてもらえそうだとの連絡が入りました。ここ数カ月、私の思考はそれを中心にぐるぐるまわっていた感じですから、やはりうれしいですね。
下にも書いたように、その「研究ノート」では、ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』についての浅沼圭司さんの発言(言語論)を枕としてつかっているのですが、今日はちょっと角度を変えて、プログラムの冒頭に掲載されている谷川俊太郎さんの「静けさ」という文章の一部を紹介してみたいと思います。
これも、昔から私が好きな文章で、私は、『バルタザールどこへ行く』を実際に観る前に、通信販売でプログラムだけ買って穴があくほど読んでいましたから、とある人をしてこのように言わしめる作品とはどのような作品なのか、ものすごく興味がかきたてられたことを覚えています。

「静かな、美しい映画だと思いました。こういう讃辞は控えめすぎて、何かその場のがれのものと受けとられるでしょうか。けれど私のこの讃辞は、短いけれど、むしろその短かさ故に心のこもったものなのです。<静かな>ということ、そして<美しい>ということ、そのどちらにも私は限りなく深いものを感じていますし、そこには人間の知恵ではほとんど解くことのできぬ謎がかくされていると思っています。そういうひろがりをこめた讃辞だと考えていただかないと困るのです。こういうことわりをせねばならぬほど、<静かな>とか<美しい>という言葉が、マックス・ピカートのいわゆる騒音語、W・H・オーデンのいわゆる黒魔術の言葉にうもれてしまっているのは悲しいことですが、この映画自身がまた、そのような現代世界に対して、そのひとつの静けさの質故に、くっきりと存在しつづけていると思います。
 この映画については、実は私は静かで美しい映画としか言いたくないのです。観終ったあと、素直にそういう思いが私の中に生れ、その他のもろもろのこざかしいあげつらいは、この作品のもっている静けさの力とでもいうべきものによって、封じられてしまいました。いやむしろ、浄化されてしまったと言ってよいかもしれません。こういう言いかたをすると、何か私が無条件降伏をしてしまって、批評精神する自ら抛棄したようにきこえるかもしれないし、事実そういう一面もあるかもしれません。静かな、美しい映画と言うことができた喜び、それしか言う必要のない安らぎ、そういう経験はもちろんめったにあるものではないので、私はたしかにそれを大切にしようとしています。けれど、そういう態度がこの作品に対する私の批評精神をにぶらせるにしろ、この作品に内在している批評精神に私の目を開かせてくれるならば、それでいいと私は考えます。(以下省略)」

テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/03/04(日) 16:13:08|
  2. 身辺雑記
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のんびりと

浄土教団に関する研究論文(ノート)、20日に無事提出しました。
全体の構成をどうするか、最後まで悩みましたが、結局、冒頭に『バルタザールどこへ行く』についての浅沼圭司さんの発言の一部を引用するという歴史の論文としては風変わりなスタイルに落ち着きました。
今、査読にまわっていますから、これが無事査読を通過することを祈るばかりです。

ということで、久しぶりに締め切りから解放され、ちょっとぼうっとしています。
研究発表や論文執筆のあいだ読めなかった本がだいぶたまっていますから、まずはそれを少しずつ読んでいくというのがとりあえずの計画。
それがすんだら、某評伝の下読みを再開しようと思っています。

テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/25(日) 10:07:11|
  2. 身辺雑記
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ローマ発

ローマのMCさんから、久しぶりにメールがありました。
私が原稿を寄稿した論文集、ブラジルのに編集作業をまかせていたのだそうですが、作業が全然進まないので自分で編集することにした、論文集はまもなくできあがるだろうというものです。うれしいですね♪
MCさん、水曜日ににはサン・パウロに発つ予定とのことで、それまでの終了をめざしているようです。

テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/11(日) 21:58:54|
  2. 身辺雑記
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ブレッソンの作風と親鸞

某仏教系研究会会報用の原稿の構想がうまくまとまらなくて、今日は大学時代の友人に電話をかけてみました(彼には、昨年末に行った研究報告のレジュメを送ってあります)。
話は歴史のことにはならなくて、もっぱら雑談に終始したのですが、そのなかでブレッソンのことが少し話題になりました。そこで電話を切ってから、このブログでもご紹介しているブレッソン『バルタザールどこへ行く』公開当時の「アートシアター」プログラム(第76号)をまた引っ張り出し、それを読みかえしてみると、こんなことははじめてなのですが、今の私には、これが親鸞と名号のことを語っているように思えました。私が書きたいのは、親鸞と民衆とのかかわりとか、救済の問題ではなくて、こんな親鸞論(名号論)なのですね。

   *    *    *

浅沼圭司:一般的な問題として言うと、例の『抵抗』を論じた文芸評論家のことばにサジェストされて少し考えてみると、もっとはっきり言えばマラルメなどの”ことば”に対する考え方と大変、もちろんブレッソン自身はそんなことは考えていないと思うけれども、ぼくらが脇からみると、共通したものを感ずるんです。マラルメの有名な「詩の危機」(crise de vers)という論文があるんですが、そこの有名なことばで、ナマのことば日常のことばというのは貨幣みたいなものであって、思想交換、感情交換のための手段でしかない。それはそれ自身の存在を持たない。それに対して本来のことば、本質的なことばというのは”何かのための”ことばでなく、ことばそのものであって何かとの交換のためにあるのではない。それはいろいろひっついた思想とか感情とか習慣とかをどんどん落としていったところで純粋化されたことばなんですけれども、どんどん純粋化してみると結局何もなくなってくる。なくなるどころかあるものをなくしてしまうような働きを持ってくる。マラルメはおそらく彼の詩作を通して、ことばの純粋化をどんどんやっていたのだろう。ところがそうしていくと、純粋化されたことばというのは、いろいろな現実の表面的皮相的な、あるいはくっついたものをどんどん消していく力を持ってくるわけで、ことばそのものへの関心から始めた詩作は、次第次第に今度は現実の表面的なものを洗い流していくという力をおのずから持ってしまう。そうすると、向こうに見えてくるのは、現実を越え出た何かではないだろうか。ことばそのものへの関心、その純粋化への試みは結局超越的なもの、聖なるものへの関りを生じるわけですね。マラルメの確固たる硬い主知主義的な詩の世界は聖なるものに対して開かれ、現実に対しては閉ざされているような気がします。そういう性格というのはどうもブレッソンなんかにも、非常に強くあるんじゃないか。

【参照】
ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 2

テーマ:仏教 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/07(水) 13:29:02|
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