le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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ブラームス・デイ

昨日はなぜか一日ブラームスのCDを聴いていました。

ゆっくり起きて、ブランチをとりながらまず交響曲第一番(ベーム、ベルリン・フィル)。これはベームの比較的若い頃(59年)の録音で、廉価版CDが出たのを機に購入したもののじっくり聞き込む機会がなく、そのままになっていたもの。次に、ベームからの連想でベーム、バックハウスが共演しているピアノ交響曲第二番。その次には、ブラームスを続けに二曲聴いたのだからまたブラームスをという発想でピアノ三重奏曲第一番(イストミン、スターン、ローズ)。この曲のこの演奏は、私が最も好きなCDの一つで、ブラームスに限らず、これ以上ノーブルな曲と演奏は他にちょっとないだろうと思っています(たとえば、同じ曲のルービンシュタインらによる演奏は、ゴツゴツした感じであまり好きではありません)。
と、ここまでくればオール・ブラームス・デイにするしかないということで、次にはヴァイオリン協奏曲。こちらは、これまた私が最も尊敬する指揮者であるクレンペラーとオイストラフの演奏。
この曲を聴いている最中に友人から電話があり、友人の買い物につきあうことにしました。赤坂の某ホテルで洋服のバーゲン・セールがあり、友人はそれを見に行きたいというのです。実はこのところメールの調子がよくなく、パソコン通の友人にはそれをどうしたらいいかの相談もあったので、着替えてホテルに向かいました。
このホテルは私のあまり行ったことのないホテルで、アーケード街から待ち合わせを約束したロビーにたどりつくのにちょっと手間取りましたが、なんとかすべりこみ。バーゲンでは、友人はいろいろ物色して気に入ったジーンズを見つけたようでした(友人がジーンズを試着している間、私はふだんなかなかできないジャケットの試着にトライ)。
買い物後は、広い庭の見えるホテルのラウンジでしばし休息。友人は巨大なショートケーキのセットを、私はマロングラッセをのせたナポレオン・パイに挑戦。
さてティー・ブレイクの話題はいろいろありましたが(もちろん親鸞論を含む)、その柱の一つは音楽演奏論。私は、今日出かけるまで聴いていたベームのことなどを話しました。

朝?一番に聴いたというのは、ベームが私のお気に入りの指揮者だからかというとそうではありません。逆に、ベームは私が最も苦手とする嫌いな指揮者の一人です。昨日も、ベームのブラームスは、勢いがあるといえばあるけれど、力まかせのかなり荒っぽい演奏だという感を強くしたばかりです。
で、音楽演奏の話題というのはまずは指揮者論なのですが、二十世紀に活躍した大指揮者たちを分類するのに、通常は主観派(フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、クナッパーツブッシュ等)と客観派(トスカニーニ、クレンペラー、セル等)でわけますが、そうではないのではないかという持論を存分に語りました。
つまりこれは、主としてブルーノ・ワルターの演奏を聴きながら考えていることなのですが、通常、フルトヴェングラーなどとともに主観派の代表と考えられている彼の演奏、じっくり聴くと、曲のなかの一つひとつの音を大事にした、いわば「音楽本位」のものであるという気がしてくるのです。
となると、ブルーノ・ワルターは、クレンペラー、セルとならぶ、「音」重視派であり、この三人は、音楽においては音もしくは響きが最も重要な要素で、それがきちんとだせたうえではじめて、主観とか客観といった表現があると考えていたという点で共通していると私は思います。彼らに比べると、フルトヴェングラーやベームの演奏は、音を整えることは二の次で、まずは表現だと主張しているようで、私には抵抗があるのです。
(このなかでカラヤンをどう位置づけるかは少し面倒ですが、カラヤンという人は、一見「響き」重視派のようにみえながら、セルやクレンペラーに比較すると非常に不徹底だと思います。カラヤンのモーツァルトやベートーヴェンは、私にはとても濁ってきこえるのです。)
ところで、50年代、60年代を代表する彼ら大指揮者たちを私のように二分すると、その区分はそのまま、ユダヤ系指揮者(ブルーノ・ワルター、クレンペラー、セル)とドイツ系指揮者(フルトヴェングラー、ベーム+カラヤン)という区分でもあります。私としては、双方のグループに属する指揮者の演奏の違いを、いわゆる「血」や「気質」の問題に還元したくはないのですが、となるとこれは20世紀のドイツ社会のなかでドイツ系音楽家とユダヤ系音楽家がおかれていた立場の違いに起因するのではないかと考えたくなります。つまり、ドイツ系の音楽家たちは、聴衆ととあるコミュニティーを共有し、その暗黙の了解のもと、結果的にコミュニティーの結束を高めるような演奏、演奏者と聴衆が同じコミュニティーに属することを体感できるような演奏をしていたのではないでしょうか。そういう演奏として、フルトヴェングラーの演奏は、やはり非常にすぐれたもの、インパクトの強いものというべきでしょう。
実は、聴衆を感動させるのがいい演奏だと、演奏論をここで打ち切る考え方もありますが、私はそれには賛成できません。
フルトヴェングラーに対し、ブルーノ・ワルターやクレンペラー(ともにマーラーの弟子)は、第一次大戦後のドイツ社会で華々しく活躍しながらも、ユダヤ人であるがゆえに、根本的なところでコミュニティーに受け容れられていないということを自覚していたのではないでしょうか。そのことが、無意識的に彼らの演奏を自己防衛的な色彩の強いもの、自己の主観をストレートにさらけだすよりも音そのものを磨き上げて欠陥の少ない音楽、批判されることの少ない音楽を練り上げるという方向に向かわせたのではないかと私は考えます(この音を磨き上げるという方法論は結果的にモーツァルトの音楽演奏に合致しており、ブルーノ・ワルターもクレンペラーも、モーツァルトを主要レパートリーの一つとしています。これに対するベームのモーツァルト演奏は、よくいえば、モーツァルトの人間性を重視したものといえるでしょうか。音がざらついていて、私にはそれがとても気になるのです)。
ところで、このところ私はハイデガーの著作も少し読んでいるのですが、就中、『言葉への途上』を読んでいると、この著作のもととなった講演の多くが50年代に行われており、その時期はちょうどフルトヴェングラーの晩年に重なること、フルトヴェングラーもハイデガーも、戦争中のナチスとのかかわりが問題とされ、戦後の活動に制約を受けたことを考えてしまいます。
この二人を同時代人として一緒に論究した例を私は知りませんが、戦後、ともにナチスとの関わりを問題にされながらも、フルトヴェングラーの方は、音楽家であったがゆえにその活動は本来的には非政治的なものであったとされ、許容されているように思われます。しかし、フルトヴェングラーの演奏が、主観か客観かという単純な表現スタイルの問題ではなく、ドイツ社会(コミュニティー)のあり方と深く結びつくものであることを考えると、フルトヴェングラーの演奏の政治性も、より深いレベルで考えなくてはならないのではないかという気がしてきます(注意していただきたいのですが、私はここで、フルトヴェングラーは戦犯だといいたいのではありません)。
そしてこの問題は即座に、ハイデガー思想の政治性の問題ともかかわってきます(現在この問題を考えるならば、『ハイデガー「哲学への寄与」解読』<鹿島徹他著、平凡社、2006年>がとてもおもしろいと思います)。戦後のハイデガーは、その関心領域を「言葉」の問題に先鋭化させていったともいえますが、言葉の問題とはすなわち社会(コミュニティー)の問題であるともいえるのではないでしょうか。
友人と話しながら、昨日は、そんなことをとりとめもなく考えていました。

(帰宅してからは、ルービンシュタインでブラームスのピアノ・ソナタ第三番を聴きました。)

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  1. 2006/10/02(月) 09:38:24|
  2. クラシック音楽
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ブレッソンとクレンペラーの対位法 2

『アートシアター』76号掲載の浅沼・品田対談にそった「ブレッソンとクレンペラーの対位法」の記事、続けてみよう。
そこでまず問題にしたいのは、①「映画をつくること自体が一種の哲学」「ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している」と、②「主知主義的な、あるいは明晰さというものは、ブレッソンの根本的な資質」という二つの指摘だ。

まず第一の指摘。
これは非常に重要な指摘で、直接的には何のために映画をつくるのかという問題とかかわってくると思うが、それをさらに普遍化すれば、芸術表現は何のために行われるのかということにもなるだろう。そしてそのように普遍化すれば、それは音楽表現(演奏)をめぐる議論としても十分通用する。
クラシック音楽の演奏では、一般的に、はじめに「曲(作品)」があって、演奏者は、作曲者が何を伝えたいのかを自分なりに分析し、その分析結果(曲に対する解釈)を演奏をとおして提示すると考えられていると思う。しかし私からすれば、ここにすでに落とし穴があるのであって、このような考え方でいくと、演奏において最も重要視されなくてはならないのは、「何を語るか」もしくは「曲の内容」ということになってくる。音楽の場合、はたして「曲の内容」と「曲の形式」とを明確に分離することができるのだろうか。
結論を急がないようにしよう。
実は、西洋音楽においては、この問題はベートーヴェンを境にして二通りの回答がありうると思う。つまり、ベートーヴェンとそれ以降の作曲家の楽曲は、ある意味で「内容(語りたいもの・伝えたいもの)」を形式に優先させ、既存の形式を破戒することでそれを実現していった。ところがそれ以前のバッハやモーツァルトの楽曲というのは、曲の直接的なメッセージ性は希薄で、それよりは形式美や形式にそって演奏する歓びを聴く人に伝えるというタイプの音楽ではないだろうか。つまり、モーツァルトとベートーヴェンのあいだに、音楽とは何か、楽曲が伝えようとするものは何かをめぐる大きな断層があるのだ。当然、その断層の前と後では、演奏(曲の伝え方)は変化せざるをえないということになる。したがって、演奏に際して内容を優先させるか、形式を優先させるかは、モーツァルト以前とベートーヴェン以降とどちらを主にして楽曲を考えるかという問題ともなろう(いったい、ベートーヴェンの第五交響曲(「運命」)や第九交響曲による「感動」と同じようなものを、何でもいい、モーツァルトの楽曲で味わうということがありうるだろうか)。
ここで非常に大ざっぱな言い方をすれば、実はベートーヴェンが本格的に活動しだした19世紀という時代は、社会全体をとおし、どう語るかよりも何を語るかが重視された時代だったと思う。音楽表現(作曲・演奏)が「内容重視」に傾いたのも、こうした社会全体の要請と無縁ではないのではないだろうか。
19世紀の末頃から、こうした社会の要請に対する疑問が登場してくる。
たとえば、クレンペラーとも親交があったストラヴィンスキーやシェーンベルクの音楽は、「どう語るか」という問題の登場と同時に、それまで全く存在しなかった新たなタイプの語りとしてスポットライトを浴びるようになった音楽ではなかったか。彼らの音楽においては、「新たな内容(思想)」はとりもなおさず「新たな形式」「新たな響き」として表現される。ドビュッシーやラヴェルをそれに加えてもいい。ストラヴィンスキーらにおいても、ベートーヴェンの時代に生じたように既存の形式は破戒されるのだが、それは、形式から切り離された超越的音楽思想を求めての破戒ではない。それは形式の破戒、新たな響きの探究がそれ自体一つの思想性をもつような、そうした種類の破戒だった。したがって、調性の破戒=音楽の身体性の破戒といった通俗的理解とは逆に、こうした運動を、音楽における身体性の回復の動きといってもいいかもしれない。バッハやモーツァルトの音楽も、こうした問題意識の登場に応じて、19世紀末から20世紀初頭に再評価され、さかんに演奏されるようになった。

klempeler-stravinsky.jpg
ストラヴィンスキー(左)とクレンペラー(右)<1928年、ベルリン>

要は、音楽表現(演奏)には、本来的に二つの方向性がありうるのであって、その一つは、18世紀までの音楽と20世紀の音楽がめざす、「音」に徹底的にこだわり、「音」そのものの可能性の追求として音楽をとらえるという方向で、もう一つは、19世紀音楽がめざしたような、音楽を出発点として、それをとおして何ものかを徹底的に語ろうという目的論的な方向性だ。後者においては、語り口=どう語るかは結局手段の問題でしかない。最終的には、何を語ろうとするか、その思想の高さが音楽や演奏をはかる規準となる。私は、音楽演奏における「主観主義」の実態は、こうしたところにあるのではないかと考えている。
さてここまでくれば少し書きやすいのだが、クレンペラーが音楽から排除しようとするのは、実は、主観性というよりも目的論的な考え方だと思う。彼の演奏は、けして単純な客観主義や即物主義に基づくものではない。だから私は、「映画をつくること自体が一種の哲学」「(そういう意味の哲学で問題になるのは、「何が語られたか」であって「どう語られたか」は必ずしも思想とは関係ないと考えられることが多い、内容がよければ少しくらい語り方が拙劣で、というような区別の仕方をよくやるのだけれども、)ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している」といった浅沼圭司氏の発言をクレンペラーに関してもそのまま当てはまると考えている。
つまり、クレンペラーの演奏においては、「何を語るか」「何を伝えるか」の前に、演奏スタイル、すなわち「どう伝えるか」がつねに第一の問題となるのであり、「どう伝えるか」を無視した音楽的メッセージはありえない。スタイルの追求において、クレンペラーは非常に厳しい。それは、彼の人生すべてを凝縮した厳しさだと思う。クレンペラーにとって、「語り方が拙劣である」ということは、「内容が拙劣である」ということなのだ。かくてクレンペラーの演奏では、音楽はひたすら純粋な音の戯れ(jeu)をめざしていく。しかし「戯れ」といっても、それは中途半端な生やさしいものではない。主観性であれなんであれ、その戯れを妨げるものは演奏から積極的に排除される。「感動」「共感」といった曖昧なものには、一切目もくれない。彼は、聴衆の「新鮮な」感動や共感を引き出すためにいわゆる客観的演奏を行っているのではない。もしそうだとすれば、それは主観的演奏と同様、断罪されなくてはならないだろう。演奏においてクレンペラーがめざすのは、聴衆に冷や水を浴びせかけ、第一次的な感動や共感から引き離すことなのだ(フルトヴェングラーの炎の演奏に対する氷の演奏)。この意味において、クレンペラーは、「一種の純粋主義者だろうし、音楽というものの立場からみた絶対主義者」である。
ただ、以上のような考え方をふまえたうえで考察をすすめていくと、ブレッソンの表現とクレンペラーの表現、すなわち映画と音楽の間の大きな相違も気になってくる。
それは、いわば表現の「素材」の問題なのだが、音楽は、それ自体何の意味ももたない「音」を素材とするのに対し、映画は、つねに「何か」をスクリーンに映し出さなくてはならない。「何か」を映しだした時点で、その「何か」はとある意味性をもってしまう。映画は本質的に「意味」の呪縛から逃れることのできない芸術だといっていい。そうした点において、「語り」そのものに的をしぼって表現行為を行おうとするブレッソンの出発点は、クレンペラー以上に困難だともいえる。浅沼氏が引用する、「映画というものは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソン発言は、この観点から、もっとつきつめられなくてはならない。
逆にクレンペラーの場合、クレンペラーのめざす方向性が音楽表現の二つの方向性の一つであるということは、これだけではクレンペラーの演奏を評価する決め手にはならないことを意味する。
(私がここまで書いてきたことを、音楽演奏に関して至極当然のこととして読まれた方もいると思うが、「音楽界」では、この当然のことが当然として受け止められていないため、クレンペラーの評価は非常に低い。世の多くの音楽評は、クレンペラーに目的論的な演奏を求め、それがまったく見当たらないからといって、クレンペラーは「大味」「ぼんくら」と評される。)
問題の所在がようやく見えてきたようだ。対位法を続けよう。

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テーマ:エクリチュール=記号論の最初の一歩 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/04/02(日) 16:00:55|
  2. クラシック音楽
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ブレッソンとクレンペラーの対位法 1

『アートシアター』76号掲載の品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談「ブレッソンという人と作風」の引用紹介の冒頭にも書いたが、大学時代の私は、ようやく観ることのできたブレッソン映画(私が最初に観たブレッソン映画は、『バルタザールどこへ行く』の次に公開された『少女ムシェット』だった)にはまり込むと同時に、ブレッソンが映画において志向したものを音楽という別のジャンルの芸術において実現させたらどうなるかを求めてクレンペラーの演奏にたどりついたのだった。そうした点からすれば、ある意味、当然といえば当然なのだが、今読み返してみて、引用したブレッソンの作風をめぐる対談のなかの浅沼発言が、固有名詞をかえればほぼそのままクレンペラーの演奏評にも適応できるということに驚いている。というか、音楽のことしかわからない(もしかすると音楽のことすらわからない)批評家が、「主観性・客観性」の対立軸だけからクレンペラーを語るよりも、よほどいきとどいたクレンペラー評になると思う。
以下、その読み替えを試みる。

   *    *    *

まず、表現者としての「スタイル(様式/文体)」の問題。ブレッソンにとっても、クレンペラーにとっても、究極的にはこのスタイルの問題が最も重要なものになってくるといっていいと思う。
ところで、ブレッソン同様、クレンペラーは少し聴けばすぐにクレンペラーとわかる独自のスタイルをもった演奏家だが、そのスタイルというのが、私には「ほかの指揮者のスタイルとはちょっと違った意味を持っている」ように思われる。それはつまり、「個人のスタイルをもう少し乗りこえた音楽固有の純粋化されたスタイル」「ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、音楽独自のスタイルを具体化しているような性質を持っているんじゃないか」ということである。
浅沼氏はそれを、「映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソンの言葉に結び付けて考えているわけだが、それに呼応するものとして、クレンペラーには、「たいせつなのはオーケストラに呼吸をさせるということ」「リズムのアーティキュレーションが演奏者に息をつくチャンスを与えるということ」「木管がきこえるということがもっとも重要」といった言葉がある。要するにクレンペラーは、音楽とは極言すれば音の連なりに過ぎず、そこでは”音そのもの”をどのように出すかが最も重要となるということをいいたいのだと思う(ついでに言っておけば、ワルターやセルの演奏でも、アーティキュレーションや木管は重要視されている)。
もっともこの部分は映画と音楽それぞれの芸術の根幹にかかわることで、安易な置き換えは危険でもあるのだが、その点では、「モデル(現実・具体)」との関連で成立する映画よりもモデルを必要としてない音楽というジャンルの方が、スタイルそのものを明確に打ち出すという点では有利だと思う。ただ逆に、まずモデルがあって、それからの離脱によってスタイルの存在をうったえる映画の方が、スタイルを強烈に打ち出しやすいという側面はあると思う。いずれにしても、クレンペラーは、「自己表現の手段として音楽を考えていない」、あるいは、「何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま音楽があった」という風には考えていないと思う。
つまり、この辺がクレンペラーの演奏に対する無理解や誤解のポイントなのだが、音楽を演奏者の「自己表現の手段」としてとらえようとすると、クレンペラーの音楽はまったくとらえようがないものとして立ち現れてくる。音楽を演奏者の「自己表現」の手段ととらえる論者の多くは、クレンペラーのライブ録音に注目して、スタジオ録音では最後まで冷静さを崩さないクレンペラーも、ライブでは燃える(自己表現する)といった評を行うことがあるのだが、私は、こうした評は完全な誤解だと考えている。要するに、クレンペラーは(たまたま燃える時があるにしても)燃える演奏など決してめざしていない。
したがって、クレンペラーの演奏を聴いていると、「いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的関係が切り落とされている感じ」が顕著であり、「指揮者でないクレンペラーとのつながりもみごとに切り落とされている」。そういう意味では、「クレンペラーの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じ」で私は聴く。こうした「完結性」は、映画と違い、音楽であればきわめて当然のことなのだが、この当然といえば当然のことが行われていない演奏はあまりにも多く(だからクレンペラーの「スタイル」は非常に目立つ)、一般的にいえば、音楽評はこの完結性の問題には触れない。いやむしろ、一般的な音楽評は、本質的に個人からも社会からも抽象化された一つのユニバースを構築する芸術である音楽のなかに、個人や社会を持ち込むような演奏についてだけ語ることが多い(まあ、その方が語りやすいということはあるだろう。しかし、当然のことながら、語りやすさとすばらしさは等価ではありえないはずだ)。
クレンペラーの演奏を聴いた印象として、「手アカにまみれていないという意味の新鮮さ」「むき出しのものが出ている」という感じをうけるのも、浅沼氏のブレッソン評に通底する。象徴派の芸術理念からブレッソンを分析するという浅沼氏の試みは、クレンペラーの演奏にもそのまま適用できると思う。つまり、「手アカにまみれた音楽を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見る」という感じは、クレンペラーの演奏を聴く場合、つねにまず最初に出てくる印象だ。しかしそれは、単純な客観主義や即物主義に還元できるものではなく、むしろ「音楽的なことばが本来持っている、音と音の関係をクレンペラーは守っている」というところからくるのだと思う。つまり、クレンペラーの演奏を聴いて驚くのは、演奏する曲に対して特定の解釈や逸脱がなされていることからくるのではなく、特別なことはなにも行われていないのにこの曲がこのように美しく響くのはなぜなのだろうという驚きなのだ。いや、だからこそその驚きは深い。
それと関連して、クレンペラーについて論じるとき、クレンペラーのことを知っている人であればすぐに出てくる彼の人生経験のすさまじさ、これをどう位置づけるかということが非常に難しい。クレンペラーという人は、ユダヤ人であったがゆえにナチスに演奏を拒まれアメリカ亡命を余儀なくされたというだけでなく、指揮台や飛行機のタラップからの転落、腫瘍による開頭手術、交通事故、大火傷(彼の写真は横顔をとらえたものが多いのだが、それは、正面から写すとみると、この火傷の痕があまりにも痛々しいからだと思う)などなど、通常の人であれば一度遭遇するのもまれな身辺の大事件にたびたび遭遇している。それらの事件は、生じるたびにクレンペラーの演奏活動を窮地においこむのだが、クレンペラーは単に事件の身体的ダメージから立ち直るというだけでなく、そのつど指揮者としても復活している(ただし晩年は、腕がほとんど動かなかったという)。そういうクレンペラーの伝記的事実を彼の演奏と結び付けようとしても、彼の演奏というのは、一聴したところ、「演奏家でないクレンペラーという人間とのつながりもみごとに切り落とされている」ように感じられるわけで(もちろんこれには、クレンペラーは腕がほとんど動かせなかったのでまどろっこしくかったるい、いわば「精神性」だけの演奏をしていたのだという、私には勘違いとしか思えない批評もある。しかし身体的な不自由さがクレンペラーの演奏に影響したとするならば、そういう人は、あの晩年にいたるまで崩れることのない音の磨き上げをどのように位置づけることができるというのだろうか)、その結び付け方が非常に難しい。
実は私は、結局、クレンペラーが受けた人生上の苦難は、彼の演奏に色濃く反映されていると考えているのだが、その反映の仕方が、通常の意味での反映とはまったく異なることに、クレンペラー独自の思想性があると思う。つまり、クレンペラーの人生経験は、一部の妥協も無きスタイルの追求ということで、彼の演奏に反映されてくるのだ。

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/25(土) 01:32:08|
  2. クラシック音楽
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「事象そのものへ!」

今朝はブルーノ・ワルター指揮、ニューヨーク・フィルのモーツァルト交響曲第39番、第40番、第41番の演奏を聴きかえした。第39番は1953年12月および1956年3月の録音、第40番は1953年2月の録音、第41番は1956年3月の録音。私的な思い出を書けば、これはいずれも、私が最初に聴いた第39番~第41番の録音だ。

BW-Mozart-NY.jpg

1月28日付けの記事にも書いたように、私はその後、オットー・クレンペラーの演奏を聴くようになったので、このブルーノ・ワルターの演奏は、もはや用済みで聴くべきものは何もないと思っていた。それが文字通り何十年ぶりかでこれらの演奏を聴きかえしてみると、非常に引き締まったいい演奏で驚いた。そしてこれを機に、オットー・クレンペラーやジョージ・セルのモーツァルト演奏のことも合わせて考えてみた。
ブルーノ・ワルター(1876-62)、クレンペラー(1885-1973)、セル(1897-1970)はいずれもユダヤ人で、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しているのだが、比較しながら聴きかえしてみると、この三人の演奏にはある共通点がある。それは音楽のテクストがとても明晰に聴こえるということだ。実は、この「明晰さ」という点はクレンペラー、セルの演奏を語るときには、まず第一に指摘される点なのだが、私には、ブルーノ・ワルターも同じように明晰な演奏をしているように感じられる。
したがって、ここからどうしても、ユダヤ人指揮者の音楽演奏という問題を考えざるをえないのだが、実は、ブルーノ・ワルターらの演奏の明晰さというのは、いわゆる民族的な「血」や感性の問題とは少し違うところからきているように、私には思われる。ではそれは何に由来するかというと、ドイツ社会のなかでユダヤ人が置かれていた疎外と関係しているのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターらが育ち、活動を開始した19世紀末から20世紀はじめのドイツ社会のなかで、ユダヤ人の指揮者が社会に認められようとすれば、音楽的な感性や自己主張の展開の前に、まず技術的な完璧さを身につけなければならなかったということなのではないだろうか。すなわち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)に代表されるようなドイツ人の指揮者が、自己の感性やドイツ共同体への帰属意識を前面に打ち出すことで、ドイツ人の聴衆の共感を得ていた時代、ユダヤ人の指揮者たち(いずれも先駆者グスタフ・マーラー<1860-1911>に影響されている)が本能的に選んだ方法論とは技術主義ではなかったか、そしてそれは彼らの社会的な疎外と関係していたのではないかと私には思えるのだ(技術をともなわず、自己主張だけのユダヤ人演奏家は、音楽界から排除される。非常に主観的だったといわれるマーラーの演奏は、ドイツ・オーストリア社会のなかで強烈な讃辞と批判を同時に浴びていた。にもかかわらずマーラーが指揮者として第一線で活動できたのは、彼にはそうした主観性を裏打ちする演奏技術の裏付けがあったからではないか。しかし逆にドイツ人の演奏家は、技術を犠牲にして自己主張をとおしても、「ドイツ的」「伝統的」として共同体意識のなかで許容される)。
通常、この19世紀末から20世紀はじめの演奏史は、主観主義と客観主義(新即物主義)の対立を軸に語られることが多いのだが、私にはそれは、事実の一面しかとらえていないような気がしてならない。
つまり、主観主義と客観主義という二分法に従えば、ブルーノ・ワルターは主観主義の演奏家の最右翼にいれられてしまうのだが(そしてクレンペラーとセルは典型的客観派)、実際には、フルトヴェングラー(主観的演奏の代表者)とワルターでは演奏の方向性がまったく異なる(いずれにしても、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)をはじめとする客観主義的といわれる指揮者には、非ドイツ系の人物が多く、彼らは「伝統」の外にいたために客観主義的たらざるをえなかったともいえると思うのだが、この方法論と民族性の関連の問題はもう少し検討を要する課題といえるだろう)。
こうしたフルトヴェングラーとブルーノ・ワルターの演奏の方向性の違いが最も鮮明に出てくるのは、私はモーツァルトの音楽だと思うのだが、モーツァルトの音楽は、主観主義だけでは対応しきれない要素をもった音楽、いやむしろ、全体としてみれば反主観主義的な音楽だと思う。演奏をとおして自己主張する前に、まず音楽をきちんと鳴らし、音と戯れる感覚をもたなくてはならない。したがってフルトヴェングラーは、自己の方法論が適応できないのを自覚して、モーツァルトをほとんど演奏していないと思うのだが、対するブルーノ・ワルターは、20世紀におけるモーツァルト演奏の大家だ。そこで振り返ってなぜブルーノ・ワルターにモーツァルト演奏が可能だったのかを考えてみると、それはワルターの演奏には、単なる主観表現にとどまらない技術の裏付けがあり、モーツァルトの音楽の美を、純粋な音楽美として再現できたからだと思う。ニューヨーク・フィルを指揮したブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏は、そうしたことを考えさせるに充分な演奏だ。
では、世にいわれるワルターの演奏の「主観性」とは何なのだろうか。私はそれは、ほんとうは「主観性」と呼ぶべきものではなくて、技術主義にのっとった上での、主観を装った巧みな「演出」だと思う。モーツァルト演奏でいえば、たとえば交響曲第40番1楽章のルフトパウゼ(空中停止)がそれだ。ワルターは、気分によって曲にルフトパウゼをいれたりいれなかったりするのではなくて、ニューヨーク・フィルとのモノラル録音でも、コロンビア交響楽団とのステレオ録音でも(そして有名なウィーン・フィルとのライブでも)、同じところ(第211小節の冒頭)に微かな間を挿入して音楽を息づかせる。技術があり、そのうえ技術を技術と感じさせない細かい演出もあるので、ワルターは人気のある指揮者だったのだ(人気という点だけに限っていえば、技術があっても「演出精神」を欠くクレンペラーやセルは、客観的にいって、現役時代、ワルター以上の人気があったようには思えない)。
ついでに言えば、技術をともなわない観念だけのドイツ系指揮者の典型がカール・ベーム(1894-1981)だと思う。多くの場合、私には、ベームの演奏を聴きとおすのが、正直いって苦痛だ。たとえば、タンタンタンと演奏すべき音符がならんでいるところ、若い頃のベームはタ・タ・タとやや短く演奏し、それが(たとえばワルターにくらべて)謹厳実直と評されていたように思う。しかし私からすれば、ベームの演奏は、歯切れがいいのではなくてリズム感が悪くて舌足らずなのだ。また逆に、晩年のベームは、同じような音符の連なりをタ~ンタ~ンタ~ンと弛緩しているとしか思えない演奏をする。日本には、クレンペラーやブルーノ・ワルターの演奏を、テンポが遅いからというだけで否定する批評家や聴衆もいるが、それは批評になりえてないのではないか。批評というからには、彼らがなぜそうした演奏をするかに立ち入ってテンポを問題とすべきだと思う。この場合、クレンペラーやワルターの演奏からこたえをひきだすのは簡単だ。それは音楽の細部を明晰に伝えたいからだ。クレンペラーやワルターは、いかにテンポが遅くなっても、ベームのようにリズム処理のあまい弛緩した感じのする音を鳴らすことはめったにない。しかし、ベームの演奏に、こうした明晰さを追求する姿勢があるのだろうか。明晰どころか、彼の演奏はしばしば濁った音を鳴らす。
要は、戦後のドイツでベームが高く評価されたのは、ユダヤ人演奏家の亡命とドイツ人演奏家の死亡で人材が払拭し、ベーム以外にはドイツ音楽の「正統」を伝えると考えられる演奏者がいなかったためではないだろうか(ベームの最大のライバルと考えられていたカラヤン<1908-1989>は、反フルトヴェングラーの旗幟を鮮明に打ち出し、カラヤンなりの方向で客観主義と技術重視を打ち出していた)。
したがって、いくら世評が高かろうと、私はベームの演奏はまったく評価しない(若い頃、ベームはブルーノ・ワルターからモーツァルト演奏について学んだというが、いったい何を学んだというのだろう。この二人ほどかけ離れた演奏家はまずいないのではないか)。
そんなことを考えているうちに、ブルーノ・ワルターがつねに語っていたという「ほほえみを忘れず」という言葉も、実は通常考えられているのとは違う意味をもっているのではないかと思えてきた。
これまで私は、この「ほほえみを忘れず」という言葉は、ブルーノ・ワルターの演奏の穏やかさ、優美さに結びつくもので、ある意味でとてもぬるま湯的な標語ではないかと思っていた。しかしそうではなくて、この言葉は、ワルターのユダヤ人的なしたたかさ、生き抜くための計算を示す言葉であって、これを文字通りにうけとって、ワルターの演奏を「つねにほほえみを浮かべた」ものと見なすことは、ブルーノ・ワルターの理解からほど遠いのではないかと思えてきたのだ。
つまり、「ほほえみ」という仮面の下に厳しさを宿した演奏、それがブルーノ・ワルターの演奏の本質ではないだろうか。

(この問題、19世紀末から20世紀のはじめにかけてドイツ思想界で現象学と論理実証主義という新潮流を生み出したエドムント・フッサール(1859-1953)とルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)もユダヤ人だということも合わせて考えるべきかもしれない。そして現象学も論理実証主義も、同時期に興隆した新カント主義などと比較しながらあえて分類すれば、「客観主義」を標榜する哲学だ。すなわち、フッサールの言葉を借りて、思想界の新潮流の関心をまとめれば、「事象そのものへ(Zu Sache selbst!)」ということになるのではないか。)

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  1. 2006/03/20(月) 14:11:51|
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クレンペラーの演奏と時代性

1月19日付けの記事「渋谷の画廊・美蕾樹の企画展と新年会」へのsea1900さんのコメント(感想)がおもしろかったので、そのフォーマットをお借りして、クラシック音楽の演奏評がどのようなものであるべきか少し考えてみたい。Sea1900さんのフォーマットのどこがおもしろいかというと、一般的な演奏評もこのやり方できちんと分類できてしまうからだ。
たとえば、晩年のブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、概して非常に遅いテンポのものが多いのだが、そうしたテンポ設定に関して、

 A「遅い演奏」-①「重厚だ!」
 A「遅い演奏」-②「なんかかったるくて、イヤ」
 B「早い演奏」-①「爽快、現代的だ!」
 B「早い演奏」-②「軽薄なやっちゃ」

というようなことが言えるわけで、これではもう、遅かろうと早かろうと「受け取る側の自由でさァ」と啖呵を切りたくなってしまう。しかし少し待って欲しい。演奏が遅いとか早いとかは特定の曲を聞きこめば誰にでもすぐわかる問題だが、だからといってそこで単に遅いとか早いで終わってしまったのでは紋切り型の感想文であり、演奏評にはならないのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏に関して私がいいたいのは、なぜ彼らがそういうテンポを設定するのか考えずに遅いとか早いとかといった速度だけを問題にしていると、それは結局、嗜好性の問題になってしまうのではないかということ。演奏評や演奏論というのはそういう底の浅いものなのだろうか。これはたとえばある人がクレンペラーの演奏を評価するかしないかという問題ではなくて、クレンペラーの演奏がいいという人のなかにも、彼がなぜそういう演奏するのかを考えずに、「重厚だから好き」といった評価をする人がいるからだ。これでは完全に「贔屓のひき倒し」になってしまうと思う(そうした評価をする人たちの多くは、ブルーノ・ワルターやクレンペラーがたまたま早いテンポの演奏をすると、今度は「らしくない」で片付けてしまう)。
目についた例でいうと、東芝EMIから発売されているクレンペラー指揮のモーツァルト交響曲第35・40・41番の解説書のなかで、歌崎和彦氏は、この演奏を「いかにもこの巨匠らしく作品を大きく巨視的に掴みとり、その音楽を強い筆致と妥協のない表現によって巨細に描ききった演奏」と評しているのだが、いくらもっともらしいかろうと、こうした書き方に私は納得できない。歌崎氏の文章からは、クレンペラーが音楽の細部に少しも拘泥していないようにとれるのだが、それは逆であり、クレンペラーほど音楽の細部にこだわる指揮者はほとんどいないと私は考えている。このモーツァルト演奏にもそうした一つ一つの音に対するこだわりはいかんなく発揮されており、クレンペラーのモーツァルト演奏がおもしろいのは、そうした細部へのこだわりが、あたかも点描主義の絵画のように徹底しているからだ。クレンペラーは、音楽を安易に流すことをけしてしない。またこうした几帳面なこだわりをいかそうとするとき、テンポ設定は必然的に遅くなる(第40番でいうと、終楽章の前進することを拒否したような「遅い」テンポ設定が、クレンペラーの主張を伝えて非常に雄弁だ)。
こうしたクレンペラーの演奏が、一部の人には「うどの大木のような大味な演奏をする」と酷評されるのだが、歌崎氏が書いているのは、そうした反クレンペラーの論者が言っていることと結局同じだと思う。(上掲フォーマットでいえば、両者はA①とA②のパターンのあいだで自分の好みを述べているに過ぎないのではないだろうか)。しかしこのような事態が生じるのは、実は、クレンペラーの音楽に対するこだわり方が、ある種の人には少しもこだわりには聞こえないという難しい問題点をはらんでいるからなのだが、クレンペラーを論じるならばそうした核心にこそ迫らなくてはならないと思う。
ところで、畑中良輔氏は、かつてクレンペラーのバッハ演奏を「反時代的」と評したが、こうした論点ならば私もうなづける。つまり、クレンペラーはいたずらに現代的(時代迎合的)演奏をめざしたのでも、その逆の伝統的(没価値的&伝統墨守的)演奏をめざしたのでもなく、その両者を一刀両断のもと切り捨てようとする。いやもしかすると、クレンペラーは、その演奏が現代的か伝統的かといった価値判断にはまったく無関心だったのではないかとも思う。だからクレンペラー演奏は、聴き方によってものすごく現代的にもきこえるし、保守的にもきこえる。クレンペラーのテンポ設定や細部表現は、彼がいたずらに「巨匠的」であろうとしたことからきているのではなく、表層的な現代性とも伝統性とも無縁な、文字通り「反時代的」としかいいようのない表現をめざしたところからきているのだと思う。
これは、モーツァルトやバッハの演奏に限らないのだが、クレンペラーは音楽演奏に音の明晰さを強く求める。その追求の激しさが、私には、この人はストラヴィンスキーの時代を経過してきた人なのだなという一種の新しさ、モダニズムといったものを強く感じさせるのだが、考えてみれば音楽演奏において音の明晰さを求めるということは、音楽の本質とかかわることだと思う。だから、音の明晰さに強くこだわる限り、クレンペラーの演奏は常に本質的な演奏であるともいえる。
バッハでいえば、たとえばカール・リヒターの演奏は、曲の中の特定の部分を強調して音楽にメリハリをつけていこうとするのだが、クレンペラーの演奏にはそうしたメリハリをつけようという方向性はまったくない。ただひたすら音にこだわるのだ。だから、リヒターの演奏(解釈)を現代的というならば、クレンペラーは少しも現代的ではないことになってしまう(「うどの大木的」<笑>)。
ところでおもしろいことに、クレンペラーの演奏は、その精神性の高さゆえにバッハやベートーヴェンがいいという人がいると同時に、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどのちょっと世俗的な音楽がいいという人も多く、しばしば入門者をとまどわせる。しかしこうしたいささか分裂症的な評価のなかにもクレンペラーの演奏の特徴はみごとに示されているのであって、クレンペラーのベルリオーズやメンデルスゾーンがいいというのは、ひたすら音の美感を求めるその演奏が、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどの音響主義的な音楽に合致する部分があるからだと思う。
なにやら脱線気味の記事になりつつあるが、要はクレンペラーのモーツァルトはひたすら美しい。そのひたすら美しいという事実は、ある意味「バロック(いびつ)」でもある。だからこれは、口当たりのいいモーツァルト演奏でだけはけしてない。

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  1. 2006/02/08(水) 12:32:50|
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