le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『金葉集』の編纂

『金葉集』の名前が突然飛びだして、とまどわれている方も多いかもしれませんね。『古今集』『新古今集』ならいざ知らず、『金葉集』は、普通、あまり読まれることのない勅撰集(天皇や院が編纂させた国家的和歌集。ちなみに『万葉集』は編纂の勅命がなく、非常に重要な和歌集ではありますが「勅撰集」ではありません。勅撰集に和歌が採用されることは、歌人にとって大きな名誉であり、重視されました)ですから。以下、下方の記事と一部重複しますが、『金葉集』の編纂に対する説を整理してみます。

さて、勅撰集は、平安時代から室町時代まで、二十一回編纂されていますが、そのなかでも『古今集』から『新古今集』までの八つの集は、八代集として特に重要視されています。『金葉集』はそのなかで五番目の勅撰集であり、編纂を下命したのは白河院、撰者は源俊頼です。
ところでこの『金葉集』、下の記事にも少し書いたように、編纂に複雑な事情があったらしく、初度本、二度本、三奏本の三つの版があるうえに、それらがなぜ改訂されたのか、いつ成立したのか、はっきりしないのです。
当時の和歌界の事情を伝えるものとして藤原清輔が執筆した『袋草紙』という著作あり、これによって『金葉集』が編纂された事情が少しわかるのですが、それによれば、『金葉集』は天治元年(1124年)に編纂の命令が下り、大治元年(1126年)もしくは二年(1127年)に完成したとあります。白河院が『金葉集』の前に編纂させた『後拾遺集』は、編纂に十年以上かかっていますから、下命後二三年で完成したというのは、勅撰集としては異様にスピーディーな編纂です。また上にも書いたように、『金葉集』にはいろいろな版があって、『袋草紙』によれば、撰者・俊頼の案は二度却下され、三度目の版がようやく承認されたとあります。俊頼の案のどこが白河院の意にそぐわなかったのかは、『袋草紙』によってもはっきりわかりません。
さて『金葉集』の三つの版ですが、現在それぞれに書写本が残っています。
まず初度本(最初の版)ですが、藤原定家の孫で鎌倉時代後期の歌人・冷泉為相が書写したとされる版だけが残っています。ただしこの版(伝為相筆本)は、『金葉集』前半の五巻分しかなく、初度本の全容は不明です。
二度本(二番目の版)。二度本も白河院に却下された版であり、その点からすると『金葉集』の最終的な形体を示すものとはいえないのですが、一般に広く流布し、数多く書写されました。通常、『金葉集』といえばこの二度本を指します。
三奏本(三度目の版)。白河院公認の『金葉集』最終版ですが、なぜか白河院がこの版をしまい込んでしまったため、世人の眼にはほとんどふれませんでした。それでも、三奏本には、定家の同時代人・藤原良経が書写したとされる版など、いくつかの書写本が現存しています。
そうしたなかで、『金葉集』がいつどのような経緯で編纂されたのかを詳細に研究し、現在にいたる定説をつくったのが、岩波文庫版の『金葉集』編集者でもある松田武夫さんです(『金葉集の研究』、山田書院、1956年)。
松田さんは、まず、『金葉集』に保安五年(1124年)閏二月の歌会の歌が含まれているところから、『金葉集』が編纂されたのはそれ以降であり、この点に関する『袋草紙』の記事は信頼できるとしました。そのうえで現存する初度本と二度本を比較し、初度本の伝本が不完全なためこの伝本から初度本成立年代を確定するのは不可能として二度本を優先的に検討し、その奥書から二度本天治二年四月成立説を唱えました。そこから遡って、初度本は天治元年四月以降の下命から二度本が成立した翌天治二年四月までの成立とし、両本に採用されている歌人の肩書きの変化から、天治元年末から天治二年はじめの成立と推定しています。そのうえで、「この仕事は、天治元年四月以降、恐らく同年中に成就されたと思はれるので、精々八箇月ぐらゐの間になされたのである。これは容易ならぬ仕事で、俊頼の識見と手腕をもつてして初めて成し得るところである」と、俊頼の仕事ぶりを評価しています。
三奏本に関しては、これまた手がかりが少ないため成立年代の確定が困難なのですが、『金葉集』成立後、俊頼は『散木奇歌集』を編纂しており、その編纂にかなりの期日を要したと考えられるところから、「三奏本の成立を天治二年とするよりも、天治元年と見る方が、合理的なやうに思はれる」というのが松田さんの考えです。

先日の和歌文学会例会での加畠吉春さんの発表「金葉集の撰進」は、一つには、この松田説の『金葉集』成立年月を全面的に見なおし、それぞれの版の成立を松田説より繰り下げようというものですが(加畠説にしたがうとしても、俊頼の編纂作業の速さは特筆されます)、そうすると今度は、『良玉集』成立と『金葉集』の関連という問題が浮上してくるというわけです。

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  1. 2006/06/23(金) 12:25:14|
  2. 和歌および古典文学
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久保木秀夫さんの「『良玉集』考」を読んで。

さてでは、久保木秀夫さんの論文「『良玉集』考ーー四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂文庫蔵「序」の紹介を兼ねて」(『国語と国文学』平成17年6月号掲載)の内容を検討してみましょう。ただし、私の関心は『金葉集』と『良玉集』の関連にあり、もっぱらその方面から久保木さんの論文を読むことになると思います。

まず『良玉集』そのものに関する基本データですが、これは『和歌色葉』『私所持和歌草子目録』などによってその名が知られる和歌集で、『和歌現在書目録』に、

 良玉集十巻
八条兵衛佐入道顕仲撰之。金葉集撰之比。大治元年十二月廿五日撰之。

と記されているところから、藤原顕仲撰の十巻仕立ての私撰集で大治元年(1126年)12月25日に成立したということがわかります。『良玉集』の撰者や成立年代がこれで良いかということには若干の問題もありますが、逆に『和歌現在書目録』以外に『良玉集』に関する有力史料がなく、また『和歌現在書目録』の記述を疑う積極的理由も存在しないので、『良玉集』の成立に関しては、この『和歌現在書目録』に従うというのが定説になっています。この点は、久保木さんも定説に従っていますし、加畠吉春さんも「金葉集の撰進」のなかで、この定説に従っています。
ところで肝心の『良玉集』そのものですが、室町時代頃まではテクストが残っていたらしいのですが、その後テクストはすべて失われ、その具体的な内容は、他のテクスト(例『校本謌枕名寄』)に記されたほんの一部しか現在に伝わりません。ところが、四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂に伝わる『諸集漢序』のなかには、『良玉集』の漢文序文が含まれているのです。
この『諸集漢序』、恩頼堂文庫本のほかはまったく伝わらず、奥書等もないので、どういう性質の本かはまったくわかりません(江戸中期頃の写しか?)。したがってこの『諸集漢序』だけからでは、掲載されている『良玉集』漢文序文がほんとうに『良玉集』の序文なのか真偽判断ができないのですが、これに関しても、『諸集漢序』の記述を疑う積極的理由が存在しないので、『良玉集』の漢文序文を伝える貴重な史料としてよいかと思います。
さてこの『諸集漢序』に記されているのは、「古今和歌集序」にはじまり、「新古今和歌集序」「続古今和歌集序」等。このなかに『良玉集』の序とおぼしき次のような文章が記されています。

良玉和歌集 大治元年十二月二十五日撰之八条兵衛佐顕仲
 和謌者、神世之余流、我朝之習俗也、是以、
 好事之家、或奉綸○以撰集、或顧忽忘、
 以部類、礼部納言後拾遺、将作太匠金
 葉集、能因法師玄々集、皆載佳句、悉尽
 能事、今予所撰、彼集之外、所漏脱也、編
 列之体、夫兼美実而已
 (○の部分は、糸偏に「孛」の字で、「大綱」の意)

久保木さんによれば、この大意は次のとおり。
「和歌は神代からの流れを汲む日本の習俗であるので、和歌に心を寄せる者達は、勅命によって撰集し、あるいは備忘のために部類してきた。その中でも「礼部納言」藤原通俊の『後拾遺集』、「将作太匠」源俊頼の『金葉集』、能因法師の『玄々集』はいずれも秀歌を載せており、もうできることは尽きているので、私は遺漏を拾うだけである。配列なども優れていない」

(この大意紹介の先の箇所で、久保木さんは私撰集である『玄々集』が勅撰集とならべて記され重んじられていることの意義について論及していますが、私からすれば、逆に、『後拾遺集』『金葉集』の両勅撰集が『玄々集』と同程度の重みしか与えられていないことに注目したいところです。勅撰集に高い権威が与えられるのは、やはり『千載集』以降のことではないでしょうか。その高い権威を『金葉集』成立当時まで遡らせるべきではないというのは、白河院の『金葉集』下命意図ともからむ、『金葉集』に対する私の基本的な見方の一つです。)

さて、いよいよこの紹介の核心部、久保木さんは自問します。「そもそも撰者顕仲に参看され真名序に明記された『金葉集』は、今日言うところの初度本、二度本、三奏本の一体いずれであったのか」。
するとまず、『良玉集』漢文序文に記されている「彼集之外、所漏脱也」が手がかりとなり、『校本謌枕名寄』に源顕房(六条右大臣)の「五月雨に笠取山は越えゆかじ花色衣かへりもぞする」が『良玉集』所収として紹介され、かつ現存する『金葉集』初度本にも同じ歌が採られているところから、顕仲は初度本を参照しなかったことが推定できます。また三奏本も、「その上奏は「大治元、二年」のあたりと伝えられ、しかもそれきり世間にほとんど流布しなかったらしいから(『袋草紙』)、やはり可能性としては考えられないようである」(久保木氏)ということになります。
よって残るは二度本ですが、久保木さんによれば、「おそらく真名序の『金葉集』は、複雑多岐にわたる二度本系統中のいずれか一本ーーさすがに特定までは困難ーーだったと認めてよいだろう」となります。
そこで久保木さんは『金葉集』二度本の上奏時期を確認するのでが、「これも確言しづらいのだが、仮に「天治二年四月依 院宣撰之/撰者木工頭源俊頼」という伝兼好本の奥書に従うならば天治二年(1125)四月とみられる。すると二度本の上奏から『良玉集』の成立までの間には、たったの一年八ヶ月しかなかったことが知られよう。これは確かに「撰進直後」と言うべきだろうが、ともあれこのように二度本の上奏・流布後、極めて短い期間のうちに『良玉集』が撰ばれており、しかも『金葉集』所収歌は一首も採らないという主張さえもが真名序に明記されている点からは、何よりも『金葉集』を強く意識して止まない顕仲、という撰者像が浮かび上がってくるようである」(久保木氏)と、『金葉集』二度本成立後に(それに撰ばれた歌を除外して)『良玉集』を撰ぶとなると、『金葉集』二度本が天治二年四月に成立したというのはギリギリの下限として、『金葉集』二度本天治二年四月成立説が支持されます。「金葉集の撰進」における加畠吉春さんの『金葉集』二度本は大治元年の夏頃までに成立というという説も、物理的には『良玉集』成立と矛盾しませんが、わずか半年程度の期間で、『金葉集』を強く意識した『良玉集』を撰するのは困難というのが、久保木さんの考えのように思われます。
『金葉集』二度本の成立に関し、私は従来の定説(松田武夫氏の説)である天治二年四月という説をとっていますから、『良玉集』に関する久保木さんの研究は、私の考えと矛盾せず、むしろそれを別の観点から補うものとして評価したいと思います。

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  1. 2006/06/21(水) 14:22:53|
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和歌文学会の例会を聴く

昨日は、Mの読書を一時中断して和歌文学会例会を聴講して参りました。そのなかで行われた加畠吉春さんの発表「金葉集の撰進」に興味があったからです。というのは、私も『金葉集』のことを少し研究しており、それについて小さな文章を発表しているものですから。

さて加畠さんの発表、はじめに私も依拠している松田武夫さん(岩波文庫版『金葉集』の編者)の説を要約してその問題点を指摘し、次に最近の説としてなんと私の説を紹介・吟味し、次に自説に移るというものでした。基本的には『金葉集』の三つの版(初度本、二度本、三奏本)の新たな成立年代比定と、『金葉集』が編まれた理由の推定の二点から構成された発表だったと思います。
『金葉集』という勅撰集は、いつ成立したのか、なぜ三つの版があるのか不明の点が多いのですが、加畠さんの説、『金葉集』の成立年代に関しては、たとえば、現存する初度本『金葉集』に、天治二年(1124年)三月に行われたと考えられる鳥羽院の歌会の歌が含まれているところから、初度本の成立を松田説の天治元年末成立より繰り下げた方がよいというもののように伺いました。ただこれについては、現存する唯一の初度本(伝冷泉為相筆本、すなわち鎌倉時代後期の書写)が善本とはいえず、その書写・伝本経緯等をさらに吟味した方がよくはないかという疑問を述べさせていただきました。
また、『金葉集』を難じた『良玉集』の成立年代比定から、逆に『金葉集』二度本の成立年代を推定し、二度本の成立をも松田説(天治二年四月)より繰り下げて大治元年(1126年)夏頃にするという提案もありましたが、これについては、『良玉集』を研究された久保木秀夫さんから質問がでました(久保木さんの考えは、『金葉集』二度本の成立は松田説のままでよいというもののように伺いました)。久保木さんの研究「『良玉集』考」は、『国語と国文学』平成17年6月号に掲載されているということでしたので、これについては、私も図書館で確認してきたいと思っています。
要するに、『金葉集』初度本の成立が天治二年三月以降(加畠説)とすると、一カ月でそれを改訂するのは不可能なので、二度本の成立も同年四月(松田説)より繰り下げなくてはならないが、その下限は『良玉集』の成立問題とからんでくるということです。
『金葉集』の撰進の背景そのものに関しては、加畠さんは、私の説をも評価してくださったうえで、白河法皇の晩年において待賢門院がしめていた位置を重視し、待賢門院の皇子・崇徳天皇の治世の予祝ということに意義があったのではないかという説を述べられました。そのなかで、『金葉集』には保安四年(1123年)の大嘗会の和歌が含まれており、現天皇の大嘗会和歌を採用するのは勅撰集として最初の試みであるという点は新たな視点で、興味深かったです。
いずれにしても、私の説を取りあげて吟味してくださいましたので、非常にうれしく聴かせていただきました(私の説に関していえば、私の説は松田武夫さんの『金葉集』成立年代推定に全面的に依拠したものであり、むしろその補説的な位置づけにあるように自分では考えていたのですが、それが松田説と切り離しても検討に値するとして頂けた点、望外の喜びでした)。

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  1. 2006/06/18(日) 11:08:07|
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明月記研究10周年記念シンポジウムを聴く

昨日(11日)は、早稲田大学で開かれた「藤原定家と『明月記』―「明月記研究」10周年記念シンポジウム」を聴講した。
パネラーと講演タイトルは次のとおり。
尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
五味文彦氏「定家の空間と身体」
久保田淳氏「定家の生活と和歌」
また、司会は兼築信行氏と近藤成一氏。
非常に充実したおもしろいシンポジウムだったので、以下、その内容を簡単に紹介してみたい。

   *    *    *

尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
尾上氏の講演の骨子は次のようなもの。
藤原定家の日記『明月記』の手書き原本は、清書された部分と清書前の部分が交互に出現し、清書されているのは定家および息子為家や、仕えている九条家にとって重要な時期である。一方、定家が参議を辞し、為家が定家未経験の蔵人頭となる嘉禄年間以降は、それまで定家自身が細かく書き加えていた首書(記事の内容を「何々事」といった形式で要約し行間上端に付けた見出し)が記入されていない。
尾上氏の区分によれば、清書されているのは、年号でいうと、治承、建久前半、建仁後半~承元の三期。一方、建久末~建仁初、建暦年間の記事は清書されていない。尾上氏が何をもって清書とするかというと、『明月記』には、たとえば行替えもめちゃくちゃで隣の記事の方にはみ出したような書き方をしている部分もあるのに対し、とある時期の記事は、紙の上と下に横線をひいて、上下がそこからはみださないように書いているという。
『明月記』に関しては、実はすべて定家が清書したものであるという考え方もあるのだが、当日出席した美川圭氏(冷泉家時雨亭叢書『明月記』編纂者で、定家手書きの『明月記』に実際に接している)も、『明月記』の一部は清書されていないという尾上氏の考えに賛意を表明した。そのうえで、美川氏の質問をとおし、古い紙の反古に書き付けた記事は、裏面をも残す意図があったのか、紙背文書は表の記事と関係があるのかが新たな課題として浮上した。
また、首書をつけるかどうかは、日記を記す目的や態度と関連があるのではないかということも尾上氏によって指摘された。つまり、『明月記』の初期の記事は、息子為家が朝廷で定家と同じような地位についたときの参考になるようにと書いていると考えられるのだが、為家が定家以上に出世したため、嘉禄以降の定家の朝廷での行動は、もはや為家の参考にならない。したがって嘉禄以降、定家は自分自身の好尚の問題として日記をつけていると考えられる。この問題は、後述する五味氏の講演内容ともからむ重要な指摘といえる。

meigetsuki-1.jpg
清書してある記事(記事の上下もきちんとそろっている)

meigetsuki-2.jpg
清書していない記事(上下や行もそろわず、定家が消した部分がはっきりわかる)

田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
田渕氏の講演は、『新古今集』の成立年代に関する新見解で、尾上氏の講演にも劣らない重要な意味をもつものだった。
『新古今集』の伝本には、①竟宴本(元久二年<1205年>に行われた『新古今集』竟宴<=完成披露の宴>の時の本文を伝える本)、②切継時代の諸本(竟宴後にたびたび行われた切継ぎ<=歌の入れ替え>の途中の段階の本文を伝える撰者たちの書写本)、③家長本(建保四年<1216年>に和歌所開闔<=事務責任者、カイコウと読む>の源家長が書写させた本、④隠岐本(承久の乱後、後鳥羽院が隠岐でそれまでの本を抄出した本)の四系統の本があり、従来学説では、源家長が和歌所開闔である点を重視し、家長本が『新古今集』の公的な最終完成形体を伝える本とされてきた。
田渕氏は、この家長本をむしろ私的な書写本と位置づけ、また『拾芥抄』に「承元三年六月可施行」とあるところなどに注目し、承元三年<1209年>から承元四年<1210年>を『新古今集』の公的完成・披露の年限であると位置づけしなおした(ちなみに、問題となる承元三~四年の『明月記』の記事は現存しない)。
それにともない浮上するのが「切継時代の諸本」で、従来の位置づけでは、これらは未だ完成していない『新古今集』を、(完成を待ちきれない)定家ら撰者が私的に書写して流布させてものと考えられていたのだが、田渕氏は、それは逆であり、承元三年に『新古今集』が「可施行」となったために、それを機に数多くの書写が行われたのだとした(つまり、御子左家などの歌道家に伝わるいわゆる「切継時代の諸本」こそ、『新古今集』の公的完成形体を示す本である。また源実朝が鎌倉で手にした『新古今集』は、従来学説に従えば私的な切継本に過ぎないが、田渕説に従えば、正式本ということになる)。
この田渕説は、『新古今集』の成立史を一挙に書き換えさせる大胆な新説だが、当日出席した研究者から妥当なものとして受け入れられた。

五味文彦氏「定家の空間と身体」
五味氏の講演は、従来の五味氏自身の定家研究を振り返り、それがいわば定家の「空間」を主題に展開してきたのに対し、新たな視点として「身体」という概念を導入し、この新視点から定家の人物や時代をもう一度読み直してみたいと思っているということを述べたエッセー的なもの。そうした新たな視点から、五味氏が現在重要視している重要な概念が披露された。
それらの概念は、①人の習うべきこと(大事)、②定家の空間と身体ーーの二つの範疇に大きく整理され、それぞれ、次のような下位概念を含むという。
①人の習うべきこと(大事)
 A 学問
 B 手書くこと
 C 医術
 D 衣への関心
 E 住宅への関心
②定家の空間と身体
 A 故実
 B 和歌
 C 書
 D 『明月記』

久保田淳氏「定家の生活と和歌」
最後に登壇した定家研究の第一人者・久保田氏は、冒頭、定家の和歌や日記を定家の身体性の問題に引きつけて読んでみたいという五味氏の考え方に賛意を示したうえで、『明月記』のなかで、そうした定家自身の身体感覚が見事に記されている好きな記事を自由に披露した。

四人の講演(報告)終了後の質疑応答は、尾上氏と田渕氏に集中したが、五味氏および久保田氏に対しては、会場から、定家の身体性を問題にするならば、速詠の和歌を取りあげてもよいのではないかという主旨の意見も出された。これは、尾上氏の講演で指摘された『明月記』の書き方の二つのスタイル(首書の有無)のなかで、どちらが定家にとり重要なのかという問題ともからむもので、定家初期の和歌は速詠などの手法で詠まれることが多いのに対し、晩年にはむしろじっくり詠むことが重視されることと、日記のスタイルの問題は合わせて考えるべきではないかということともつながる。
以下、質疑応答を離れた私見だが、一般論として、若い時代の定家は、歌では奔放、日記は厳格なのに対し、晩年は、歌は古典的で厳格になり、日記は私的な記事を中心として自在な書き方になっていくという風にとれる点は、定家という人物を考えるうえでおもしろいと思った。
またこのブログにも書いたとおり、私は、建久七年<1196年>の政変後の定家の歌は、緊張感が途切れどこかしらなげやりな感じがすると考えているのだが、尾上氏の講演での、まさしくこの時期の『明月記』は清書されていないという指摘と考え合わせると非常に興味深い現象だと思った。ただしこの『明月記』の清書の問題に関しては、清書する意図があったのに清書されなかったのか、清書する意図自体なかったのかは、シンポジウムでも今後の課題とされたことを付け加えておく。

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  1. 2006/03/12(日) 23:40:48|
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「美」とは?ーー藤原定家の歌の大胆さ、新しさ

藤原定家の和歌、ここまで連作歌を中心にしていろいろ取りあげてきた。それは、定家の和歌が、一首の和歌(作品)として完成している(それ自体が一つの即自的な世界を構成している)ものでありながら、同時に、あくまでも連作のなかの一首として、個々の和歌が提示している作品世界とは別の世界の構成要素の一部であり、定家の和歌を味わうということは、単に一首の和歌を味わうにとどまらず、連作全体に対する視点が不可欠だといいたかったからだ。したがって、「南無妙法蓮華経」の歌がとりわけそうであるように、連作ということを考えながら定家の歌を読んでいくと、通常の意味での「歌の意味」ということは言えないということになっていく。
以上のことは、定家の歌の多くが連作としてつくられているということからの帰結なのだが、連作の問題をとりあえず凍結して、一首ずつの和歌を取りあげた場合にも、今度は「本歌取り」の問題がたちはだかってくる。周知のように、本歌取りとは、一首の和歌を味わうときに先行する和歌を思い浮かべたうえで、それと比較しながら目の前の和歌を味わわなくてはならないという方法論だ。ここでも、「作品それ自体の意味を探る」という行為は明確に否定される。
作品とはオリジナルなものでなくてはならないという「近代芸術論」からは否定的にとらえられがちな本歌取りの技法であるが、それは、連作歌という仕掛けと相俟って、個々の作品(和歌)が意味構成体として周囲の世界から完全に独立しているのではないということを明確に示すための積極的な方法であるととらえなおされなくてはならないと思う。

以上のことを前提としたうえで、この辺で、藤原定家の和歌に関する記事のとりあえずの結びとして、定家の歌を二首とりあげて、私なりに分析してみたい。
まず一首目。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮

この歌は「二見浦百首」のなかの一首で、『新古今集』にもとられ、ともに「秋の夕暮」で終わる寂蓮の歌(さびしさはその色としもなかりけり真木たつ山の秋の夕暮)、西行の歌(こゝろなき身にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕暮)とともに「三夕(サンセキ)」の歌として有名である。ただし、寂蓮、西行の歌が感動の対象が明確で「解りやすい」歌であるのと対照的に、一見平明な定家のこの歌は、何を詠み込んだのか、定家が何に感動しているのかはっきりせず、古来、傑作、愚作の議論が激しく戦わされてきた。つまり、この歌を字面どおり単純に読めば、秋の夕暮れの浦のとまや(浜辺の草屋)の周囲には、ぐるっと見わたしても花もなければ紅葉もないということになる。それだけのことであり、それだけのことでしかない。言葉の解釈としてはそれで終わりだ。
しかしである。言葉の解釈としてはそれで終わりでもそれでは「詩」の解釈にはならない。だからこの歌にはもっと別のなにかあるはずだ、というところから「歌」の解釈がはじまる。その辺の議論、塚本邦雄氏が『定家百首 良夜爛漫』(河出書房新社、1973年)のなかでうまくまとめているので、ここではまず塚本氏の説を紹介しておきたい。
「甲論乙駁を綜合して、桜も紅葉も見られぬ海辺の侘しい風景を、ことさら言外に愛でる心、即ちそこに余情があると解するのが、最も常識的でかつ穏当な方法であろうが、さらに一歩進めて、そのような美さえ空しいと突き放つ、冷やかな美学を想定して然るべきであろう。」「近代に入ってから、ここに詠まれた情景が実景の写実的表現か、あるいは心象風景の象徴的表現かについて論争まで行われているが、結果的にも無益なことであり、狭義の写実主義にわざわいされた俗論として前者の解はかえりみる要もない。そしてそういう俗論や合理主義的な評釈の立ち入る隙もないところでこの一首の成立していることが、とりもなおさず定家の、さらに言うならば新古今一巻の存在理由なのである。」(上掲書77-9頁)
ところで、歌の解釈としては、以上の塚本氏の考え方でも充分なのであるが、私としては、この和歌を、侘びしさや余情、さらには非在の美を歌ったものというだけにとどめたくはない。
つまり、この歌が定家最晩年の歌であるならば、以上のような解釈も許されるであろうが、塚本氏がいみじくも指摘しているように、この歌は文治二年(1186年)定家25歳の折に詠まれた、いわば定家の創作活動の出発点に近いところに位置する作品なのである。
したがって私は、この歌を、世の人が一生懸命詠み込もうとする桜、紅葉に代表されるようないわゆる「美」を、私は自分の作品のなかには詠み込まないという、定家の高らかな宣言の歌と読む。もちろん、定家はここでただちに、いわゆる「侘び・さび」を良しとしているのではあるまい。そうではなくて、美は華やかさのなかにあるという考え方も、華やかさを取り去った「侘び・さび」のなかにあるという考え方もともに否定して、美とモノのありようにはいかなる関係もないということを主張したかったのだと思う。

次に二首目。

久方のなかなる川のうかひ舟いかにちぎりてやみを待つらむ

この歌は、建仁元年(1201年)の後鳥羽院主催の千五百番歌合の企画に応じた百首中の作。
冒頭「久方の」は、通常、空、雲、光などの言葉にかかる枕詞。ここでは「月」という意を含んで、月の中の川から言外に桂川が導き出される。したがって上の句の「意味」としては、「桂川の鵜飼船よ」ということになり、それを複雑に言ってみたということになる。ここまで定家は、枕詞という約束事の効果(特定の言葉との結びつきが強いので、特にその言葉を出さなくても読み手にある言葉を連想させることができる)をフルに使って、読み手の教養をためし、あらためて枕詞の世界を強調する。
しかし、下の句にはいり、「いかに」という疑問詞が出てきたところから歌の調子は一転する。第四句は、「どのような前世からの契りで」というほどの意味だが、この疑問の提示によって平坦な歌が波立ち、すべての解決は第五句になだれ込む。つまりこの第五句で、定家は、自分でたてた「どのような前世からの契りで」という疑問を解決すると同時に、歌の冒頭から宙吊りにされてきた「久方の」という枕詞が結びつく対象を提出して、歌を終わらせなくてはならない。
ところがである。ここで定家が出してきた言葉は「闇」。「桂川の鵜飼船よ、どのような前世からの契りでお前は(殺生をするために)暗闇を待っているのか?」歌の意味を問うならばそれでいい。それで充分だ。しかしこうした意味を宿した歌のなかで、定家は古典的な枕詞の世界に含まれていた約束事を否定し、結果的に、それまで誰も使ったことのない「闇」という言葉と結びつくものとして「久方の」という枕詞を用いているのだ。この否定の大胆さ(規則は破るためにある!)。そしてそれに気が付けば、上の句のもってまわったようなくどくどした表現は、この大胆さを際立たせるためにこそあったとのだと理解できる。そしてまた、この修辞は歌の表層的な意味に還元され、「闇」の世界をもう一度強調する。
私は、この修辞的な大胆さこそ定家の真骨頂の一つだと思う。そしてこの大胆さは、最初に取りあげた「見わたせば」の歌で示された宣言への見事なこたえにもなっている。月が美しいのでも闇が美しいのでなく、美は言葉とともにあり、言葉とともに生まれてくる。そのとき言葉は、つねに新しくなくてはならない。

テーマ:脳を鍛える - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/24(金) 15:31:14|
  2. 和歌および古典文学
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