le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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抜けば玉散る氷の刃ーー劇団ポツドール最新公演『夢の城』

劇団ポツドールの最新公演『夢の城』を観た(於:新宿THEATER TOPS)。
作・演出の三浦大輔が、前作『愛の渦』で第50回岸田國士演劇賞を受賞し、劇団の知名度も一段とアップしての今回の公演だが、ぎりぎりの人間をぎりぎりの表現で再現するという三浦大輔の方向性には少しの後退もなく、すばらしい作品となっていた。

舞台は例によって薄汚いアパートの一室(この薄汚くもけばけばしい舞台美術<田中敏恵>は、毎回のことながら非常にすばらしい。あまりにも薄汚くて、現実をポンと超越している!)。物語は、ある日の深夜から翌日の深夜まで、この部屋から一歩も動くことなく進行していく。
まず描かれるのはこの散らかり放題に散らかった狭い部屋の午前二時。オウジ(米村亮太朗)、エラオ(仁志園泰博)、ウシ(安藤玉恵)ら五人の男と三人の女が雑居し、乱交している。いや正確には、乱交する七人を尻目に、エラオは延々とテレビゲームを続けている。八人の間にはセックスのきっかけなどに関して何かしら会話のようなものがあるように見えるのだが、アパートのヴェランダに向かったガラスの扉が閉まっているために観客にはその会話はなにも聞こえない。
一転して同じ部屋の午前九時半。この場面から舞台設定が変更されて最初の場にあったガラス扉は取り外され、観客は部屋のなかに入り込んで八人をまじまじと観察することになる。しかし部屋のなかに入り込んでみれば、会話など何もなく、音が聞こえても聞こえなくても、実はなんのかわりもないということがこの場面で明らかになる。朝が来て、八人はひとり去り、ふたり去りと部屋から出て行くが、だからといって別れの挨拶があるわけではなし、なにごともなかったように部屋が空になっていく。ひとりの女がドライヤーで髪を乾かしている無機的な音だけが舞台に響く。
午後になり、部屋にはまた人が戻ってくるが、そこでも言葉のやりとりは何もない。エラオは延々とテレビゲームを続けている。誰かがゲームを止めてテレビ画面に切り替えるが(ニュースを伝えるテレビの音声は言葉として通常に流れる。そういう意味で、三浦大輔は「言葉」そのものを否定しているのではない)、だからといって別にチャンネル争いがあるわけではない。エラオは他にすることがないのでテレビゲームをしているだけで、別にテレビゲームに「夢中になっている」わけではない。実は私にはこの午後のシーンがひときわ印象的で、つまり、世界のなかでなにかしら「出来事」は確実に起こっているのだが、舞台をとおしてみると、それはテレビのなかの「出来事」にすぎず、登場する八人にはなんの「出来事」もおこらない。八人にとっては、セックスも別れも再会も、単なる物理的な現象にすぎず、会話をかわすきっかけにすらならない。いや、「俺とどうだ」とか「やろうぜ」とか「またな」とか「やあ」とか、そこに会話を入れてみたところで、その「会話」は人と人をつなぐ手段(コミュニケーション・ツール)ではまったくなく、物理的な機械音や単純記号となんの変わりもないということだろう。この芝居で最初から最後まで、登場人物のセリフのやりとりがまったくない(あっても聞こえない)のは、セリフのやりとり(日常会話)がいかに無意味なものであるかを際立たせるためである。
実は、三浦大輔は、二年前の作品『ANIMAL』でも、セリフのない芝居を試みているのだが、『ANIMAL』では、舞台で鳴り続ける音楽があまりにもけたたましく、セリフはあるが観客には聞こえないという設定だった。今回はそれを一歩進めて、セリフを入れても無駄だから一切いれないというところまで徹底している。
夕方、なんということもなく女たちが食事をつくりだし、なんとなくみんなそれを食べ始める。もちろん、「食事にしよう」とか「出来たよ」とか「いただきます」などのセリフはない。仮にあったとしても、それは意味伝達、心的コミュニケーションの伝達ということからは完全に無駄であろう(なんの説明にもならない)。そうしたなかで、八人が鍋物をすする咀嚼音だけが、またしても舞台に大きく響く。
そして深夜、繰り返される乱交と雑魚寝。誰かと誰かがすぐ隣で性交していても、他の登場人物にはなんの関心もよばない。むしろ平然と寝ている男のいびきのかしましさの方が耳につく。誰かがビデオをつけるとショパンやブラームスが流れる。女(ウシ)が目をさます。そしてすすり泣きをはじめる。そのすすり泣きを横目に、全裸の男たちが性器もあらわに部屋の中で乱舞をはじめる。

   *    *    *

感想を書くつもりが、結局あらすじ紹介になってしまったが、ポツドールの公演の感想を書くという行為はほんとうに難しい。
八人の男女が、舞台上で性器もあらわに組んずほぐれつ動き回り、物語としてはそれしかないという意味では、『夢の城』は完全なエロ芝居なのだが(そして今回の公演で、その表現としてのエロ性は徹底している)、この作品にエロティシズムを感じる観客はおそらく皆無に近いのではないだろうか。三浦大輔が舞台に再現するのは、「エロティシズム」とかそういった上品なものではなく、もっと生の物理的な人間のありようだ。そしてその生の人間のありようを再現するとき、三浦は、それを土俗的エネルギーといったかたちで無条件に肯定するのではなく、その生の人間をさらに高いところから突き放して見据えるといった冷たい情熱がある。
つまり、三浦大輔は文字通りの「裸」の人間を舞台に登場させるのだが、それはそうした裸の人間のありようを讃美するためなどではまったくなく、人間を裸にするすることが、彼の問題意識の出発点としてどうしても必要だからというそれだけのことに過ぎない。
そうしたなかで、「人間とは何か」を問いつめる三浦大輔の方向性がストレートに打ち出されたという点で、私はこの『夢の城』を高く評価する。文字どおり、「言葉にならない」なにかを目撃したという昂揚が、この舞台を見終えた後にはある。

ポツドールの公演のことを書くと、いつも手放しの絶賛ばかりになってしまうのだが、他に同じようなコンセプトの劇団は存在しようがないと思うので、それもやむなしだと思っている。私のあらすじ紹介を読んでいただいた人には(そして実際にポツドールの舞台を観た人には)明らかだと思うのだが、ポツドールの芝居というのは、他の芝居の範になるという意味で傑出しているのではけしてないし、ポツドール(三浦大輔)は、ある意味で永遠の異端児をめざしているのだと思う。そしてその異端ぶりが、安直な演劇界のなかで、あるいは社会全体のなかで鋭く屹立しているのだ。しかしそうした異端性を貫きとおすというのは、楽な行動ではないはず。また、劇団に対する社会的認知度が高まれば、そうした異端性に対する批判や無理解も増加しよう(現に、3月8日付けの読売新聞夕刊に掲載された祐成秀樹の公演評は的はずれもはなはだしいものだった)。そうしたなかで人間存在の根底を見続け、またそれを舞台でどのように表現するかという表現の限界を彷徨し続ける三浦大輔の試みは、孤独な厳しいものだと思うが、岸田賞受賞といった外部評価に甘んじることなく、これからもいっさい妥協のない厳しい探究・表現をとぎすましていって欲しいと、今回の舞台を観ながら強く思った。

【参照】劇団ポツドール公式サイト
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テーマ:観劇 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/16(木) 14:12:39|
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