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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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平松令三氏の『親鸞』を読むーー番外篇

[親鸞当時の関東での浄土信仰ーー千々和到氏の板碑研究から]
平松令三氏の『親鸞』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)の本文からは少しはずれますが、観親鸞当時の関東での浄土信仰がどのようなものであるか、千々和到氏の論文「東国における仏教の中世的展開ーー板碑研究の序説として」(『史学雑誌』82-2・3号)から補っておきます。
同論文第三章「加治氏とその信仰」で、千々和氏は中山智観寺(埼玉県飯能市)の板碑を詳しく紹介していますが、そのうち二基は次のような銘文をもっています。

[史料14]
(阿弥陀)
仁治第二暦<辛丑>季冬
廿四日<丁丑>当悲母比
丘尼<名阿弥陀仏>五七之
忌辰建弥陀三摩耶
一基之石塔矣


[史料15]
(阿弥陀)
仁治三年<壬寅>十一月
十九日当先孝聖霊
<丹治□□>三十八年星霜改
葬之間建弥陀三摩
耶一基之石塔矣


この二基の板碑について、千々和氏は次のように記しています。
「板碑は一基が造立者の母、名阿弥陀仏の五七之忌に建てられ、他の一基は造立者の父、丹治氏の三十八年忌改葬にあたって建てられている。この二基の板碑は、造立趣旨の記載方法が他に例を見ぬ独特のものでありながら全く相似であるばかりでなく、後述するように共に板碑を「弥陀三摩耶一基之石塔矣」などと呼んでいることにも注目され、大きさ、形態ともに一見して、(広義の)双碑であると考えられる。さらに、中藤栄祥氏の指摘されたように仁治二年(1241)十二月廿四日が五七の忌日である名阿弥陀仏の命日は十一月十九日だから、丹治氏の塔の建てられた仁治三年(1242)十一月十九日は名阿弥陀仏にとって丁度一周忌の日となる。このように考えると、この二人は極めて近い肉親同士であること、おそらくは夫婦であろうことが推測されよう。ところで丹治氏の欠損した字は、残画から家季または宗季と読めるようである。とすると、仁治三年はまさに元久二年(1205)から三十八年目であるから、この丹治家季とは、元久二年に畠山重忠と戦って討死した加治小二郎家季を指すものと考えることができる。
 次に、これら板碑はどのような信仰に基いて造立されたものであろうか。種子の阿弥陀仏からして、広義の浄土信仰によるものであることはまちがいない。ただ、「弥陀三摩耶一基之石塔」という呼び方からみて、その中でも真言念仏系の阿弥陀信仰を考えねばならない。すなわち、興教大師覚鑁の、「五輪九字秘釈」をもとに毘廬遮那仏の三摩耶形として図案化されたのが五輪塔であるが、ここでは、真言密教の言う、「毘廬、弥陀同体異名。」によって弥陀三摩耶塔と呼んでいると考えることができる。従って造立者が、この板碑を五輪塔と全く同じ本質をもつものと考えて造立していること、そしてまた、この板碑の造立が、真言系の阿弥陀信仰に基くものであることは全く明らかなのである。」(千々和到氏上掲論文)


われわれからすれば、親鸞が鎌倉で一切経を校合したと考えられる文暦二年(1235)前後に、関東(武蔵)に親鸞とは別系統の浄土信仰が存在したことを確認できれば、ここでは十分です。おそらく、この加治氏(丹治氏)と同様なケースは、親鸞が活動した常陸や下野にも多くあったものと十分に推測できます。親鸞は、浄土信仰の全く存在しなかった未開の土地に移住して浄土信仰を広めたのではなく、そうした信仰基盤のすでにある土地で、教団を組織したのだといえると思います。
また、板碑に多く刻まれている密教の光明真言についてふれながら、鎌倉時代には真言宗系の浄土信仰と法然流(西山派)の浄土信仰は相通ずるとする考え方もあったとする、千々和氏の次のような註も興味深いものがあります。
「無住の「沙石集」には、「…念仏真言ハ大概風情アヒ似タリ、義門互ニ相資ケテ信ヲマスベシ。アラソヒアヘル事、返々詮ナクコソ。当世ハ西山ノ浄土宗ノ人共真言ヲ習ヒアヘルト聞ク。尤モ然ルベキ事ニヤ。…仏陀ノ名字何ゾ真言ニアラザラン。」(巻八、不法にして真言の罰を蒙る事)とも言う。」(第二章註18)
ちなみに、無住(1226-1312)は、鎌倉に生まれ常陸で出家した人で、関東の仏教の状況を十分に知っていたと考えられます。

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  1. 2006/10/04(水) 13:10:26|
  2. 仏教史&仏教思想
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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその5

【親鸞帰洛の理由】
「帰洛の理由については学界に定説がない」(同書195頁)と、平松氏は述べます。
「かつては、『教行信証』を完成させるため、というのが有力だったが、関東滞在中に一応の成立を見たことが実証されてからは、学説としての成立の基盤を失った。親鸞も還暦の歳を迎えて、望郷の想いが強くなったのだろう、というのは、昔から言われ、それももちろんあったろうけれども、親鸞がそんな情緒だけで行動したとも思われない」(同書195頁)というのです。
親鸞の帰洛を鎌倉幕府の念仏取締りとの関連で考える説もありますが(笠松一男氏、赤松俊秀氏)、平松氏は、「念仏者への弾圧は、このころ関東よりもむしろ京都の方が激しいくらい」(同書196頁)と、これも否定します。
ではなぜ親鸞は関東を離れたのでしょうか。平松氏は、「それは20年以前、関東を志した理由に対応するものでなければならない、と思う。法然の弟子として専修念仏を弘めようという使命感を抱いて、そしてそのための手段として善光寺勧進聖の仲間に身を投じ、関東に入ったという目的が、20年間でほぼ達成した、という安堵感が関東から去らしめたのではないか、と私は思う」(同書196頁)とします。
ただし、この平松氏の考え方に対する私の疑問は、仮に親鸞が善光寺聖として関東入りしたということを認めるとして、この善光寺聖としての念仏は、はたして「専修」といえるのだろうかという点にあります。つまり平松氏の推測は、論として概ね正しいのではないかと私は考えるのですが、そのなかで、親鸞が関東で専修念仏を広めたという考え方に、私は疑問をもつのです。親鸞が関東で広めた念仏は、専修といえるようなものではなくて、もっと緩やかな念仏信仰だったのではないでしょうか(これは、先行する法然の布教に関してもいえると思います)。

この点について少し考えてみましょう。
法然・親鸞流の浄土思想をそれ以前の浄土思想とわかつ最大のポイントが「専修」にあるというのは事実だと思いますが、ではなぜ法然や親鸞は、専修を主張したのでしょうか。
これについては、通常、経典や善導ら先人の解釈を論拠として説明されることが多いのですが、私はそれは根本的説明に成りえていないし、だいいち、こうした権威主義的な説明で人々を十分納得させることはできなかったと思います(これは、仏教界内部に向けての、いわば論争にそなえた表向きの論拠というべきではないでしょうか)。
専修に関しては、もう一つ、念仏の易行性とむすびつけて、一種の平等主義、民衆主義の立場からとらえる見方も根強くあります。念仏は誰にでも実行できる容易な行為であり、しかも経典や論釈によって念仏によって往生できることが確実なのだから、往生するには念仏だけで十分と。しかしこの考え方は、たとえば「念仏は行者のために非行・非善なり」(『歎異抄』第八条)という親鸞の言葉に抵触するのではないでしょうか。というか、親鸞は、念仏が確実で容易な行為だからこれを選択するのだという考え方に備えて、「非行」ということを言ったのではないでしょうか。親鸞になぜこうした言い方が出てくるかというと、彼には往生だけを目的とした念仏の否定という考え方があるからではないかと思いますが、この点からすると、専修念仏の平等性を強調する捉え方は、いくら人道的で魅力的に響くからといっても、結局、親鸞の思想を表層的に把握したものでしかないのではないかと思います(ただし、法然に関しては、こうした見方もある意味で可能ではないかと思いますが、このブログではとりあえず親鸞中心に考えたいと思います)。
では親鸞の浄土仏教において、専修とは一体何だったのでしょうか。私はそれは、「如来よりたまはりたる信心」(『歎異抄』第六条)を自己のものとして感得すれば、それ以外のものは不要となるという意味において、結果的に専修だったのだと思います。したがって、この論理を逆転させて最初に専修を強調して雑修・兼修を排斥するような態度は、親鸞が感得した浄土信仰と反しているのではないかとも思うのです。
親鸞にすれば、如来から信心をさずけられていない人、あるいは「本願招喚の勅命」(『教行信証』行巻)が聞こえない人が念仏のみによる往生を疑うのはやむを得ないことで、だからといって彼らが行っている行としての念仏をやめさせることはできないということではないでしょうか。またさらには、人々が他の行や信仰と兼ねて念仏を行うことも容認せざるをえないということだったのではないでしょうか。
いってみれば、親鸞にとって「専修念仏」とは、それ自体が必須にして不可欠の原理ではなく、念仏者がめざすべき窮極目標として掲げられていたのではないかと私は思うのです。
ここでは詳論しませんが、法然に関しても、以上のような観点から「なぜ専修なのか」もう一度考えてみる必要があると私は思います。知られている法然の高弟のうち、たとえば藤原兼実の行実は、専修念仏者のものとはいえないですね。教団内の雑修、兼修を容認するというのは、親鸞が法然から引き継いだ布教方針だったのではないでしょうか。

専修の問題に関してはとりあえずこれくらいにして、善光寺勧進聖の経済面について、またそれと親鸞帰洛のからみについて、平松氏の推論を読んでみましょう。
「勧進聖の経済面については史料が乏しく研究が進んでいないが、勧進聖の中には上下のランクがあり、下級の聖は、勧進物の中から、自己の生活の資を差引いた残りを上級の聖に差出し、上級聖は一定額を自己の得分として差引き、残りを本寺へ上納する仕組みとなっていたものと考えられる。それはこの当時の荘園制経済がそうした仕組みだったことから、当然推測されるものである。」(同書198頁)
続いて平松氏は親鸞の次の書状をひきます。
「護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。さきに念仏のすゝめのもの、かたがたの御なかよりとて、たしかにたまはりてさふらひき。」(『親鸞聖人御消息集』第三通)
宮崎円遵氏は、この書状のなかの「こゝろざしのもの」と「念仏のすゝめのもの」を性質の異なるものとして区分し、「こゝろざしのもの」が個人の懇志であるのに対し、「念仏のすゝめのもの」とは念仏勧進によって得られた特殊な懇志と解しているといいますが、平松氏はこの解釈を一歩進め、「「念仏のすゝめのもの」とは、経済上は上級聖の得分に相当するのではなかろうか」(同書199頁)と推測し、さらには「関東の門弟たちの間に、そうした経済機構が安定的に形成されたことが、親鸞を安心して故郷へ帰らせた」(同書199頁)と想像しています。
この分析は、私には非常に説得的です。

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  1. 2006/10/03(火) 12:51:50|
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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその4

さて、平松令三氏の『親鸞』<歴史文化ライブラリー>(吉川弘文館、1998年)の紹介(抜書き)を再開しましょう。前の記事では、「越後から関東へ越えて二十年」の章までをとりあげましたが、「帰洛の理由と京の生活」から再開します。

【一切経校合】
まずは一切経校合の節。
「親鸞の帰洛について「伝絵」は、「聖人東関の境を出でて、華城の路におもむきましましけり」とあっさり片付けていて、いつごろ、どういう理由で京都へ帰ることになったのかにはまったく触れていない。」(平松氏、同書184頁)
これに関して平松氏が注目しているのが、これまで紹介してきた峰岸純夫氏の論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」です。
峰岸氏が紹介・分析している覚如『口伝鈔』の記事は、それまで真宗史の学界ではほとんど事実として採り上げられることがなかったのですが、平松氏によればそれは、「教義面からは、袈裟の徳用が説かれている部分が、どうも親鸞の思想とは一致しないのではないか、と考えられることと、歴史学の方からは北条時頼には早くから廻国伝説がつきまとっていて、カリスマ化傾向が指摘されることや、この説話の冒頭が「西明寺の禅門の父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」となっているのだが、時頼が九歳になったときには、父時氏はすでに死去してしまっていて、歴史事実と喰い違う、ということなどが手伝っていた」(同書186頁)といいます。また、「しかしそれにもまして、この話は真宗教団に属する研究者の多くが抱いている親鸞像に照らしてみて、そんなことはあり得ないことのように思われたからではなかっただろうか。関東での親鸞は、片田舎で農民たちを相手に、ひたすら念仏の道を説いて廻っていただけで、政治権力とはまったく無縁の生活だったにちがいないから、鎌倉幕府のような権力中枢からお呼びがかかるはずがないし、仮にお呼びがかかったとしても、親鸞の信念からすればそれに応ずるようなことはあり得ない、という先入観があって、学者たちはこの話を歯牙にかけようとさえしなかったのであった」(同書187頁)といいます。ところが、「峰岸氏は真宗教団とは別世界の人であったために、従来の親鸞像にこだわることなく、無頓着にこの『口伝鈔』の説話に取り組んだ。そして父時氏というのを祖父泰時を誤解したものと訂正さえすれば、あとはこの記事は事実として何ら不合理なところはない、事実と認めてよい、という結論を出したのであった。まことに注目されるべき提案といえる」(同書187頁)と高く評価しています。
続いて平松氏は、テクスト・クリティックの観点から峰岸論文を点検します。
「じつは『口伝鈔』について、現存諸本を対校してその成立過程を研究してみると、「父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」という文言は、改訂本に見られるものであって、覚如の初稿本には「祖父武蔵守泰時世をとりて、政徳をもはらにせしころ」となっていたことがわかっている(龍谷大学善本叢書『口伝鈔・改邪鈔』平松令三執筆「口伝鈔」解説)。北条泰時が執権として在職中に、一切経の校合を行うことになり、武藤左衛門景頼や宿屋入道光則に親鸞を探させた、という初稿本の記載は、この当時の事情によく符合していて誤りはない。覚如がそれをなぜ「父修理亮時氏」と誤った方向へ改訂したのか、その事情は審らかでないが、こういう初稿本の記載からも、この一切経が鎌倉幕府で行われたものであり、それは峰岸氏の言うように文暦二年に明王院五大尊堂で供養されたもの、と認定して差支えないと思われる」(同書188-9頁)と、峰岸説を補強しています。
前述のように『親鸞伝絵』では、この一切経校合は全然触れられていません。これは『伝絵』が『口伝鈔』より36年前に成立し、その成立時点では、このエピソードが知られていなかったためとも考えられますが、平松氏は、「(覚如は)「伝絵」初稿を制作してからのち、少なくとも二度以上増補改訂しているのだから、この話を追加しようとすればできたはずである」(同書189頁)と自問します。
そこで平松氏が注目するのは、京都仏光寺に所蔵されている「伝絵」です。実はこの仏光寺本は、奥書などを欠くため制作年代が明確でないのですが(ただし画の描法などから推して室町初期の制作と判定されます)、そのなかに、次のように、この一切経校合の話が採用されているというのです。
「関東武州禅門<泰時>一切経の文字を校合せらるゝことありけり。聖人その選にあたりて、文字章句の邪正をたゞし、五千余巻の華文をひらきて、かの大願をとげしめ給けり。」(平成元年同朋舎出版刊『真宗重宝聚英』第五巻収載)
この記載は、『口伝鈔』の初稿と合致しています。
また平松氏はこの場面に付された絵も紹介していますが、それは、「座敷の中に座る親鸞の前に、砂金の包かと思われる小袋三個が角盆に載せられており、戸外からは幕府方の召使かと思われる男が、衣類らしいものを捧げ持ってきている。この校合に加わって、多額の謝礼を受取っている場面のように見える」(同書192頁)といいます。平松氏はさらに、「詞書に「壱岐左衛門入道<法名覚印>沙汰として、さまさまに四事の供養をのべられけり」というのは、親鸞の参加によって泰時の念願が成就したので、多くの布施物がとどけられた、という意味らしい」(同書192頁)とします。
この小袋のことまで事実かはわかりませんが、少なくとも、この画を書いた絵師は、こうした場合には小袋(砂金)を差し出すのが当然と考えていたのでしょう。
これらからする平松氏の結論は次のようなものです。
「ともあれ親鸞は、『口伝鈔』に記されているように、鎌倉幕府の招きに応じて、一切経校合に参加したか、あるいはまた峰岸氏がいうように、「教行信証の完成のために、親鸞は一切経のもっとも得やすい鎌倉に移住し、幕府からその校合の機会を与えられ」たか、したのであろう。したがって、帰洛は文暦二年以降ということにならざるを得ない」(同書194頁)

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  1. 2006/10/01(日) 13:35:33|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその8

この辺で、峰岸論文を読みながら考えていることをまとめておきます。

親鸞に関して私が最も興味があるのは、20年間も東国でいったい何をしていたのかということなんですけれど、いわゆる「史料」からはこれは皆目わからないんです。だから教団のことを分析して間接的にせめるしかないんだろうと思います(そんなわけで親鸞教団にこだわっている)。
ところで、親鸞の門弟について最もはっきり記した史料は「親鸞聖人門侶交名牒」です。そしてこれまでもたびたび指摘したように、この交名牒によれば、親鸞の高弟のほとんどは武士階級に属する人なわけです。
それと、親鸞の門弟の実態を考えるうえで欠かせないのは、親鸞の書状ですが、その大半は京都から関東の門弟に宛てたものです。ところでこの書状ですが、書状を書きかつ親鸞からの返事を読むことができるというのは、ある程度の知的階級に属した人なわけで、これらの人は生活にもゆとりがあり、かつ大半が交名牒記載の高弟と重なっているのではないでしょうか。となると、親鸞と書状のやりとりをした人々も、大半は武士と考えられます。少なくとも、農民、商人、猟師といった人々はそうした数に入らないでしょうし(繰り返しますが、それらの人たちは読み書きができないわけですから、農民らとかわした書信もほんとうはあったのだけれど時間経過とともに紛失してなくなってしまったという可能性は、この場合無視できると思います)、これらの人々に対する直接的な教化は、書状からは読み取れないと思います。
親鸞の門弟を探るもう一つの手がかりは『歎異抄』ですが、『歎異抄』執筆者とされる唯円にしても、その同輩にしても、とある事件を契機に京都にのぼって親鸞と対面したからこの書ができあがったわけで(『歎異抄』第二条参照)、するとここからも、親鸞の主要な門弟は遠くまで旅行するだけの経済的にゆとりのある人々、おそらくは武士ということになってしまうのですね。

この門弟たち、今井雅晴氏によれば、善光寺如来との雑修(真仏ら高田門徒)、真言宗との兼修(性信ら横曽根門徒)、鹿島信仰との融合(鹿島門徒)の可能性が高いといいます。私は、それはおそらく事実だろうと思います。
ところで、これら門弟たちの信仰が専修でないのは親鸞が教化不十分のうちに関東を離れたからかというと、そうではなくて、彼らは親鸞が関東に来る以前から雑修であり、そのなかで、念仏をも信仰していたのだろうと思います(真言宗に関しては、おそらく、阿弥陀仏を教主とする覚鑁流の真言宗だったのでしょう)。
それが、自分たちの念仏信仰に対する権威づけを欲していたとき、たまたま越後に配流されていた親鸞が赦免になったのを知り、法然直系の弟子として常陸に迎えたのではないでしょうか。親鸞=善光寺聖説によれば、親鸞の存在に最初に注目して親鸞を常陸に招聘したのは高田門徒で、横曽根門徒と鹿島門徒は、その後、親鸞教団に組み込まれたと考えられます。

で、「大宗教家」が20年間も常陸にいたからには、そこで何か布教活動をしていたのだろうと考えるのはある意味で当然で、いろいろな人が親鸞の布教活動をさまざまに想像していますが、端的にいうと、私は親鸞は常陸でほとんど布教活動をしなかったのではないかと推測しています。
でもちょっと考えてみてください。
そもそも、常陸に大勢の人が集まる、布教に適した場所や機会などあったでしょうか。田植えのときとか、祭りのときとか、市がたつときとか、なんらかの機会が考えられなくはありませんが、おそらくそれは例外的なケースでしょう。それ以外の日常の布教というと、私にはちょっと思いつきません。浄土宗の布教というと辻説法的なイメージを思い浮かべるのは、われわれに『法然上人絵伝』のイメージが強く焼きついているからで、それは京という大都市では可能でしょうが、常陸では不可能に近いと思います(地方でそうした「布教」をしようとしたら、一遍教団のように、人が集まるようななんらかの仕掛けをしなくてはならないのではないでしょうか)。
それでも一歩譲って親鸞が何らかの布教活動を行ったとしてもよいのですが、とすればそれは、民衆ではなく領主階級に属する武士(たとえば上に上げた横曽根門徒や鹿島門徒)を対象としたもので、それも、布教というより組織化に近かったのではないかと私は思います。ただしこの辺は判断が難しいところで、親鸞が武士を組織化したのか、雑修のなかでもともと念仏信仰をもっていた武士たちが権威づけや思想的バックボーンとして親鸞を利用したのか、二つのパターンを想像することが可能だと思います。
で、民衆との結びつきということでいえば、親鸞の直接の門弟(面授の人々)が、それぞれ支配下の民衆を集め、親鸞はそうした席に招かれて説教したのではないでしょうか。おそらく、親鸞が民衆を直接組織化したり教化しようとすることは、こうした面授の門弟たちによって忌避されていたのではないかと私は思います(その忌避に触れた有名な例が善鸞事件でしょう)。
話を少し前に戻して、親鸞の書状のことを考えると、読み書きを知らない民衆は、物理的に親鸞と書状のやりとりができるはずがないというのは一面の事実ですが、実は、親鸞と書状のやりとりをすることができる人というのは、教団のなかの特権階級だったのではないでしょうか。彼らは、親鸞と対面して教理について質問したり、書状をやりとりする特権をもつが、逆に、親鸞を扶養する義務をももつ。親鸞はそれ以外の人々とは直接接触しない。
親鸞教団とは、いってみれば将軍と御家人の関係にも似た、明確な双務関係で成り立つ集団だっのではないかというのが、現在のところの私の結論です。そしてその関係は、親鸞没後も親鸞の子孫と教団の間で続くのですね。峰岸氏がとりあげて浮き彫りにしているのは、そうした親鸞没後の教団のいくつかの側面ではないかと思います。
要は、『歎異抄』の「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第六条)という言葉、普通は比喩的なものと解されているわけですが、私は、これは親鸞の本音だったのではないかと思うのです。この言葉に前後する「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり」(同条)「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるゝことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり」(同条)というのも、私が考えているような事実関係にもとづくものだったのではないでしょうか。

ところで、峰岸純夫氏は、本年五月、吉川弘文館から『中世東国の荘園公領と宗教』を上梓しており、一段落したら、こちらも読んでみたいと思っています。ちなみにこの本には、当ブログで取りあげている論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」も収載されています。

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  1. 2006/09/28(木) 15:18:17|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその7

直前の記事で検討した、親鸞没後の初期真宗教団の動きを、経済(お金の動き)とからませながら、もう少し具体的にみてみることにしましょう。

さて、板碑の造営費について、峰岸純夫氏も参照している千々和到氏の論文「東国における仏教の中世的展開ーー板碑研究の序説として」(『史学雑誌』82-2・3号)は、次のように記しています。
「板碑の造営にどの程度費用がかかるかを明らかにする資料はまだ見出されていない。他の石塔の場合では、「大乗院寺社雑事記」明応元年九月三日条に一条兼良の墓石塔の費用が、石塔代八貫、供養方二貫、その他五百文だったと記されており、川勝政太郎博士はこの兼良の石塔と見られる宝篋印塔を東福寺墓地で見出され、その石塔の高さは五尺七寸だったという(『日本石材工芸史』)。」(同論文第一章註6)
この一条兼良の墓石塔の費用と比較して、真仏報恩碑の裏面に記してある百五十貫というのが、いかに膨大な額かわかりますが、逆にこの点から、百五十貫という額は、「仏事供養の費用も含まれていたかも知れない」という峰岸氏の推測が生まれてくるのですね。すると今度は、真仏の仏事供養が、ともかく非常に盛大なものであったということになると思います。

また、嘉元元年に専修念仏停廃令が出された際に横曽根門徒木針智信が出した三百貫というのもはんぱな額ではないですね(もちろん、門徒全体ではそれ以上)。親鸞門徒というのは、やはり、相当の経済力があったのではないでしょうか。『歎異抄』第二条に出てくる門徒代表の上洛というのも、それを示していると思います。彼らは、信仰上の重要問題では出費をいとわないし、すぐにそれを捻出できる。ちなみにこの訴訟費用というのは、事務経費というより、額からいって、現代風にいうならば賄賂性の高いお金と考えるべきではないでしょうか。
少しうがった見方をすれば、幕府の禁令というのも、親鸞門徒を取り締まるという意図はあまりなくて、門徒を少しおどして上納金を出させようと狙いで出されたと考えることも可能だと思います。
ところでこの横曽根(飯沼)の地は、『教行信証』開板に関して峰岸氏が平頼綱の領地と指摘していた土地ですね。幕府上層部は、頼綱の旧地には、親鸞門徒(念仏衆)が多く、しかも彼らは、大部の書を開板するだけの経済力をもっているということを知っていたのではないかという気がします。

これらの点を総合的に考えてみると、正応年間の横曽根門徒は、『教行信証』開板の資金が足りなくて領主・平頼綱に援助を依頼したというより、開板にともなって生じることが予想されるトラブルの排除を頼綱に期待したのであって、この時も、門徒の側から頼綱に、なにがしかの金銭等がわたされたと考えるべきではないでしょうか。
それが、平禅門の乱で頼綱が滅亡したために幕府と門徒とのパイプが途切れ、直後に嘉元の専修念仏停廃令が出されるに到る。しかしこのとき、訴訟をとおして幕府と門徒との間には新たなパイプができた。峰岸論文にそって考えれば、この新たなパイプ作りには唯善が大きくからんでおり、京都で大谷廟所相続訴訟に破れたとき、唯善は、この人脈(それは将軍に極めて近いが、将軍その人ではない)をたよって鎌倉に下向し、下河辺に定着したのではないでしょうか。

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  1. 2006/09/25(月) 09:47:13|
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