le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

後期ハイデガーの思想ーー『存在論的、郵便的』から

浄土仏教やイスラームの思想を「暗号」や「根源的コミュニケーション」の位相からとらえるには、それらを脱宗教化して言説のレベルをずらしていくという戦略もある意味で有効かもしれません。以下、それに必要な範囲で、東浩紀氏の『存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』(新潮社、1998年)の要文を抜き出してみます。浄土仏教、イスラームという文脈のなかでは見えにくかった要素が、東氏のテクストと照合することによって見えてくるという部分もあるのではないでしょうか。
ちなみに、この『存在論的、郵便的』という著作は、「伝達(郵便)」を大きな主題の一つとしており、伝達の問題を存在論とからめようというのが東氏の戦略だと思いますが、そこでは、「通常、テクストはとある意図・意味を伝えるものであり、その伝えられた意図・意味からテクストのオリジナリティーが判断されるが、正確に伝えられるものにオリジナリティーはない。そうではなくて、テクストが伝えられるときに誤配や配送ミスによって差し戻されたり伝達過程で消えていくメッセージがあり、その誤配等にこそオリジナリティーがあるのだ」と主張されていると私は考えています。今回この著作を部分的に読みかえしてみて、「痕跡」という概念が、言い得て妙というか、非常におもしろかったです。
ところで、この抜き書きは、大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)に対するより直接的な註をもめざしています。後記ハイデガーをキー・ワード(キー・パーソン)にして、『親鸞のコスモロジー』と『存在論的、郵便的』は図らざる連関を示しているのではないかと私には思えるのです。

   *    *    *

「後期ハイデガーは言語のみに、それもギリシア語とドイツ語を中心とする特定の語彙の解釈のみに依存して思考を進める。これは通常、哲学の神秘思想化、あるいは解釈学化(あわせればカバラ化)と見なされている。」(東氏上掲書238頁)

「ハイデガーはフッサールから出発した。後者の現象学は、カントの超越論哲学を継承し採用している。超越論的自我(メタ)が意識的相関者(オブジェクト)を構成するという現象学の主張、いわゆる「ノエシス-ノエマ構造」は形式的には、論理形式(メタ)が世界=思考の底面の安定を要請する。」(同書239-41頁)

「では前期ハイデガーはどうか。前述したように、彼のシステムは二レヴェルの短絡から成立している。その短絡回路を以下「クラインの管」と呼ぶことにしよう。その存在は声(フォネー)の機能、メタとオブジェクトの峻別を犯す。第三章でも触れたように、『存在と時間』はこの機能侵犯に「呼び声 Ruf」という音声的隠喩を当てている。呼び声(ルフ)は私の外から到来するものではない。それは「私の中からしかも私を超えて aus mir und doch uber mich」響く。そしてその声こそが「現存在の本来的な存在可能」を、つまり「客体的存在者の『事実性』からは本質的に区別されるべき」「実存性」を開示する。呼び声(ルフ)が実存論的構造を可能にする。私たちはこのハイデガーの主張を、今度はクラインの壺の安定化装置について語られたものと解釈できるだろう。(中略)私たちは以下このシステムを、やはり前二章にしたがい「否定神学システム」と呼ぶことにしよう。」(同書241-2頁)

「30年代のハイデガーはそこからの前進を図る。それが転回(ケーレ)と呼ばれる。ではどのように前進したか。呼び声(ルフ)の由来が現存在内部に求められないとすれば、それは外部から侵入したと考えられるほかない。したがって転回(ケーレ)後のハイデガーは、超越論的シニフィアンの循環運動ではなく、その到来の局面を問題とする。私たちはこの変化を隠喩的には、超越論的シニフィアンを指示する語が「呼び声(ルフ)」から「存在の声(シュティンメ)」へ移動したことに確認できる。所有者が不明だった呼び声(ルフ)と異なり、「存在の声」はまさに「存在」の声として聞かれる。つまりその聴取において、現存在ははっきりと受動的位置に置かれる(後期ハイデガーにおいては、「聞くこと horen)」は一般に「隷従・所属 horig, gehoren」を意味する)。そしてこの論理的変化に伴って、「存在」の含意もまた前期とは微妙に異なっていく。それはもはや単なる思考の限界、「不可能なるもの」を指示するひとつの語ではない。後期ハイデガーにおいては「存在」はむしろ、現存在が耳を傾け従う声、否定神学システムを安定化させる超越論的シンフィアンの発信源(Ursprung)の名として機能する。例えば『「ヒューマニズム」について』のドイツ語は、つぎのように記している。「Dass aber das Da […] sich ereignet, ist die Schickung des Seins selbst」。意訳すればこうだ。Daの性起、すなわちクラインの壺の底面の成立可能性は、「存在そのもの」から送付(schicken)される。現存在はその受信者に過ぎない。したがってそこでは、哲学の目的も変わってしまう。哲学はいまや実存論的構造ではなく、実存そのものの成立可能性の根拠=発信源を問わなければならない。そして「Als das horend dem Sein gehorende ist das Denken, was es nach Wesensherkunft ist.」。存在の声に耳を傾け、そこに所属したときはじめて、思考は自分がどこから到来したかを考えることができる。」(同書245-6頁)

「46年の「アナクシマンドロスの箴言」は、つぎのように記している。「to chreonは、存在者の存在を思考が言葉へともたらした最古の名である」。「言葉は存在の現成するものを名付けるため、ある唯一な、それしかない唯一の語を発見せねばならない」。「存在の存在者に対する区別は[…]、存在がそこに到来する言葉のなかで保持され続けるような、ある痕跡を刻印する[…]そしてそのときのみ、その区別は忘却された区別として経験に入ることができる」。ハイデガーの主張はこうだ。まず最初に「存在」は、つまり声(シュティンメ)の発信源はなんらかの語で命名されねばならない。そしてその語は命名の力を痕跡として(声として)保持する。哲学はその痕跡を手がかりにしてはじめて、存在者の領域を超え「存在」そのものへと遡行できるだろう。この規定は具体的には、ハイデガーが各々の哲学用語(例えばchreon)を一種の固有名として読解していることを意味する。そしてこの含意は、50年代のテクストではさらに明確になっている。「人間存在の二重襞への関わりにおいて、支配的でありかつ支持的なものは言葉である」。呼び声(ルフ)=声(シュティンメ)は、言語を介してのみ現存在に到達する。したがって「語は物でも存在者でもない。[…]詩人の経験に従っても、また思考の最古の伝承[Uberlieferung]に従っても、語は存在を与えるものだ」(Unterwegs zur Sprache<言葉への途上>)」(同書247-8頁)

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif
スポンサーサイト

テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/30(水) 09:31:36|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

宗教言語論ーーイスラームの場合 その2

イスラームにおける神的コミュニケーションについての井筒俊彦氏の考え方、「言語現象としての「啓示」」(『超越のことばーーイスラーム・ユダヤ神学における神と人』<岩波書店、1991年>所収)から補足しておきます。

「「不可視界」の「濃霧」の奥から、神の声が聞こえてくる。神の声、神のコトバ。ヤスパース的な表現を借りるなら、神が人間に向かって「暗号」を送ってくるのだ。声は聞こえるけれども、神の姿は見えない。「啓示」は『コーラン』においては、神の自己顕示、自己開顕ではない。神は絶対に自己を直接人に開顕しない。ただ「暗号」を送ってくるだけである。(中略)
 「暗号」とは、その意味指示対象が、直接にそのままでは、わからないような性質の記号である。だから、言語的であれ非言語的であれ、「暗号」は解読されなければならない。正しく解読された場合、『コーラン』における神の言語的「暗号」は、例外なく、人間に一定の宗教的・倫理的義務を課するものとして了解される。つまり人間は、神のコトバ(「啓示」)を正しく了解することによって、神にたいして「責任を負わされた存在」(mukallaf)となるのである。そして勿論、第一次的に神にたいして「責任を負う」人は、同時に、第二次的に、神によって制定された社会、共同体、の中に生きる他の全ての人にたいして「責任を負う」者となる。「啓示」に基づく宗教としてのイスラームの律法性はここに由来する。そしてまた、人間の倫理的な性格も。(中略)「啓示」を通じてこのような事態が成立するということそれ自体から我々は、イスラームにおける「啓示」の本質的機能がいかなるものであるかを知ることができる。他の宗教、特にいわゆる密儀宗教などによく見られるような秘儀開顕的な事態はここには全く見られない。イスラームにおける「啓示」の機能は、「隠れた神」の秘儀、玄義を開示するところにあるのではない。「啓示」は人間に一定の宗教的・倫理的義務を課し、「責任を負わせる」(taklif)ことをもって第一次的機能とするのである。
『コーラン』的世界像において、神は「記号」発信者である。神は、人間に向かって、絶えず「記号」を送ってくる。それらの神的「記号」の多くは「暗号」である。意味指示対象が、そのまま直接には判然としない「記号」を「暗号」という、そのことは前に書いた。無論、なかには意味がそのままはっきりわかるような普通の「記号」もたくさんある。これら二種の神的「記号」を一括して、『コーラン』では「アーヤ」(ayah,複数ayat)と呼ぶ。字義どおり訳せば「徴<しるし>」(表徴)。『コーラン』における最も重要な鍵言葉の一つである。神が人間に「徴」を示すことをtanzil al-ayatという。「タンジール」とは、一般的用法としては、何かを下に向かって降ろすこと。従ってtanzil al-ayatは、「徴を下す」という意味。つまり、「不可視界」(上)から「可視界」(下)に向かっての「記号」送出であって、これが現代風に言えば、神から人間へのコミュニケーションである。しかもこのコミュニケーションは、不断に行われているゆえに、結局、我々の経験的世界は「アーヤ」に満ちた場所、神的「記号」の世界、と考えられなければならない。この世界に存在するかぎりの全ての物、そこに起こるかぎりの一切の事、全存在世界が「記号」的性格を帯びる。存在は、第一義的に「記号」であるということ、それが存在にたいする『コーラン』の最も根本的な見方である。
 「不可視界」から「可視界」に向けて送られてくる神的「記号」は、先にも一言したとおり、言語的、非言語的、の二種に分れる。ひとしく「アーヤ」と呼ばれ、ひとしく神の下す「記号」ないし「暗号」とされてはいるが、言語的「記号」と非言語的「記号」との間には根本的な相違がある。
 存在を神的「記号」と同定する『コーラン』的存在論について、私が上に述べたことは、実は非言語的「記号」のレベルで成立する事態なのであって、言語的「記号」には全く当てはまらない。普通、我々が、べつに特別の意義をもたない客観的事物と見なしているものを、全て、神から送られてくる「記号」であると見ること、あるいは我々がそれに気付くこと、そこに存在の非言語的「記号」性の根拠があるのであって、いったんそういう意識の立場に立てば、この世の一切の事物事象が、神的「記号」となるのである。
「我ら[神]は彼らに我らの徴を示すであろう。遠い空の彼方にも、また彼ら自身の内部にも。やがていつの日か、彼らにも、これが真理だということがわかるであろう」(『コーラン』41.53)。「遠い空の彼方」とは、狭義では天空、天体、星辰、広い意味では自然界。「彼ら自身の内部」とは人間の意識の領域に生起するあらゆる内面的動き。要するに外界、内界、一切の存在現象が神的「記号」である、あるいは、神的「記号」として見られなければならない、ということだ。人間の歴史に起こる事件が、全てまた神的「記号」であることは言うまでもない。すなわち、世界は無数の神的「記号」の空間的広がり、歴史は無数の神的「記号」の時間的連なり、ということである。
 神が人間に向かって発信する非言語的「記号」には、二つの大きな特徴がある。その一つは、「記号」の意味的に指示する領域が、明確な境界線をもたず、従って、ごく例外的な場合を除いて、それが何を意味するかを、厳密に同定することができない、ということ。例えば、これこれの歴史的事件は、神の怒り、神の復讐を示すとか、またこれこれの事物の存在は神の愛、神の慈悲を示すとかいうふうに、漠然としたものばかりである。これが第一の特徴。
 非言語的「記号」の第二の特徴は、それが原則的には全ての人に開かれている、ということ。つまり、そうしようと思いさえすれば、誰でもそれを神の「記号」として認知できる、べつに特別の認識能力が必要とされるわけではない、ということである。
「ものを正常に考えることのできる人なら、誰でもわかるはずだ」と、この種の「記号」に関して『コーラン』は絶えず繰り返している。」(上掲書、7-11頁)

   *    *    *

あえて私見を記せば、「この世界に存在するかぎりの全ての物、そこに起こるかぎりの一切の事、全存在世界が「記号」的性格を帯びる。存在は、第一義的に「記号」である」という視覚において、イスラームは真言密教に通底しているのではないかという気がします。
それはそれとして、「本願の海鳴り」(大峯顯氏)という現象、もしくは比喩的表現を、私は生理学的な方向からではなく、世界における記号(暗号)の遍在の問題という観点からとらえてみたいと思っています。つまり、人間意識が介在する前に、世界にはまずとある「海鳴り」が暗号もしくは絶対的シニフィアンとして遍在している、という世界のあり方の問題として。イスラーム的には、そこに人間が登場してきて、その段階で暗号の「解読」がはじまるわけですけど(人間は記号を読みとろうとする存在?)、一般的にいえば、その暗号が解読されるか解読されないか、もしくは誤解・誤読されるかは、さほど重要な問題ではないのではないでしょうか。つまり、私には、「解」もしくは「意味」という現象そのものが相対的なものなのではないかと思えますから(ただし、イスラームにおいては、預言者の「解」すなわち『コーラン』は絶対です)。
ここで私の思念のなかに浮上してくるのは「音楽」というモデルなんですけれど、音楽というものには、現象としての表現行為(記号、文法)はあるけれど、その「解」とか「意味」というのは、当の音楽にとって本質的に無意義ではないかと思うのです。つまり、音楽というのは自己完結的な「ありてあるもの」「記号の戯れ(jeu)」ではないか、と。ベートーヴェンの「田園交響曲」のような例外を除けば、多くの場合、音楽を愉しむというのは、それを「意味」に還元して意味を味わうことではなく、記号の戯れを戯れそのものとして愉しんでいるわけです。なんというか、世界が記号や表現意志に充ち充ちているということ、そのものを愉しんでいる。
いずれにしても、世界そのものが記号の集合であるという認識ですね。これがイスラームの根底にあるというのは、啓示という問題を考えていくうえでとても重要なことではないかと思います。
この辺のところをもっとつきつめていくと、人間が語るのではなく「言葉が語る」(ハイデガー)という表現・認識がでてくるように思えるのです。

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/25(金) 14:49:48|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

宗教言語論ーーイスラームの場合 その1

このブログでは、このところずっと浄土仏教(主として親鸞の思想)についていろいろ考察してきましたが、考察をさらに先にすすめるため、この辺で少し視点を変え、浄土仏教とは違ったタイプの啓示宗教における言語コミュニケーションの問題をとりあげてみましょう。私が問題にしたいのは、井筒俊彦氏の神と預言者との間の「啓示(コミュニケーション)」に関する記述です。

井筒俊彦氏の論考「言語現象としての「啓示」」(『超越のことばーーイスラーム・ユダヤ神学における神と人』所収、岩波書店、1991年)は、端的にいえば神の啓示はどのようなかたちで預言者(ムハンマド)に下ったか、その啓示が下ったとき、預言者はなぜそれが啓示であると了解できたのかを追求した論考だと思いますが、この問題、ある意味で、浄土仏教でいう「如来より賜はりたる信心」にも通じる部分があるのではないでしょうか。
具体的に、井筒氏の文章を読んでみましょう。
「「預言者」の妻アーイシャに遡る一つの有名な「聖伝集(ハディース)」がある。ある時、ある人がムハンマドに訊ねた、「神の使徒よ、啓示はどんなふうにして貴方に下るのですか」と。この問いにたいして、ムハンマドは、こう答えたという、「[啓示の下り方はいろいろだ]。ある場合には、それは鈴がジャラジャラいう音のように(mithla salsalati al-jaras)やって来る。私にとっては、これが一番苦しい啓示の下り方だ。やがて、鈴の音は私を放して遠ざかる。そのとき、ふと気がつくと、神が私に語ろうとしたことが、この鈴の音から私に了解されていたことを私は意識する。」
 この文章には、ある顕著な文法的特徴がある。すなわち、鈴の音が去ったとたん、ふと気がつくと、神のこころを「私は[すでに]了解していた(wa'aitu)のだ」というふうに、了解するという動詞が文法的に、いわゆる完了形で言われていることである。この文法的事実が何を示唆しているか、については、イブン・ハルドゥーンの鋭い洞察がある。第一に、「私は了解していた」という文の「了解」とは言語的了解である、ということを注意する必要がある。そして、それよりもっとはるかに重要なことは、この「言語的了解」の裏の意味として、「啓示」を実際に受けつつあった現場では、ムハンマドは、ただ奇妙な金属性の音を聞いていただけであって、有意味的なコトバは全然聞いていなかった、ということである。「啓示」体験の現場で、彼の耳に響いていたのは、意味のわからない不分明な音(dawi)だけ。だが、「啓示」が終了して、日常的意識のレベルに戻った瞬間、彼は、自分の聞いていた異様な音が、明瞭に分節された有意味語の連鎖であったことに、ふと気づくのである。
 ついでながら、「鈴のジャラジャラいう音のように」(mithla salsalati al-jaras)という表現は、実は、絶対に確実というわけではない。最後の語al-jaras(「鈴」)は、別の伝承ではal-jarsである。とすれば、ムハンマドの聞いたものは「鈴の音」ではなくて、「何やら低い、わけのわからぬ音」であったことになる。そのほか、「何か金属を叩く音」とも、「鳥の羽搏きのような音」とも伝えられている。が、いずれにしても根本的な意味は変わらない。要するに、「啓示」そのものは非言語的な音であり、それが消えたとたん、いわば自動的に言語記号に翻訳されている、ということである。」(上掲書36-7頁)


「鈴のジャラジャラいう音のように」というと、なにかとても即物的な感じがしますが、結局これは、浄土仏教でいう「本願の海鳴り」(大峯顯氏)にとても近い現象なのではないでしょうか。法然や親鸞が阿弥陀仏の本願(勅命)を聞いたとき、それはまず、意味がどうのこうのというより、ナムアミダブツナムアミダブツという音の連なり、ようするに「海鳴り」として聞こえた。しかしその海鳴りが聞こえたとき、法然や親鸞は、そこに阿弥陀仏からの呼びかけを感じ、その呼びかけに従おうと思ったということじゃないかと。ナムアミダブツという「音」に対する意味づけ(教理)は、ムハンマドの場合がそうであったように、あとから来るのではないかと私には思えるのです。

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:意識・認識・認識論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/24(木) 13:13:14|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

歴史上の真理とは

18世紀思想や和歌の話もさることながら、今回はいつもと少し趣向をかえて、日頃、歴史学あるいは歴史上の文献に接している身として、歴史上の真理というのをどのように考えているか、ちょっと記しておこうと思います。

   *    *    *

さて、ドイツの哲学者ライプニッツは、真理を次のように二つにわけます。
「真理にも二種類ある。思考の真理(verites de raisonnement)と事実の真理(verites de fait)である。思考の真理は必然的であってその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。」(ライプニッツ著作集第9巻~『モナドロジー』第33節、西谷裕作氏訳、工作舎)
この二分論は、通常次のように解されます。
「理性の真理(西谷氏の訳文では思考の真理)とは、『三角形の内角の和は二直角である』のように数学や論理学におけるア・プリオリな必然的真理であり、その反対はただちに論理的な矛盾を生む。それゆえ、これは矛盾律に支えられていると考えられる。もっとも、理性の真理は可能的本質の世界でのことであって、必ずしも現実存在には関わるものではない。他方、事実の真理は、可能性ではなくつねに現実存在に関わる。それは歴史的出来事や現実の世界におけるア・ポステリオリな偶然的真理である。これは理由律(充足理由律)によると言える。たとえばスピノザが、ハーグではなくレイデンで死んだとしてもそれは矛盾ではないが、ハーグで死んだことにも神の知恵と善性とが関わっている。」(山田弘明氏『真理の形而上学ーーデカルトとその時代』(世界思想社、2001年121-2頁)
ライプニッツによれば、事実の真理に関して、われわれは、理性の真理(思考の真理)と同様の確実性に到達することはなく、蓋然性のなかで議論をすすめるしかありません。私は、「歴史上の真理」というのは、一般的にいえばまさにライプニッツのいう事実の真理であり、その確実性はたかだか高い蓋然性を指すのではないかと考えています。「ある時代を正確に理解する」「ある出来事を正確に理解する」というのは、一見正当のようでも、これからすれば論理的に不可能な命題と位置づけざるをえないでしょう。
ただ歴史学が目指しているのが単に「ある時代の正確な記述」であるかといえば、それは必ずしもそうとはいえないのではないでしょうか。この問題は、今度は、厳密には「記述」の正確性・再現性もからんでくるのでややこしいのですが、私は、歴史学が目指しているのは(言葉のあやの問題のように思えるかもしれませんが)、「ある時代や出来事のより正確な記述」なのだろうと思います。別の言葉で言えば、歴史上の真理というのはどこまでいっても蓋然性のなかでの真理かもしれませんが、その蓋然性を高めていくという作業が歴史学なのだろうと思います。
ただ最近の歴史学(断定的にはいえませんが、思うに構造主義以降の歴史学)は、こうした真理論とは異なる真理論に依拠しているといえるような気もします。
それはつまり、「絶対確実な歴史的事実が存在する」ということを前提に、それを明らかにしていくのが歴史学なんだという素朴実在論的な考え方が構造主義によってくずされ、その時から、歴史学は史料解釈学におきかえられて、残存する史料からどれだけのことが論理的に帰結するかを記述する学問に変質しつつあるのではないかということです。
この変質を前提にしていえば、歴史学上の真実は、イデア的な歴史的実在とつきあわせて真偽を判断されるべきものではなく、個々の史料および史料の相互連関のなかで、史料と矛盾しないか検証されるべきものとなり、史料との連関という限定された枠のなかでは、事実との連関においては獲得できなかった確実性を獲得したということですね。これをライプニッツの真理論にもどして考えれば、歴史学の真理が、充足理由律上の真理から、矛盾律上の真理へとその審級を移動させたといえるのかもしれない。いずれにしても、歴史上の真理というのが、近年、その意味を変化させたのは事実だと思います(歴史学はそうした自己認識をもつ以前から本質的には史料解釈学だったのだといえなくもないとは思いますが、それを明確に自己認識しているかどうかは、学としての歴史学のあり方に大きく影響していると思います。少し前まで、歴史学という学問においても、「歴史的必然性」という概念が大手をふって歩いていたわけですから)。
以上述べたようなことが歴史学の矮小化なのかどうかは、また別に論ずべき問題だと思いますが。

   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。↓クリックよろしく♪
banner_01.gif

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/20(火) 14:16:29|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

18世紀末のとある道徳論

先週から、Mの道徳論を読んでいます。
この道徳論、1773年頃に書かれたのですが、出版は1784年。フランス革命の5年前です。当時の人たちは、どんな想いで、この道徳論を読んでいたんでしょうか。
ところで現代の眼でMの道徳論を読むと、Mが自然(自然状態)を手放しで肯定しているのでもなく、逆に社会状態や人間理性を全面的に信頼しているわけでもないところがおもしろいんですね。つまり、18世紀という時代に、感性(人間の自然な感覚)と理性のあいだでどちらをとるべきかという論争があったとすると、Mは、どちらもただしくないし、この議論は不毛だろうといっている。Mの議論のすすめ方、私にはゲーテの『ファウスト』なんかにつながるようにも思えるんですね。
以下に、Mの道徳論のなかからポイントとなるとおもわれる一節、引用しておきます(わかりにくい拙い訳でごめんなさい)。

    *   *   *

 私たちが善への傾向とともに生まれたといっても、また、私たちの社会的性質が公共の幸福のなかに個人の幸福を見出すよう、私たちを準備し、私たちを招くといっても、しかしながら、徳への傾向に危険なく身をまかせることができると信じないよう、また徳への傾向をあおりながら、道徳は美徳を増加・増大させることしかしなかったと信じないよう、用心しなくてはなりません。なぜでしょうか。なぜなら、自然はすべてをなし遂げてはいないからです。そして自然は私たちの理性になすべきことをゆだねたからです。その神秘的な叡智にまで入り込むことができないモチーフによって、人間を、理性(光明)が無謬で自由を濫用できない存在にすることを望まず、もしこうした表現が許されるならば、自然はその作品の素描しか行いませんでした。私たちにむかって自然は次のように語ります。「私はあなたたちにすべてなし遂げられた幸福を与えませんでした。しかし私は、あなたたちがこうした幸福を組み立てることのできるすべての道具をあなたたちに授けます。大地のみのりはあなたたちの生存に必要です。大地はそれを充分提供するでしょう。しかし私は労働によって大地を豊穣にする配慮をあなたたちの腕にゆだねます。平和、結合、友情、慈善、協和は幸福のための道具です。私はあなたたちの魂にそれらの貴重な種を捲きました。あなたたちに授けた社会的性質がそれらを育てるのです。そしてあなたたちの理性、最も崇高な知識へと自らを高めることが可能なこの知性に対し、私はあなたたちの繁栄という建造物を建てるに適したすべてのこうした素材を整理し、配置し、監督する配慮をゆだねます。」
 快楽の魅力によって私たちの魂を揺り動かし誘惑するすべての対象が、もしも私たちにつねに有益であったならば、またそれとは反対の結果によって私たちを尻込みさせるものが、もしも私たちにいつも有害であったならば、私たちはこの二つの印象に安全に身をゆだねていたことでしょう。しかし不幸なことに、私たちは偽りの快楽と偽りの苦に取り巻かれています。それらによって欺かれないために、私たちは熟慮し、反省し、比較し、どのような徴のもとに私たちがそれらの真の性格を認識するかを学ぶ必要があります。私たちの理性は感覚に警戒する習慣をつけなくてはなりません。また、比較するために過去を呼び起こしながら未来に向うときに、理性は、自分を酔わせたり誘惑したりする活動ではなく、理性を動かすことが必然的な活動しか情念にゆだねないようにしなくてはなりません。憂慮すべき反動にともなわれた快楽を跳ね返すために必要な勇気を私たちが獲得し、持続的な善を手に入れるために束の間の苦を露わにすることができるのは、この唯一の方法によってなのです。以上が私たちの運命です。臆病さがそれに抵抗することもありえます。しかし運命に従わなくてはなりません。もしこうした用心がその習俗を規則づけようとする個々の市民に不可欠であるとするならば、あなたがかくも愛し、また国家の一般的な命運を決定する政治には、さらにいかほどの用心が必要か判断してください。
 私たちを徳へと導くがゆえに私が有徳な情念と呼んだ社会的性質は、それ自身、ある種の規則のもとにおかれる必要があります。なぜなら、自然はそれらに限界を課したからです。もしこの社会的性質が限界を越えるならば、それらは徳であることをやめます。そこから諺風のこうした格言が生じます。「徳は自制を必要とする。過度でありはじめるとき人は賢者であることをやめる。」


   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。↓クリックよろしく♪
banner_01.gif

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/11(日) 11:46:23|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。