le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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鎌倉時代の足利氏の信仰からほのみえてくるもの

昨日は中世史の勉強会があり、足利氏の信仰に関するMさんの研究発表を聴いてきました。足利氏の信仰といっても、足利氏が政権をとってからの室町時代の話ではなく、鎌倉時代の足利氏の信仰についての話です。
これがけっこう難しくて、要するに、鎌倉時代の足利氏のほんとうの根拠地は足利だったのか鎌倉だったのかとからんできますし(足利にある足利氏の氏寺は密教寺院で、鎌倉で足利氏がバックアップしていた寺院は禅宗寺院)、最終的には、鎌倉幕府がたおれたあとで足利氏が政権をとれたのはなぜなのか、鎌倉時代の足利氏はどのような位置にあったのかともからんでくるんですね。
ご承知のように、足利氏は源氏の一族で、足利に根拠をもつようになるのはそれほど古い時代ではありません。八幡太郎義家の孫・義康が足利氏の祖とされていますが、この義康は、清盛、義朝(義康の従兄弟・為義の子)とならんで保元の乱に出陣したことが知られていますし、この時点では、義康と義朝の活動にそれほど大きな違いはなかったと考えられるのではないでしょうか(義康の父、義国が北関東に進出したのは、『金葉集』が編纂された白河院政末期~鳥羽院政期と考えられます)。ただ、義康が保元の乱の翌年に若死しているので、義康の子は、平治の乱やそれに続く平氏の全盛時代にはあまり大きな活動ができませんでした。やがて頼朝が平氏に反旗を翻すと、義康の三男・義兼はいち早く頼朝に従い、幕府のなかでも上位の御家人と位置づけられるようになります。
今回の発表は、その先、鎌倉時代に入ってからの足利氏の動き(信仰問題)なのですが、発表後の質疑応答をとおして明らかになったのは、宇都宮氏、小山氏、千葉氏のようなすでに自分の根拠地を固め、それと一体化した御家人と違い、足利氏は足利の地と完全には一体化しておらず、鎌倉住人といった様相が強かったのではないか(したがって足利にある足利氏の菩提寺も、手厚いバックアップをうけなかったのではないか)、ということです。
実は私は武士論は苦手で、以上の議論も完全に消化できたとはいえないのですが、たとえば平安末に武士の棟梁といわれた人たちは、地方に完全に土着した土豪的武士ではなく、地方と京都に根拠をもち、地方武士と朝廷をつなぐことができる半定住の人たちを指したのだと考えています。平安時代の末には、こういう武士の棟梁が多くいたというか、京都(朝廷)だけを根拠にできない下級の軍事貴族が、安定した根拠を求めて地方に進出し、すでに地方に一定の支配権を確立していた「武士」(例:宇都宮氏、小山氏、千葉氏)と関係を結んで地方に割り込むと同時に、京都とのパイプ役になっていたのではないかと考えるのですね。ですから、地方に完全に定住してしまうと「棟梁」にはなれないわけで、要するに、武士の棟梁というのは、ある意味でとても不安定な存在だったのだと思います。
このことは、たとえば義朝や頼朝を例にとるとわかりやすいと思うのですが、義朝や頼朝(さらには義経)にはほんとうの意味での根拠地はなく、特定の根拠地をもった地方武士と結ぶことではじめて力をふるうことができるわけです。
平安末というのはそんな時代で、清盛も武士の棟梁だったし、頼政も義経もみんな武士の棟梁になる可能性をもっていたのだと思います。
鎌倉幕府をどう定義するかというのはとても難しい問題なのですが、それを単純に朝廷との相関関係で「武士政権・組織」とのみとらえるだけではなく、平安末まではいろいろな有力者が武士の棟梁になる可能性をあったのに対し、こうした可能性を制度的に否定し、頼朝以外が棟梁になれないようにしたという、対武士的な一面があるのではないかと私は考えています(清盛は、突出した実力者で、他の軍事貴族が武士の棟梁になるということを想定していなかったため、幕府といった組織をつくる必要がなかったのではないでしょうか。つまり、清盛の政治構想と頼朝の政治構想の大きな相違は、対朝廷というより、対武士にあるともいえるのではないでしょうか)。
さて足利氏の問題にもどせば、出発した時点で足利義康はそうした武士の棟梁のひとりだったし、その活動の比重の多くが京都にもかかっていただろうと思います。それが、有力な棟梁にもなれず、かといって足利の地を完全に固めることもできないうちに幕府という制度ができ、棟梁になる芽はつぶされ、しかしながら足利の地も盤石ではなかったということが、足利にある足利氏の氏寺経営の問題からほのみえてくるというのが今回のMさんの発表の要点ではなかったかと考えています。
勉強会には、室町時代の足利氏等を研究しているC大のS先生もお見えになり、足利氏関係の文献史料の読み方など、丁寧にお教え下さったのが大変勉強になりました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/25(日) 16:24:58|
  2. 日本中世史
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日本史研究会で京都行き:その2

すぐ下にも書いたように、8日、9日と、京都女子大で開催された日本史研究会大会を聴講した。今回の大会の共通テーマは「歴史的環境と自己意識」。このテーマにそって、初日は全体会シンポジウム「中世仏教の国際環境」が、二日目は個別報告が行われた。

個人的に刺激的だったのは、初日の「中世仏教の国際環境」というシンポジウム。日本の政治や仏教界は、平安時代の末期に大きな転換期を迎えるが、この時期は、唐の滅亡など東アジアのさまざまな地域で王朝(国家)の交替が起こった時期でもあり、東アジア全体をとらえた大きな視点から日本仏教に生じた変化を見なおそうということで、上川通夫さんの「日本中世仏教の成立」、横内裕人さんの「自己認識としての顕密体制と<東アジア>」、古松崇志さんの「考古資料・石刻史料よりみた契丹(遼)の仏教」の三つの報告が行われた。
報告後の質疑応答のなかでは、平雅行さんの「中世日本を導く国家原理は、ほんらいさまざまな可能性が考えられたのであり(仏教、儒教、神道)、仏教はその一つにすぎなかった。ただ、仏教には中国中心主義を相対化するという側面があり、それゆえ、唐滅亡後の中国(宋)が儒教を中心に国家を編成していくのに対し、日本を含む同じ時期の周辺国家は、逆に仏教中心に国家を編成していったといえるのではないか」という発言がおもしろかった。
私も、上川さんと横内さんに不明の点をちょっと質問させていただいた。
シンポジウム終了後は七条の居酒屋に場所をかえて懇親会。この大会をめざして全国から集まった研究者同志が、改めて面識を深めた。日本史研究会にかぎらず、研究会というのは、報告もさることながらこの懇親会が実におもしろい。この日の懇親会には、報告者三人も顔を出し、シンポジウムの正式の席とはちょっと違ったくだけた感じで、ざっくばらんにさまざまな意見を交換し合った。私はというと、Sさんという気になる研究者が会場にいたので、彼に挨拶し、その研究レジュメを送ってもらうことにした。
二日目は、水谷千秋さんの「古代天皇と天命思想―七世紀を中心として― 」と宇佐見隆之さんの「中世末期地域流通と商業の変容」を聴講した。こちらは、私が関心をもって取り組んでいる分野ではないので、正直なところ、かなり難しい。
また大会会場には、歴史図書の販売コーナーも特設され、ここでさまざまな専門書が二割引で買える。私は、元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』(清文堂)、桜井好朗『日本の隠者』(塙書房)、中井真孝『法然絵伝を読む』(思文閣出版)、中尾良信『日本禅宗の伝説と歴史』(吉川弘文館)などを買い込んだ。

宇佐見さんの報告後、昼食をはさんで質疑応答やコメントが予定されていたが、私はここで大会を辞去し、少し京都市内を回ることとした。
まず足を運んだのが、京都女子大から徒歩で10分ほどのところにある三十三間堂(蓮華王院)。実は、ここは、前日も大会に行く直前にちょっと訪問したのだが、何度観てもすごいとしかいいようがない。蓮華王院は、平安時代の末期に後白河院の命によって創建された寺院(現在の三十三間堂はその一部)で、後白河院は、この蓮華王院を自己の宝蔵と位置づけ、絵巻に代表されるさまざまな宝物を収集する大コレクターだった。頼朝が上洛した際に後白河院がそのコレクションを見せつけようとしたところ、後白河院の世界に引きずり込まれまいとする頼朝が、それをやんわり拒否したというエピソードも伝えられている。その後、後白河院のコレクションの大半は散逸してしまったが、現在の三十三間堂に残る千一体の千手観音は、後白河院のコレクションにかけた情熱を、数々の戦火をくぐりぬけて今まで伝えている。だから三十三間堂は、一体一体の観音像を鑑賞する場所などではなく、私にすれば、それを千一体も作らせた(集めた)という後白河院の「狂気」を鑑賞する場所なのだ。
三十三間堂の次にどこに行くかちょっと迷ったが、ここから近いし、まだ一度しか行ったことのない東福寺を訪問することにした。
東福寺は洛中の名所から少し離れているので、大寺院のわりには訪れる人が少ない。鎌倉時代中期に摂関として絶大な権力をふるった九条道家が創建した禅宗寺院だ。ただここは、火災などのために創建当時の建物がほとんど残っていないのだが、広大な敷地に配された巨大な堂や門の雰囲気は、道家の栄華をしのぶに充分だ。また創建当時は大仏もまつられていたというが、今その大仏はなく、だから、ここは三十三間堂とはまったく雰囲気が違う。「空間」が東福寺の主役だ。
さて、三十三間堂、東福寺と、京都市内を南下した後は、ついでに宇治の平等院を訪問することにした。宇治には東福寺から京阪電車でいけるので、交通の便もよい。宇治に行くのはこれで三度目だが、実は私は鳳凰堂のなかにはいったことがない。三度目の正直を狙ってはいるのだが、東福寺を出るときに三時をまわっているのが気がかりだ。ままよ、と京阪電車に乗り込む。
さて、結論からいうと、今回も鳳凰堂には入れなかった。四時少し前に平等院に着いたのだが、鳳凰堂への入場はもう締め切りという。やむなく庭から鳳凰堂を眺めた。今みてきたばかりの三十三間堂、東福寺と比較すると、平等院はいかにもこじんまりとしていて(創建当時は、平等院を中心として周辺に多くの堂が立ち並んでいたと考えられるが)、それでいて鑑賞(崇拝)の対象(阿弥陀仏)がきちんと中心に据えてある。寺院のあり方が蓮華王院や東福寺とはまるで違う。ある意味では、最も寺院らしい寺院だ。
いずれにしても、この日回った寺院は、平安後期から鎌倉中期までいちおうそれぞれの時代を代表する人物がたてた寺院であり、宗旨も、浄土信仰、密教、禅と異なっている。日本史研究会のシンポジウムを思いやりながら、時代の変換をこうして具体的に凝縮してみることができたことに満足した。

平等院を後にして宇治川の川沿いを少し散歩。宇治川の流れをしばらくみていると、これは『源氏物語』~宇治十帖そのままできないかという気がしてくる。浮舟が吸い込まれそうになったのはこのとうとうとした流れだったとのだと、最後は仏教を少しはなれて『源氏物語』の世界に思いをはせた。
夕暮れの宇治を後にして、再び京阪電車に乗り込んで四条の繁華街に出、少し土産を買い込んでから新幹線に飛び乗った。短いが充実した京都行だった。
  1. 2005/10/10(月) 10:08:35|
  2. 日本中世史
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日本史研究会で京都行き:その1

明日(8日)、明後日(9日)と京都女子大で開催される日本史研究会大会に行ってきます。
この間、私は、当ブログへアクセスできなくなると思いますが、ご了解ください。
大会報告はいずれも刺激的なものばかりですが、なかでも上川通夫さんの「日本中世仏教の成立」に大いに興味を惹かれています。
  1. 2005/10/07(金) 13:54:33|
  2. 日本中世史
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石塔からみる異文化交流

今日(11日)は國學院大学で行われたシンポジウム「石塔形式の将来にみる異文化交流ーー中世の宝篋印塔を中心として」に行った。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)というのは、中国で生まれ、平安末期ごろから日本でも数多くつくられるようになった仏教宝塔の一種。この宝篋印塔について岡本智子さん(大阪府文化財センター)、張穀捷さん(東京芸術大学客員研究員)、山川均さん(大和郡山市教育委員会)の三人が、さまざまな角度から最新の研究成果を報告した。
なかでも張穀捷さんは、上海の同済大学から東京芸術大学に留学している研究者で、難しい日本の仏典などを丹念に読み、日本語で報告された熱意には頭がさがった。
宝篋印塔の研究は現在進行形で、鎌倉時代の異文化(日宋)交流という視点から興味深いものがあるが、国内の問題にしぼっても、その形体や建造された経緯から、仏教界と政治のからみなどさまざまな歴史的事実が浮かびあがってくる。どうしてもテクスト読解中心になりがちな中世思想の研究が、宝篋印塔というモノの分析をとおして明らかになってくるのが、とてもおもしろいと思った。
  1. 2005/09/11(日) 22:54:13|
  2. 日本中世史
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慶應大学で中世史の勉強会

今日(27日)は中世史の勉強会。慶應大学へ行き、大学院生Oさんの研究発表を聴いた。発表の内容は、平安時代後半の東大寺の荘園成立にかかわるもの。荘園の成立と朝廷内の人事を結び付けた意欲的研究で、おもしろく聴いた。
少し前までの日本史では、荘園が本格的に展開する時期と摂関政治の全盛時代(道長・頼通の時代)はストレートに結び付けられ、摂関の繁栄は荘園の集積によると考えられていた。現在、こうした考えはしりぞけられ、荘園は、むしろ平安時代末期の白河・鳥羽院政期に拡大していったとされるのだが、Oさんの研究は、それでは道長・頼通の時代の荘園形成の実体はどのようなものであったかを東大寺領の荘園を例に検証したものだった。

   *    *    *

三田の慶應大学のキャンパス、私はきょうはじめて訪問したが、クラシックな感じがとても気に入ってしまった。
  1. 2005/08/28(日) 01:27:12|
  2. 日本中世史
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