le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『抵抗』『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』を観て

ロベール・ブレッソンの映画『抵抗』『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』をビデオでたて続けに観た。これによって、ブレッソンに対する自分なりのイメージがかなり明確になったので、とりあえずそれを簡単に記してみたい。

これまでも浅沼圭司氏はじめさまざまな人の見解を引用しながら確認してきたように、ブレッソン映画には、さまざまな特徴があり、今回、それらを具体的に確認できたということは大きいが、実際に観てみると、自分にとって一番大きなブレッソン映画の特徴は、ストーリーを要約できないということであった。
しかしそれはブレッソンの映画が複雑だとか、人物関係が入り組んでいるとかいうことを意味しない。そうした観点からいうならば、ブレッソン映画の構造は非常に簡潔で、映画のなかで時間が逆転することもほとんどなければ、回想シーンが挿入されるといったこともない。できごとは、ほぼおこった順番にスクリーンに提示されていく。
したがって、たとえば『抵抗』は「死刑囚は逃亡した(この映画の原題)」という「物語」をもち、『ジャンヌ・ダルク裁判』は「ジャンヌ・ダルクの裁判」という「物語」をもっているとはいえるのだが、それ以上のストーリーを語るとなるととたんに困惑せざるをえない。その困難が一番大きなのは『スリ』で、この映画のストーリーはまず語ることができない(参考までに、浅沼圭司氏は『スリ』の物語を次のように要約している。「主人公ミシエル(Michel)がすりをはたらき、逮捕され、刑務所にいれられるーー、ただそれだけだ」<『ロベール・ブレッソン研究ーーシネマの否定』、水声社、135頁>。この映画の「ストーリー」を要約しようとすれば、私もこのとおりいうしかない。しかし、これがはたして「ストーリー」といえるだろうか?)。
ちなみに、ブレッソンの初期作品に『ブーローニュの森の婦人たち』(1945年)があるが、これは『百科全書』の編集者として知られる18世紀の思想家ディドロの小説『運命論者ジャックとその主人』の一部を映画化したものだということで、このディドロの小説というのが、まずストーリーを要約できない。初期にこの小説に注目しているという事実は、ストーリーないし物語に対するブレッソンの関心がどの辺にあるかを示していると思う。
さて実は直前の記事で、私が『抵抗』を<音楽的>だとしたのも、整理して考えてみるとこの点とからむ問題で、映画そのものが、たとえばソナタ形式の楽曲のように、最初に主題を提示し、それが明確に打ち出されると、今度は第二主題が登場し、ついで第一主題と第二主題がからみあいながら発展していくといった構造(流れ)はもつが、いわゆる「物語」にあるような結末もしくは(弁証法的な)結論を、ブレッソン映画はもたない。したがって当然のことながら、ストーリー(物語)から導き出されるメッセージ性のようなものも、ブレッソン映画はもたない。ブレッソン映画は、その終わりにむけてただ流れていく。映画というものは「物語」を視覚的に再現する仕掛けであると考える人にとって、ブレッソン映画は、何をいおうとしているかわからない映画ということになってしまう。
ところで、日本で最初に公開されたブレッソン映画は『抵抗』だが、この映画のオリジナル・タイトルは「死刑囚は逃亡した、または風は吹きたいところに吹く Un condamne a mort s'est echappe ou le vent souffle ou il veut」であり、困惑した封切会社が、この逃亡行為にドイツ軍への抵抗というメッセージ性を読み込み、日本タイトルとしたものであろう。しかし、実際にみる『死刑囚は逃亡した』という作品には、そうした政治性・社会性は皆無であり、映画はひたすらその脱獄のプロセスだけを追う(しかも、タイトルが過去形になっているので、観客はその脱獄が成功するということを情報としてあらかじめ知らされていることになる。したがって、主人公の行為が成功するか失敗するかという意味での「スリル」は、この映画では半減されている)。主人公のフォンテーヌがなぜ逮捕されたのか、彼はどのような経歴、思想をもつか、その家族構成はどうなっているか、等の「物語」の発生源を映画は語らない。映画が提示するのは、フォンテーヌが今何をしているか(しようとしているか)だけである。回想シーンがまったくなく、映画は、逮捕されてからのフォンテーヌの行動を順に追うだけなので、登場人物も極めて少ない。したがって、いわゆる「ドラマ」が生じ、それをめぐって「ストーリー」が展開していく余地はほとんどない。この意味で、平板といってしまえばこれ以上平板な映画はないともいえるのだが、こうした観点からいえば、ブレッソン映画は、つねに極めて平板である(同じ事実をプラス方向からみたとき、ブレッソン映画は、つねに極めて「禁欲的」とされる)。あるいは、文字どおり風のような映画といえるだろうか。それを手にとどめようとしてもむなしい。
ところで、第二次大戦下の被占領フランスで、ドイツ軍に抵抗する(囚人が脱走する)という行為は、もしかすると(もしかしなくても)社会的・倫理的にプラスの意味合いをもたされてしまうかもしれない。そしてブレッソン映画はそうしたプラスの倫理観を描こうとした映画という風に理解できるかもしれない。そこで、そうしたプラスの倫理観(社会道徳)を徹底的に否定したのが次作の『スリ』といえよう。ある青年が他者の財布をスリとるプロセスを執拗に描くこの映画は、映画に社会的倫理観の肯定を求めようとする人の顔を背けさせるかもしれない。ただそうであるがゆえに、『スリ』という作品をとおして、『死刑囚は逃亡した』という作品におけるブレッソンの関心は、逃亡行為そのものであって、それが社会通念としてどのような意味をもつかは、どうでもよいことだったのだということが明らかになってくると思う。
ついでながら、この『スリ』という映画で、ブレッソンがスリという行為を単純に犯罪(悪)としてはとらえていないと強く感じたのは、主人公のスリ行為のなかに、競馬場を舞台にしたものが複数回あるという事実からだ。競馬で得たお金、もしくは競馬に使うお金というのは、普通に考えれば労働の成果(もしくはいわゆる「生活費」)ではなく、運命の巡り合わせとしかいいようがないお金ではないかと思うが、それをつきつめていくと、競馬場を舞台としたスリ行為が、個人財産・個人所得の剽窃がどうかを断定するのはかなり難しいということになってくると思う(ちなみに、『スリ』という映画と神の存在の問題の関わり合いは、競馬で得たお金が財産なのか、それをスリとることが犯罪なのかを考えたときに出てくるだろう。風は吹きたいところに吹く!)。
いずれにしても、『抵抗』も『スリ』も、ひたすら主人公の行動を描いた映画なのだが、一転して、『ジャンヌ・ダルク裁判』は、古い裁判記録の再現という性格上、「言葉」を中心に組み立てられた映画である。言葉の洪水といってもいい。極端にセリフの少ない『抵抗』や『スリ』を観たあとで『ジャンヌ・ダルク裁判』を観ると、そのセリフの多さにまず物理的にとまどうのだが、しだいにこれは、行為(アクション)として言葉を扱った映画ではないかと思えてきた。
つまり、裁判におけるジャンヌの言葉が裁判官や聴衆に何かを訴えかけ、そのことが裁判結果に反映されるというのであれば、これは「裁判ドラマ」、セリフ劇といっていいと思うのだが、裁判のなかのジャンヌの言葉が裁判官を動かすことはなく、審理(言葉のやりとり)を無視して、裁判はひたすらあらかじめ定められている結論(ジャンヌの火刑)にむかってすすんでいく。したがって、この作品がジャンヌ・ダルクの裁判を描いているのは事実であるけれども、そのプロセスで誰かに共感を呼び起こすというような意味での心理的な展開やドラマはなく、それゆえ、ストーリーを要約することは、結果的になにも意味をもたないのである。とすると、この『ジャンヌ・ダルク裁判』、セリフは多いがセリフ劇ではないということになってしまう。

ブレッソン映画について語りたいこと、語らなくてはならないことはまだまだ多いが、とりあえずは、彼の作品における物語性の欠如を指摘しておこう。

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テーマ:フランス映画 - ジャンル:映画

  1. 2006/04/26(水) 11:12:31|
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シネマの否定、演奏の否定、演劇の否定、そして…

この辺で、このブログにアクセスしてくださっているみなさんのために、3月21日付けの映画『バルタザールどこへ行く』関連の記事(「ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 1」)にはじまった一連のエントリーの方向性を少し整理しておこうと思う。

書き込みをはじめた当初から、私には、これを映画だけの記事にはせず、指揮者オットー・クレンペラーの演奏の問題とからめて考えてみたいという意図はあったのだが、それが明確になったのは、浅沼圭司氏の著作『ロベール・ブレッソン研究』(水声社、1999年)が「シネマの否定」というサブタイトルをもつことを知ってからだった。
私はこのキーワードを「演奏(音楽解釈)の否定」と読み替えてクレンペラー論に導入し、そのうえで、ブレッソンの「シネマの否定」とクレンペラーの「演奏の否定」が行き着く先を探ってみたいと考えた(「ブレッソンとクレンペラーの対位法」)。
このあたりの流れは、これまでの記事でなんとなく理解して頂けているのではないかと思っているのだが、ブレッソンとクレンペラーにおける「否定」について考えているうちに、この問題は実はポツドール(三浦大輔)論とも結びつくもので、その場合ポツドールは、「演劇の否定」として捉えられるべきものだと気がついた。実際ポツドールの舞台は、ブレッソンの映画と比較したときに理解しやすい部分が多いと思う(たとえば、尾崎宏次氏が指摘する「演技の一回性」の問題は、ポツドールの舞台でも大きな問題となる。それにどう対処するかという結論は、ブレッソンとポツドールでは大きく異なるのだが…)。
さて、私の構想はここから急旋回して、議論の全体を五部構成で考えているのだが(もちろん、その第一部から第三部までは、「シネマの否定」「演奏の否定」「演劇の否定」がしめる)、その第四部と第五部の内容については、何が出てくるかこれからのお楽しみとしばらくふせて、ブレッソン、クレンペラー、ポツドールの読解をすすめながら自分の中でもう少し構想を発酵させることにしたいと思う。ただ、そのヒントだけをここで簡単に記しておくと、浅沼圭司氏の対談の紹介ではじまった一連の記事は、浅沼圭司氏の著作の分析で終えることを考えている。

さて、肝心のブレッソン映画だが、私には基本的に部屋でビデオを観るという習慣がないため、どうやったら作品が観れるのか思い浮かばず、これまで記憶をたどったり、資料を紹介するというかたちで議論を進めてきた。それが、先日安いビデオ&DVDプレーヤーを購入したのをきっかけに、映像資料を参照するのが容易になり、これから先の議論は、それらをも参照しながら進めていきたいと思う。

ということで、昨日、その第一弾として『抵抗』(1956年)をビデオで観た。この作品、かつてどこかのシネマテークで一度観ているのだが、久しぶりに再見して、やはりすばらしい作品だと思った。荻昌弘氏が『ジャンヌ・ダルク裁判』の作品研究で指摘しているような映像的特徴(「カメラは、ほとんど、歩むことも、首をふるさえも、やめる」)は、この作品ですでに明確に打ち出されており、かつ、目覚ましい効果をあげている。『抵抗』に対する私の細かい考え方は、別記事に詳しく記してみたいと考えているが、この作品を観てすぐに頭に浮かんできた感想は、これはとても<音楽的>な映画であるということ。その<音楽的>という言葉も、このブログではクレンペラーの音楽演奏をブレッソンの映画と同時進行で分析しているため、自己遡及的でほんらいは使用すべきでないのだが、にもかかわらず、『抵抗』という映画は<音楽的>だと思った。それはどういうことなのかというと、要するに、『抵抗』という作品は、通常の映画のように人間同士の葛藤(ドラマ)としては進行せず、一つの場面と次の場面が結びつく緊張感、もしくはある種の流れを主軸として構成されているということ。そうした流れ主軸の展開を、私は<音楽的>と言ってみたいのである。
また『抵抗』に続いては、これから、『スリ』(1959年)、『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962年)も観ることを予定しており、毎日新しい記事をアップするのは難しいとは思うが、それらの感想も可能な限り記していきたい。

もちろん、これら一連の話題に関して、部分的なこと、全体的なこと、さまざまなご意見、ご感想、トラックバックも大歓迎♪

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テーマ:異文化コミュニケーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/04/22(土) 12:14:22|
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尾崎宏次氏の『ジャンヌ・ダルク裁判』分析

ロベール・ブレッソン作品『ジャンヌ・ダルク裁判』のプログラムである『アートシアター』72号では、演劇研究者・尾崎宏次氏も、ブレッソンが素人を起用して映画をつくるのはなぜかについて、非常に興味深いコメントを執筆している。比較的短い文章なので、以下、全文を引用・紹介する。

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演技の一回性 尾崎宏次氏

 ジャンヌ・ダルクほど有名な人物を、そしてこの裁判ほどポピュラーな事件を、まったく既成の俳優からはなれてつくったのはなぜだろうか。私はこの秀抜な映画をみて、ブレッソンという監督のなかにある、いってみれば、表現者として持っている複眼のようなものを考えた。ごくつづめて言ってしまえば、映画にでてくる素人たちがここに残したものの高さは、ねりにねった技術をもっている狂言師が残すものと、じつによく似ていた。
 これはいったいどういうことなのであろうか。一応の映画についての常識を通ったうえで、どうも、演技の一回性ということがきわめて整然とこの人のなかにたくわえられているように思う。それは、リアリズムにまつわりついている類型的な描写みたいなものをとりのぞかなければならないという、一種の覚悟のようにも見受けられるのである。
 裁判だけを撮る、しかも、この裁判には弁護ということがない、欠けている。そこで、裁判とはいうものの、裁くものと裁かれるものしかいない。そのうえ、証拠は抽象的でだれにもつかみだせない神の実話だから、しぼっていくと、ごく単純化された「対話」なのである。法廷と石廊下と牢獄だけが、なんどもくりかえされるけれども、そこにしか「対話」はないのである。対話は、それが通じあわないからはげしく高揚するのであって、通じあうためのものではない。ここに劇の発生がある。
 素人がブレッソンにとって必要欠くべからざる「俳優」でありうるのは、そういう場においてである。ストーリイの上を滑っていくためではない。ということは、この監督の頭のなかには、たぶん、人間がそういう場に立ったらかならず演じうる可能性をだれでも一回ははらんでいる、という考え方があるにちがいない。それは、演技をくりかえすということとはちがう。くりかえされぬ「場」、ここでは裁きである。この場がくりかえされぬものとなるために、映画はできあがったら、もう二度とくりかえされない、という条件とぴったり合っているのである。この両方の支柱のうえで、素人が必要になっている。
 よく言われることだが、芝居やオペラで人物が死ぬときには、ずいぶん大げさなまねをしているのであるが、それでも充分に観客を納得させることができるのは、それが様式化されているからである。この様式は映画が拒否する。しかし映画は無様式ではない。ブレッソンの映画様式は、この拒否をすこぶる潔白に拒否としてもつことからはじまっているのだと思う。
 そこで、私に興味があるのは、描写癖の削除ということもあるが、演技の一回性をたしかに手中のものとするためには、この裁判のような二者対立の矛盾が要るのである、ということである。矛盾は解決されるどころか、一本の黒く焼けた棒になって、そのまま残るだけの話である。そこで、矛盾は私たちの内面の問題になってくる。つまり、素人がはらむ表現の可能性というものは、そういう矛盾の一方にじぶんが立つということであって、だから、ある意味でいうと、俳優が失った不安を、素人は持ちうるということになるのかもしれない。これはきわめて挑戦的なことである。
 この一回性を私たちがスクリーンを通して追体験すると、映画のジャンヌ・ダルクは、けっして歴史は事件であるなどとみていないことが、判然としてくると思う。私が合せた焦点はそこにある。


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荻昌弘氏の作品分析と尾崎宏次氏のコメントから、『ジャンヌ・ダルク裁判』という映画の構造がかなり明確になってきたのだが、それによれば、この作品は英雄ジャンヌ・ダルクの一生を描いた伝記映画ではなく、文字通り、「裁判」を描いた映画であるということ、そしてその裁判とは、おそらく神学論争のようなものであろうということ(見神体験の普遍化・論証)だ。
ブレッソン映画の系譜のなかで、今までこの作品はうまく位置づけようがなかったのだが、これによってようやくブレッソンが『ジャンヌ・ダルク裁判』を撮った理由がほのみえてきたような気がする。

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テーマ:名作映画 - ジャンル:映画

  1. 2006/04/20(木) 11:24:39|
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荻昌弘氏の『ジャンヌ・ダルク裁判』分析

昨日神田をau hasard(行きあたりばったり)にふらついていたところ、ロベール・ブレッソン『ジャンヌダルク裁判』のプログラム『アートシアター』72号(1969年発行)を発見した。この号は、私が『バルタザールどこへ行く』のプログラム(『アートシアター』76号、1970年発行)を買い求めた際すでに絶版となっていたもので、それ以来、実に30数年ぶりの発見!である。
資料的に非常に貴重なもので、以下、この号から、巻頭に掲載された荻昌弘氏の作品研究の一部を抜き出して紹介したい。荻氏の研究は、『ジャンヌ・ダルク裁判』という作品をその技法と関連づけながら分析したもので、今はじめて読んで、映画の作品分析としての質の高さに感心した(ブレッソン映画の質の高さが、こうしたすぐれた作品分析を呼ぶということでもあろう)。すでに紹介済みの『バルタザールどこへ行く』についての浅沼圭司氏と品田雄吉氏の対談と合わせ、ブレッソン映画の特質がよくおわかり頂けるのではないかと思う。
(残念ながら、私は『ジャンヌ・ダルク裁判』未見。DVDも絶版で購入不可という。とりあえずは、こうした作品分析から『ジャンヌダルク裁判』に迫るしか手がなさそうだ。)

bresson-jeanne.jpg


作品研究 ジャンヌ・ダルク裁判(抜粋) 荻昌弘氏

 強く信念に生きる人間が、一筋の行為と思想をつらぬき通してゆく潔癖な純粋感は、つねに、ロベール・ブレッソン映画の、根底をなす精神である。
 「田舎司祭の日記」は病魔と中傷に堪えぬいて、魂の救済に使命をみいだしつづける青年司祭の、純白の日記であった。「抵抗」(56)では、対独レジスタンスをみずからのの使命と思いさだめたフランスの青年将校が、逮捕直後から黙々と独房のドアを削りつづけ、誰の命令でも誘いでもなく、ひとりの信念と判断で脱獄を実践してゆく。「スリ」(59)は、極度の潔癖な洗練を必要とするこの職業の技法的緊張を、徹底的な局部のつみ重ねで凝視した映画であった。ロベール・ブレッソン作品にあっては、主人公のこのような無垢の純粋感が、それを映像に凝縮してゆく作者自身の文体の簡潔さと完全に一致することによって、極度に夾雑物を蒸留しきった、独自の、白木のようなシンプリシティがうみだされるのである。
 そのブレッソン作品のなかでも、1962年の黒白スタンダード作品「ジャンヌ・ダルク裁判」は、簡潔のうちにも簡潔な秀作、と呼ばなければならないものだ。ここには、中世、絶対の権力であったカソリック教会に向って、あくまで、「自分は神の声をきいた」と”われ”の目ざめを言い張りつづける一人の少女、その少女の使命確信とそこへいたる人間的苦悩が、いっさいの余分な属性を切り捨てた形で、抽出される。おそらく70余年の映画史中、劇場用に製作されたフィーチュアで、これほど簡素な統一体へ、いっさいのぜい肉と湿気をしぼりあげ、削りぬいた劇映画はなかったのではあるまいか、と思える一時間五分である。

(中略)

 ロベール・ブレッソンは、処女作「罪の天使」(43)いらい、一作が一作ごとに、環境描写を、その映像から駆逐しつづけてきた、といわれる。その「剰余の排除」は、端的なクローズアップ芸術であった。「スリ」のあとをうけるこの「ジャンヌ・ダルク裁判」にいたって、ほとんど極限に達してしまう。局部の微細な凝視のつみあげ、が美学の基盤となっている点は、これが、「抵抗」や「スリ」と、少しも変わっていない、彼独自の特質である。ここでは、例によってカメラは、ほとんど歩むことも、首をふることさえも、やめる。移動撮影は、刑場へ運ばれるジャンヌの素足の歩み、そのほかわずかに見られる程度である。パンニングは、ジャンヌが独房へ戻り、人間的動揺と弛緩をとり戻す際、ごくしぜんに視線の動きなどにつれて行われるにすぎない。あとは徹底したフィックスショット。その硬質なモンタージュは、ただ、ヒロインが入廷するその間際だけ、ディゾルヴで和らげられるのみである。
 カメラの首が固定しているだけではない。ここでは、特に法廷を凝視する場合、カメラは、定位した人物に対する位置から角度まで固着させてしまう。判事に証言(答弁)をつづけるジャンヌは、つねに、斜右前からだけ、不動のカメラ位置でキャッチされる。裁判官たちも、陪席の僧侶も、傍聴者も、同様のフィックスである。右前から、とらえられたういういしい素人娘、フロランス・カレのジャンヌは、そのカメラの固定によって、いいようなく確信にみちみちて見え、この少女が全心全身に安定してもちつづけた慈愛を表現しつくす。そして判事の場合は、聖書のせまい解釈から故意に一歩も出ようとしない、頑なな教条主義を。
 特に重要な独自の文体は、この映画が全篇、たった一ショットもの「全景」も「遠景」も、そして人物の「大写し」も持たぬことであった。法廷の全景すらない。独房や刑場の、ひきもない。ブレッソンは、1時間5分のほとんどを、徹底的に、動きのない、ミディアム・ショットのつみ重ねだけで押通すのである。たえずジャンヌは、ミディアムで入廷し、ミディアムで毅然と判官たちの難問をきりぬけつづける。

(中略)

 そしてその正論の少女は、一日の訊問を不動の姿勢で胸張って耐えぬくと、独房のベッドで、涙に乱れる。迫ってくる処刑。近づかない救い。映画は、彼女の、この凛然たる法廷と、涙の独房とのつきることのない繰返しをループしてゆく。すべてが定位置の、同じリズムでおこなわれるこの繰返しは、映画に、さながらカノンのような、堅固な構築性をうみだしてゆくだろう。そして、その構築のはてにあるものーーそれこそがブレッソンの作品をつらぬく、いわゆる、”どうしても避けられない結末を待つ、焦慮のサスペンス”なのである。「田舎司祭の日記」を、そして「抵抗」を「スリ」を、禁欲的なまでにするどくひきしめたサスペンスフルなドラマ的前進感が、ここでも、一見まったく粘着力をもたぬショットを、目にみえぬ磁性で結びつけ、悲劇のクライマックスへ向って集約する。(以下省略)


【参照】ディゾルヴ(多重露出)[週刊シネママガジンサイト内]

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  1. 2006/04/19(水) 13:46:28|
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私のブレッソン体験

ブレッソンとクレンペラーの対位法を書き継ぐ前に、私自身のブレッソン観・ブレッソン体験を少し書いておいた方がよさそうに思えてきた。浅沼圭司氏と品田雄吉氏のブレッソンをめぐる言説をクレンペラーに関する言説として読み替えるという作業そのものはさほど困難ではないのだが、その作業を機械的にすすめることがどれほど意味のあることかと自分でも疑問に感じられ、その疑問を解決するためには、自分自身のブレッソン感を書き、浅沼・品田対談を自分なりに肉付けしておくことが必要な気がしてきたからだ。

さて、私の高校生~大学生時代、家庭用ビデオというものは存在せず、テレビで放映される映画も限られていたので、観ることができる映画は非常に限定されていた。それでも東京に出て来ると、名画座あり、フィルム・センターありで、ようやくさまざまな過去の名作を観ることができるようになった。
それでもブレッソン作品の上映はない。そうしたなかで岩波ホールのエキプ・ド・シネマが発足し、その最初期の上映作品のなかにブレッソンの『少女ムシェット』が含まれていた。私はもどかしい思いで岩波ホールに行き、ようやく観ることがブレッソン作品『少女ムシェット』に非常に感動した。個人的には、『少女ムシェット』は、その後観た『バルタザールどこへ行く』とならぶ甲乙つけがたい傑作である。
ちなみに、『少女ムシェット』が公開された1974年は、ヨーロッパ映画の個性的傑作が数多く公開された充実した年だった。参考までに、この年のキネマ旬報ベスト10をあげておこう。
1位『フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ)、2位『叫びとささやき』(イングマル・ベルイマン)、3位『アメリカの夜』(フランソワ・トリュフォー)、4位『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『ペーパー・ムーン』(ピーター・ボグダノヴィッチ)、6位『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル)、7位『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ノーマン・ジュイソン)、8位『黒い砂漠』(フランチェスコ・ロージ)、9位『デリンジャー』(ジョン・ミリアス)、10位『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン)
ブレッソンの『少女ムシェット』は、またもや批評家からも無視されているが、滋野辰彦氏がこの年のベスト1に推した。
私自身はというと、前年の暮に試写会で観たレネの『ミュリエル』にまず大感激して、翌年のベスト1はこれでいこうと思っていたところ、正月早々ベルイマンの『叫びとささやき』が公開されてどちらかをトップにするか迷いだしていた。ところが5月にはブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が公開され、この自在な作法はレネ、ベルイマンをも上回ると、脱帽した。レネ、ベルイマンが、ある意味で私が想定していた常識のなかで映画をつくり、その範囲のなかでの「映画的」感慨だったとすると、ブニュエルはもう、そうした「映画」としての常識を完全に覆していたのである。しかも、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』を観ればすぐにわかるのだが、そうしたブニュエルの破格の映画作法(スタイル)は、この映画をとおして示されるブニュエルの人間観と直結するものであり、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』という映画は、その語り口なしには意味をもたない(つまり、ブニュエルの人間の見方・とらえ方が破格だとすれば、それを他者に伝達するつたえ方・表現方法も破格だった。逆にいえば、表現方法の破格さからもブニュエルの人間把握の破格さがわかる。いや、そうした表現方法なしにオーソドックスな方法<=枠組>でその人間観が表現されたとしたら、結局われわれは、そうした人間観を既存の月並みな枠組のなかに組み入れ、既存の枠組のなかで位置づけてしまうだけだろう。だから私は、このユニークな作品を『ミュリエル』よりも『叫びとささやき』よりも高く評価する)。
そうしたことから、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』こそ数年に一度の傑作と考えていたところ、9月に『少女ムシェット』が公開され、私はまたもや驚天動地した。ブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が、映画の常識を覆すために考えられるありとあらゆる手段を駆使していたのに対し、ブレッソンは、(一見したところ)そうした目だったわざを何もつかわずに、いや、わざをつかわないことで映画の常識を覆してみせたのである。高校生時代からどのような作家かといろいろ想像し、期待をふくらましていたブレッソンが想像をはるかに上回る作家であったことに、私は完全に圧倒された。

   *    *    *

さて今、ビデオやDVDでブレッソン映画を確認しながらこの記事を書ければ、私の個人的なヨタ話よりよほどましなのだが、DVDは無し、ビデオは故障という悲惨な状況なので、記憶のなかから思い出を引き出して、ブレッソン作品について書いてみる。
浅沼・品田対談のなかでは、ブレッソンのスタイルのことがまず問題にされているが、実際に『少女ムシェット』を観てまず最初に見事と思ったのも、このブレッソン独自のスタイルだった。
一口にブレッソンのスタイルといってもいろいろな特徴はあるのだが、最も有名で顕著なのは(そして私にもすぐ目に付いたのは)、全身や上半身のショット、顔(表情)のクローズ・アップをほとんど行わず、たとえば、誰かが歩いているといえば足、モノをつくっているといえば手、何かを見ているといえば目という具合に、人間の身体の一部だけを写したショットが非常に多いこと。これがブレッソン的な「明晰さ」に繋がると同時に、映画に強い緊張を生み出していた。
たとえば、ある人間がとあるモノに近づいてそれを手に取るといったシーンで、通常ならばカメラが登場人物と一定の距離をおいておかれ、その人物の全身を映し出しながら、画面の中で人物を動かし(演出し)その人間にモノを手に取る仕草をさせるのに対し、ブレッソンは、まずその人物の足を写しだし(歩く)、次に目のクローズ・アップ(モノを見つける)に切り替え、続いてモノをつかんでいる手のクローズ・アップに移る。この結果、われわれは、画面に映し出されている登場人物の意志とはかかわりなく、モノがある人の手に取られるというシーン(そのもの)に直面する。通常の映画のようにこれをワン・ショットにおさめると、どうしても、あるモノを手にとるという動作の背景にその人物の何らかの心理や動機を想定せざるをえない。
ブレッソンの場合、実は、人間のさまざまな動作から「心理」を排除するためにこうした細かいショットをモンタージュして画面の流れ(シーン)を構成しているわけで、そのスタイルと狙いが見事に合致している。

Bresson-mains.jpg
手が思考する?(『バルタザールどこへ行く』より)

ところで、ブレッソンは、自分の映画を定義して「アクション映画」だということがある。これは、いわゆるアクション映画に対する痛烈な皮肉ととれないこともないのだが、それはともかく、ブレッソンが嫌うのは、人間の行動の背景に、常に感情、心理といった動機を想定し、それによって人間の行動を解釈することで、そうした「心理映画」に対するアンチ・テーゼが、心理を排除した「アクション映画」であり、そうしたアクション映画を実現するためには、人間の身体動作の一部ずつを組み立てて映画をつくっていくしかないということになる。
こうしたブレッソンの映画では、画面に映し出される人間への(観客の)共感・感情移入が映画を牽引していくのではなく、画面と画面が結び付けられるリズムや緊張感が映画を牽引していく。浅沼・品田対談でいえば、このことが、「ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化している」(浅沼氏)という発言に繋がっていると思う。極端にいえば、ブレッソン映画では、さまざまな人間の動作は、その人物や物語を説明するためではなく、次にまた緊張した画面を呼ぶために必要とされるということになる。
たとえば『抵抗』(1956年作品)という映画は、死刑囚が脱獄するために、ほとんど何もない独房でさまざまな道具を作り出し、脱獄するプロセスを描いた映画であり、続く『スリ』(1959年作品)は、主人公であるスリが、他人のポケットからモノを取り出す瞬間を繰り返し繰り返し、執拗に描いている。『抵抗』にも『スリ』にも、物語らしい物語はほとんどなく、むしろ、ストーリーはそうした部分(プロセス)を呼び込むための約束事として付着しているような印象がある。
こうしたことの必然的結果として、ブレッソンは、出演者が演技をすることや、何かを表情に表すことを嫌う。またそうした結果につながりやすい職業俳優の起用をも嫌う。
しかしブレッソンがいくら出演者の演技や感情表現を嫌っても、人間を主人公とする限り、作品から演技や感情表現を完全に排除することはできない。そこで『バルタザールどこへ行く』では、最初から演技もしなければ感情表現もしない(できない)ロバを主人公にして、ブレッソンは理想的な「アクション映画」をつくりあげようとしたのではないだろうか。この映画のストーリーを簡単に要約すれば、『バルタザールどこへ行く』は、バルタザールと名づけられ、カトリックとしての洗礼を受けたロバが黙々として荷物を引き、むち打たれ、歩き続け、死ぬというプロセスを描いた作品である。そこでは、何の心理的説明も感情表現もないロバの行動が、感動や美的昂奮をもたらす。しかし、この映画の主人公であるロバを何者かの象徴とみたり、ロバの行動に何かの意味を見出そうとするのは、ブレッソンの意図に反していると思う。
私が最初にこの映画を観た時に特に強い感銘を受けたのは、ロバであるから当然なのだが、主人公のバルタザールが一言も言葉を発しないこと、にもかかわらずバルタザールの生き様、その喜びや苦しみが理解できるように思われたことだ。そして映画を観おわってから、そうした感銘を今度は何か「言葉」で表現しようとしてみたとき、言葉が完全に無力であるということにも気づかされた。言葉や余計な説明がないからこそ、バルタザールの行動は瞬間ごとに自足した完全なものであり、了解可能なのであって、言葉によってそれらの場面から受けた印象を伝えようとすれば、どうしても部分的で不完全なものたらざるをえないのである(この映画のなかでは、バルタザールの周囲の人間が発する言葉は「雑音」のように聞こえる。あるいは少なくとも、彼らがそれによってうまく意志を通じ合えているようには感じられない)。
『バルタザールどこへ行く』は、表面的にはどこまでいってもロバの一生を描いた映画であり、それ以外の何ものでもないのだが、実は、ブレッソンが問題にしているのは人間コミュニケーションのあり方であると思われた。

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テーマ:映画監督 - ジャンル:映画

  1. 2006/03/29(水) 14:46:27|
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