le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『東文彦 祖父石光真清からの系譜』(阿部誠)を読む

阿部誠氏の『東文彦 祖父石光真清からの系譜』(太陽書房、2005年)を読んだ。三島由紀夫の十代(15歳~18歳)の文通相手として知られる東文彦(大正9年~昭和18年)の、おそらくは初の評伝だ。
三島研究のなかで東が重要なのは、一般的には、東が三島のはじめての本格的読者・批評者であり、一緒に同人誌『赤絵』を刊行している(昭和17年7月、昭和18年6月)からなのだが、それにとどまらないことは、阿部氏の丹念な仕事によってはじめて明らかになったといってよいだろう。それは、東が三島の十代を一気に『豊穣の海』につなぐキーパーソンでもあるということだ。
『豊穣の海』が東文彦と結びつくのは、第二部『奔馬』のなかの神風連の乱のエピソードによってなのだが、その辺の経緯、阿部氏の研究によって紹介してみよう。
まず阿部氏によって明らかになったのは、三島が石光真清の『城下の人』(龍泉閣、昭和33年、同年の毎日出版文化賞受賞。なお同書は、現在中公文庫の一冊として刊行されている)を所蔵していたということ。しかもこの『城下の人』は本来四部作なのだが、三島はその第一部にあたる『城下の人』のみを所蔵していたという。それは、石光真清に対する三島の関心のあり方をも示唆しているように思われる。実は、『城下の人』のなかには、明治9年に熊本でおこった神風連の乱についての記述があり、三島はおそらくこの著作によって神風連を知り、それに関心をもつようになったと考えられる。
ところで、三島が実際に神風連を取材のために熊本を訪問するのは昭和41年のことだが、その折に三島が訪ねた荒木精之氏は、三島が神風連に関する著作をすべて読んでいることを感じたと証言しており、おそらくこの時点までには『城下の人』を読んでいたのであろう(すると、この熊本訪問で三島が直接石光真清関係者を訪ねなかったのはなぜかという疑問が生ずるが、それには、なにか別の事情があったのであろう)。
阿部氏が明らかにしているのは、この事実だけではない。以下はさらに重要な指摘なのだが、『城下の人』の最初の刊行(二松堂)は昭和18年7月で、この初版本の表紙と挿絵は当時存命中の東文彦が描いているという(東の死は同年10月)。石光真清と東文彦の血縁関係は、真清の次女・菊枝が東文彦の母であるということだが、結核で療養中の東文彦と三島は、感染のおそれから面談は数えるほどしかなく(確実なのは昭和16年2月19日の一回)、それ以外は、菊枝が三島と応対し、三島と文彦の「会話」を媒介していた。
実は、三島が東文彦と交際し、東の父・季彦の資金で同人誌『赤絵』が刊行された昭和17年~18年は、石光家(東家)にとっては、真清の手記『諜報記』刊行(昭和17年2月)、真清の死(昭和17年5月)、『城下の人』刊行(昭和18年7月)という非常に重要な時期でもあり、三島は、菊枝を通してこの一連の事実を知っていた蓋然性が非常に高い。『城下の人』も、初版刊行時のすでに読んでおり、昭和33年版は、その内容を確認するために所蔵したのであろう。

三島の全作品、なかでも十代作品およびそれと重なる東文彦の作品は、この基本的事実を踏まえたうえで読まれるべきものだと私は考える。
三島といえば、通常、同性愛と右翼思想が大きなテーマと考えられており、十代作品は、戦後、三島が本格的「文学」を志していくための習作という位置づけが多いように思う。しかしこれだけで終わるのでは、あまりにも紋切り型の読解ではないだろうか。
一方、三島の十代作品を刊行時から読んでいるといっても、たとえば奥野健男氏の『三島由紀夫伝説』(新潮社)の場合、これらの作品は時代迎合的なもので、そのため三島は戦後ただちには文壇に受け入れられなかったと位置づけられているのだが、私はこうした判断は根本的に間違っていると思う。それは三島が東文彦に宛てた書簡(現在新潮文庫から『三島由紀夫 十代書簡集』として刊行されている。ただし阿部氏によれば、書簡の配列に誤りがあるという)を読めばすぐにわかることで、三島は、通常三島の右翼的思想に強い影響を与えたとされる日本浪漫派に対しては批判的で、むしろ反時代的な小説(「ますらおぶり」に対する「たわやめぶり」の軟弱な小説)を書こうとしている。奥野氏が『三島由紀夫伝説』を執筆した時点ではこの書簡は公刊されておらず、奥野氏の見方は、三島の十代小説の多くが古代から中世を舞台にした歴史小説であることを単純に「古代回帰的」と断定した、短絡的で先入見の入ったものになっていると思う。
また、同性愛にしても、それを直接的なテーマとした作品は三島には意外に少なく、私には、十代小説よりむしろ『仮面の告白』や『禁色』の方が、直接的なスキャンダルを売り物にした時代迎合的な作品と思える。
それはさておき、十代の三島作品は、三島がほんらい展開したかった小説世界がストレートに描かれているように思え私には好感がもてるのだが、三島の不幸は、彼が小説家として生きていくことを決めた昭和20年代という時代が、戦後の混乱のなかで刺激の強い小説ばかりが求められた時代であり、戦争中(十代)に三島がめざしていた小説世界を発展していく機会がなくなってしまったことだろう。『禁色』は、同性愛の風俗を描いた作品というより、挫折した古典的小説家の話とした読んだときはじめておもしろい作品たりえると思うのだが、その挫折した小説家に、三島が、東文彦の小説の登場人物と同じ「俊輔」という名前を与えているのは興味深い。これは、戦前の三島や東がめざした小説世界に対する訣別の書としても読めるのではないだろうか。

さて、東作品そのものに関しては、三島の評(『東文彦作品集』序)があるうえに、阿部氏の詳細な分析もあるので、ここには特に記さない。
ただいえるのは、年齢的なものとその生活のほとんどが病床にあったという二つのハンディキャップから、東作品には、いわゆる「実人生」のかおりがほとんどしないということだ(そしてそれは、三島の十代作品にも共通する)。三島がいみじくも記しているように、東作品から感じられるのは「クラヴサンの音色」であり、その透明感を私は好ましいと思う。
その意味で、東文彦が長生したらどのような作家になったかおもしろいとも思うが、三島同様、東は本質的には戦後の混乱期にむいた作家ではなかったとも思う。しかしこのことは、小説家としての東の資質をおとしめるものでは少しもない。
いずれにしても、『東文彦 祖父石光真清からの系譜』刊行を機に、東文彦に関心をもつ人が出、また三島文学を違った角度から読む人が増えればいいと思っている。

なお、『東文彦 祖父石光真清からの系譜』は、太陽書房のサイトで直接注文できる。
ちなみに、今秋(10月頃)には『東文彦全集』の刊行も予定されているという。

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  1. 2006/04/08(土) 14:57:26|
  2. 文学(人と作品)
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神風連に連なる東文彦の家系

今、三島由紀夫研究のなかで東文彦が重要視されているのは、下に書いたペンネームの由来にくわえて、母方の祖父・石光真清(マキヨ、明治元年ー昭和十七年)を通じて、「神風連」に連なる人物だからだ。
三島が『豊穣の海』四部作のなかで、明治九年熊本に起こった士族の反乱・神風連の乱を大きく取りあげているのは周知の事実だが、同時期に起こった同じようなさまざまな動きのなかで、三島がなぜ神風連に着目したかは必ずしも明らかになっていない。
ところが、石光真清は熊本城下に生まれ、幼くして神風連の乱を目撃し、その手記のなかに神風連についてもくわしく記している(その手記は、現在、中公文庫『城下の人 石光真清の手記一』として刊行されている)。
三島は、東文彦、石光真清という流れのなかで神風連の乱に興味をもったという蓋然性も高く、それが東文彦の家系の研究と結びついているのだ。

   *    *    *

「神風連の領袖、加屋霽堅(はるかた)に初めて会い、熊本城の由来を聞いた私は、ざんぎり頭の洋学生の兄真澄や従兄弟たちに、手柄顔でその話をしたのに母までが苦笑し、兄たちは私の稚児髷、帯刀の姿をひやかして、声を立てて笑った。姉の真佐子だけが洋学生たちを睨み据えて私をかばってくれた。
 父は、この有様を黙って眺めていたが、
「お前たちは、神風連、神風連と、あの方々を、天下の大勢に暗い頑迷な人のように言うが、それは大変な誤りだ」
と、おだやかながらも、きつい眼付きで、ひとわたり皆を見まわして言った。
「あの方たちは、御一新前は熊本藩の中枢にあって、藩政に大きな功労のあった方々だ。学識もあり、勤皇の志も厚い。ところが御一新後の世の動きは、目まぐるしく総てが欧米化して、日本古来の美点が崩れて行くので、これでは国家の前途が危いと心配し、明治五年、太田黒伴緒雄氏、加屋霽堅氏等をはじめ国学の林桜園先生の感化を受けて百七十余名の方々が会合して今後の方針を協議された。この会合で日本古来の伝統は必ず護る。外国に対しては強く正しく国の体面を保つことを申し合わせた。この人々を進歩派の人たちが神風連と呼ぶようになったもので、その後、いろいろと保守の策を試みたが、時代の風潮を阻むことは出来なかった。(後略)」
 父はこう説明して皆の顔を見渡した。
「洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見透しも違うが、日本の伝統を守りながら漸新しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取り入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心掛けるお前たちと、国を思う心には少しも変りがない。(中略)いいかな。今後はあの方々を軽蔑するようなことは慎しみなさい。」
 兄や従兄弟は神妙な顔でお辞儀をした。父の話には、いつも厳しい説得力があった。」(『石光真清の手記』より)


【参考】
石光真清ホームページ
神風連の乱のページ(熊本城公式サイト内)

【追記】
三島は、昭和41年8月に、『豊穣の海』~『奔馬』取材のために熊本を訪れているが、この時に訪ねた人物は荒木精之(三島の書簡によれば、荒木には学習院時代からの師・清水文雄の紹介で会っている)で、石光真清関係の人物とは会っていないようだ。その点から推測すると、この取材の時点では、仮に事前に石光真清の手記を読んでいたとしても、石光真清~東文彦というつながりに三島は気づいていなかったということも充分考えられる。
したがって、その後何らかの経緯で、三島は、神風連~石光真清~東文彦というつながりを知り、あらためて、東との浅からぬ縁に気づかされたとする方が、小説的過ぎるかもしれないがおもしろい。
自決する直前、三島が『東文彦作品集』刊行に奔走したという事実も、『奔馬』を書いてから神風連と東の関係に気づいたとした方が、自然に解釈できるような気もする。(3月11日)

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  1. 2006/03/06(月) 13:48:03|
  2. 文学(人と作品)
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三島由紀夫のペンネームの由来に関する逸話

三島由紀夫のペンネーム、昭和16年に三島(平岡公威)の小説『花ざかりの森』が雑誌『文芸文化』に掲載されることが決まった折、伊藤左千夫を思い浮かべながら、打ち合わせの場所(修善寺)に近い「三島」の地名とユキオという響きを組み合わせて決められ、後に「由紀夫」という表記に定まったというのは有名なエピソードだ。
ところでこの「ユキオ」という名前が直接何(誰)に由来するのかは必ずしも明らかでないのだが、東文彦の父・季彦氏は、エッセー集『マンモスの牙』(図書出版社、昭和50年)のなかで、ユキオという名前は東文彦の小説『幼い詩人』(昭和15年)の登場人物の一人「悠紀子」から採ったのではないかと推測しているという(このエッセー集、私は未読)。
昭和16年前半の三島の東への傾倒からすると、絶対とはいえないものの、ありえない話ではない。ただし、三島の書簡を読むと『幼い詩人』という作品への評価は必ずしも高くないことが気になるが(自決する覚悟を決めた三島が、東文彦作品集の刊行に力を注ぎ、亡くなる一ヶ月前に序までしたためているというのは、東文彦に対する三島のおもいがなみなみならないものであったということの一つの証ではある)。
ちなみに、『幼い詩人』のなかで、悠紀子は次のような魅力的な考え方をする女性として描かれている。

   *    *    *

 急に喋舌りだした悠紀子を、俊輔は初め不思議さうに眺めたけれども、直ぐに一緒に明るい気持ちになつてしまつた。俊輔の目には、悠紀子のこの時の晴れやかな美しさが、神秘的に輝いて見えた。
 ーーいきなりつて、どんなものを描きたいんですか。
 ーー出来やしないの。あたしには出来ないつて分かつてるの、だけど、出来たらどんなにいいだらうと思ふと、描きたくてたまらなくなるの。
 ーーそれぢや何を描いてもいいんですか。
 ーーいいえさうぢやないの。あたしが描きたいと思ふことが、そのまま描けなくつちやいけないの。それがね、普通の静物や景色や人物ぢやないの。そんなものを描くのが、当り前かもしれないけれどね。あたしの本当に描きたいのは、そんなものぢやないの。
 ーーそれぢや何を描きたいんです?
 ーーあたしね。見て描くんぢや嫌なの。頭の中に浮んだまんまを、そつくり描いて見たいの。例へばね、月の光を描きたいの。
 俊輔は驚いた。言葉だけを聞いてゐると悠紀子はまるで、熱に浮かされてゐるやうだつた。けれども、思はず俊輔の目が悠紀子の顔に行つたとき、彼は又その瞳にうたれてしまつた。一点の塵もない、美しい少女の瞳だつた。
 ーー月の光と云つてもただね、水にうつつたりしてゐるのは嫌だわ。それなら上手に描いた人も沢山ゐるんですもの。あたしの描きたいのは、電燈で一ぱい光つてゐる綺麗な街の月夜なの。電燈が目のさめるやうに光つてゐても、一寸した暗い蔭を選んで忍び込んで来る、月の光があるでせう。蒼いやうに、揺れて見えるやうな光なの。  (『東文彦作品集』261-2頁)

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  1. 2006/02/26(日) 22:14:59|
  2. 文学(人と作品)
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『東文彦作品集』を読む

病床で聞く世相には、何かしら現実ばなれのしたもの、いはばお伽噺めいたものが感じられる。それは、病気といふものの持つ、ひとつの特権だらうか。

   *    *    *

神があると確信して揺がないのなら、なにもそんなに声を高くして、神の有ることを叫ぶ必要はないのではないか。これはたしかに脅かされた者の声である。自分の声を高くして、他人の声を耳に入れまいとする臆病者の声である。神は心のひろいものではないか。そして神の御意のままに動かんとするものの心も、ひろくなければいけないのではないか。ところが、この脅えたやうな調子はどうだ。しかもここに語られている神は、いかに抽象的であることか。正義が神の証拠であると云ふが、こゝでは正義が神であるかのやうに語られてゐる。まるで党派の宣伝のやうに。

   *    *    *

ーーなぜそんなに、きいきい声で叫ぶのか。
ーー君たちが俺を信じないから。
ーーきいきい声で叫ぶから、余計、俺には信じられない。


   *    *    *

弱さは、運命と真正面にぶつかるのを避けるところから来る。変つたことを求める、といふのもそれである。

   *    *    *

太宰治ーーこれは他人の偽善の暴露を面白がつてゐる。もうひとりの偽善者にとつては愉快であるかも知れない。しかし自分がやはり一介の偽善者であることを知り、その事実に心から苦しんでゐる者にとつては、これは少しも面白くない。何故なら、この作者は苦しんでゐるやうに見えて、実はその苦しみを筆にすることによつて自らの解放を企ててゐるのだから。彼の試みは決して誠実なものではない。自分と一緒に他人をも中傷して、さうして自分だけ解放されようとするやり方だ。

   *    *    *

東文彦、大正九年生。本名タカシ(行人偏に建)。衆議院議員東武の嫡孫。父季彦は法学者で後に日大学長となる。生まれながら病弱で十八歳頃から文彦の筆名で小説を書き出す。学習院の文学同人誌『輔仁会雑誌』に掲載された平岡公威(三島由紀夫)の短編「彩絵硝子」に書面で批評を贈ったのがきっかけとなり、三島との交友がはじまる。昭和十七年、三島および徳川義恭に呼びかけ同人誌『赤絵』を創刊。ただし三島との交友中は絶対安静の時期が多く、田園調布(東)、渋谷(三島)と近くに住みながら、二人はほとんど会っていない。かわりに二人はしきりに文通しており、そのうち三島から東に宛てた書簡は、『三島由紀夫 十代書簡集』として刊行されている(新潮文庫)。
昭和十八年十月、急性胃拡張から腸閉塞を併発し、死亡。
十代の三島作品の最高・最良の読者・批評者で、三島に多大な影響を与えた。
昭和四十五年、三島は東文彦作品集の刊行に注力し、みずから序文を書いて、同作品集を講談社から刊行させた。
上掲覚書は、講談社版の東文彦作品集巻末に伏された「覚書より」のさらなる抜粋。
以下、『東文彦作品集』の感想、十代の三島作品のこと、東文彦と三島由紀夫の交友(影響)のことなど、思いつくまま書いてみたい。

【参考記事】 「三島由紀夫の書簡を読むーー東文彦への書簡」

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  1. 2006/02/25(土) 23:06:08|
  2. 文学(人と作品)
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三島由紀夫「社会ダネ小説」のルーツ

 三島由紀夫の『青の時代』(昭和25年刊)に関連し、評論家・奥野健男は、『三島由紀夫伝説』(新潮社、1993年)のなかで、これは「社会ダネ小説」であるという主旨のことを書いているのだが、この点に関して私なりに少し思うことがあるので、記しておきたい。

 奥野健男の文章の引用、まずは三島の「社会ダネ小説」に対する評価。
「芸術至上主義者、古典派、唯美的とのみ思われがちの三島由紀夫は、現実に対し、社会に対し、時代に対し、意外なほど旺盛な好奇心を持っていた。そして足で歩き、徹底的に取材しよく調べて書く小説家であった。観念的に唯美的な宇宙を想像力によってつくりあげる作家ではなかった。彼の空想、想像力は官能的なものに限られていて、観念のイメージの殿堂を想出する詩人的能力はなかった。フィクションは必ず現実の事実によって築きあげられていた。夢想に耽り、幻想に遊べる詩人ではなく三島由紀夫は醒めた目で現実を見つめ、分析せずにはいられない散文作家であった。しかし社会ダネと言っても、三島由紀夫が興味を抱く事件は、戦争、敗戦を自分と共に通って来て、心に深い虚無を、いやされがたい空洞を抱く同年代の青年のかかわる事件に限られていた。昭和24年と言えば下山事件、三鷹事件、松川事件など国鉄労組をめぐる奇怪な事件が続発した年だが、三島はそういう政治的事件には目もくれず、女子大生殺し、光クラブなどの非政治的な青年の犯罪に注目する。『青の時代』を書きはじめた昭和25年7月、金閣寺が青年僧の放火により炎上する。三島は恐らく、ここにもまた同時代の同類の青年を発見し、この時から胸中にあたためていたに違いない。」(前掲書、251頁)
 奥野は、三島作品のすべてを評価しているわけではないのだが、三島が社会や時代に対して好奇心をもち、それを題材として小説を書いたことそのものは高く評価しいてることが、以上の文章からよくわかる。この評価の背景には、三島以前の日本の近代小説(純文学)が、社会とのこうした関わり合いを意図的に避けてきたということがあげられるが、奥野の文章から次にその問題を指摘した部分を引用する。
「『金閣寺』が戦後文学の傑作という評価を得るまでは、三島の”社会ダネ小説”は日本の文壇、純文学世界からの抵抗は甚だ強かった。それは日本の文壇の社会とは隔絶した私小説伝統のためだが、おなしなことには私小説とは違うプロレタリア小説も風俗小説も、社会ダネ、新聞を賑わせたような事件を題材にして、小説をつくることは稀であった。歴史小説はさかんだが、現代の事件を小説化することは、通俗的なこととして避ける風潮があった。明治初年、新聞の発刊にともない『鳥追阿松海上新話』とか『高橋阿伝夜叉譚』など毒婦や犯罪事件を合巻本の手法で興味本位に描いた実話小説の流行、また紅葉の『金色夜叉』、蘆花の『不如帰』などのモデル小説の大当りなどが頭にあり、自然主義文学以後の作家は、こういう社会ダネ的な事件を小説として扱わないことで、前代の合巻本的戯作文学、通俗小説とは違うことを示そうとした。そのような風潮が、大正、昭和、そして戦後と日本の純文学に続いていたのだ。
 スタンダールの『赤と黒』、フローベルの『ボヴァリー夫人』、ドストエフスキーの『悪霊』などの西洋の名作が、いずれもアップ・トゥ・デートな新聞の社会ダネをヒントにして、作者がそこに自己の思想や心情を仮託して書いた小説であり、しかもそのような方法が西洋の近代小説の常道であるのに対し、日本の近代小説は社会ダネを題材にすることを卑しみ避けて通る。そのことが日本の小説を、特殊な芸術至上主義と身辺日常的な私小説世界に小さく閉じ込め、活力を失わせる結果になっていた。」(250-1頁)

 以上の文章を読むと、三島の「社会ダネ小説」を評価しながら、奥野健男は、その発想の原点を結局西洋小説に求めているように思われるのだが、たしかに西洋近代小説の影響は無視できないものの、私はそこにもう一つのルーツを付け加えたい。といってもそんなに特別なものではなく、三島のなかで「社会ダネ小説」は、明治初期の小説を一気に飛び越えて、江戸時代の近松門左衛門の戯曲(人形浄瑠璃、歌舞伎)の世界をつぐものとして構想されたのではないかということだ。
 三島が近松半二の戯曲を高く評価しているということは、この掲示板でもかなり重点的にみてきたが、意外なことに大近松といわれる近松門左衛門の作品への言及はほとんどない。これは人形浄瑠璃や歌舞伎に親しんでいるものであれば誰でも知っているし高く評価しているので、門左衛門のことを特別にとりあげるまでもないということかもしれないが、半二を主題とする文章まで書いていることからすれば、いいさか奇異な沈黙という感じもする。ただ、半二に対する三島の傾倒が意識的・戦略的なものだったとすれば、門左衛門の影響はなかば無意識的なものだったのではないだろうか。
 私は、三島が半二に学んだものは作品全体の構成法ではないかと思うのだが、これに比較すると、門左衛門からは主題の選び方を学んだのではないかという気がする(非常に単純化していえば、半二は大がかりな「時代物」を得意とし、門左衛門は市民生活をストレートに描いた「世話物」を得意としていたので、世界が重ならない)。スタンダールやフローベールをまつまでもなく、門左衛門は「新聞の社会ダネ」になりそうな実話を選んでは、作品のなかに取りこんでいった。彼の作品は、そうしたアクチュアリティーと生々しさをもっている。そしてそうした主題を選ぶときに、社会的な話題といっても政治事件は避けられ、市井の人間の生き方に直結するものに限られていたという点でも三島の作品と共通している。
 三島の「社会ダネ小説」が現実社会との関わり合いのなかから生まれてきたのは事実だろうが、これらの作品を現代性という視点からのみとらえるのではなく、その一見非常に現代的とみえるものが実は古典の血を受け継いでいるのだということも、少し考えてみる必要があるのではないだろうか。

【参照】「三島由紀夫作品と演劇(近松半二評とからめ)」(当ブログ内)

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  1. 2006/01/20(金) 13:44:21|
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