le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』再見

昨日(30日)は種村季弘さんをしのぶ会で出会った知人を誘って『メゾン・ド・ヒミコ』を再見。一つの映画を一日おいてまたすぐに観るというのは、私もはじめての経験だが、にもかかわらず『メゾン・ド・ヒミコ』は新鮮。ほんとうに不思議な映画だ。とはいえ、二度目なので、こちらもこの映画の壺というか、チェックのしどころはわかっているつもり。前回見逃していた点を丹念にみることができた。初回書き落としたこと、性懲りもなく、また書いてみよう。

まず感心したのは渡辺あやの台本(これは知人も感心していた)。言葉の流麗さをほこるのではなく、日常会話のなかからいろいろなものをそぎ落としたような、ぎりぎり最低限の言葉のやりとりだけでなりたっている。
こうした台本の性格は、実は犬童一心の演出ともからんでくるのだが、それが大島弓子的なものをめざしているのだということは、今回、最初から強く感じた。卑弥呼をはじめとするゲイたちが、あるいはむしろとりわけ卑弥呼の描写が、ゲイとしてのリアルさをめざしているのではなく、ある視点からみたゲイらしさというかティピカルなものを指しているだけで、そこから先には一歩も踏み出さないのだ(美術の磯田典宏が、そうした演出意図を一瞬で伝えるいい仕事をしている)。
コミックやアニメの世界、実は私は<アンチ・リアリズム>ということで人形浄瑠璃に通ずるものを感じるのだが、希有なことに、『メゾン・ド・ヒミコ』はそれを実写で達成している。
前回みたとき、私は田中泯(卑弥呼)の演技をどう評価したらいいかわからなかったのだが、こうした方向からみると、田中は、演技するというより、いってみれば人形もしくは非実在的なゲイを身体で表現するということに徹しており、これは誰にでもできることではない。死を直前にした病人という役だから動きが少ない、セリフのわりふりも少ないというのではなく(それだとまた<リアル>に戻ってしまう)、田中は、生身の人間など最初から<演じて>はいないのだ。これは舞踏を自己表現としてきた田中にしてはじめて可能な反演技的演技の骨頂であり(舞踏者・田中の本来芸の一端は、ディスコの場面の挿入シーンで示される)、演技力がどうこういう前に、通常の役者・演技者に可能なこととは思えない。そしてこうした田中の演技の方向性は、映画全体のアンチ・リアリズムという方向性にみごとにマッチしている。
オダギリジョー演じる春彦という若者も、実のところ性格がよくわからないのだが(卑弥呼と春彦がどのように出会い、どのようにつきあっていたのかは、映画をみても皆目見当がつかない)、これも卑弥呼の描写と似たところがある。ようするに、こういう若者ということで映画のなかにポンと置かれているだけなのだ。そのわけもわからない若者を、オダギリジョーは、田中泯とは違った意味で、ふわっと身体で表現しているといえるだろうう。
一方、この二人と、柴崎コウの演じる沙織は、演出方針がまったく異なる。全体の非実在的な世界・演技のなかで、いわば彼女だけがリアルに動き回るといっていい。
だからこれは、非リアルな様式感で統一したといった演出ではない。むしろ、様式という意味では統一を欠いているのだが、統一を欠くがゆえに、観る側になんともいわれぬ落ちつかなさ、そこからくる幻想性を与えるのだ。非リアルな様式感で統一してしまったら、この映画は単なる夢物語で終わってしまっただろう。
とここまできて私は、こうした作品の構造が、大島弓子の代表作『綿の国星』とよく似ていることに気がついた(『メゾン・ド・ヒミコ』にインスピレーションを与えた『つるばらつるばら』は未読)。『綿の国星』は、自分は人間だと思っている猫と人間が共存する非リアルな世界を描いたコミックなのだが、それを描く視線はチビ猫のもので、チビ猫のまわりの人間達は、理解不能な奇妙な行動をする不思議な共存者として描かれている。つまり、チビ猫のまわりの人間たちにもそれなりの行為や行動はあるのだが、それは明確な原因・結果に結びついたものではなく、単にそうした行為・行動としてあるにすぎない。そのことによって人間の行動は異化され、あたりまえの行動がファンタジーを生み出していく。
『メゾン・ド・ヒミコ』の視線はまさにこの『綿の国星』的なもので、ここではチビ猫は沙織であり、沙織だけが「意識」をもった存在なのだ。したがって観客は、自然に沙織に共感することができる。たくみな作品構造だ。
こうした作品構造を指向する作家がゲイの世界に引かれるのは、ある意味で当然だ。社会のなかで異化されていると同時に共感をよぶ矛盾した世界。犬童一心にとっても大島弓子にとっても、ゲイの世界とはそうした世界なのだろうが、そうした視点がゲイという題材からファンタジーを紡ぎ出す。
この映画を貫いているのは、現実のなかを浮遊するような脆弱な美ではなく、現実の矛盾をすべてのみこむような、絶対的な美への指向なのだ。
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  1. 2005/08/31(水) 10:27:56|
  2. 映画
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種村季弘さんをしのぶ会

昨日は、去年の8月に29日に亡くなったドイツ文学者・評論家、種村季弘さんの一周忌。私もアルカディア市ヶ谷で開かれた種村季弘さんをしのぶ会に出席した。
亡くなる前、種村さんは家族や近しい人に、「一年間はお別れの会無用」と遺志表示していたといい、その遺志にしたがって、昨日まで公開の葬儀やしのぶ会等は行われていなかったのだが、その一年間がすぎた昨日、種村さんに別れを告げたいという人たちが集まって開かれたもの。種村さんの交友の広さを示すように、文学者、画家、舞踏家など幅広いジャンルの人たちが集まり、盛大な会となった。

tanemura-shinobu.jpg

会ではまず、種村さんが亡くなるまでの病状の経緯と亡くなられるときの本人の遺志があらためて紹介されたのち、嵐山光三郎さん、松山俊太郎さん、澁澤龍子さん、高橋睦郎さん、巖谷國士さん、池田香代子さんらが、あるいは飄々と、あるいはユーモラスに、またあるいはしんみりと、それぞれに別れの言葉を述べた。続いて種村さんを都立大学に招請した友人・川村二郎さんの主導で種村さんに献杯してしばし歓談。
歓談後、小林嵯峨さんの半裸の舞踏、唐十郎さんの歌で会場の気分を一心、秋山祐徳太子さん、南伸坊さん、篠原勝之さん、坪内祐三さんらのユニークな挨拶と、四谷シモンさんの言葉で会を閉めた。
会の後は、同じアルカディア市ヶ谷の別のフロアで開かれた二次会に出席。私はたまたま向かいあわせた川村二郎さんと少しお話しした。
二次会もあっという間に終わり、続いて、松山俊太郎さんらを誘って赤坂で三次会。行った先の店・ですぺら(私にとっては、種村さんと何度もお会いした思い出の場所)には、しのぶ会に参列した別の人たちも同じような思いですでに集まっており、たちまち合流。
遅くまで、いろいろな思い出話をかわし、種村さんをしのんだ。
  1. 2005/08/30(火) 11:51:11|
  2. 文学(人と作品)
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『メゾン・ド・ヒミコ』

なんとファンタスティックで美しい映画!
今日(28日)は、渋谷のシネマライズで犬童一心監督の新作映画『メゾン・ド・ヒミコ』をみた。キャッチ・コピーは、「私を迎えに来たのは、若くて美しい男。彼は父の恋人だった」。このコピーが映画の内容をすべて語っている。

himiko.jpg

塗装会社の事務員・吉田沙織(柴崎コウ)には、父とは認められない父がいる。その男は、母と自分を捨てて銀座でゲイ・バーを経営し、そのゲイ・バー「卑弥呼」をたたんでから、海辺の小さな町でゲイ向けの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を運営している。その男・卑弥呼(田中泯)が癌の末期症状となり、卑弥呼の恋人で老人ホームの管理人をしている春彦(オダギリジョー)が、卑弥呼への配慮から、沙織にコンタクトをとってきたのだ。とはいえ、父を父と認めない沙織への配慮もある。春彦は、日曜だけ老人ホームの雑用係のアルバイトをしないかという。思いがけない高額の日給に沙織はその申し出をうける。
ここからは、ひたすら老人ホームの描写。ニューハーフの老人等、他に行き場書があるとは思えないような奇妙な住人たちが次々に紹介される。
と、ここまで読むと、なにか非常にリアリスティックで陰鬱な映画という印象をうける方も多いと思う。それが実際には、老人ホームに住むゲイの描写はリアルをとおりこして非現実的であり、シュールとしかいいようがない。
ストーリーは、女装願望をもつ山崎(青山吉良が好演!)を中心にみんなでディスコにくりだすところから一変する。沙織と春彦のあいだに名づけようがない感情が生まれてくるのだ。沙織にも春彦にも、その感情をどう処理したらいいかわからない。ホーム内のゴタゴタから沙織はホームを去る。そして卑弥呼が死に、卑弥呼の荷物はすべて処分される。
だが…。
この映画はまず一つ一つのシーンが極めて美しいのだが、映像が美しいだけでなく、出てくる人たち、一人一人の心情も美しい。弱い人たちが、その弱さをかばい合うように生活している。もちろん、ホームの周辺にはゲイに対する無理解があり、そうした無理解と自分のありのままでありたいとするゲイたちとの葛藤もある。しかしそれでも、映画はけして重くはならない。また、卑弥呼と春彦の感情描写が希薄で、特に春彦の性格がよくわからないなどと野暮なことはいいますまい。そうした細部のストーリー展開はさておき、この映画、すべてが美しいとしかいいようがないのだ。
それでもこの映画から、あえてリアルとファンタジーをつなぐものを探すとすれば、ゲイの屈折した心理ではなく、沙織の母親の存在ではないか。沙織には知らせていなかった母の一面が、「メゾン・ド・ヒミコ」の壁にかけてあった一枚の写真から明らかになる。そのことからくる沙織のなかの深刻な葛藤。しかし母は映画のなかにその写真でしか登場しないがゆえに、沙織の葛藤が観客の眼にリアルなものとしてうつることはない。つまり、この映画のなかにリアリティーがないのではなく、映画は、そうしたリアリティーをリアルに描きだすことに関心をもっていないのだ(リアリティーの問題は映画の外で展開している)。ゲイの父と娘の和解はこの映画の重要なテーマなのだが、もしかすると沙織は、父をそのままうけいれたのではなく、ありのままの母をうけいれることで、母をとおして父をうけいれたのかもしれない…。
それはさておき、この映画のもつ美しさ、あるいは一種のファンタジー性がどこからくるか疑問だった私は、劇場を出てからプログラムを読んで「あっ」と納得した。犬童監督は、当初、大島弓子のコミック『つるばらつるばら』を映画化したかったのだという。資金難からその企画が挫折したとき、ゲイの老人ホームを描いた映画という企画が提案され、犬童監督は、その企画に大島弓子の世界をオーバー・ラップさせることで、ゲイの老後という陰鬱な問題をファンタジーへと昇華させたのだ。

オダギリジョーのあやしくも美しい存在感が、バラバラになってしまいそうなストーリーを有機的に結び付け、この映画に不思議な説得力を与えている(こんな素敵な恋人、私も欲しいです♪)。
  1. 2005/08/28(日) 22:38:08|
  2. 映画
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慶應大学で中世史の勉強会

今日(27日)は中世史の勉強会。慶應大学へ行き、大学院生Oさんの研究発表を聴いた。発表の内容は、平安時代後半の東大寺の荘園成立にかかわるもの。荘園の成立と朝廷内の人事を結び付けた意欲的研究で、おもしろく聴いた。
少し前までの日本史では、荘園が本格的に展開する時期と摂関政治の全盛時代(道長・頼通の時代)はストレートに結び付けられ、摂関の繁栄は荘園の集積によると考えられていた。現在、こうした考えはしりぞけられ、荘園は、むしろ平安時代末期の白河・鳥羽院政期に拡大していったとされるのだが、Oさんの研究は、それでは道長・頼通の時代の荘園形成の実体はどのようなものであったかを東大寺領の荘園を例に検証したものだった。

   *    *    *

三田の慶應大学のキャンパス、私はきょうはじめて訪問したが、クラシックな感じがとても気に入ってしまった。
  1. 2005/08/28(日) 01:27:12|
  2. 日本中世史
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桑原茂夫の詩集『いのち連なる』

すぐ下に書いた種村季弘さんの遺著『雨の日はソファで散歩』(筑摩書房)を編集した桑原茂夫さんの詩集『いのち連なる じんるい学序説』が思潮社から出た。

inochi.jpg

帯の紹介文によれば、これは、<「ほろびた町」、ひとびとが去っていった町に立って、あなたも詩人とともに問いかけるだろうか。「滅び」とは、「甦り」とは、なになと。「いのち」と「記憶」のつらなりを、ファンタスティックにリアリスティックに、かつまた叙事詩的に抒情的に、19年の歳月をかけて読解してみせる連作詩篇>という。この詩集の内容の紹介は、以上の文章につきているように思われる。
あえて感想を書くとすると、1993年に発表された「にぎやかな町のひとびとーー都市について語るための1995年夏の記録」という散文詩が、ほろびた町、過ぎ去った光景に対する桑原さんの思いのたけを見事に形象化しており、詩集全体の核になっていると思う。これは、美しい<コトバ>を連ねた心地よさをもたらす詩集ではなく、才気ばしったところもない。むしろ思念をそのまま<コトバ>にしたともいえる、愚直で重厚な詩集だ。
ちなみに、桑原さんはかつて『現代詩手帖』の名編集長であり、詩人としてだけでなく、編集者としても広く活動している。<コトバ>を知悉しているがゆえに<コトバ>には走らない。桑原さんの人格と<コトバ>が、この詩集ではみごとに一体化している。
  1. 2005/08/26(金) 14:01:35|
  2. 新刊紹介
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種村季弘最後の自選エッセイ集

筑摩書房から、昨年亡くなった種村季弘さん最後の自選のエッセイ集『雨の日はソファで散歩』が出た。

amenohiwa.jpg

内容は次の四部に分けられている。

Ⅰ 西日の徘徊老人篇
Ⅱ 幻の豆腐を思う篇
Ⅲ 雨の日はソファで散歩篇
Ⅳ 聞き書き篇

手にしたばかりで、まだ読んでいないのだが、この本を編集した桑原茂夫さんのあとがきが胸にしみる。

「本書は、今は亡き種村季弘さんが生前自ら編んだ、最後のエッセイ集である。
 病状が予断を許さなくなってきた2004年春ごろから、種村さんの教え子であり、種村さんを敬愛してやまない高山宗東さんが、同じ思いの齊藤靖朗さんとともに、本格的に編集に取り組んできた。種村さんの指示のもと発表紙を遺漏なきよう収集し、順序を整え章分けをし、あらためて種村さんがそれをチェックするという作業を何度か繰り返すことによって、その全体像を確かなものにしていった。
 近世文化の研究者としてすでに種村季弘さんの執筆活動をバックアップしてきたこともある高山宗東さんと、自らの意思で種村季弘さんの著作にかんするデータを整理し、読者に開示・提供するホームページを開設した齊藤靖朗さんは、病気で入退院を繰り返しながら執筆活動にいそしむ種村さんにとって、十分信頼できる心強い存在だったと思う。
 2004年8月8日、静岡県三島市にある病院の一室で、私は窓際の小さなテーブルをはさみ種村さんと向かい合った。編集者としてはじめてお会いしたときから三十数年を経ていたが、気構えをあらためての対面となった。種村さんは、自分が亡きあとのさまざまなことについて、淡々と指示、あるいは望むところを語るのであったが、このエッセイ集にかんしては、すでに構想を固め高山さんたちに委ねてあるので、出版にかかわるもろもろの作業を進めてほしいということだった。
 あくまでも淡々と話す種村さんだったが、このエッセイ集はもとより、どの仕事についても、そのひとつひとつに、いとおしむような、いつくしむような気配を感じさせる語り口が、生死の境に臆することのない、つよい意志を感じさせ印象的だった。
 それから間もない8月29日、種村さんはご家族に看取られながらお亡くなりになった。種村さんご自身の強い遺志で、当面はその事実を公表することなく、密葬がとり行われた。その後も、少なくとも一年間は、葬儀に類するようなことはしないこと、その間はもちろん、その後もご家族をわずらわせるようなことは一切しないことという遺志は守られ、やがて一年経つ。
 その一年間に本書の編集作業は比較的ゆったりと進められた。(中略)
 以上のようなわけで、すべては種村さんの遺志を受けて編集であり刊行であるはずなのだが、はたして種村さんが「おっ、よくできたね」とよろこんでくれるかどうか、ちょっと心配ではあるけれど、読者諸賢にあたたかく迎えられれば、それで十分ということにすべきだろう。(後略)」

種村さんをしのびながら、じっくり読んでみたい。

(桑原さんのあとがきのなかに登場する、齊藤靖朗さん管理のサイト「種村季弘のウェブ・ラビリントス」のURLは次のとおり。http://www.asahi-net.or.jp/~jr4y-situ/tanemura/t_index.html
  1. 2005/08/25(木) 15:32:18|
  2. 新刊紹介
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ヘレンドのチョコ・カップとカプチーノ

昨日(24日)は、伊勢丹に買い物に行った。愛飲しているコーヒー、紅茶が切れてしまったため、やむをえない。
私はふだんは紅茶党で、朝はアッサム茶、デイタイムはリッジウェイズのHMBを飲んでいる。アッサム茶はいつも新宿・高野で旬のものを購入。HMBは近くのスーパーで購入。アッサム茶は刺激が比較的少なくマイルドな味で、デイタイムに味わって飲むというのにはものたりないが、朝の一杯には、逆にそのマイルドさが最適だと思っている。
デイタイム用は、以前はフォートナム&メイスンのロイヤル・ブレンドを愛飲していたが、これが手に入れにくくなったため、最近リッジウェイズに切り替えた。リッジウェイズに切り替えるまでいろいろなブレンドをためしてみたが、ロイヤル・ブレンドのような中庸な感じのものは少なく、リッジウェイズにして、ようやく落ち着いている。
ただし夏はアイス・ティーを飲むことも多く、これは伊勢丹が特約店になっているエディアールのエディアール・ブレンドがもっぱら。昨日もまずはエディアール・ブレンドを購入。
ちなみに、アイス・ティーはストレートで飲むが、ホットはミルク・ティーで、ミルク・ファースト主義だ。
そんなことで一日紅茶ばかり飲んでいるとけっこうおなかにたまるので、そんなとき刺激のために飲むのがフレンチ・ローストのエスプレッソ。これもいろいろためしたら伊勢丹にはいっているキャピタル・コーヒーのフレンチ・ローストが一番私に合う。
このフレンチ・ローストを使った最近のマイ・ブームはカプチーノ・コーヒー。自宅でカプチーノをためしたいと以前から思ってはいたのだが、先日、スーパーでたまたま乾電池式の簡単な泡立機をみつけ、以来、カプチーノにはまっている。
私の考えでは、カプチーノやウインナ・コーヒーはどんなカップでもいいというのではなく、コーヒーとクリームが層状になる、口径が狭く背の高いカップでなくては、ほんとうの良さは味わえない。ハンガリーのブランド、ヘレンドにはそうした形のカップ(チョコレート・カップ)があり、このカップがクリームを浮かべた飲み物には最適だ(チョコレート・カップというからには、本来はココア用なのであろう。いずれにしても、ハプスブルク家とゆかりの深いヘレンドは、ウィーンの伝統であるクリーム系の飲み物を飲むのに最もかなった形状のカップをかなくなにつくり続けているということなのだろう。フランスやイギリスの食器では、ヘレンドのチョコレート・カップのような形状をしたものはちょっとみかけない)。ということで、ヘレンドのチョコレート・カップでカプチーノを飲むと、コーヒーとクリームが両方同時に口のなかにすべり込んできて、瞬間、得もいわれぬハーモニーを感じさせてくれる。

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紅茶とコーヒーを購入したあとは、食器売り場にちょっと遊びに行く。
ああだこうだといろいろな食器やカップをみていたら、店員さんが、私が注文したヘレンドのティー・ポットのがハンガリーから届いていると知らせてくれた。
昨日は、すぐにポットを引き取る余裕がなかったので、とりあえず、現物確認ということで届いたポットをみせてもらう。オーダーしたのは、ヘレンドのなかでもヴィクトリアというタイプだが、予想していた以上にかわいい(ちなみに、上に書いたわが家のチョコレート・カップもヴィクトリア)。
早く引き取らねばと思いながら、伊勢丹を出た。
  1. 2005/08/25(木) 12:20:17|
  2. 身辺雑記
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<言葉と物>ーー「シナのある百科事典」

ロックについて書き込みした直後、フーコーの『言葉と物』の書き出しを読んでみた。この書き出し、下に記した「種別」についてのロックの考え方と比較しながら読むとおもしろいというか、フーコーの意図するものがわかりやすいと思う。

「この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのになかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考といったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、<同一者>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、しばしば困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは、つまり、この寓話により、まったく異なった思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれの思考の限界、<こうしたこと>を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。」(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)
  1. 2005/08/24(水) 12:08:32|
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<言葉と物>ーーロックの場合

ロックの言語思想の続き。
ロックは、特定の本質をもったモノが存在し、言葉がそれを名指すという考え方をしない。われわれがモノの性質を知るのは感覚によるのであり、われわれが認知するモノのあり方は、われわれの感覚に依存する。われわれの目に赤や青の特定の色をして見えるものも、別の感覚をもった存在からは別の色に見えるかもしれず、色はモノの本質ではない。同様に、硬さ、味等、通常モノをモノたらしめていると考えられるさまざまな性質は相対的なものであり、モノをモノたらしめる「本質」ではない。
われわれをとりかこむ特定のモノが本質をもつようにみえるのは、言葉がそれを特定のモノであると名指すからにすぎない。
具体的にロックのテクストをみてみよう。

「多くの可感的性質で相互に一致し、また、たぶん内的仕組み・構造でも一致する、多数の個々の[特殊な]事物が自然に作られる。けれども、それらの事物を種に区別するのはこの実在的本質でない。人々であり、人々が可感的性質から、すなわち、事物のうちに合一すると見いだし、いくつかの個物が一致するとしばしば観察する、可感的性質から機をえて、包括的記号の便宜上名づけるために事物を分類するのであり、この記号のもとに個物はあれこれの抽象観念との合致に従って、標記[すなわち名まえ]のもとにあるものとして類別されるようになるのである。そこで、[たとえば]これは青という部隊[ないし種]で、あれは赤という部隊[ないし種]であり、これは人間で、あれは錐だ[ということになる]。で、私の考えでは、この点にこそ類と種の全仕事が存するのである。
いったい、個々の[特殊な]存有者が絶えず産みだされるにあたって、いつも自然に新しく多用に作られるのでなく、相互にたいへん似かよい、近縁に作られること、これを私は否定しない。が、それにもかかわらず、人々が事物を種別する種の限界は人々が作ることは真だと私は考える。なぜなら、違う名まえで区別される種の本質は、これまで[本章で]明らかにされてきたように人間の作るもので、この本質が取られる事物の内的本性と[残りなく合致して]十全であることはまずない。それゆえ、事物のこうした種別の仕方は人々の仕業だと真に言えよう。」(『人間知性論』第3巻第6章、大槻春彦訳、岩波文庫)

日本語そのものがややわかりにくいが、ロックの原文は明解だ。

Nature makes many particular things, which do agree one with another in many sensible qualities, and probably too in their internal frame and constitution: but it is not this real essence that distinguishes them into species; it is men who, taking occasion from the qualities they find united in them, and wherein they observe often several individuals to agree, range them into sorts, in order to their naming, for the convenience of comprehensive signs; under which individuals, according to their conformity to this or that abstract idea, come to be ranked as under ensigns: so that this is of the blue, that the red regiment; this is a man, that a drill: and in this, I think, consists the whole business of genus and species.
I do not deny but nature, in the constant production of particular beings, makes them not always new and various, but very much alike and of kin one to another: but I think it nevertheless true, that the boundaries of the species, whereby men sort them, are made by men; since the essences of the species, distinguished by different names, are, as has been proved, of man's making, and seldom adequate to the internal nature of the things they are taken from. So that we may truly say, such a manner of sorting of things is the workmanship of men.

ロックの思想は通常「経験論」と「種別」され、同時代にヨーロッパ大陸で強い影響力をもった「合理論」と17世紀から18世紀にかけての思想界を二分するものとされる。実は、こうした「種別」そのものが人為的なものであり、のちに登場するドイツ観念論を整合的に位置づけるために哲学史のなかに導入されたものではなかったか。いったん経験論という種別をはずして考えれば、ロックの思想は、むしろ合理論哲学を代表するデカルトの思想と驚くほど似ており、経験論とはいうものの、この言葉から普通に連想される思想とは異なり、極めて観念的だ。ロックの場合にも、デカルトが提唱した「われ思う、ゆえにわれあり」はすべての議論の前提であり、ロック流の経験論は、外的世界(経験的世界)の解明に向かうのではなく、自己を徹底的に解明しようというものにほかならない。つまり、ロックにとっても、もっとも確実な知的実定性の基準は「自己」以外にはない。自己こそがロックの経験論の出発点であると同時にそのめざすところなのだ。実体についての議論があくまでも「観念について」という枠組みのなかで語られるのは、こうした理由からだと思う。
  1. 2005/08/24(水) 11:35:02|
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紳士と古いトランクとダンス

このブログを突然はじめたために、せっかくアクセスしても、なぜ私がロックの『人間知性論』を読んでいるか、文脈がわからないという方が大半と思う。実は私は6月にとある発表を行ったのだが、それがロックの思想(哲学的には、通常、「経験論」と位置づけられる)と深いかかわりをもっていたため、ロックの主著である『人間知性論』をきちんと読んでおく必要を痛感したのだ。
と同時に、18世紀思想全体を鳥瞰するため、この領域におけるもはや古典的研究ともいうべきフーコーの『言葉と物』もこのところずっと私の関心のなかにあり、まずは7月末に『言葉と物』を読み終えたので、引き続き『人間知性論』にとりかかっているというわけだ。改めて読んでみると、観念の分析(第2巻)から言語の分析(第3巻)へとすすむ『人間知性論』の議論展開は、まさに「言葉と物」のかかわりそのものを問題にしているといえ、フーコーの関心を掘り下げていくのに、ロックの『人間知性論』はかっこうの入門書といえると思う。
(『言葉と物』と『人間知性論』を続けて読みながらの私の関心事は他にもあるが、それはおいおい書いていきたい。)

ところで、『人間知性論』を読みながらベートーヴェンのCDを聴くというと、それではどちらにも集中できないのではないかとおしかりがありそうだが(^_^)、時間に追われる生活のなかではそれもやむなしとせざるを得ないといちおう弁解しておこう。
それはさておき、『人間知性論』のなかに、次のようなおもしろい記述があったので引用しておく。

「それはある若い紳士のことで、その紳士はダンスを習い、しかも、たいへん完全に習ったが、その習った室に、たまたま、古いトランクがあった。この目だった家庭用品の観念がその紳士のダンス全体の回転や歩調の観念と混じり合ってしまい、そのため、紳士はその部屋では見事に踊れるが、それもトランクが部屋にある間だけだったし、他のどんな場所でも、そのトランクあるいはそんなような別のトランクが室内の然るべき位置にないと、うまく踊れないのだった」(『人間知性論』第2巻第33章、大槻春彦訳)

なにか、フロイトを先取りしたような記述だと思う。
さて、私のなかで、ベートーヴェンの音楽が『人間知性論』の議論を思い起こさせる引き金になるかは、う~む???
  1. 2005/08/23(火) 15:23:21|
  2. 哲学
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「種村季弘 断面からの世界」展

今日(22日)は、銀座のスパンアートギャラリーhttp://www.span-art.co.jp/で開催の<種村季弘 断面からの世界>展のオープニングに行った。オープニング・パーティーは午後5時からだが、その時間はつごうが悪いので、午後3時頃、ワインをもってお祝いに。
今回の企画は、開廊10周年企画であると同時に、去年八月に亡くなった種村季弘さんのメモリアル展でもある(スパンアートギャラリーのオーナーは種村季弘さんの令息・種村品麻さん)。展覧会と同時に、平凡社から種村さんの美術論をあつめた『断面からの世界--美術稿集成』も刊行された。画廊には、種村さんが愛したアーティストたちの作品がところ狭しと並べられている。
時間が早かったので出展アーティストたちはまだ集まっていないが、ちょうど桑原弘明さんが来廊されたので、桑原さんの作品をみせてもらった。
桑原さんの作品は、小さな箱のなかに小さな世界を閉じ込めたもので、外からみるとただの箱にすぎない。今回は、10㎝くらいの立方体のなかに小さな部屋を再現し、懐中電灯を照らしながら、それを小窓からのぞきこむようになっている。小さな箱のなかの小部屋は電灯によって昼と夜とに表情をかえるのだが、部屋の奥に窓があって、その窓の外の世界の拡がりが暗示されているのが幻想的だ。桑原さん自身の説明によれば、部屋のなかのテーブルに置かれた葡萄の粒は、実際には0.3㎜ぐらいの大きさだという。気の遠くなるような作業を経てつくられた作品だ。
展覧会は、その他、絵画あり、写真あり、立体あり、人形あり。おもちゃ箱をひっくりかえしたように不統一なのがおもしろい。

ちなみに今回の展覧会への出展作家は次のとおり。
国内出品作家> 赤瀬川原平 秋山祐徳太子 池田瀧雄 井上洋介 上原木呂 加福多恵 川原田徹 鬼海弘雄 桑原弘明 佐伯俊男 瀧口修造 土井典 中根明貴子 中村宏 美濃瓢吾 真島直子 丸尾末広 山本美智代 渡辺兼人
国外出品作家> エルンスト・フックス カール・コーラップ ハンス・ベルメール フリードリッヒ・シュレーダー=ゾンネンシュターン フリードリヒ・メクセパー ホルスト・ヤンセン

会期は8月22日(月)から9月3日(土)まで。
  1. 2005/08/23(火) 01:58:44|
  2. アート
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最初はグー♪

サイトがサーバー・ダウンして開かないため、ブログを公開することを思いつく。とりあえず最初の記事は、昨日(8月21日)の日記。

   *    *    *

本日(21日)は午前9時頃起床。
起床後ただちにジョン・ロック『人間知性論』(岩波文庫)の(昨日まで読んだ)続きを読みはじめる。第2巻第28章「他の諸関係について」だ。この第2巻で、ロックは実体についていろいろ語っているのだが、それが実体そのものについての記述ではなく、あくまでも実体の観念についての記述であるというところがおもしろい。要は、実体そのものについては語れず、語りうるのは、それらがわれわれに与えるimpressionについてのみだという立場だ。
読みながら、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのCDを聴く。エミール・ギレリスが演奏する第30番&第31番。
12時過ぎ、冷蔵庫から適当なものを取り出して簡単なブランチ&ビールを一杯。
今日は午後から矢来能楽堂に若手落語家を聴きに行こうと思っていたが、予定を変更して洗濯をすることにする。洗濯はいつも近くのコイン・ランドリーで済ませているが、往復をいれると約2時間近くかかる。洗濯しているあいだ、『人間知性論』の続きを読む。
戻ってヴェランダを少し片づける。いろいろ鉢を動かしていたらキルタンサス(アフリカ原産のヒガンバナ科植物)に蕾がついているのを発見。この植物は気難しくて、3年に一度ぐらいしか咲かないので貴重。
小一時間かかってヴェランダの片づけが一段落したので、シャワー&ビール。落語会に行くのを中止したので、他には特に予定もなく、ぐだぐたムード。
夕方、ともかく八重洲ブックセンターに本を見にいくことにする。ブックセンターでチェックしたのは、音楽書(クラシック)のコーナー。そこから大丸に移動し、総菜を買い込む。夜は部屋でこの総菜をつまむことにする。
急いで大丸から戻ったが、部屋につくと、8時を少しまわっている。あわててNHK大河ドラマ『義経』をつける。今日の『義経』は、話は屋島合戦と壇ノ浦合戦の合間の熊野水軍をめぐるかけひきだが、内容的には(史実というより)もう完全に芝居と化しているので、私としては特に感想なし。
ふだんは、これでテレビを消すのだが、今日はそのままなんとなくテレビをつけていたら、9時からのNHKスペシャル「ウォーター・クライシス」がおもしろく、ちょっと考えさせられた。内容はインドやアメリカで農業用の地下水を汲み上げすぎて、地下水の枯渇がはじまっているというもの。農業のやり方そのものをかえない限り、非常に近い将来、農業そのものがダメになってしまうという深刻なレポートだった。日本にいると水はふんだんに使えるという感覚があるが、ヴェランダ園芸のちょっとした知識からも、このレポートの訴えは迫力があった。
さて、テレビを消して『人間知性論』に戻る。第2巻「観念について」を読み終え、第3巻「ことばについて」にはいる。
読みながらまたベートーヴェンのピアノ・ソナタのCDをかける。今度はポリーニが演奏する第30番、第31番&第32番。私が購入し、聴いたのは、ギレリスよりもこのポリーニ盤が先だったように思うが、(したがって)聴き慣れているはずの演奏が、今日聴くと、あまりにもバリバリ演奏しすぎているようで神経が逆なでされる。ギレリスの演奏もバリバリ弾いているようでありながら、ポリーニに比較するとよほどロマンティック。イライラするので第30番は飛ばして、第31番(この演奏も今日の私にはしっくりこない)、第32番を聴く。
一日、特になにといってしたわけではないが、『人間知性論』はだいぶ読み進んだ。
  1. 2005/08/22(月) 13:05:27|
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