le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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論文提出

昨日(29日)はようやく論文を学会に郵送した。今日が提出期限なので、昨日の郵送というのは、ギリギリのライン(まあ、いざとなれば、今日学会に持参するという手もあったわけだが)。提出するのが、レジュメ入りの原稿なのかレジュメと原稿を別々にプリントするのか、枚数制限はレジュメ込みなのかレジュメ別なのか(私の論文はレジュメをいれると規定の50枚を数行オーバーする)よくわからず、確認のため郵送をのばしているうちに原稿に手を入れるという悪循環(?)から、結局はギリギリまで原稿とにらめっこすることとなった。プリント・アウトした段階ではそれが決定稿のはずだったのだが、こうして少し時間が経つとまた不満がでてくる。提出した原稿は、6月に口頭発表したときのものよりはよくなっているはずだから、まあそれでよしとしよう。書き足りなかった文は、また新しく論文を書けばよい。
論文提出が済んだら、またいろいろな本を読もうと思っていたのだが、数日間、論文のことを必死で考えていたせいか、本棚をざっと見回してもそそられる本がない。それではと予定を変更し、気分がのっているところで、論文のなかでとりあげているMの著作の翻訳を完成することに決めた。
この著作は、18世紀に書かれた政治的作品なのだが、政治に関する議論を8通の手紙で知人に紹介するというスタイルをとっている(私の論文の前半は、この架空の手紙がもつ日付から、手紙が書かれた背景を考察したもの)。このうち第三の手紙までは翻訳済みで、今回の論文は、その第三の手紙を翻訳しているうちに一番わかりにくかったところを中心に分析したものだ。翻訳といっても、残り5通の手紙だけだから、集中して取り組めば、さして大変な量ではない。
ところで、第三の手紙のなかでわかりにくかった点(論文の要点)というのは、prescriptionという言葉の二重の意味。Mは、財産に関して、prescriptionが財産を守るというのだが、この場合のprescriptionは「時効」と訳される。ところで、財産がなぜ時効にかかるのかというと、Mは、個人財産というのは社会創設以来の本来的なものではなく、ある時点でその人のものと規定されたからだという論理を展開する。そしてここでいう「規定」もまた、prescriptionのもう一つの意味なのだ。整理すると、個人財産がある人に帰属するのに明確な理由はなく、それがある人のものだというのは社会的な「規定」にすぎない(とMは主張する)。とすれば、この論拠薄弱な個人財産がある人のものだと認められているのは、ずっとそれに反対する人がいなかったという「時効」による、というのだ。この議論とからめながら、Mはフランス国王の絶対的支配権も時効によるのだとして、絶対王政に反対する議論を展開していく。
「時効」という概念をこのような文脈で語った思想家を私は知らず、これは紹介に値するのではないかと思ったことが、某学会での口頭発表につながったというわけ。
Mの著作は日本ではまだ全然翻訳されておらず、どのようなかたちにせよ、とりあえず訳しておけば、次の人がMの思想に関心をもつきっかけになってくれるのではないかと思っている。
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  1. 2005/09/30(金) 10:24:50|
  2. 身辺雑記
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研究論文がほぼ完成!

ここ数日、9月末が締め切りの論文(50枚)に追われていたが、ようやくメドがついた。私の論文は、フーコーの『言葉と物』でも大きな主題としてとりあげられている18世紀の思想に関係するもの。実は、6月にしろうとながらとある学会で研究報告したところ、思いがけずも、報告者はその報告をもとにして論文を執筆し学会の年報に投稿する資格があるといわれ、気をよくして挑戦していたもの。6月の報告の時点で内容は論文スタイルにまとめられていたのだが、口頭発表だったので、論文ならば註にあたるものを参考資料として添付しており、それを註として取りこむというのが、私の投稿論文執筆のポイント。執筆といってもゼロから書くのではなく、改訂作業なので気は楽だ。
改訂の合間に『言葉と物』を読んだのは、フーコーの問題意識を論文に反映できないかと思ったため。ただし『言葉と物』の18世紀思想に関する記述に関していえば、かなり一般的な視覚から書かれているので、今回の論文に取り入れられる論点はなかったというのが正直な感想。
また、6月の学会では一橋大学のMさんから私の報告の一部に対する反論があったので、その反論に対する回答は本文に取りこんだ。
投稿論文はそれでほぼ完成のはずだったのだが、全体を見なおしているうちに、とりあげているテクストの解釈に重要な誤りがあることに気がついた。間に合ってよかった!ということで、その部分も訂正。残るは、欧文(私の場合はフランス語)によるレジュメだけとなった。
これが終われば、大きな肩の荷がおりる感じ。
もっとも、論文には査読があるというので、投稿しても採用されるかどうかは明らかではない。しかし、自分としてはベストをつくして誰もとりあげたことのないテクストを分析したので、採用されなかったとしても満足だ。
論文を無事投稿したら、少し充電してから、論文でとりあげたテクストを全訳するつもり。50歳を超え、自分ができることには限りがあることがはっきりしてきたので、こうして少しずつ目標をたてながら進んでいくことにしたいと思っている。

(ということで、今月中はあまり大きな書き込みができないかもしれませんが、悪しからず♪)

【追記】
とりあえずレジュメを書き上げました。あとは註の手直しが残っています。(9/27)
  1. 2005/09/25(日) 01:55:53|
  2. 身辺雑記
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『メゾン・ド・ヒミコ』撮影秘話ーー青山吉良さん突撃取材から

このところ書き込みの内容が固い話題ばかりになってしまったが、19日は、新宿のタックスノットで、『メゾン・ド・ヒミコ』の出演者・青山吉良さん(山崎役)に突撃取材(?)してきた。
青山さんの話はいろいろおもしろいものだったが、要点は次のようなことになるだろうか。

・『メゾン・ド・ヒミコ』のなかで犬童監督は、実は冒頭近くのメゾン・ド・ヒミコでの最初の会食シーンに力をいれて撮影しており、そのところをじっくりみてもらいたいと思っているとのこと。
(この食事シーンは、メゾン・ド・ヒミコの住人がすべて顔をそろえる最初のシーンであり、そういう意味からも非常に重要なのだが、それ以上に、老人ホームに不相応な食卓のゴージャスさが眼についた。前作『ジョゼと虎と魚たち』のなかでは、SEXシーンのなまなましさ、重要さがさまざまな映画評で指摘されているが、そういう意味では、『メゾン・ド・ヒミコ』では性欲とならぶ人間のもう一つの大きな欲、「食欲」を生のまま提示することが大きな意味をもつと犬童監督は考えたのだろうか。このシーンは、それをとらえるカメラ・アングルなども含め、もう一度じっくりみてみたい。)

・『メゾン・ド・ヒミコ』の撮影中は、約三週間、出演者ほぼ全員が御前崎近くのホテルと民宿に缶詰状態だったのだが(そこの民宿の食事がとてもおいしかったという)、そこで卑弥呼役の田中泯さんが行っていたのは、ひたすらな断食だっという。癌の末期症状で死が近い卑弥呼を体に覚えこませようとしていたのだろう。非常にいいエピソードだと思う。

   *    *    *

【追記】
『メゾン・ド・ヒミコ』および犬童映画についてのさまざまな意見や感想については、肯定・否定いろいろな立場からのものが、ブログ「わにわにしちょし」からTBされており、この映画がどのように受けとめられているかを知るのに便利です♪ (9/22記)
ブログ「フツーに生きてるGAYの日常」でも、『メゾン・ド・ヒミコ』について活発なTBやコメント交換が行われてますから、ご参照を。 (10/1)

(私には、トラックバック機能の操作方法がよくわからないので、このように本文に追記するかたちでしかTB返しができません。悪しからず。)
  1. 2005/09/21(水) 11:45:00|
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『言葉と物』とハイデガーの思想:その3

この辺でもう一度『言葉と物』に戻ろう。
しかし、ここでは、これまでの書き込みとは少し視点をずらしてみる。
フーコーの『言葉と物』がハイデガーの『存在と時間』を意識していることはこれまでの書き込みで了解していただけたのではないだろうか。ではなぜ、フーコーは、『言葉と物』は『存在と時間』を意識した著作だと明言せず、「つねにすでに」という術語の使用によって『存在と時間』を暗示するという複雑な戦略(=見せない、外す、踏み込まない)をとったのだろうか。
著作のなかに『存在と時間』の参照箇所を明記し、『言葉と物』がハイデガーの影響を受けているといわばカミング・アウトするのは、ある意味で容易なことである。
しかしここでフーコーがおそれたのは、ハイデガーからの影響を明白にカミング・アウトすることで、読者の了解が「なんだハイデガーか」ということに安住してしまい、それより先に進まなくなってしまうことだったのではないだろうか。
そうではなく、『言葉と物』を書く際にフーコーが考えたのは、ハイデガーがたてた重要な問い(問題意識)を、ハイデガーという固有名詞をはずすことによって、読者がフーコーとともに自己の問題として新たに問い直すことではなかったか。
ここで、このブログの最初の方に書き込んだ、『言葉と物』の書き出し「シナのある百科事典」の引用にもどっていただきたい。
「シナのある百科事典」を紹介しながらフーコーが示しているのは、モノは最初から明確なかたちで分類され、とあるモノとして明確に存在しているのではなく、分類も規定も、いかに恣意的なものであるかということだ。
ハイデガー哲学の分類や規定に関しても問題はおなじであろう。「これがハイデガー哲学だ」と指摘し、分類した瞬間、ハイデガーがたてた根源的な問題は、するりと手からすべり落ちてしまう。
したがって問題は、ハイデガーからの影響をいかに明言するかではなく、いかにその問題意識を共有するかなのだ。そのとき、ハイデガーという固有名詞(既知の概念)の明示は、妨げにこそなれ、なんのたすけにもならない。

こうしたフーコーの言説戦略が、大島弓子のそれと親和性があるといったら、「そんなバカな」と一蹴されてしまうだろうか。
すでに書いたように、大島弓子の作品は、世界の崩壊に対する一種の警告であり、その警告は、真剣になればなるほどメルヘンの色調をおびる。彼女の作品においては、大きな声で明確に語られるものではなく、小さな声でひっそり語られるものこそ、実は重要である。
われわれは、大島弓子の作品を読むように、繊細な眼で、かつ既存の価値観から自分を解きはなって、『言葉と物』を読まなくてはならない。
  1. 2005/09/18(日) 13:13:51|
  2. 哲学
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「つねにすでに」ーーハイデガーにおける了解の構造

ここで『言葉と物』を少しはなれ、ハイデガーが「つねにすでに」という言葉を用いるときに意図するものは何か、なぜこの奇妙な二重副詞がハイデガー読解のキー・ワードでありうるのか、少し追ってみたい。その前提としてまずは、「存在と時間」のなかから、Zuhandensein(用具的存在)の定義に関するテクストを引用。

「道具がその存在においてありのままに現れてくるのは、たとえば槌を揮って槌打つように、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉においてのみであるが、そのような交渉は、その存在者を出現する事物として主題的に把握するのではなく、ましてそのような使用が、道具そのものの構造をそれとして知っているわけではない。槌を揮うことは、槌にそなわる道具的性格についてのたんなる知識しかもたないだけではなく、それ以上適切にはできないほどこの道具をすっかり自分のものにしている。このような交渉において道具を使用しながら、配慮は、それぞれの道具を構成している<…するためにある>という指示に服している。槌がたんなる事物として眺められるのではなく、それが手っ取りばやく使用されればされるほど、槌に対する関わり合いはそれだけ根源的になり、槌はそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。槌を揮うことが、みずから槌に特有の便利さ(「手ごろさ」)を発見するのである。道具がこのようにそれ自身の側から現れてくるような道具の存在様相を、われわれは用具性(Zuhandenheit)となづける。道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。」(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫版上巻、163頁、原著69頁)

さて、この用具的存在(道具)だが、人間(現存在)がとあるものを道具に仕立てるというよりは、ハイデガーによれば、ある意味で、道具が人間を人間たらしめるといえるのではないだろうか。つまり、道具は個人としての人間に先行して存在しており(われわれは道具に取り囲まれて生まれ・育つ)、人間がそれらに価値や意味を与えていくというより、人間の意味はその道具によって規定されているという面があるのではないだろうか。
人間が道具(たとえば槌)を使用するとき、道具を道具たらしめるその使用法(つまりその道具の意味)は道具のなかにすでに取り込まれており、道具を使用しながら、われわれはその使用法を実地で確認していく。それが「道具に呼吸を合わせ」「すっかり自分のものにしていく」ことである。こうしたなかで、ある道具がある形状をもつのは(たとえば、この文章を読んでいるときにあなたの目の前にあるPCのキー・ホードがそうした形状と文字の配列をもつのは)、それを使用する人間の手や指などの形や動きとその手や指を動かす能力が、その道具のなかにあらかじめ取り込まれているからであり、ここで視点を反転させれば、道具を使用しながら、われわれは、われわれがそうした能力をもった人間であることをつねに確認している(道具の使用によって、われわれはつねに、「人間である」という事実性のなかに送り返される)。
道具を使用するときに端的にあらわれてくるこうした道具と人間の関係(道具と人間のトラック・バック)は、ものごとの根源的な了解というはたらきを結び目として、われわれがなにものか(なにごとか)を了解するとはどのような事態であるかという問題と、深く関わってくる。

「およそ了解において開示されたもの、すなわち了解されたものごとは、いつでもそれについてそれの<…として>(als)が浮かびあがりうるようなありさまで与えられているのである。この<として>は、了解されている事柄の表明性の構造をなしている。そしてそれが、解意を構成するのである。」(上掲訳書上巻、322頁、原著149頁)

私は、このというフレーズは、『存在と時間』のなかでも最も重要な指摘の一つだと考えている。
われわれが「○○とは何か」という問いを発し、それに解答が与えられるとき(=われわれが○○を了解するとき)、その解答は「○○は△△だよ」という構造をもつが、この△△はわれわれに既知のものでなくてはならない(そうでない限り、われわれは○○を心の底からは了解できない)。これを言い換えれば、つまり、有効な解答とはつねに、既知の概念を用いて「△△として」与えられるということになる。
ということは、われわれはつねに、○○を問うとき、○○という未知のものへの解答をすでにあらかじめもっているということであり、実はこの「あらかじめ」の構造が、問うという行為を成立させているということになる。
つまり、われわれが問いを発するということ、そしてそれにある解答が与えられ、われわれがその解答を了解するということは、「つねにすでに」という構造のなかで行われているのであり、「問いと了解」、言い換えれば「未知と既知」の問題は、「つねにすでに」を問うかたちで行われなくてはならない。

かくて、「つねにすでに」は、『存在と時間』の生命線ともいえるような、非常に重要な用語(概念)なのである。
  1. 2005/09/18(日) 11:01:23|
  2. 哲学
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『言葉と物』とハイデガーの思想:その2

『存在と時間』の直接の大きな主題はもちろん、存在および時間の問題だが、これを解明するために次のような見通しで研究にのぞむことを、ハイデガーは『存在と時間』のなかで明らかにしている(原著39~40頁;ちなみに、このブログで『存在と時間』に言及する必要がある場合には、細谷貞雄訳のちくま学芸文庫版を用いる)。

第一部
 第一編 現存在の準備的な基礎分析
 第二編 現存在と時間性
 第三編 時間と存在
第二部
 第一編 カントの図式論および時間論ーー時節性の問題設定の前段階として
 第二編 デカルトのの存在論的基礎と、res cogitansの問題圏への中世的存在論の継承
 第三編 古代的存在論の現象的基盤とその限界の判別尺度としてのアリストテレスの時間論

しかし、実際の『存在と時間』は、この綱要の第一部第二編にあたる「現存在と時間性」で中断され、その後書き継がれることがなかったために、『存在と時間』について考察する場合、書かれた『存在と時間』の分析と同時に、その全体構想や照準がどのようなものであったのかも問題にされ、最近では、書かれた『存在と時間』は、ハイデガーの全体構想のなかで読み解かれるべきだとされることが多い。
ところでその全体構想だが、第二部の綱要をみると、ハイデガーの意図するものは西洋哲学史の再構築であり、それをカントからデカルトへ、デカルトからアリストテレスへと時間を遡ることではたそうと考えていたことが明白である。
フーコーの『言葉と物』は、ハイデガーが西洋哲学史の大きな切れ目と考えていたデカルトとカントに照準を合わせ、17~18世紀にかけての古典主義時代(=デカルト以降)の学問や思想と19世紀(=カント以降)の学問や思想のあいだになにが生じたのか、具体的に分析していく。
すなわち『言葉と物』の構想は、『存在と時間』第二部の第一編・第二編と対応し、ハイデガーが果たさなかった『存在と時間』の問題意識を批判的に継承しているのであり、西洋哲学史に対するフーコーの見通しとハイデガーの見通しの一致が偶然のものではなく、意図的なものであることを暗示するために、フーコーは「つねにすでに(toujours deja)」というハイデガー語(ハイデガーに即していうならばimmer schon)を用いているのだ。

この辺で、今回の私の『言葉と物』の読みの出発点となった『存在論的、郵便的』のなかの東浩紀の記述に戻り、東による『言葉と物』の要約をみておこう。この要約は、それ自体、非常によくできていると思う。
「彼(フーコー)は66年の『言葉と物』において、ルネサンス、古典主義時代、近代の三つの時代におけるエピステーメーの変遷をきわめて簡潔に描き出した。ルネサンス的知は言葉(=語mot)と物(chose)とを同じ空間に配置する。それゆえそこでは、語についての考察と物についての考察、例えば「蛇」の語源的探究と蛇の解剖学的特徴とが併置されて記述されることになる。対して古典主義時代は、語の世界と物の世界、表象の秩序と自然の秩序、メタレヴェルとオブジェクトレヴェルの二位相を峻別する。つまりそこでは「蛇」という語は蛇という物の透明な表象と見なされ、語源的探究と解剖学的特徴とは記述のうえで厳密に区別される。古典主義的知は、表象の秩序と自然の秩序とを別々に整理する。そして最後に近代、18世紀以降の西欧世界では再び二位相の峻別が揺らぐ。そこではもはや、表象の秩序の自律性、メタレヴェルのメタレヴェル性は自明と見なされない。したがって近代的知は、語の領域と物の領域の整理に別々に携わることができない。かわりにその知は、語/物(思考形式/思考対象)の二重性を産出する特殊な存在者、「経験的=超越論的二重体」としての「人間」の分析に向かう。すでに明らかなように、以上の「考古学的」記述は前期ハイデガーとまったく同じ論理展開で進められている。近代的知は、メタ/オブジェクトのレヴェル分けそのものの産出構造について探究する。このフーコーの主張は私たちの術語で表現すれば、近代的知が、総じて否定神学システムを扱うことを意味する。18世紀末には一方で批判哲学が、クラインの壺構造を純粋な形態で、すなわち「人間」として検討する知として登場する。そして他方で文献学・生物学・経済学が、クラインの壺構造を唯物論的に探究する知として、その構造の具体的現れの場所(言語・生命・労働)にしたがい配分され登場する。
 私たちは『言葉と物』と『存在と時間』とのこのパースペクティヴの類似性から、つぎの二つの帰結を引き出すことができる。一方でフーコーの認識は、前期ハイデガーの仕事、前述した否定神学的「超」の発見を歴史的に相対化するものだと思われる。ハイデガー自身が29年の『カントと形而上学の問題』で詳述したように、存在-存在者-現存在(メタ-オブジェクト-クラインの管)というクラインの壺的構造は、ある意味ですでにカントに潜在していた。それゆえ『存在と時間』の重要性は厳密には、新種の「超」の発見にではなく、形而上学的「超」の背後につねにすでに機能していた、別種の「超」の再発見にこそ求められねばならないことになる。
 しかし他方で『存在と時間』と『言葉と物』の類似性は逆に、つまりそこで、フーコーがハイデガー自身を用いてハイデガーの相対化を試みていたことをも示唆するように思われる。」(『存在論的、郵便的』256~8頁)
  1. 2005/09/16(金) 10:55:38|
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『言葉と物』とハイデガーの思想:その1

フーコーの『言葉と物』(渡辺一民、佐々木明訳、新潮社、1974年刊、原著は1966年刊)を読んだ。この著作、実は30代、40代にも読んでいて、今回が三読目。最初に読んだときは、フーコー独自の発想がどこからくるのかさっぱりわからなかったため、とにかく難しくて読むのに時間がかかり、二度目は逆に、最初の読みにくさが嘘のようにすらすらと納得しながら読め、今回は、最初読んだときに自分がなぜ『言葉と物』につっかえたのか、また二度目はなぜすらすら読めたのかなど、ちょっと客観視しながら読んだ。『言葉と物』の場合、たまたまちょうど10年おきぐらいに読んでいるので、なにか自分を発見する旅をしているようだ。

ところで、今回の読みのなかで、もっとも気になっていたのは、東浩紀が『存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』(新潮社、1998年)のなかで指摘しているハイデガーの『存在と時間』との関係(同書258頁)。自分でもそれが確認できたという意味で、収穫のある読書だった。

まずこの『存在と時間』との連関という観点から、『言葉と物』のテクストをチェックしてみよう。
「起源にあるものの直接性のなかで告示されるのは、したがって、人間は、人間をその固有の実存と同時期のものとするような起源から引きはなされているという一事であろう。時間のなかで生れ、もちろんそこで死んでいくあらゆる物のなかで、人間は、いかなる起源からも引きはなされ、すでにそこにあるわけだ。かくして、物が(人間のうえに張りだしている物さえも)そのはじまりを見いだすのは、人間のうちになのであって、人間こそ、持続の何らかの瞬間に刻印された傷痕というよりはむしろ、そこから出発して時間一般が再構成され、持続が流れ、物がそれ固有のときに出現することのできる、そのような入口にほかならない。経験的領域で、物がつねに人間にたいして後退し、その原点において補捉しえぬとすれば、人間も、基本的には、この物の後退との関係において後退しつつあり、物が、起源についての経験の直接性にたいして、その堅固な先住性の重みをくわえることができるのも、まさしくそれゆえなのである。
 そのとき、ひとつの任務が思考にあたえられる。物の起源に異議を申したて、しかも、それにもとづいて時間の可能性が構成される様態を再発見しながら、物の起源をーーこの場合の起源とは、そこから出発してすべてが誕生することのできる、起源もはじまりもない起源のことだーー基礎づけるために異議を申し立てる任務である。このような任務は、そこから時間の由来する裂け目が時間継起も歴史もなく出現するように、時間に属するすべてのもの、時間のなかで形成されたすべてのもの、時間の可動的な本領に宿るすべてのものが、疑問に付せられることを含意している。そのとき時間は、それでも時間を逃れられぬあの思考のなかで、その思考がけっして起源と同時期のものでない以上、中断されるであろう。けれどもこの中断は、起源と思考とのあの相互関係を転倒させる力を持つにちがいない。起源と思考との相互関係はそれ自身のまわりを一回転し、起源は思考がなおつねにあらたに思考しなければならぬものとなるから、つねにより間近い、だがけっして到来しない切迫のうちに思考にたいして約束されるであろう。そのとき起源は、立ちもどりつつあるもの、思考の赴く反復、つねにすでにはじまっているものの回帰、どんな時代にも輝いてきた光の接近となるだろう。こうして、三たび、起源は時間をつらぬいてその横顔を見せる。けれどもこのたびは、それは、未来のなかへの後退であり、思考を可能にすることを止めなかったものを目指しての鳩の足どりですすみ、前方、つねに後退していく地平線上に、思考がそこからきた光、思考がそこから豊かにあらわれる光を見張るようにという、思考が受けとりみずからに課する緊急命令にほかならない。」(『言葉と物』~第九章「人間とその分身」、353~4頁)

フーコーは引用文のなかほどで、「つねにすでに」というやや奇妙な感じのする言い回しを使っているが、この「つねにすでに」はハイデガー特有の術語であり、この箇所でフーコーは、ハイデガーという固有名詞を挙げることなくハイデガーに言及するというアクロバット的な書き方をしていることが、具体的に確認できた。
  1. 2005/09/16(金) 01:44:15|
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石塔からみる異文化交流

今日(11日)は國學院大学で行われたシンポジウム「石塔形式の将来にみる異文化交流ーー中世の宝篋印塔を中心として」に行った。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)というのは、中国で生まれ、平安末期ごろから日本でも数多くつくられるようになった仏教宝塔の一種。この宝篋印塔について岡本智子さん(大阪府文化財センター)、張穀捷さん(東京芸術大学客員研究員)、山川均さん(大和郡山市教育委員会)の三人が、さまざまな角度から最新の研究成果を報告した。
なかでも張穀捷さんは、上海の同済大学から東京芸術大学に留学している研究者で、難しい日本の仏典などを丹念に読み、日本語で報告された熱意には頭がさがった。
宝篋印塔の研究は現在進行形で、鎌倉時代の異文化(日宋)交流という視点から興味深いものがあるが、国内の問題にしぼっても、その形体や建造された経緯から、仏教界と政治のからみなどさまざまな歴史的事実が浮かびあがってくる。どうしてもテクスト読解中心になりがちな中世思想の研究が、宝篋印塔というモノの分析をとおして明らかになってくるのが、とてもおもしろいと思った。
  1. 2005/09/11(日) 22:54:13|
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これは犬童マジック!ーー『タッチ』

東京大会の決勝、九回、二死の場面で達也が決め球を投げたら涙がでた。
この映画は犬童マジック。すごい!

昨日、渋谷のシネクイントで『タッチ』を観た。『少年サンデー』に連載していたあだち充の野球コミック『タッチ』の映画化。とはいえ、私はあだち充のコミックを全然読んでいない(大島弓子は読んでいるのに<笑>)。もっとも、犬童一心監督も、映画化の依頼があるまで『タッチ』を読んでいなかったというから、まあいいか。
ただ、犬童監督の原作分析はすごい。『少年サンデー』と『少年マガジン』のコミック誌としての違いにまで踏み込んで、そのうえで、「上品で清潔」というイメージをもつ『少年サンデー』に連載していた作品として『タッチ』を映画化したという。

初日なので大勢の観客がいるが、そのほとんどが『メゾン・ド・ヒミコ』の観客とは全然違うタイプの人たちだというのもおもしろい。大半は、原作『タッチ』のファンなのだろう。開演を待つ間、みんな自分は原作『タッチ』のどこが好きか、とても熱心に話をしている(私などのように、映画のあら探しのために来ているものは浮いた感じ<笑>)。

で正直なところ、少なくとも私には、この映画全然もりあがらない。双子の斉藤兄弟や長澤まさみなど、演技力の未知数な若い役者中心のドラマだから、犬童監督ももりあげようがないのか、描写がとてもさらっとしている。主人公達也の弟・和也の死の描写も非常にあっさりしていて、弟を失ったといういたみがどうも伝わってこない。
(役者では原田正平役のRIKIYAがいい。彼には昼ドラの『危険な関係』以来注目しているのだが、もうけものみたいないい役をもらって、とても楽しそうに演じている。)
これは、役者の違いだけでなく、『金髪の草原』や『メゾン・ド・ヒミコ』と異なり、自分の内面からでてくるテーマを扱ったものではなく、依頼されて監督を引き受けたからかななどと思いながら、ともかく後半を観る。

ところがである。
和也にかわってピッチャーとなった達也の命運をかけたマウンド、対須見工業戦の九回二死の場面で犬童マジックは起こったのである。
和也のライバルでもあった須見工業の強打者を迎え、まっこうから勝負したい達也だが、チームの勝利のために敬遠を決意する。その達也の本心を見抜いたキャッチャーが、勝負に出ることを決める。第一球は速球でストライク。マウンドの上を流れる時間が長い。第二球…。
話の展開から達也が相手の強打者を打ち取るだろうということは見え見えなのだが、それでも画面に集中させられてしまう。
そして万感の思いを込めて第二球が投げられた瞬間、私は作品と一体となり、自分自身が宙に放り出されたような無重力状態を感じた。

作品全体は、非常にあらいつくりだし、普通の意味ではけして出来のいい作品とはいえないのだが、犬童監督は、ここでも全力投球して不思議な感動をうみだす映画をつくった。上映終了後、そこかしこから「ほう」というようなため息がきこえた。

不思議な感動につつまれながらシネクイントをでると、眼の前に、シネマライズの『メゾン・ド・ヒミコ』の看板が飛び込んできた。
  1. 2005/09/11(日) 11:16:56|
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不可能な恋の顛末記ーー『ジョゼと虎と魚たち』

ホップ、ステップ、ジャンプ。
犬童一心の映画『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)を『金髪の草原』(2000年)と『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)のあいだにおいたとき、そんな「ステップの映画」といえるだろうか。
『ジョゼと虎と魚たち』には、『金髪の草原』にみられたような、直接のファンタジーはない。大阪の下町を舞台に、若者の生態が静かに描かれる。
青春映画?恋愛映画?
この映画に燃えるような恋はなく、燃えない恋が燃えないまま描かれ、燃えないまま終わる。燃えあがるばかりが恋ではないということが共感をよび、大勢の人に支持されたのだろう。

麻雀屋でアルバイトをする大学生・恒夫(妻夫木聡)は、ある朝、麻痺で乳母車に乗ってしか動けない少女ジョゼ(池脇千鶴)と出会い、ジョゼの家に入り浸るようになる。
例によって動機のはっきりしないあいまいな人間関係。
映画の前半は、押入のなかに祖母が近所から拾ってきた本を積み重ね、それを読むことと乳母車に乗せられての散歩だけが外界との唯一の接点だったジョゼの生活の描写。
祖母の死を機にジョゼがひとりぼっちになったことを偶然知った恒夫は、ジョゼの家を訪ね、誘われるままにジョゼと肉体関係を結ぶ。
果たしてこれは恋?
ジョゼを車に乗せての九州への初ドライブ。二人の気持ちを結び付けるはずだったドライブが、二人の気持ちに違和感をうんでいく。
それからしばらくして、介護に疲れた恒夫はジョゼを捨てる。
後には成熟した女になったジョゼが残される…。

前作『金髪の草原』では、日暮里邸とヘルパー・なりす(池脇千鶴)の日常が交互に描かれ、そのなりすの日常は、ドキュメンタリー風なタッチで際立っていたが、『ジョゼと虎と魚たち』は、いってみればそのなりすの日常をそれだけ取りだして拡大したような映画だ。犬童一心をファンタジーの作家とみるならば、そのファンタジーがある特定の空間にだけ広がっているのではなく、むしろあたりまえの空間のなかにもファンタジーがあるということを主張しようとしたということになるだろう。あるいは、安易なファンタジー表現を嫌って、日常にどこまで接近できるか、自分にかせをはめてみた映画といえるだろうか。
『金髪の草原』で、老人とヘルパーの不可能な恋を追った犬童が、ここでは身体障害の少女と健康な若者のあいだの不可能な恋とその結末を追ったとみることも可能だろう。

ただ、実際にできあがった『ジョゼと虎と魚たち』の完成度には、私はやや疑問をもつ。日常の描写のなかにファンタジスト犬童がはいりこんで、描写を甘くしてしまっている。この映画、もっと突き放して、リアリズムに徹して撮るべきではなかったか。
主人公・恒夫を演じる妻夫木聡もミス・キャストだと思う。演技がどうこうというのではなく、どこかツルンとした印象を与える妻夫木のハンサム・フェイスが、作品全体の方向性とマッチしていない。

とはいえ、『ジョゼと虎と魚たち』のこうしたリアリズム探究があるからこそ、『メゾン・ド・ヒミコ』の惜しげもないファンタジーの爆発があるのだと思う。
『金髪の草原』から直接『メゾン・ド・ヒミコ』に到達するのではなく、あいだに『ジョゼと虎と魚たち』を制作するということに、作家・犬童一心の「真実」をみる。
  1. 2005/09/07(水) 11:35:05|
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実に切ない作品ーー『金髪の草原』

これは切ない、実に切ない、そしてファンタスティック。
ビデオで犬童一心監督の映画『金髪の草原』を観た。
同名の大島弓子のコミックを映画化したもので、1999年制作、2000年公開。

80歳の老人・日暮里歩は、記憶を失って、ある朝20歳の青年として目をさます。心は青年だが実際には老人なので、目もかすみ、体も思うように動かない。彼に向かって少女(孫娘)は「じじい」と呼ぶ。なにやらカフカの『変身』やタイムトラベルものを思わせるSF的で奇妙なはじまりだが、みているうちに、そういう直接的な幻想性を狙った作品ではないことは、すぐに明らかになる。
とまどう日暮里の前に、なりすという若い女性がホーム・ヘルパーとして訪れる。彼女は日暮里が通う大学(実は彼が60年前に通っていた大学)の前でいつもみかけるマドンナにうり二つだ。偶然の出会いにとまどいながらも喜びを隠せない日暮里…。

映画は、この日暮里歩を、彼の内面のまま若い役者(伊勢谷友介)が若者のメークで演じる。シュールといえばシュール、虚といえば完全な虚。この先、ドラマとその描写はいったいどうなることかと、われわれは映画の展開、犬童の手法の双方を興味津々みまもることとなる。

80歳の日暮里を若い役者が演じる以外、作品にはこれといったしかけはない。日暮里邸での一日の描写が済むと、場面は弟と二人で暮らすヘルパーなりす(池脇千鶴)のアパートにかわり、日暮里邸での変わったできごとを弟や女友達に話すなりすの日常生活が描かれる。以後、日暮里邸でのできごととなりすのありふれた日常が交互に描写されるのだが、なりすの日常がありふれたものとして描かれれば描かれるほど、日暮里の描写は奇妙にうつる。

ドラマはなりすの失恋をきっかけに急展開する。なりすへの思いをつのらせる日暮里。われわれはそれをありえないことと理性ではわかっているのだが、画面に映し出される日暮里が若い男であるために、一瞬、ありうることと錯覚してしまう。
この辺、コミックであれば単にそうした約束事として済む描写が、実写で映し出されると違和感が増幅する。コミックと映画(実写)の効果の違いを計算した、犬童のきわめてたくみな構成というしかない。

さて、この奇妙な夢と現実の交錯はどのような結末を迎えるのか。夢が勝つのか、現実が勝つのか…。詳細は作品に譲るが、残酷で、切なく、それでいてファンタスティックな終わり方だ。それでもあえて一点だけ書くとすれば、伊勢谷友介が伊勢谷友介のまま終わるのがいい。

『金髪の草原』と『メゾン・ド・ヒミコ』に共通するのは、不可能な恋の探究ということだろうか。両作品を比較して、作品全体の香り高さと美しさ、展開の巧みさということでは『メゾン・ド・ヒミコ』に軍配をあげたいが、だからといって『金髪の草原』が『メゾン・ド・ヒミコ』に完全に劣るというわけではない。『金髪の草原』は、話の内容とそれを語る手法がストレートな分だけ、感動もストレートだ。こんなことありえない、絶対にありえないと何度もくりかえしながら、一方でその矛盾を肯定したくなっている自分に気づかされる。
なんという作品!

伊勢谷友介は、20歳のまま記憶が停止したボケ老人という難しい役所をみごとに演じているだけでなく、大正生まれの帝大生というカチっとした雰囲気もただよわせている。特筆にあたいするすばらしい演技だ。
  1. 2005/09/04(日) 22:22:13|
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現実へのしなやかな抗議ーー大島弓子『つるばらつるばら』

…ということで、気になる大島弓子の作品集『つるばらつるばら』(白泉社文庫)を読んでみた。表題作『つるばらつるばら』のほか、『夏の夜の獏』『ダイエット』『毎日が夏休み』『恋はニュートンのリンゴ』を収録。作品は1988年から1990年にかけて『ASUKA』に発表されたものだが、その感覚は今読んでもみずみずしい。

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作品のテーマは、『夏の夜の獏』など三作が家族の崩壊(離婚)と再生を扱った深刻なもの。しかしそれとは逆に、絵のタッチはどこまでいってもかわいらしくファンタスティックだ。
また『夏の夜の獏』をはじめとする作品の主人公たちは、コミュニケーションを失いつつある大人たちの世界から身を守るため、みずからを大人化し、大人たちを子供とみている(そうした視線をもった主人公たちが、自分の実年齢の子供たちや兄弟たちと交流できないのはこれも当然で、主人公の多くは登校拒否して学校には行っていない)。
そんなちょっとこわいくらいの内容を、それとはアンバランスなまるでメルヘンのような絵で描く。それが大島弓子の世界だと、最初にあらためて確認。
さて、作品集『つるばらつるばら』に描かれる世界のなかでは、平和で安穏な家庭はすでに崩壊してしまっており、大島弓子は、読者をいやおうなくその崩壊した世界に引きずりこむのだが、その世界の悲惨をストレートに訴えることなど少しも眼中にはない。そうではなくて、彼女が主張するのは、その悲惨な世界に対してある違和感をもって抗議すること、崩壊した世界にある絶対の世界を対峙させ、その絶対の世界に殉ずることを選ぶことなのだと思う。だから大島弓子は、絵柄からうける表層的な印象とは異なり、現実を回避し、幻想の世界のなかに閉じこもった安直なファンタジー作家などではけしてない。大島弓子の作品全体が、世界の崩壊に対する一種の警告なのであり、その警告は、真剣になればなるほどメルヘンの色調をおびる。このギャップが大島弓子の魅力なのだ。
また作品集『つるばらつるばら』では、一種のエレクトラ・コンプレックスが隠れた主題のひとつであるようにも思われる(このちょっとあやうい主題を描くときにも、大島弓子はメルヘンの外装をけして崩さない)。『ダイエット』『毎日が夏休み』では、主人公は母の連れ子であり、父親(義父)はもっとも身近な異性である。主人公たちは母をとおして、母の恋人としてそうした父親に接する。したがって父には距離感があり、父には簡単に近づけない(その距離感が、『毎日が夏休み』では逆に、罪を分け合う共犯者のような親密な父娘をうみだす)。
作品集『つるばらつるばら』のなかに、ラブ・ストーリーはあるが、それは通常の意味でのボーイ・ミート・ガールの話ではない。つまり大島弓子が描く恋は、きっかけもプロセスもない、みずから選ぶことすら許されない運命の恋だ。
『恋はニュートンのリンゴ』では、主人公・甘木三時子は大学生・泡盛給二に一方的な恋をするが、周囲からは(そして給二からも)まったく理解されない。大島弓子はその恋がなぜ報われないのかという不条理を一生懸命問いかけるのだが、一般的にいえば、それは三時子が小学二年生でしかないからだ。
さて表題作の『つるばらつるばら』。私には、この作品は作品集のなかで最も難解なのだが、話の構造は自体は『恋はニュートンのリンゴ』とよく似ている。主人公・富士多継雄は、小さい頃から、細い路地、バラの垣根、石段、木のドアのある家をよく夢に見た。そして夢に殉じて生きるしかない自分を見つめながら成長してきた。夢のなかで継雄は「たよ子」と呼びかけられる。継雄は、たよ子となって自分に呼びかけてきた男と結婚すると決め、ゲイボーイになって、夢の中の家と男を探し続ける。60歳を過ぎた2030年、整形をしなければゲイボーイとしての美貌を維持できなくなった継雄は、ふらっと倒れた街角でついに夢の家と男をみつけ、男と結ばれる。
三時子も継雄も、普通の意味では、じぶんがなぜ相手を愛するか説明できないであろう。
ちなみに、タイトルの「つるばらつるばら」は、「つるかめつるかめ」と「くわばらくわばら」を組み合わせた厄よけの造語という。しかし作品のなかで厄よけに効果があったかどうか、私には少しもさだかでない(*^_^*)。

   *   *   *

犬童一心監督が準備したという『つるばらつるばら』のシナリオがどのようなものか、私には見当もつかないが、『つるばらつるばら』という作品集は、『メゾン・ド・ヒミコ』を読み解くための重要なヒントをたくさん提供してくれるように思う。
  1. 2005/09/02(金) 14:06:03|
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