le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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奥野健男の『金閣寺』論をめぐって

『三島由紀夫伝説』(新潮社、1993年)における奥野健男の『金閣寺』論、論点のなかに以前の記事で書いた私の分析とほぼ同じ趣旨のものがあり、我が意を得たりと思うと同時に、自分だけのオリジナルな見方だと思っていたものがすでに別の人が指摘していた見解だということでがっかりしたりもしている(笑)。なにはともあれ、以下に奥野の『金閣寺』論の要旨を紹介してみよう。

   *    *    *

まず『金閣寺』が執筆、公刊された昭和31年前後の文壇の分析から。
昭和30年の文学界のできごととして奥野が重視するのが、坂口安吾の死(2月)と石原慎太郎のデビュー(『太陽の季節』、7月)。この二つのできごとは、「戦後乱世の終りを告げる象徴的な事件」(前掲書、335頁)とされ、また三島にも大きな影響を与えたと奥野は推測している。
そのうえで、『太陽の季節』の出現に端を発する動きを、奥野は、「谷崎潤一郎の『鍵』、室生犀星の『杏っ子』、宇野千代の『おはん』、平林たい子の『砂漠の花』、円地文子の『女坂』、井上靖の『氷壁』、深沢七郎の『楢山節考』、原田康子の『挽歌』など老大家から新人まで、いっせいに芸術至上主義的な文学が花咲いた」(前掲書、345頁)と総括し、その動きと三島の『金閣寺』を、「この昭和32年へかけての文学情況の転移ーーつまりキリスト教的倫理的批評家佐古純一郎が『文学はこれでよいのか』と<朝日新聞>で声高く抗議の声をあげるような非倫理的、唯美的、快楽的な文学情況への転移を、『金閣寺』による文壇の三島由紀夫観の飛躍的変貌が先駆的に象徴していたのだ。ぼくはこの潮流の変化を正当だと思う。戦後十年余、平和の続く中に文学はようやく倫理性、思想性、社会的有効性偏重から本来の文学性芸術性を尊重する平常状態にもどって行ったのだから。そういう意味で、『金閣寺』は戦後文学史の流れの中で、ひとつのエポック・メーキングな役割をはたした作品と言えよう」(前掲書、345頁)と結び付ける。

しかしこれはあくまでも文学情況全般の分析であって、奥野は、「ぼくは『金閣寺』を力作、問題作として重視するが、三島の最高傑作とする意見には与し得ない」(前掲書、345頁)という。それはなぜか。奥野は続ける。
「この作品は昭和25年7月に起った金閣寺放火事件を題材にしている。その意味では女子大学生殺しを扱った『親切な機械』や光クラブの学生社長をモデルにした『青の時代』などと共に『金閣寺』も臼井吉見名付けるところの社会ダネ小説ということができる。そしてこの三つの事件が何れも三島と同年代の戦争、敗戦の体験を経て来た青年特有の犯罪であることも共通している。三島はこれらの青年の心の中に、自分と同じ戦争、敗戦による傷口を、異常な精神現象を見出したのであろう。しかし『青の時代』に見られるような傷ついた青年の社会への復讐というような快感もないし、『親切な機械』のような人間への倒錯した愛情もない。金閣寺を焼くという犯罪は、およそ人間的同情をひかない愚劣な犯罪である。その後よく起った爆弾事件の犯人と同じく人間性が欠けているが、爆弾事件の犯人のような政治的思想的意図もない。中村光夫がいちはやく指摘したように素材それ自身で読者をひきつける魅力がなく、殺人が心理的犯罪であるのにくらべ、放火はいわば物理的犯罪に過ぎず、しかもこの放火にはそれを宥すべきものにする人間的動機がまったく欠けているのだ。つまり小説の主人公にならない、小説の主人公にすべきではない人間を主人公に選んでいる。」(346頁)

上掲引用最後の部分、「殺人が心理的犯罪であるのにくらべ、放火はいわば物理的犯罪に過ぎない」という点は、「金閣寺放火は自然法上の犯罪ではない」という私の『金閣寺』分析の論点②「金閣寺放火は犯罪か?」とほとんど同じであり、私もまったく賛成である。
奥野は、さらに次のようにも指摘する。
「ぼくには三島由紀夫が金閣寺放火犯人の青年僧侶に内面的親近感を抱いたということにある異常さを感じるのだ。敗戦後、いわゆるアプレゲールの青年として世間から指弾され続けたぼくたちの世代は、戦後の青年の犯した事件に密かに内的共感を抱くことが多かった。暴動はもちろん強盗、強姦、親殺し、教師殺し、上役殺し、そして光クラブでも女子大生殺しもそうであった。しかし金閣寺放火にだけは何の世代的共感もおぼえなかった。かなり綿密に新聞記事を読んでその動機をそんたくしてみたが、共感をおぼえようがなかった。ただの愚行であり、うじうじした偏執狂の見当違いの嫉妬、というより完全に凶人の意味のない行為として、ただ腹立たしかった。もっともぼくは金閣寺が焼けたことに、法隆寺の金堂が焼けたような衝撃や怒りは感じなかったが。それは金閣は写真を見ても、本物を見ても、どこが素晴しいのか、美しいのか、ぼくには少しもピンと来なかったからだ。何か寒々としたこけおどかしで貧弱な建物としか思えなかったから、その焼失をさほど惜しいとは思わなかった。」(346-7頁)

三島と同時代人(一歳年下)の人間の発言であるだけに、奥野の分析は、『金閣寺』が公刊された当時の受け止め方の一つを明らかにするものとして大きな意義をもつと考えるが、それは同時代的な反応というに留まらず、『金閣寺』公刊後約40年を経た現在でも有効な指摘なのではないだろうか。
さて、以下は奥野健男の『金閣寺』論の核心なのだが、この辺になると、過剰分析というか、過剰な心理主義を感じて私にはついていけない部分がある(『三島由紀夫伝説』全体を通じて、奥野の作品分析はあまりにも心理主義過剰だと思う)。
「ぼくは三島由紀夫が『金閣寺』を書きながら、主人公の「私」の世界にのめりこんだはてに、精神分裂病の発病に近い体験を持ったのではないか、あるいは主人公をかつて自分が体験したが意識してはいない精神分裂病に近い自己の心情によって描いたのではないか、少なくともぼくは『金閣寺』の後半に何かこの世にない切迫した異常さを予感するのだ。多くの精神病学者が言うように、この時、三島由紀夫は精神分裂病になった、あるいはそれに近い状態を体験したのではないかと、ひそかに疑いたくなることさえある。しかしここにおいて三島由紀夫はノヴァーリスやヘルダーリンのごとく精神分裂病による自己の全人格の崩壊を、世界の終末として表現する壮大な詩的表現を行っていない。ただ金閣という一国宝を焼くだけである。小さな限定される崩壊体験にとどまっている。もちろん三島由紀夫は抑制の意志力が極めて強い人間である。また分裂症気質の人間は、一方においてはきわめて明晰であり合理主義的であり、思考は病的にますます冴えて鋭くなるのが特徴であるから。ぼくはこの時期、ボディビルによって肉体を逞しく改造した時期、つまり『金閣寺』を書いていた時期を境に、三島由紀夫は怪物になった、普通の人間を超える何かに変身したという感じが強い。」(前掲書、353頁)

はたして『金閣寺』執筆時の三島は「精神分裂病の発病に近い体験を持った」のであろうか。私はそうは思わない。また仮に三島がそうした体験をもったとして、そのような体験をダイレクトに記した作品を直ちに失敗作と断定することができるのだろうか。いみじくも奥野自身が指摘しているように、ノヴァーリスやヘルダーリンなど、そうした体験から生まれるすぐれた作品もあるのではないだろうか。要するに、この辺の奥野の記述は非常に混乱していると思う。
三島が自己の内部の破滅へのデスペレートな心情を、たとえば『みのもの月』(昭和17年)のなかに記していたことはすでに指摘した。したがって、金閣寺に放火したいという心情は、隠された情念や異常心理といったものとは異なると私は思う。また『金閣寺』の叙述のすべてを執筆当時の三島の精神状態や肉体的条件に帰する奥野の分析は、『金閣寺』以前の作品と『金閣寺』を結び付けて考えることや、執筆に際して存する外在的理由を考えることを封じてしまうのではないだろうか。奥野の分析は、『金閣寺』の本質に迫りながらも、肝心のところでその本質からそれてしまったというしかない。
それはそれとして、『金閣寺』を書くにあたり(奥野のすすめで)三島がミンコフスキーの『精神分裂病』などを読んでいたという指摘は興味深かった。主人公溝口が吃りであるという設定は、「内界と外界とのあいだに障碍があり、その扉がさびついて、スムーズに交流できない。したがって自分にとっては現実は新鮮な現実ではなく、変色した腐臭を放つ現実である」(前掲書、351頁)という感覚と結びつくのだが、この感覚はすなわち、現象学でいうs'entendre parler(自分が話すことを自分で聴く)であり、これまた現象学の鍵概念の一つである「ずれ」ともつながっている。実際、『金閣寺』のなかで三島は、ずばり「ずれ」という言葉を用いてその違和感を表現している(「外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、…そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。」<新潮文庫版、7-8頁>)。このあたりは三島の鋭いところというべきだろう。
しかしそうであれば、溝口の吃りは、身体的障碍といっても溝口の友人柏木の内翻足とは同一視できない問題のはずなのだが、三島自身によって当初明確に世界認識の問題としてとらえられていた吃りが、しだいに内翻足と同じような物理的障碍やそれからくる精神のゆがみとしてのみとらえられ、柏木の論理が溝口を圧倒していく。このため、溝口は吃りであったがゆえに金閣寺に放火したのか、柏木の論理に圧倒されたがゆえに金閣寺に放火したのか不明確になってしまうといわざるをえない(奥野は、溝口が金閣寺の住職に恨みを持つにいたる心情は理解できるが、それが金閣寺の放火につながるのは理解できないとする)。『金閣寺』の叙述に問題(論理的不整合)があるとすれば、やはりこの辺ではないだろうか。

さて奥野の分析、続き(結論部)を読んでみよう。
「今までもっとも嫌悪し忌避して来たタイプの人間を主人公にし、しかも「私」という一人称で自己を仮託し、しかも同一化までする。ぼくはここに三島由紀夫の作家として、社会人としてのはじめての自信と、その自信に支えられて、過去の自己の内部を洗いざらい、もっとも秘密の部分、自己の隠された本性、自己のもっとも嫌な気質を、この陰湿な狂人に仮託して暴露し、分析し、訣別しようというなみなみならぬ決意を見るのだ。その決意は『仮面の告白』で少年時の同性愛的傾向を告白するに劣らない勇気と決断を要したと考える。(中略)三島由紀夫は、『金閣寺』において、はじめて自己のいやな気質を告白し表現しながら、思想的文学的に昇華しそれを焼き滅ぼすことによって新しい現実との共生を、救いを願ったのだろう。過去の自己は死に、新しい自己が誕生することを。過去の自分をもっとも美しく劇的に葬りたかったのだろう。しかし余りに主人公の溝口の心情にのめり込み、自分の気質の罠に自らもはまってしまった。その結果が、自らも発病しかねないような狂的な異常な論理、心理で支配される暗澹とした不気味な『金閣寺』をつくりあげた。」(前掲書、354-5頁)

ここまで断言しながら、奥野は「『金閣寺』が文学作品としてすぐれたものか、失敗作かの評価は、ここでは下すまい」(前掲書、355頁)としているのだが、それは言葉のあやに過ぎないだろう。奥野が『金閣寺』を評価しないのは明確だ。
引用文を読むと、その理由は三島が主人公の心情にのめり込み過ぎたという創作心理に帰するように読めるのだが、問題はそう単純でもないように私には思える。
三島作品に限らず奥野が評価するのは、「勇気と決断」をもって作家の内面を表出した作品であり、『金閣寺』にそうした「勇気と決断」の痕跡はない。つまり『金閣寺』に限らず、三島は本質的に自己の内面を表出しない作家であり、したがって三島は、本来であれば奥野的な評価基準にはひっかかることのない作家といえよう。それがたまたま奥野の関心をひいたのは『仮面の告白』がある種の勇気と決断をもって書かれたように読めるからなのだが、この作品を規準にして判断すると他の三島作品はことごとく自己を韜晦して書かれたか狂気の状態に陥って書かれた失敗作ということになってしまう。
『金閣寺』という作品はたしかに混乱していると思うが、それ以上に、奥野健男の『金閣寺』論は混乱しているのではないだろうか。

   *    *    *

以上、奥野健男の金閣寺論を簡単にたどってみたが、『金閣寺』という作品が、三島を周辺にいて三島を評価した評論家にとっても位置づけの困難な作品であるということが理解していただけたのではないかと思う。われわれは、『金閣寺』は戦後の日本文学を代表する古典であるという予断から作品にアプローチするのではなく、『金閣寺』という作品が書かれた原点に立ち返って、これを詳細に読んでいくことが必要なのではないかと思う。

参考記事『三島由紀夫『金閣寺』ーー美学も犯罪論も不在の奇妙な犯罪小説』
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  1. 2005/12/31(土) 00:12:25|
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『潮騒』直後の三島の心境(奥野健男による)

『潮騒』公刊(昭和29年6月)直後の三島由紀夫の心境を推測して、奥野健男は次のように記している。

「三島由紀夫は、良識社会への復帰を試みた実験作『潮騒』がベストセラーになり、しかも第一回新潮社文学賞(今日の日本文学大賞)を受賞したことに、自己の才能への自信や安堵と共に、こんな見え透いた詐術に引っかかるほどやわな日本の読者と文壇とジャーナリズムに、のれんに腕押しのような感じを持ち、かえってそこで生活し創作して行くことの危機を感じたのではないか。ぼくは三島の中に日本の文壇や批評家やジャーナリズムに対する不信と軽蔑が生まれ、世界という国際社会に認められることを熱心に願望しはじめたのは、『潮騒』への主体性を欠いた無責任な讃辞、追随からではないかと思う。」(『三島由紀夫伝説』322頁)

ところで、三島のなかに自分と同じ戦中派世代の旗手を見いだし、『仮面の告白』を「自分が社会の優等生、社会的な上流階級の一員ではないと覚悟を決めた時から、異端者、異形の者として、現実の戦後社会を批判する自由を得た」(前掲書、253頁)画期的作品とする奥野は、『潮騒』が出た当時を振り返って、「書下ろしの小説『潮騒』を手にして唖然とせざるを得なかった。何か手ひどく裏切られた思いだった。これはいったい何なのだ。文部省御推薦の小説、いや国定修身教科書じゃないか。逆コースの波に乗った保守党政府や官僚が懸命に捲き返しを計っていた道徳教育にうってつけの副読本、いや教科書じゃないか」(前掲書、314頁)と感じたと記しているのだが、『潮騒』に関しては、私は奥野と評価を異にする。
というか、これは三島の十代作品の評価ともかかわるのだが、すでにたびたび書いているように、私は三島の十代作品を評価し、『仮面の告白』をそれからの逸脱と考えるがゆえに評価しない。ゆえに『潮騒』は、十代作品の路線を継承したものとして理解できる。
これに対し奥野は、十代作品では三島の本来的なものが抑圧されていたととらえ、『仮面の告白』を抑圧からの解放と位置づける。ゆえに『潮騒』は、解放以前への後退とみえてしまうのだ。
つまり、三島が十代作品→『仮面の告白』→『潮騒』と作風を変えたという事実認識において私は奥野と一致するが、作風変化の評価において奥野と完全に反対の立場をとる。それには三島が十代に書いた書簡が関係しており、これらの書簡を読む限り、十代の三島が、完全に自己を韜晦して小説を書いていたとは考えられない。しかし奥野が『三島由紀夫伝説』を執筆した時点では三島の東文彦宛書簡も清水文雄宛書簡も公刊されておらず、十代の三島を知る手がかりがほとんどなにもなかったという資料的制約の問題がある。おそらく、これらの戦中の書簡を読んでいれば、戦中の三島作品に対する奥野の評価は大きく変わっていたのではないか。
ということで、私は奥野健男と『潮騒』の評価を異にするのだが、その社会的評価に対して三島が不信を感じたという奥野の推測には賛成である。

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  1. 2005/12/25(日) 18:27:12|
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三島における純文学とエンターテインメントの書き分け(奥野健男の三島論から)

奥野健男は、評伝『三島由紀夫伝説』(新潮社、1993年)のなかでおもしろい事実に着目している。

「昭和27年から翌年にかけて、<朝日新聞>夕刊に連載した『にっぽん製』は、特別通信員として外遊したあと義務的に書いた通俗小説であり、そこに月並な民族感情と逆の諷刺があるにせよ論じるに足りない愚作である。むしろ気位の高い三島由紀夫が『純白の夜』からはじまる『夏子の冒険』『にっぽん製』それ以後のエンターテインメント、というよりいかにも程度を落して書きましたという通俗小説を最後まで書き続けたということに問題がある。本気に娯楽読物を書くのなら、それはそれで立派だ。ところが三島は明らかに本格的純文学とは違う作品だということを玄人にわかるようなかたちで、低俗な大衆のために、さらにいえば金や編集者への義理のため書きましたよといわんばかりの小説を書く。それはぼくに対する場合、三島由紀夫が署名して贈ってくれないということで区別ができるようにしてある。たまたま週刊誌で、そういう小説、たとえば『愛の疾走』などを書評すると三島由紀夫はきわめて不愉快な顔をした。文学として書いている仕事と、別の理由から書いている手抜き仕事との区別がお前にはわからないのかという調子であった。しかしそういう中でも、『永すぎた春』や『音楽』のように成功した作品もある。作者ははっきり区別して書いたのだろうが、読者にはわからない。米国の日本文学研究者のひとりが、なぜ『真夏の死』のあと『にっぽん製』みたいな愚作を書いたのですかと、本気に質問した時、三島由紀夫の当惑したかなしそうな顔が忘れられない。そんな違いがわからないのかと日本人にならいえるところだが、アメリカ人には説明しがたい。それは当時の読者ならわかったが、次第に日本の読者にもはっきりしなくなって来る。いかに必要があって行ったこととはいえ、こういう娯楽小説を書いたことは、大文学者三島由紀夫らしからぬ軽率な行いであったというそしりを免れない。」(前掲書、304頁)

奥野の指摘するこうした書き分けは単なる処世術ではすまされない重要な事実だと考える。かつまた「当時の読者」ならぬ私にとって、三島作品を、こちらは純文学、こちらはエンターテインメントと読み分けることは実際問題としてとうてい不可能であり、純文学、エンターテインメントと混じった作品群のなかから三島の全体像にアプローチし、三島を論じていくしかない。また逆にいえば、私は奥野の指摘する本格的純文学としての作品(『仮面の告白』『禁色』『潮騒』等)のなかにも、純文学に徹しきれないエンターテインメント性を感じる。というか、三島作品の場合、作品のなかに明確な社会的テーマが存在しないので、そもそも純文学とエンターテインメントという区分が不可能なのではないかという気がするのだ(純文学作品も一種のエンターテインメントとして書かれている)。したがって、奥野のいう三島の純文学作品とエンターテインメントのあいだには、作品としてのグレードの違いしか存在しないともいえるのだが、三島の場合、奥野や森茉莉が指摘しているように、資質的に小説に不向きと考えられるようなところがあり、純文学的であることを意図した作品に関しても小説として完全とはいいかねるような点がある。このため、純文学であれエンターテインメントであれ、三島作品を作品としてプラスに評価することは非常に困難だといわざるをえない。
さて奥野健男は、上記の指摘に続いて、昭和27年から29年にかけての三島作品(『潮騒』『鍵のかかる部屋』等)に、「文壇の正統的主流の強者の中に入り、文壇の中心に確固たる地歩を築こうとする三島由紀夫の意志を見る」(前掲書、312頁)としている。そしてこれは奥野が三島に感じる違和感であろうし私の違和感でもあるのだが、「文壇の正統派」というのはあくまでも結果であり、そういうものになろうとする目標ではありえないのではないかと思う。したがって、そうした意識をもった三島にも問題はあるが、そのような三島を「文壇の正統派」と認めたところに、閉塞的な日本の文壇、ひいては日本社会の問題があったのではないかと思えてくる。

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  1. 2005/12/24(土) 12:15:05|
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「三島は小説より戯曲に適していた」(奥野健男)

現在、『三島由紀夫伝説』(新潮社、1993年)を読んでいる。生前の三島由紀夫と親しかった文芸評論家、奥野健男による三島由紀夫の評伝で、刊行の翌年、芸術選奨文部大臣賞を受賞している。
読んでいていくつかの不満や違和感はあるのだが、それはさておき、三島には、「小説より戯曲の方が、気質的、体質的に適していた」とする奥野の分析が、これまでの私の三島論とも合致しているので、その前後の文章を抜き出しておく。

「三島由紀夫にとって小説より戯曲の方が、気質的、体質的に適していた。もし三島が生きた時期の日本のように、小説が文学の中心であり、小説万能の時代でなければ、つまりギリシャ時代やシェイクスピア、あるいはゲーテ、またはラシーヌ、モリエールの時代とか、元禄時代や文化、文政の頃や明治初年の南北や黙阿弥の時代に生まれていたら、三島は小説など書かず、はじめから劇作家として芝居を書いていたに違いない。三島の思考形態、構想力、そして文体自体が、本質的に演劇的なのである。
 三島由紀夫を天才的な小説つくり、才能あふれるうまい小説家とする定評ができあがっているようだが、ぼくは必ずしもそうは考えない。小説に夢中になるには余りに醒め過ぎていて、陶酔がなく、自然な感情の流露に欠ける。筋の組立て方も人工的だし、文章に凝り過ぎ、形容の過剰に陥りやすい。何か小説家としては気取り過ぎているきらいがある。小説家であるためには、余りにも明晰で、論理的で分析的であり、批評的才能に恵まれ過ぎている。そしてくどくどと心理の過程を描写したり、啓蒙的弁解的に説明するのがきらいであった。それより鮮やかに人間や心理を裁断するのを好んだ。」(奥野健男、前掲書、258-9頁)


奥野の三島論は、『仮面の告白』を三島の頂点とするものであるように思えるが、その奥野の目からみても、「三島にとって、作中人物を作者の立場から絶対者として定言的に裁断してしまう小説は、往々にして、二律背反の矛盾の場になる」のである。三島作品を高く評価する人間の分析であるだけに、三島の小説のもつこうした特徴の指摘は説得力をもつものであると考える。
参照奥野健男

   *    *    *

ところで、歌舞伎座の一月興業「寿初春大歌舞伎」昼の部で、三島由紀夫に縁のある演目が上演される。三島がどのような歌舞伎が好きだったのか興味ある方、一月の歌舞伎座に出かけるのも一興では。
昼の部の幕開きに演じられる『鶴寿千歳』は、東文彦宛の書簡(昭和18年8月8日付)で三島が「絶品」とする岡鬼太郎の作品(ただし祝祭的な小品)。
三番目の『奥州安達原』~「環宮明け御殿の場(袖萩祭文)」は、このブログでもすでに数回とりあげている近松半二の作。前半には「袖萩祭文」の見どころ、聞きどころがあり、また後半で桂中納言の正体が露顕するどんでん返しもおもしろい時代物の名作。
ちなみに、昼の部では、『奥州安達原』と『曾根崎心中』(近松門左衛門作)の二作が、人形浄瑠璃に由来する丸本歌舞伎。
参照歌舞伎座「寿初春大歌舞伎」

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  1. 2005/12/24(土) 00:43:52|
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三島由紀夫の演劇作法とチェーホフ、『メゾン・ド・ヒミコ』

すぐ下の記事にも書いたように、昨晩は青山吉良さんと会い、久しぶりに『メゾン・ド・ヒミコ』の話をしたが、最近読んだばかりの『対談・人間と文学』(中村光夫、三島由紀夫、講談社文芸文庫)のなかのチェーホフ論、なかでもチェーホフ劇には対話がないというくだりが『メゾン・ド・ヒミコ』の作法を語っているようで、私の方からは、なにか、そのようなことを話した。このくだりは演劇(対話)に対する三島の考え方を示すものとしてもおもしろいと思うので、以下、当該箇所を抜き出しておく。

中村 久保田(万太郎)さんの場合になぜ近代劇が成り立たなかったかーーといっては悪いけれども、ぼくは成り立ってないと思うんだ。チェーホフとまるでちがうね。
三島 チェーホフはぼくが思うのに、それまでの芝居は、コミュニケーションの断絶から出発してどうしても対話をしなければならない、そういう式が成立するという考えが二千年近く続いてきた。チェーホフは、そんな対話をするのはやめようじゃないか、断絶なら断絶で並べていけばそれでおのずから劇が設立するということでやった人でしょう。だからチェーホフの場合にはモノローグが羅列されている。あれはチェーホフの独創でしょうね。日本の芝居はあれが中心になって、あれが日本の新劇の伝統になっちゃった。
中村 それはそうだ。そうすると、あなたの場合には、ダイヤローグが成り立つということはモノローグの羅列とはちがうんでしょう。
三島 ぼくはモノローグの羅列は絶対認めない。だからチェーホフの反対です。つまり断絶したところからどうしても対話する。そうでなければドラマは成立しないという考え方です。
中村 それはそうです。たとえばお金を借りようとか、女を取り返そうとか、そういうお互いの利害のあるところで劇がはじまる。
三島 ぼくはそれは模範的な劇理念だと思います。チェーホフが日本に受けいれられやすかったのはそこですが、チェーホフにおいてはコミュニケーションの断絶したモノローグの羅列であるものが、日本においてはコミュニケーション内部の会話になっちゃった。そこに日本独特のねばついた心理主義が入り、ごく普通のリアリズムになって、それが日本でチェーホフが迎えられた原因です。ですから久保田さんとチェーホフの見分けがつかなくなっちゃった。
中村 チェーホフはそこがちがうんだけどもな。
三島 イプセンはほんとうは日本ではわかりにくい芝居だと思う。
(『対談・人間と文学』<講談社文芸文庫>106-7頁、昭和42年8月17日の中村光夫との対談)

参考:「ほら貝」サイト~久保田万太郎

つまり、チェーホフ劇は断絶したモノローグの羅列だという図式が、私には『メゾン・ド・ヒミコ』の作法に通ずるように思われるのである。そしてそれはイプセン的な対話劇を「劇」とする見方からすれば、少しも劇的ではないということにもなる(三島は、イプセンは日本ではわかりにくいと指摘しているが、この対談から約40年たって、そのあたりの状況は少し変化しているのではないかと思う)。また、『メゾン・ド・ヒミコ』のすばらしさは、そのモノローグの羅列を、三島がいうところの「コミュニケーション内部の会話」にしなかったというところにあるだろう。いずれにしても、『メゾン・ド・ヒミコ』は、三島的なドラマツルギーの対極にあるような作品だと思う。

ところで三島は、昭和23年に処女戯曲『火宅』を書いた当時をふりかえって、次のように記してもいる。
「戯曲を書こうとしてはじめて私には小説の有難味がわかったのであるが、描写や叙述がいかに小説を書き易くしているか、会話だけですべてを浮き上がらせ表現することがいかに難事であるか、私は四百字一枚をセリフで埋めるのすら、おそろしくて出来なかった。
 第一、小説の会話はどちらかといえば不要な部分であり、(もちろんドストエフスキーのような例外もあるが)、不要でなくても、写実的技巧を見せるためだけのものであることが多いのに、戯曲はセリフがすべてであり、すでに私が能や歌舞伎から学んだように、そのセリフは様式を持っていなければならぬ。」(『私の遍歴時代』、「私の遍歴時代」<ちくま文庫>所収、132頁)

この短い文章からも、三島の演劇観(演劇作法)、小説観(小説作法)が垣間見られるのだが、そこで私が違和感を感じるのは、はたして「小説の会話はどちらかといえば不要な部分」もしくは「写実的技巧を見せるためだけのもの」なのかということだ。つまり、三島の小説を読んで感じるのは、会話をそれだけポンと即物的に書いてくれればありがたいのに、その言葉を語りながら誰それはこう感じたとか、ああ思ったといったまわりくどい説明が多くわずらわしいということだ。これは感覚の相違といってしまえばそれだけのことなのだが。
(例:「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」「何か決定的なもの。それが何だかはわからない」とこの非常に美しい、何事も未決定な若者は倦そうに答えた。こんなに親しくしていながら、彼のわがままな心には、時々、本多の犀利な分析力と、その口ぶりの確信的な、「有為な青年」ぶりとが、煩わしく感じられた。」<『春の雪』新潮文庫版25-6頁>)

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  1. 2005/12/19(月) 13:46:17|
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犬童一心監督に日刊スポーツ監督賞

ちょっとタイミングがずれてしまいましたけど、今日、『メゾン・ド・ヒミコ』に出演した青山吉良さんから犬童一心監督が第18回日刊スポーツ映画大賞の監督賞を受賞したという話をききました。犬童監督おめでとうございます。
参考ページ:日刊スポーツ映画賞


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  1. 2005/12/19(月) 01:00:47|
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三島由紀夫作品と演劇(近松半二評とからめ)

この記事では、三島由紀夫の演劇観、特に近松半二に対する評価をチェックし、そのうえで、そうした演劇観が彼の小説の世界とどのように交錯しているかみてみよう。

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三島由紀夫の古典劇好きはよく知られているが、管見にはいったなかから、近松半二(1724年~83年)の芝居に言及した書簡や発言を抜き出してみる(一部は下方の記事と重複)。近松半二は江戸時代の人形浄瑠璃作者。スケールの大きな時代物で活躍し、代表作(一部は共作)に『奥州安達原』『本朝廿四孝』『妹背山婦女庭訓』『絵本太功記』などがある。人形浄瑠璃用に書かれた近松半二の台本は、他の台本同様、そのまま歌舞伎台本としても用いられ、半二の作品は歌舞伎でも重要なレパートリーとなっている(=丸本歌舞伎)。このため三島は近松半二の作品を歌舞伎として論じているが、ここでは文脈に影響はないと考える(人形浄瑠璃用に書かれた作品が歌舞伎に転用されたという事情は、「寺子屋」<『菅原伝授手習鑑』>でも同じ)。これらを読むと、近松半二に対する三島の敬愛は、十代から亡くなる直前まで一貫した非常に深いものであることがわかる。
また、三島作品のよき翻訳者(欧米への紹介者)であったドナルド・キーンとの出会いも、はじめは歌舞伎鑑賞をとおしてのものであり、キーンは、三島作品をすべて高く評価したのではなく、古典作品の現代作品への継承(キーンの場合はとりわけ『近代能楽集』における能)という観点から三島と接触し、主としてその観点から三島作品を海外に紹介している。この意味でも、三島の近松半二に対する敬愛は、重要な意味をもつものと考える。

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「「さがしていた本」と申せば、古本屋でやっと「近松半二戯曲集」をみつけ親の仇のようにむしゃぶりついてよんでいます。「のぞけば又も白狐の形、水にありあり有明月、不思議に胸も濁り江の、池の汀にすつくりと、眺め入りて立つたりしが…」とか「思ひにや、焦れて燃ゆる、野辺の狐火小夜更けて、狐火や、狐火野辺の、野辺の狐火小夜更けて、幾重漏れくる爪音は、君を儲けの奥御殿」とか、そういうつまらないような文句が、ふしぎに懐かしくて娯しい。こういうところは一寸理屈では申せません。」(『三島由紀夫 十代書簡集』<新潮文庫>、昭和18年3月17日付の東文彦への書簡)

中村 歌舞伎に関していうと、ぼくはお能は劇があるように思いますが、歌舞伎は劇というものじゃないんじゃないかね。
三島 必ずしもそうは言えない。「寺子屋」は完璧な劇だと思うよ。つまり、ぼくの考える劇というのは、普通の世俗の世界をこえる状況を一つ持ってきて、世俗的世界と対立させて、どっちが負けるかという対立の持ってゆき方、それが劇の本道だと思う。日本の芝居はみなやってます。「寺子屋」でもやはり主命というものがあって、絶対でしょう。どうしてもここで忠義のためには人の子供でも殺さなければならぬという状態が出てきて、時間が全部せっぱ詰まっていて、どうにもならないイネヴィタビリティがあって、その不可避性の組み立ては完璧です。
中村 不可避性ということなんだけれど、劇というものはやっぱり右へ行くこともできるし左へ行くこともできるということもあって、そこに主人公の意思が働いて、主人公の心理のなかである選択が行われるから、そこにその人のアクションというものがあるわけだね。そういうところにお客をひきずる共感みたいなものがあるようにぼくは思うんです。歌舞伎はイネヴィタビリティが非常に強い。だから自由意思というものはないんだ。ぼくがいったのはちょっとそういう浅薄な意味で劇がないというふうにいったんだけれど、劇がないから歌舞伎が悪いというふうには思わない。だけどイネヴィタビリティがあって、人間の意思がちょっと抜けていて、その先が形の美しさになっちゃう。それから音楽的な台詞の美しさとか、それがすぐ情緒へくる。見ていて涙が出たり…。
三島 それは二流の歌舞伎だよ。
中村 一流はちがいますか。
三島 「寺子屋」とか「妹背山」の<山の段>とかいうものは完全なそういう意味の劇で、自由意思の選択の意思が残されていながらイネヴィタビリティが働いてゆくようなものだと思う。自由意思では避けたいのだけれども、どうしても助けられないというところへひっぱられてゆくのが運命でしょう。舞台はそっちのほうへそっちのほうへと進んでゆきますね。それを作中人物がふっ切るというのがヨーロッパのロマンチック劇だ。(『対談・人間と文学』<講談社文芸文庫>217-9頁、昭和42年11月10日の中村光夫との対談)

「今日は歌舞伎座へ、幸四郎(大判事)、歌右ヱ門(定香)、延若(久我之助)、芝翫(雛鳥)の「妹背山 山の段」を見に行きました。役者はともかく、いつもながら近松半二の文学的香気の高さ、文辞の秀麗さと、昔の日本人の持つてゐた威厳に打たれました。この一段は、最高の文学的傑作の一つだと思ひます。」(『三島由紀夫 未発表書簡ーードナルド・キーン氏宛の97通』<中公文庫>、昭和45年9月3日付のドナルド・キーンへの書簡)

参考ページ(日本芸術文化振興会サイト内「歌舞伎事典」より):
『本朝廿四孝』
『妹背山婦女庭訓』
『菅原伝授手習鑑』

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さて、以上にみるような三島由紀夫の近松半二作品や「寺子屋」に対する敬愛ぶりを考えているうちに、たとえば『春の雪』の蓼科のエピソードは、近松半二の芝居などに頻出するどんでん返しの構造を真似たものではないかという気がしてきた。『本朝廿四孝』でいえば偽勝頼のエピソードがそうだし、なにより「寺子屋」のドラマツルギーは、どんでん返しそのものだ。
ただ、『本朝廿四孝』や「寺子屋」に比べると、『春の雪』のどんでん返しは、読んでいてびっくりすることはするが、それによって作品の奥行きが増すとは思われないのが難点ではないだろうか。たとえば、人形浄瑠璃・歌舞伎の古典である「寺子屋」は、大どんでん返しに驚くというより、ほとんどの人が、どんでん返しを知ったうえでそれがどう演じられるかを観にいく(たとえば松王丸が紫の鉢巻を締め始終咳込んでいるいることが、どんでん返しの後ではとても重要な意味をもつことになる)。これに対し『春の雪』のどんでん返しは、それによって作品の構造がうまく二重化し深みが増しているようには思われない。むしろ、蓼科のエピソードを知ってしまうと、それまでこと細かに書き込まれていた清顕と聡子の心理が、すべて蓼科によって操られていたもののように思えて無化されてしまう。これは小説としてとても大きな欠陥ではないだろうか。森茉莉は、おそらくその辺のところをふまえて、三島は「批評文と、戯曲に長じていたが、小説は理屈が前面に出ていすぎていた」(『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』)と批判しているような気がする。
ところで、『本朝廿四孝』や「寺子屋」は、構造として、観客をあっといわせるどんでん返しを先に思いついて、そのどんでん返しを中心に作品を組み立てたようなところがあると思う(西洋の古典であれば、ソフォクレスの『オイディプス王』を思い浮かべてもらってもいい)。演劇というジャンルではそうした作法が許されると思うのだが、小説で同じことをやると無理がでてくる。それは要するに、小説の場合、「作者も、読者と一しょになって、小説のなりゆき、小説の中の人物がどんなになって行くか、ということに引っ張られてゆくのでなければ、面白くもおかしくもない」(森茉莉『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』)というジャンルとしての特性からくるのではないか(話は違うが、美内すずえの漫画『ガラスの仮面』は、作者である美内すずえ自身が作品の結末や劇中劇である『紅天女』の内容を細かく考えずに書きはじめ、作品を書きながら全体の結末や『紅天女』の内容を考えているようなところがある。『ガラスの仮面』の読者は、いつまでも先延ばしにされる結末の不透明さを楽しんでいる。ジャンルは異なるが、これは、森茉莉のいう面白い小説の条件にかなっている)。これには、演劇と小説のもつ時間性の差異、観念性の強弱が関係してくるとは思うが…。
三島の場合、たとえば『音楽』もそうした演劇的な趣向中心の傾向のある作品だ。新潮文庫の作品解説のなかで澁澤龍彦が、『音楽』という作品は「一女性の深層心理にひそむ怖ろしい人間性の謎が、ついに白日のもとに暴き出されるまでの過程」を「あたかも推理小説のごときサスペンス」で描いているとするのも、結局、森茉莉の分析と表裏一体というべきではないだろうか。『音楽』を読むと、「謎解き」のプロセスそのものはエンターテインメントとして非常におもしろいのだが、「心の謎」があまりにもきっちりと解読されてしまうので、(作品が謎解きのおもしろさのために書かれたようで)逆に、作品構造の薄さ、人間心理へのアプローチの軽薄さが目立つように思われてならない。
三島の場合、『椿説弓張月』のような芝居だと、そうした作法は非常にうまくいってるわけで(この『椿説弓張月』という狂言は、新作の義太夫狂言として出色のものだろう)、小説、とりわけ長編ではそれがうまく作用していない。
「同性愛」や「右翼思想」という作品の表層をなすテーマから三島作品に迫るというのも、第一次的なアプローチとしては不可欠だと思うが、そこに留まっていたのでは、三島作品の深層や全体像には到達できないのではないだろうか。つまり、三島の場合特に、作品の表層構造(思想)が非常に観念的・抽象的で、一見三島に非常に近いところにあるように見えながら三島本人の身体性からほど遠いという事情がある(三島作品の仮面性、演劇性)。したがって、三島作品を分析するときには、作品の身体ともいえる作品構造を見据えたうえで、彼の作品がなぜそうした構造をもつのか考えていくことが大きなポイントとなるような気がする。
(この問題は、引用した中村光夫との対談のなかでの自由意思とドラマツルギーの問題ともからむものだと思う。)

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ちなみに、半二は儒学者・穂積以貫の次男で、作者部屋に入り「近松」姓を名乗ったもの。門左衛門と血縁関係はない。
半二のプロフィールに関しては、次のページ参照のこと。
近松半二~「兵庫文学館」サイト内

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  1. 2005/12/18(日) 15:05:58|
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『紅天女』が能に

三島由紀夫の関連で、歌舞伎(人形浄瑠璃)演目の解説を検索するために日本芸術振興協会(国立劇場)のサイトにアクセスしていたところ、来年二月に国立能楽堂で、少女漫画『ガラスの仮面』(美内すずえ)を原案とする新作能『紅天女』が演じられるという記事を発見した。伝統芸能と現代、芝居と漫画、そうした厚い垣根を取り払うという意味でよい企画だと思う。

『紅天女』制作発表ページ
『紅天女』公演情報

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  1. 2005/12/18(日) 12:01:49|
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三島由紀夫の書簡を読む:東文彦への書簡

『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮文庫)を読み返している。この書簡集は、三島の学習院の先輩で、一緒に『赤絵』という文芸誌を出した同人・東文彦(あずまふみひこ、本名は東タカシ。タカシは行人偏に建、PCソフトにない字のため、この記事では筆名の文彦で統一。)に宛てた昭和15年から昭和18年までの手紙や葉書をおさめたもの(一部、東の母・菊枝宛の書簡がある)。二人の交流は、東が三島の小説に書評をよせたことにはじまり、東が結核で亡くなる昭和18年10月まで続いている。
東文彦は大正9年生。昭和13年に学習院を首席で卒業し、早くから小説を書いていた。病床の東にとって、小説を書くこと(読むこと)、さまざまな人と書簡で交流することは唯一に近い楽しみだったのではないかと考えられ、それだけに三島も、そうした東に真摯にこたえている(ただし東からの書簡は明らかになっていない)。また、三島は自決する直前に東の著作集(『東文彦作品集』、講談社)を編纂、みずからその序文も書いている(昭和45年10月、この記事の末尾を参照のこと)。東文彦に対する三島の思いの深さがわかる。

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(東文彦<新潮文庫>より)

さて、東文彦に宛てた三島の書簡がおもしろいのは、①十代の三島の文学観を直接知ることができる、②後代の三島に強い思想的影響を与えたされる保田与重郎、蓮田善明ら、「日本浪漫派(革命的ロマンティシズム)」に対する三島の生の評価を知ることができる、③戦時下の青春記として読むことができるーーの三点が主なポイントだろう。
もちろん、これら三点は、それぞれが密接に絡み合っているわけだが、②③については別に記すことにして、ここではまず、①の「十代の三島の文学観」に絞って、三島の書簡を読んでみよう。三島と東が文通をはじめた当初の書簡はぎこきなさが目立ち、東が亡くなる昭和18年になって、三島は自己の思いを自由に述べはじめている感がある。

「狐の美感というか、「狐」をとりまく美の世界とその文学に私はかねて関心をもっていますので、自由に本を出版できる地位になったら「狐」という名の古今の典籍を編輯した書物を出すのが、目下の夢です。「お伽草子」「俳文」「浄瑠璃」「近世歌謡」「谷崎の吉野葛」そこに招かれるのはこういうものゝ断片でありましょう。」(昭和18年1月24日)

「「さがしていた本」と申せば、古本屋でやっと「近松半二戯曲集」をみつけ親の仇のようにむしゃぶりついてよんでいます。「のぞけば又も白狐の形、水にありあり有明月、不思議に胸も濁り江の、池の汀にすつくりと、眺め入りて立つたりしが…」とか「思ひにや、焦れて燃ゆる、野辺の狐火小夜更けて、狐火や、狐火野辺の、野辺の狐火小夜更けて、幾重漏れくる爪音は、君を儲けの奥御殿」とか、そういうつまらないような文句が、ふしぎに懐かしくて娯しい。こういうところは一寸理屈では申せません。」(昭和18年3月17日)
:近松半二(1724年~83年)は江戸時代の人形浄瑠璃作者。三島が引用している詞章は、いずれも近松半二作の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』のクライマックス奥庭狐火の段のもの。ちなみに、人形浄瑠璃用に書かれた近松半二の台本は、他の台本同様、そのまま歌舞伎台本としても用いられ、歌舞伎でも重要なレパートリーとなっている。『本朝廿四孝』のヒロイン八重垣姫は三島が敬愛した中村歌右衛門の当たり役の一つ。
参照「歌舞伎事典」~本朝廿四孝
「淡路人形座」~本朝廿四孝奥庭狐火の段

「「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思います。真の芸術は芸術家の「おのずからなる姿勢」のみから生まれるものでしょう。近頃近代の超克といい、東洋へかえれ、日本へかえれといわれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじっかの便乗者や尻馬にのった連中の、そここゝにかもし出している雰囲気の汚らしさは、一寸想像のつかぬものがあると思います。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでいないはずがない。この信頼によって「おのずから」なる姿勢をお互に大事にしてまいろうではございませんか。」(昭和18年3月24日)

「行詰り…実はこの文学上のデッド・エンドというくせものに私は小説をかきはじめたときから始終頭をぶつけていたようなわけで、その為に私の作品にはどこかに必ずデカダンスがひそむのですが、私は今度の行詰りを自分では別に絶望的とも思っておりません。いまの心境は、書けなくなったらかけなくてもよい(これはまあ一概にヤケッパチからでもないんですが)というところ。しかし貴下のいわれる素朴さは実は私のたった一つの切ない宿願です。それを実現する手段として私は戦争や兵隊を考えています。しかし果して兵隊に行って万葉的素朴さを得られるものか、この点は化学方程式のようなわけにはいきますまいし、今のところ永遠に疑問なのです。それにしても貴下の御忠告と御心やりは今の私には悲しいほど身にしみます。妙なたとえですが、さんざん不埒なことをした不良少年が、物わかりのよい先輩にさとされるような気持とも申せましょう。文学という仕事、これは矢張、つらい死に身の仕事ですね。」(昭和18年4月11日)

「近頃、買った本では、「永福門院」の御歌集、御伝、と注釈の入った本が結構でございました。
 花の上にしばし映ろふ夕づく日入るとしもなしに影消えにけり。
 かげしげき木の下闇のくらき夜に、水の音して水鶏なくなり。
 露しげき草葉の上は静かにてしたには虫の声ぞ乱るゝ。
 などゝいう歌は正に中世の典型ではないでしょうか、こういう歌をよんだ女性は美しくない筈はないと私は確信を以ていうことができます。中世というところには実に貴重な宝石がころがっているように思われます。」(昭和18年6月13日)

:永福門院(1271年~1341年)は鎌倉時代末期の伏見天皇の中宮。永仁6年(1298年)に永福門院の院号を受ける。京極派を代表する歌人の一人。西園寺実兼の長女で西園寺家の別荘であった北山第(現金閣寺)で没。
参照「やまとうた」サイト~永福門院

   *    *   *

十代の三島がけしていわゆる国粋主義者ではなかったこと、いやむしろリベラルな考え方をもっていたことが、これらの書簡から明らかになると思う(それには「デカダンス」の問題がからんでくる?)。また、戦争中の西洋か日本かという思想的選択が、万葉集等の古代の作品に基準をおいて行われる傾向が強かったのに対し、三島は古代偏重を明確に否定し、平安時代、中世、江戸の文芸を重視している。この点は、三島の日本浪漫派に対する評価とも絡んでくるが、日本的な思想・文学に対する三島の軸足がどの辺にあったかを知ることができるという意味で、東文彦宛の書簡は貴重だと思う。
ちなみに、『赤絵』の同人は、三島、東と徳川義恭の三人。『赤絵』創刊号(昭和17年刊)に、三島は『苧菟と瑪耶』『花ざかりの森 序とその一』などを、第二号(昭和18年刊)に『祈りの日記』などを掲載している。『赤絵』は、中心人物であった東の死にともない第二号で廃刊した。

参考:三島由紀夫 『東文彦作品集』序抜粋
東文彦氏の人および作品は、戦争中の文学的青春といふものを思ひ浮かべるときに、まづ真先に私の頭に来る清潔な規範であつた。今とちがつて特効薬もない結核の病床にあつて、仰臥したままの姿勢で書かれた透明な作品の数々、私と交はした多くの文学的書簡、そしてつひに来たその死、すべては戦争中の純化された思ひ出とつながつている。
(中略)
「赤絵」には、戦争の影は一片も射してはゐなかつた。あれほど非政治的な季節を今の青少年は想像してみるのもむづかしいにちがひない。文学は純粋培養されるものだといふ自明の前提があり、反抗も声高な叫びも、いや、逃避さへもなかつた。何から何へ向つて遁れようといる意志すらなくて、われわれは或る別の時間を生きてゐたのである。そして死が、たえず深い木洩れ日のやうにわれわれの頭上にさやいでゐた。
(中略)
静けさ自体が反時代的であるやうな時代には、微妙な心理、「不急不用」の感情を描くことすら、反時代的であつた。戦ふ者の慰藉が有用視されたのもつかのま、慰藉でさへ、「不急不用」になつた。この時代に自由だつたのは、病人と子供だけだつた。しかしそれは、遊び相手もゐない、苦痛に充ちた、孤独な、荒涼たる自由だつた。
(中略)
私は今の若い読者が、自分と同年配の青年が戦時中いかに生きいかに死んだかに、興味を寄せてゐることを知つてゐる。そこには多くの壮烈なヒロイズムの例証があつた。同時に、もつと静かな、もつと苦痛に充ちた、もつと目立たないヒロイズムもあつたことを知つてもらはねばならない。
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り起す機縁になることを、私は信ずる。
(昭和45年10月25日)

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  1. 2005/12/13(火) 14:22:49|
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森茉莉による三島由紀夫と森鴎外の比較

知人(仮にYSさんとしておく)と三島由紀夫のことを話していたら、YSさんは、三島については森茉莉(明治36-昭和62年)も私(lunatique)と同じようなことを書いているといって、彼女の『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』(筑摩書房『ちくま文庫』、1994年)の存在を教えてくれた。読んでみると、たしかに森茉莉が指摘する三島の小説の欠点は私がいつも感じていることとほぼ同じであり、かつ独自の視点から書かれた三島と森鴎外との比較論もおもしろかったので、以下に抜き出しておく。

「今更言っても仕様がないことだが、三島由紀夫の切腹を止めることの出来たかもしれないのは鴎外だけだったような気がしている。批評文と、戯曲に長じていたが、小説は理屈が前面に出ていすぎていた点も、鴎外は三島由紀夫と共通していた。又、三島由紀夫は鴎外を重く見ていたように思われるからだ。私が小説を書く時のように、書いている内に一人の男が相手の少年を嫉妬し出したり、だんだん殺意を抱くようになって来る、それを作者の私が見ていて、だんだん小説がそのようになってくる、というような、作者が小説の中の人物に引っ張られて行く、というようなところが鴎外にも三島由紀夫にもない。彼らの小説には最初の一行を書く時に、既(も)う、その小説の最後の一行が作者にわかっている、というようなところがある。それでは小説は読んでいて面白くないのだ。作者も、読者と一しょになって、小説のなりゆき、小説の中の人物がどんなになって行くか、ということに引っ張られてゆくのでなければ、面白くもおかしくもないのだ。それが鴎外にも三島由紀夫にも、わかっていない。これが鴎外と三島由紀夫との二人の生徒に対して呈出するモリマリ先生の忠告である。二人とももう死んでいるので手おくれだが。これを読んだ地下の鴎外はクックックッと笑い、三島由紀夫は明るいが、鋭く強い、時には凶暴に、血の匂いさえする大きな目を甘い、砂糖蜜のような微笑いに崩してにっこりするだろう。
 草野心平が或日、(森さん、お父さんには「恋人の森」は書けないよ)と微笑って言ったが、(その時にはまだ「甘い蜜の部屋」は書いていなかった)それはほんとうである。私は鴎外の訳したシュニッツレルの「恋愛三昧」や、ハウプトマンの「僧房の夢」(原題エルガア)を読んでひどく惹きつけられた。そうして、それらを読んでから一年位経った頃、「恋人たちの森」と「枯葉の寝床」とを書いた。「恋人たちの森」や、「枯葉の寝床」を書いた時にはもう、「恋愛三昧」や「僧房の夢」のことは頭になかったのだが、どこかで、知らず知らずにそれらを読んだ時の感動や陶酔が、私の頭に作用していたらしい。そういうのを影響というのだろう。ちゃんと意識して、読んだものを頭に思い浮べ、書く時にその感動を牛の食い物のように反芻していて、人に、自分の小説について訊かれた時に、「何々の影響をうけて書きました」なぞと言うのは、それも影響かも知れないが、少くとも素晴らしい、本当の影響とは言えないだろう。「恋愛三昧」や「僧房の夢」を読んだことのある人がいて私に、あなたの「恋人たちの森」や「枯葉の寝床」は、ああいう小説の影響をうけて書いたのでしょう?と言うような時に私は、(そうかも知れないと思います)と答えるが、そういうのが影響というのだと、私は考えている。私は傲慢であるから、出来れば誰からも影響をうけたくないと思っているのだが、こういう風に、影響というものはいつの間にか、どこからか、頭のどこかに入って来ているのである。又私は鴎外の翻訳小説の中にある恋愛小説や戯曲を読むと、彼が「恋愛三昧」、「僧房の夢」、「みれん」のようなのが好きなのだが、自分にはそういう風なのが書けないので、好んでそういう小説や戯曲を翻訳していたような気がする。彼はそういう小説や戯曲が好きだったのだろうというような気がしている。」(上掲書、1994年、77-9頁)


また、この『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』という本は、三島が昭和18年11月4日付けの清水文雄宛て書簡でその急逝を惜しんでいる岡鬼太郎(明治5年-昭和18年)についても少しふれており、参考までにその箇所も抜き出してみる。

「明治大正にかけて演芸画報に筆をふるっていた岡鬼太郎というすごい劇評家がいた。その人はむろんプロ中のプロで、役者の楽屋に入りこみ、興業の間は楽屋と客席を行ったり来たりしていた人だが大変な辛辣な人で毎月当るを幸い切りまくっていて少女の頃私は楽しみにして読んでいた。或日「野崎村」の引込みで寿美蔵と松蔦が両花道を揚幕に入った時観客の顔が一せいに松蔦の方に向いたことを書き(寿美蔵たるもの以って如何となす)と書いた。寿美蔵は巧い役者だったが、顔も淋しくパッとした人気がなく、又、座頭の左団次は相手役の松蔦を可愛がっていた。意地も悪い評である。無論鬼太郎のような名人のまねをアマチュアがするのはおかしいのだが、プロにもそういう人物がいたことを書いておくのである。」(上掲書、26-7頁)

若い頃の三島に対する文学的影響というと、一般的にはイデオロギー的なものの指摘に傾きがちのような気がするが、私は、三島がこうした劇評家に親しんでいたということも重要ではないかと思っている。

   *    *    *

参考のため、以下に三島由紀夫による森茉莉讃も引いておこう。

「森茉莉さん。戦後の文学における最も例外的な恩寵と秘蹟。
最も男性的古典的な構文の骨格のうちに、最も女性的な感覚の奔逸をちりばめた、絢爛たるエルマフロディット。ものごとの細部を記憶し、物象の核心に迫る目を持ちながら、同じ目が現実を否定して、夢みることをやめない絶妙の資質の持主。幼女にして獣。ユーモアを含んだすばらしいデッサン力と詩の結合。富める賤民に対する終始渝(かは)らぬ侮蔑。王妃さまにして乞食。
言葉に対して最も厳格な閨秀作家。しかもその言葉を色彩や音楽のやうに用ひる画家にして作曲家。狂気に見せかけた戦後最高の正気。カナリヤと鸚鵡とアルマジロと針鼠の混血児。
とにかく何ともいひやうのないもの。その前ではシャッポを脱ぐほかはないもの。」(昭和45年執筆。決定版三島由紀夫全集第36巻所収)


カナリヤや鸚鵡はともかく、アルマジロというたとえがよくわからないのだが、よくわからないながらなんとなくわかるようにできているところがおもしろい。それにしても、三島も、没後に森茉莉に上の引用のようなことを書かれるとは思っていなかったのでは(笑)。

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  1. 2005/12/10(土) 13:08:28|
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三島由紀夫の書簡を読む:清水文雄への書簡

「決定版三島由紀夫全集」(新潮社)第38巻「書簡」から、清水文雄(明治36年~ 平成10年)に宛てた書簡を読んだが、非常におもしろい。
清水文雄は昭和13年に学習院に赴任した平安文学研究者で、若い三島に強い影響を与え、「三島由紀夫」というペンネーム決定にも与っている。三島は、昭和16年7月から昭和45年11月の死の直前まで、清水に宛てた手紙や葉書を書いているが、なかでも戦時中に書いたものは、三島の文学観がどのようにして形成されたのかを理解するうえで必須のものではないかと思われる。以下、そのなかから、特に興味深く思われた部分を抜き出してみる。
なお、清水文雄宛ての書簡の大半は、『師・清水文雄への手紙』(新潮社)に収録されている。

   *    *    *

「近ごろ近世の文学中、中世の衣鉢をあえかにとゞめてゐる類ひゆかしく、大正末から昭和はじめまでの一部の江戸文芸愛好者の変態趣味が禍ひしてか、未だに江戸文学といふと頭から軽蔑したり、イヤな顔をしたりする人が多いのにつけても、もつとよい面が明るみに出されて愛でられて然るべきだと思ひますが、永井荷風氏ながく沈黙され、岡鬼太郎氏が急逝されるに及んで、心細さは一しほの、私一人でもガアガアどなり立てゝやりたいと思はずにはゐられません。大川周明の日本歴史のやうに平安朝文化を優柔文弱で片附けてすんでゐるやうな世界に、日本がなつては大変。ーー萩原全集の詩集をよみ、三嘆いたしました。萩原氏が生きてゐられたら、私こそ氏の感情の一隅一隅までの共鳴者になつてあげられたのに、と大それたことが悔やまれるほど、氏は私共に親近した世界に住んでゐられます。(中略)今の時代に、われがちに自分ひとり好い子にならうとすること位ゐ、いやしい、非国民気質はありますまい。西田哲学排撃派の人たちにそれが多いのが遺憾です。時勢の論とは東条さんの演説に拍手することではない。ともすれば好い子にならうとしたがる、(総親和などに甘えたがる)我々自身への鞭の論でありませう。萩原氏はその点で実に深い教へを与へて下さいます。日本にハ随順の精神が大本ですが、それは何も不純なものを礼拝することでも何でもない。反抗精神(といふとすぐ人はフランス革命を連想するのですが)と言はれたくなさに、随順一点ばりで行かうとするのは却つて随順の冒涜。「直毘霊(なほびのみたま)」の如き教へは、自らへの鞭とするべきものであり、それが外へ発して、俗眼に反抗精神と映らうとも大道に変りはありますまい。宣長は「悪神は良くならぬ」とつつぱなしてゐるさうですが、萩原氏がもつとも深く日本人を愛した故に、もつとも強く日本人を憎み得たといふことはたしかに大事な精神でありませうと愚考いたします。」(昭和18年11月4日)
註1:岡鬼太郎は明治から昭和にかけて活躍した劇評家、劇作家、花柳小説の先駆者。洋画家・岡鹿之助はその長男。昭和18年10月29日没。
註2:萩原氏とは萩原朔太郎のこと。朔太郎は昭和17年5月、肺炎のため没。
参照:「きょう川路(柳紅)さんのところへ伺いましたが、その節、萩原朔太郎の「猫街」というのをみせていたゞき、大変感服しました。結局、極度に先鋭化された神経がふとえがく四次元的な幻の世界なのですが、たとえば芥川の短編(ことに晩年の歯車だの)と比較して大きな稟質の差を感じ、萩原氏をより尊敬したい気持がしました。芥川はいわば詩人でなかったから自殺できたのでしょう。萩原氏は詩人でいられたから自殺はなさらなかった。就中日本の詩人でいられたから。…しかし萩原氏の苦悩は自殺し得ないところに発するふしぎな四次元世界を彷徨せねばならなかった。「河童の国」と「猫街」とではこうなっては河童の皿の水が猫の爪でひっかきこぼされた末のほうほうの体の惨敗ともいえましょう。」(東文彦宛書簡、昭和18年3月17日付、『三島由紀夫 十代書簡集』<新潮文庫>所収)
「近頃よんだ本でハ朔太郎全集第二巻、岡鬼太郎戯曲集。朔太郎の情調哲学、散文詩には、時折、めざましい一行あり。岡鬼太郎の戯曲はこれまた絶品です。その会話のイキのよさ。筋の運び方のなんともいえないウマさ。こういうものこそ、明治の人の最高の遺産で、現代人も創作その他に学ぶところ多かろうと思います。」(東文彦宛書簡、昭和18年8月8日、上掲書)
「俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です。萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当たりでにくみ、きらい、さげすみ、蹴とばした気持がわかります。」(東文彦宛書簡、昭和18年8月20日付、上掲書)

「方丈記のこと。私も今、「新方丈記」らしきものを、全く別の発想で書いてをります。けふ五十三枚に達しました。駅のまへで人々が疎開家屋のたふされる有様を凝然とみつめてゐます。薄暮のなかで電信柱が醜く傾き、瓦礫が道をうづめてゐました。見物人たちの群はシルエットになつて不吉にさへみえました。人々は頽唐への美感を失つてしまつたのです。」(昭和19年7月16日)

「林氏との満一年のお附合で、大きな収穫が二つあります。一つは、「小説を書くといふのは汚いことだ」といふ林氏の持論が僕流にはつきりわかつたことです。一つは、芸術家は長生きをしなければダメである、といふ定理です。この二つは身にしみてよくわかりました。林氏から得た大きな教訓だと思つてゐます。日本の芸道は凡て青年時代を犠牲にして、老来の花ざかりを招いて来ました。若者の詩は凡てはかないもの、凡てほのかな花の余薫でありました。廿代で賀歌はうたへませぬ。このごろ僕はそれを切に感じました。」(昭和20年1月8日)
:林氏とは林富士馬のこと。林富士馬は大正3年生の詩人・評論家。佐藤春夫に師事。著作集として『林富士馬評論文学全集』(勉誠社、1995年)がある。

「私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが喪失の意味にもせよ)、ある強烈な意味を与へつゞけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性をもつものであると思はれます。」(昭和20年7月3日)
:この手紙の直後、三島は動員先で『岬にての物語』を書き始めている。

「長歌の御葉書ありがたくなつかしく拝見。あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくしまゝにかくの如き事態となりました。玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。たゞ黙して行ずるのみ。今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。
 たわやめぶりを みがきにみがかむ」(昭和20年8月16日)


   *    *    *

引用した最後の書簡、三島の理想とするところが「ますらおぶり」ではなく「たわやめぶり」であるところが、私には特におもしろい。
全体として、これらの書簡は 、通常われわれが三島の思想とみなしている武張った軍国主義が三島の晩年に形成されたものであり、少なくとも十代の三島は、そうした考え方から非常に遠かったことを明らかにしていると思う。たとえば昭和18年11月4日付けの書簡にみられる萩原朔太郎礼賛も、この時期の三島が非常に柔軟な考え方をしていたことを示すものではないだろうか。
三島が好んだ歌舞伎のたとえでいえば、戦争中の思想の主流が荒事であったのに対し、三島の考え方は徹底した和事礼賛であり、実際、この時期に書かれた作品も、三島のそうした思想を反映しているように思われる。
昭和20年1月8日付けの手紙にある「芸術家は長生きをしなければダメである」という文言も、三島の死を考えると興味深いが、この文言は、そのまま昭和20年8月16日付けの葉書の「気高く、美しく、優美に生き且つ書く」という言葉と繋がっていると考えられる。三島は、結局、長生きするということをみずから放棄してしまったわけだが、そればかりではなく、戦後の彼の作品ほど、「気高く、美しく、優美」という理想から遠いものはないのではないだろうか。

テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/12/07(水) 12:58:05|
  2. 文学(人と作品)
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三島由紀夫の初期短編を読む:その2

三島由紀夫の短編、また少し読み進んで、短編集「岬にての物語」(新潮文庫)におさめられている『苧菟と瑪耶(おっとおとまや)』(昭和17年)と『岬にての物語』(昭和20年)を読んだ。
この両短編を読みながら、私の頭に反射的に浮かんできたのは藤原定家の存在。第二次世界大戦のさなか、三島はまさに「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と日記『明月記』の巻頭に記した定家のことを思い浮かべながら、これらの自己完結しているかのようにみえる世界を書いていたのではないかという気がする。戦争中ほど、三島が定家を意識した時代はなかったのではないだろうか。

さて、三島のこうした短編をどのように評価するかは、評者の三島論にかかわる重要な問題だと思うが、私にはこれらの作品は単なる習作とは思えない。三島の場合、十代に書いた作品がすでに完成されていると思う。ただ三島の場合、こうした十代の完成が二十代以降の作品につながらず、作品群がそこで明確に断ち切られている。今の私は、この断絶のなかに三島由紀夫のほんとうの姿、三島の作品全体を読むうえでの最大の問題点があるような気がしている。
ところで、三島作品におけるこうした断絶には、終戦という決定的な外因が存在しているわけだが、結局、三島という人は、終戦という事実をうけとめそこねたのではないだろうか。そしてそれは、三島の(定家的)資質とも関係しているのではないだろうか。つまり、戦争中は戦争をのろい、それが終わることをのぞんでいるのだが、実際に戦争が終わると、そこで緊張がとぎれてしまう。戦後派の作家の多くは、そうした緊張からの解放や一種の浮遊観を言語化して世に出て行ったわけだが、三島の場合は、解放そのものを言語化することはなかった。これには、空洞そのものがあまりにも大き過ぎたと同時に、三島がめざしていた文学的世界が私小説や時流小説のなかにはなかったために、戦争中に培った文学観の延長として時事的な「戦後小説」を書くことは最初から不可能だったという個人的な事情が関係していると思う。
三島の場合、そうした閉塞的なぎりぎりの状況のなかで『仮面の告白』(昭和24年)という作品が生み出されてくるわけだが、それまで私小説に背を向けていた作家が「告白記」を書くのであるから、この作品は奇妙なものにならざるを得ない。三島的に考えれば、この作品もまたそれなりに普遍を志向しているのであろうが(プルースト的な普遍性?三島は戦争中に『コンブレエ』を愛読している)、社会はそれを私小説として受けとめ、その告白の大胆さに衝撃をうけた。
したがって、『仮面の告白』は何を基準として論じるかによって評価が大きく異なる非常に評価の難しい作品だと思うが、結局、この作品は、三島がそれ以前に書いていた作品との関係のなかで読み解かれるべきものだと私は思う。戦後のある時期に登場した時代の証言としては非常に興味深いと思うのだが、戦争中の三島が達成していたような高さ・完璧さは、もはやかけらもない。一方、これが完全な私小説かというと、そうも簡単に言い切れない。やはり「文学的告白」ではある。
つまり私からすると、『仮面の告白』という作品は、三島にとって非本質的な作品に思われるのだが、それ以降の三島の社会的存在を考えると、『仮面の告白』こそ三島にとって本質的な作品であり、それ以前の作品はあくまでも習作・実験作でしかなかったということになってしまう。三島という人は、こうした矛盾を自ら招き寄せてしまったのだ。それが三島の選んだ人生であり、戦後の三島が選びなおした小説家の道というべきなのであろう。

ところで、最初に書いた三島と定家という問題にもどれば、戦争中の三島の心境に一番しっくりする定家の歌は、「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ」ではないだろうか。ひたすら身をこがしつつ未だこぬなにものかを待つ。しかし実際には、世界はその待機のなかで完結しており、とあるものが訪れたとき、それはもはや待っていた者をみたすことはない。
「こぬ人を」の歌は定家の晩年の作だが、鎌倉幕府成立後の定家は、後鳥羽院と幕府の対立をはじめとするさまざまな政治的事件に巻きこまれざるを得なかった。そうした緊張感のなかで、定家の歌は、実生活と切り離されたところで、完成度を高めていった。
一方三島は、定家同様自己完結した美の世界を描くことから出発しながら、戦後は、自らもとめて社会のなかに飛び込み、社会風俗を描くことに活路を求めていった。自己を描くことを最初から放棄している以上、三島には外的世界・社会風俗を描くしか小説家としての道はない。そのことによって三島は、いちおう成功者になったわけだが、それは定家的な世界、定家的な生き方からの離脱をも意味した。三島には、「未だこぬなにものか」をひたすら待つことはできなかった。三島にとって、定家はしだいに批判の対象になっていく。

   *    *    *

『苧菟と瑪耶』は文字どおり幻想的な作品で、そこで生じている具体的なできごと(瑪耶の死)は茫洋としている。しかしその茫洋さのなかを、17歳の三島が放つ言葉が燦めいている感がある。好きな作品だ。
「そこはあまりあかるくて、あたかも夜なかのようだった。蜜蜂たちはそのまっ昼間のよるのなかをとんでいた。」(新潮文庫版、11頁)
「蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりもなかみを蔵っておくことの方が本来だと人はおもっているのだが、蓋にしてみればあけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき迸しるだろう。そうした一見かよわそうな無生物の意志は、ふしぎに釣合のとれた調和した緊張であらゆる場所にたち罩(こ)めているのだ。ただ人はそれに気づかないだけだ。そしてほんの一寸その均衡がやぶれると、筥だとか柱だとか扉だとかが、ふだんのむしろ不自然な謐けさから、なんだかひどく生々した、それだけ人目には叛逆のような気味わるさをもよおさせる、かれらのかけがえのない瞬時の意志をとり戻すのだ。」(上掲書、18頁)


しかし『岬にての物語』は、作品のなかの特定の描写が優れているというより、作品全体の緊張感が『苧菟と瑪耶』よりもさらに高まっているように思える。技術的な完成度という単純な観点からいっても、十代の三島にとって三年という歳月のもつ重みは大きい。
この作品は、11歳の少年が房総半島のとある避暑地で過ごした晩夏の一日の思出話という枠構造をもっており、そのときはじめて、少年は両親を含めた他人には語れないできごとを体験する。しかし結局、物語のなかでおこる最も重要なできごとは明確にされない。少年は岬の廃屋で不思議な男女と知り合うのだが、女の提案で隠れんぼをしている最中に男女は消えてしまう。小説のなかのできごとは、つきつめていけばそれだけだ。しかしこの茫洋さが、『岬にての物語』という作品では、象徴の域に達しているような感すらうける。物語全体は不透明であるにもかかわらず、その不透明さのなかに不思議な透明感がある。
「私は思わず目を下へやった。すると体全体がぐらぐらし、足がとめどもなく慄えた。その深淵へその奈落の美しい海へ、いきなり磁力に似た力が私を引き寄せるようであった。私は努めて後ずさりすると身を伏せ胸のときめきを抑えながら深淵の底をのぞき込んだ。再び覗いたそこに私は何を見たか。何も見なかったと云った方がよい。私はたださっきと同じものを見たのだから。そこには明るい松のながめと巖と小さな入江があり、白い躍動して止まぬ濤とがあった。それは同じ無音の光景であった。私の目にはただ、不思議なほど冷静な渚がみえたのだ。私はふと神の笑いに似たものの意味を考えた。」(新潮文庫版、58頁)
三島はこの作品を執筆中に終戦を迎え、それだけに「作者にとって忘れがたい作品」と記しているが、作品の表層構造をなす主人公の幼年時代から少年時代への移行が、重苦しいなにかが決定的に終わり新たななにかがやってきたという印象(しかもそれは取り返しようがない喪失でもある)と重なった不思議な印象(「神の笑い」)のする作品だ。『岬にての物語』は、三島にとっても二度と書けない記念碑的な作品といえるだろう。

   *    *    *

さて最後に、『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮文庫)から、『苧菟と瑪耶』や『岬にての物語』を執筆した当時の三島の心境を示すにふさわしいと思える手紙を抜き出しておこう。『赤絵』という文芸誌の同人・東文彦に宛てた昭和18年9月14日付の書簡の一部だ。
「世人の『赤絵』に対する非時局だという批評を、屈服させる本当の道は、ほら赤え同人だって戦時生活がかけるぞ、というようなやり方でなく、相手をしてなにか厳かな美しさの前に沈黙させ、どんな論議も泡のようなものだとおもわせるだけの源をさがしあてることであろうとおもいます。貴下の御作品のよさはいわば堀辰雄氏のよさに似かよっているとおもいます。堀氏は現在の青年作家のうちで、時局を語らない唯一の人ともいえましょうか、なんといったってお先走りの文報連中、大東亜大会などで獅子吼を買って出る白痴連中より、数千倍の詩人、したがって数千倍の日本人と思います。」(上掲書、206頁)
この書簡をとおしてみると、『苧菟と瑪耶』も『岬にての物語』も、時代とまったく無縁のところで存在している作品ではなく、時代がさかしまな緊張を強いるがゆえに、茫洋としていることが、それ自体において時代に屹立することなのだったということがよくわかるのではないかと思う。

テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/12/04(日) 16:32:00|
  2. 文学(人と作品)
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