le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫のペンネームの由来に関する逸話

三島由紀夫のペンネーム、昭和16年に三島(平岡公威)の小説『花ざかりの森』が雑誌『文芸文化』に掲載されることが決まった折、伊藤左千夫を思い浮かべながら、打ち合わせの場所(修善寺)に近い「三島」の地名とユキオという響きを組み合わせて決められ、後に「由紀夫」という表記に定まったというのは有名なエピソードだ。
ところでこの「ユキオ」という名前が直接何(誰)に由来するのかは必ずしも明らかでないのだが、東文彦の父・季彦氏は、エッセー集『マンモスの牙』(図書出版社、昭和50年)のなかで、ユキオという名前は東文彦の小説『幼い詩人』(昭和15年)の登場人物の一人「悠紀子」から採ったのではないかと推測しているという(このエッセー集、私は未読)。
昭和16年前半の三島の東への傾倒からすると、絶対とはいえないものの、ありえない話ではない。ただし、三島の書簡を読むと『幼い詩人』という作品への評価は必ずしも高くないことが気になるが(自決する覚悟を決めた三島が、東文彦作品集の刊行に力を注ぎ、亡くなる一ヶ月前に序までしたためているというのは、東文彦に対する三島のおもいがなみなみならないものであったということの一つの証ではある)。
ちなみに、『幼い詩人』のなかで、悠紀子は次のような魅力的な考え方をする女性として描かれている。

   *    *    *

 急に喋舌りだした悠紀子を、俊輔は初め不思議さうに眺めたけれども、直ぐに一緒に明るい気持ちになつてしまつた。俊輔の目には、悠紀子のこの時の晴れやかな美しさが、神秘的に輝いて見えた。
 ーーいきなりつて、どんなものを描きたいんですか。
 ーー出来やしないの。あたしには出来ないつて分かつてるの、だけど、出来たらどんなにいいだらうと思ふと、描きたくてたまらなくなるの。
 ーーそれぢや何を描いてもいいんですか。
 ーーいいえさうぢやないの。あたしが描きたいと思ふことが、そのまま描けなくつちやいけないの。それがね、普通の静物や景色や人物ぢやないの。そんなものを描くのが、当り前かもしれないけれどね。あたしの本当に描きたいのは、そんなものぢやないの。
 ーーそれぢや何を描きたいんです?
 ーーあたしね。見て描くんぢや嫌なの。頭の中に浮んだまんまを、そつくり描いて見たいの。例へばね、月の光を描きたいの。
 俊輔は驚いた。言葉だけを聞いてゐると悠紀子はまるで、熱に浮かされてゐるやうだつた。けれども、思はず俊輔の目が悠紀子の顔に行つたとき、彼は又その瞳にうたれてしまつた。一点の塵もない、美しい少女の瞳だつた。
 ーー月の光と云つてもただね、水にうつつたりしてゐるのは嫌だわ。それなら上手に描いた人も沢山ゐるんですもの。あたしの描きたいのは、電燈で一ぱい光つてゐる綺麗な街の月夜なの。電燈が目のさめるやうに光つてゐても、一寸した暗い蔭を選んで忍び込んで来る、月の光があるでせう。蒼いやうに、揺れて見えるやうな光なの。  (『東文彦作品集』261-2頁)
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テーマ:読書メモ - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/26(日) 22:14:59|
  2. 文学(人と作品)
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『東文彦作品集』を読む

病床で聞く世相には、何かしら現実ばなれのしたもの、いはばお伽噺めいたものが感じられる。それは、病気といふものの持つ、ひとつの特権だらうか。

   *    *    *

神があると確信して揺がないのなら、なにもそんなに声を高くして、神の有ることを叫ぶ必要はないのではないか。これはたしかに脅かされた者の声である。自分の声を高くして、他人の声を耳に入れまいとする臆病者の声である。神は心のひろいものではないか。そして神の御意のままに動かんとするものの心も、ひろくなければいけないのではないか。ところが、この脅えたやうな調子はどうだ。しかもここに語られている神は、いかに抽象的であることか。正義が神の証拠であると云ふが、こゝでは正義が神であるかのやうに語られてゐる。まるで党派の宣伝のやうに。

   *    *    *

ーーなぜそんなに、きいきい声で叫ぶのか。
ーー君たちが俺を信じないから。
ーーきいきい声で叫ぶから、余計、俺には信じられない。


   *    *    *

弱さは、運命と真正面にぶつかるのを避けるところから来る。変つたことを求める、といふのもそれである。

   *    *    *

太宰治ーーこれは他人の偽善の暴露を面白がつてゐる。もうひとりの偽善者にとつては愉快であるかも知れない。しかし自分がやはり一介の偽善者であることを知り、その事実に心から苦しんでゐる者にとつては、これは少しも面白くない。何故なら、この作者は苦しんでゐるやうに見えて、実はその苦しみを筆にすることによつて自らの解放を企ててゐるのだから。彼の試みは決して誠実なものではない。自分と一緒に他人をも中傷して、さうして自分だけ解放されようとするやり方だ。

   *    *    *

東文彦、大正九年生。本名タカシ(行人偏に建)。衆議院議員東武の嫡孫。父季彦は法学者で後に日大学長となる。生まれながら病弱で十八歳頃から文彦の筆名で小説を書き出す。学習院の文学同人誌『輔仁会雑誌』に掲載された平岡公威(三島由紀夫)の短編「彩絵硝子」に書面で批評を贈ったのがきっかけとなり、三島との交友がはじまる。昭和十七年、三島および徳川義恭に呼びかけ同人誌『赤絵』を創刊。ただし三島との交友中は絶対安静の時期が多く、田園調布(東)、渋谷(三島)と近くに住みながら、二人はほとんど会っていない。かわりに二人はしきりに文通しており、そのうち三島から東に宛てた書簡は、『三島由紀夫 十代書簡集』として刊行されている(新潮文庫)。
昭和十八年十月、急性胃拡張から腸閉塞を併発し、死亡。
十代の三島作品の最高・最良の読者・批評者で、三島に多大な影響を与えた。
昭和四十五年、三島は東文彦作品集の刊行に注力し、みずから序文を書いて、同作品集を講談社から刊行させた。
上掲覚書は、講談社版の東文彦作品集巻末に伏された「覚書より」のさらなる抜粋。
以下、『東文彦作品集』の感想、十代の三島作品のこと、東文彦と三島由紀夫の交友(影響)のことなど、思いつくまま書いてみたい。

【参考記事】 「三島由紀夫の書簡を読むーー東文彦への書簡」

テーマ:読書メモ - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/25(土) 23:06:08|
  2. 文学(人と作品)
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「美」とは?ーー藤原定家の歌の大胆さ、新しさ

藤原定家の和歌、ここまで連作歌を中心にしていろいろ取りあげてきた。それは、定家の和歌が、一首の和歌(作品)として完成している(それ自体が一つの即自的な世界を構成している)ものでありながら、同時に、あくまでも連作のなかの一首として、個々の和歌が提示している作品世界とは別の世界の構成要素の一部であり、定家の和歌を味わうということは、単に一首の和歌を味わうにとどまらず、連作全体に対する視点が不可欠だといいたかったからだ。したがって、「南無妙法蓮華経」の歌がとりわけそうであるように、連作ということを考えながら定家の歌を読んでいくと、通常の意味での「歌の意味」ということは言えないということになっていく。
以上のことは、定家の歌の多くが連作としてつくられているということからの帰結なのだが、連作の問題をとりあえず凍結して、一首ずつの和歌を取りあげた場合にも、今度は「本歌取り」の問題がたちはだかってくる。周知のように、本歌取りとは、一首の和歌を味わうときに先行する和歌を思い浮かべたうえで、それと比較しながら目の前の和歌を味わわなくてはならないという方法論だ。ここでも、「作品それ自体の意味を探る」という行為は明確に否定される。
作品とはオリジナルなものでなくてはならないという「近代芸術論」からは否定的にとらえられがちな本歌取りの技法であるが、それは、連作歌という仕掛けと相俟って、個々の作品(和歌)が意味構成体として周囲の世界から完全に独立しているのではないということを明確に示すための積極的な方法であるととらえなおされなくてはならないと思う。

以上のことを前提としたうえで、この辺で、藤原定家の和歌に関する記事のとりあえずの結びとして、定家の歌を二首とりあげて、私なりに分析してみたい。
まず一首目。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮

この歌は「二見浦百首」のなかの一首で、『新古今集』にもとられ、ともに「秋の夕暮」で終わる寂蓮の歌(さびしさはその色としもなかりけり真木たつ山の秋の夕暮)、西行の歌(こゝろなき身にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕暮)とともに「三夕(サンセキ)」の歌として有名である。ただし、寂蓮、西行の歌が感動の対象が明確で「解りやすい」歌であるのと対照的に、一見平明な定家のこの歌は、何を詠み込んだのか、定家が何に感動しているのかはっきりせず、古来、傑作、愚作の議論が激しく戦わされてきた。つまり、この歌を字面どおり単純に読めば、秋の夕暮れの浦のとまや(浜辺の草屋)の周囲には、ぐるっと見わたしても花もなければ紅葉もないということになる。それだけのことであり、それだけのことでしかない。言葉の解釈としてはそれで終わりだ。
しかしである。言葉の解釈としてはそれで終わりでもそれでは「詩」の解釈にはならない。だからこの歌にはもっと別のなにかあるはずだ、というところから「歌」の解釈がはじまる。その辺の議論、塚本邦雄氏が『定家百首 良夜爛漫』(河出書房新社、1973年)のなかでうまくまとめているので、ここではまず塚本氏の説を紹介しておきたい。
「甲論乙駁を綜合して、桜も紅葉も見られぬ海辺の侘しい風景を、ことさら言外に愛でる心、即ちそこに余情があると解するのが、最も常識的でかつ穏当な方法であろうが、さらに一歩進めて、そのような美さえ空しいと突き放つ、冷やかな美学を想定して然るべきであろう。」「近代に入ってから、ここに詠まれた情景が実景の写実的表現か、あるいは心象風景の象徴的表現かについて論争まで行われているが、結果的にも無益なことであり、狭義の写実主義にわざわいされた俗論として前者の解はかえりみる要もない。そしてそういう俗論や合理主義的な評釈の立ち入る隙もないところでこの一首の成立していることが、とりもなおさず定家の、さらに言うならば新古今一巻の存在理由なのである。」(上掲書77-9頁)
ところで、歌の解釈としては、以上の塚本氏の考え方でも充分なのであるが、私としては、この和歌を、侘びしさや余情、さらには非在の美を歌ったものというだけにとどめたくはない。
つまり、この歌が定家最晩年の歌であるならば、以上のような解釈も許されるであろうが、塚本氏がいみじくも指摘しているように、この歌は文治二年(1186年)定家25歳の折に詠まれた、いわば定家の創作活動の出発点に近いところに位置する作品なのである。
したがって私は、この歌を、世の人が一生懸命詠み込もうとする桜、紅葉に代表されるようないわゆる「美」を、私は自分の作品のなかには詠み込まないという、定家の高らかな宣言の歌と読む。もちろん、定家はここでただちに、いわゆる「侘び・さび」を良しとしているのではあるまい。そうではなくて、美は華やかさのなかにあるという考え方も、華やかさを取り去った「侘び・さび」のなかにあるという考え方もともに否定して、美とモノのありようにはいかなる関係もないということを主張したかったのだと思う。

次に二首目。

久方のなかなる川のうかひ舟いかにちぎりてやみを待つらむ

この歌は、建仁元年(1201年)の後鳥羽院主催の千五百番歌合の企画に応じた百首中の作。
冒頭「久方の」は、通常、空、雲、光などの言葉にかかる枕詞。ここでは「月」という意を含んで、月の中の川から言外に桂川が導き出される。したがって上の句の「意味」としては、「桂川の鵜飼船よ」ということになり、それを複雑に言ってみたということになる。ここまで定家は、枕詞という約束事の効果(特定の言葉との結びつきが強いので、特にその言葉を出さなくても読み手にある言葉を連想させることができる)をフルに使って、読み手の教養をためし、あらためて枕詞の世界を強調する。
しかし、下の句にはいり、「いかに」という疑問詞が出てきたところから歌の調子は一転する。第四句は、「どのような前世からの契りで」というほどの意味だが、この疑問の提示によって平坦な歌が波立ち、すべての解決は第五句になだれ込む。つまりこの第五句で、定家は、自分でたてた「どのような前世からの契りで」という疑問を解決すると同時に、歌の冒頭から宙吊りにされてきた「久方の」という枕詞が結びつく対象を提出して、歌を終わらせなくてはならない。
ところがである。ここで定家が出してきた言葉は「闇」。「桂川の鵜飼船よ、どのような前世からの契りでお前は(殺生をするために)暗闇を待っているのか?」歌の意味を問うならばそれでいい。それで充分だ。しかしこうした意味を宿した歌のなかで、定家は古典的な枕詞の世界に含まれていた約束事を否定し、結果的に、それまで誰も使ったことのない「闇」という言葉と結びつくものとして「久方の」という枕詞を用いているのだ。この否定の大胆さ(規則は破るためにある!)。そしてそれに気が付けば、上の句のもってまわったようなくどくどした表現は、この大胆さを際立たせるためにこそあったとのだと理解できる。そしてまた、この修辞は歌の表層的な意味に還元され、「闇」の世界をもう一度強調する。
私は、この修辞的な大胆さこそ定家の真骨頂の一つだと思う。そしてこの大胆さは、最初に取りあげた「見わたせば」の歌で示された宣言への見事なこたえにもなっている。月が美しいのでも闇が美しいのでなく、美は言葉とともにあり、言葉とともに生まれてくる。そのとき言葉は、つねに新しくなくてはならない。

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  1. 2006/02/24(金) 15:31:14|
  2. 和歌および古典文学
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藤原定家の法華経題名和歌

藤原定家が良経の命で詠んだ連作和歌をもう一組紹介しておこう。詠んだ正確な年代は不明ながら、これも建久年間の歌と考えてさしつかえないだろう。詞書を読むと、「大将殿(良経)に伺候していたある秋の宵、僧が経をよむのが聞こえたので、その経の文字(なもめうほうれむくゑきやう)を上において秋の歌を詠んだ」とある。この連作は、法華経の宗教的な神秘思想と言葉神秘思想が合体した作品ととらえることができると思う。

 大将殿にて秋の頃よゐの僧の経よむを聞きてれいのこのもじを上におきて秋の歌

 過ぎぬと思うばかりのあさけよりやがて乱るゝ袖の露かな
 とめても秋より外のやどもがなことぞともなき袖や乾くと
 ぐみぬと見ればくれにし春の草風におどろく秋は来にけり
 山もしらぬわかれの袖の上にこずゑもやがて秋のゆふぐれ
 のかなる霧よりをちの秋風やおもふゆくへの竹のひとむら
 つ音も過ぎ行くやどにおくらさで秋のころものそで慕ふなり
 き山の裾野のを田のあき風やなびきし人のはじめなりけむ
 かしをば夢にのみこそあひ見しかたゞそのまゝの袖の月影
 れにけりまたこの秋の花すゝきほのめく霧に霜むすぶまで
 士のたく烟ばかりはさもあらばあれ雲井の月の秋かぜの空
 さきて木の葉もおちぬこれぞこの今年も同じ秋のつれなさ
 すらはでねなまし月は我なれて心づからのつゆのあけぼの
 く紅葉玉ちるせゞの色そめてとなせのたきに秋もとまらず

十三首が、季節の順に初秋から晩秋への配列されているのは定家としては当然のこと。
この連作をとおして個々の歌と全体との関係を考えてみると、個々の歌は「小世界」であり、そうした小世界があつまって上位の大世界(=三千大千世界)を構成するという仏教的世界観とこの和歌はつながっていくのではないだろうか。
また逆に、「な」「も」「め」といった、一見有機的な意味を欠いているかのようにみえる音素のなかに、さらに小さな世界が秘められていることをこの連作は示していると考えることもできる。
いずれにしても、この連作を単なる戯れ(言葉遊び)や技巧主義の表出とのみとらえることはできないだろう。

   *    *    *

ところで、いったん和歌の世界を離れてこの連作のことを自由に考えていると、たとえば、部分と全体が異なる意味をもつジュゼッペ・アルチンボルド(1527年-93年)の絵画が目に浮かんでくる。定家の世界観とアルチンボルドの世界観の比較なども一興だろう。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/18(土) 14:35:11|
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藤原定家「韻歌 百二十八首和歌」の超絶技巧と政治性

藤原定家の和歌、よく知られているようで実は限られた和歌しか知られていないというのが実情ではないかと思うが、その本当のすごさ、さらには定家が活躍した良経歌壇のすごさを理解してもらうために、定家の歌集『拾遺愚草』から、建久七年(=1196年)九月十八日に良経の命で詠まれた「韻歌 百二十八首和歌」という連作和歌を取りあげてみよう。この連作和歌は、春、夏、秋、冬、恋、述懐、山家、旅の八つのテーマから構成され、それぞれのテーマ各十六首、計百二十八首の和歌からなる。シンメトリックな非常に整然とした構成だ。以下にまず、冒頭の春十六首を引いてみる。

 いつしかと出づる朝日をみかさ山けふよりはるの峯の松風
 かすみぬる昨日ぞとしはくれ竹の一夜ばかりのあけぼのゝ空
 むさし野のかすみも知らずふる雪にまだ若草の妻や籠れる
 去年もさぞたゞうたゝねの手枕にはかなくすぐる春の夜の夢
 谷ふかみまだ春しらぬ雪の中にひとすぢふめるやまびとの蹤
 子の日する野辺のかたみに世に残れうゑおく庭のけふの姫松
 日はおそしこゝろはいざや時わかで春か秋かのいりあひの鐘
 白雲か消えあへぬ雲かはるの来てかすみしまゝのみ吉野の峯
 なにはがた明け行く月のほのぼのと霞ぞうかぶ浪のいり江に
 ふかき夜の花と月とにあかしつゝよそにぞ消ゆるはるの釘(ともしび)
 あれはてゝ春のいろなきふるさとに羨む鳥ぞつばさ雙ぶる
 かぜかよふ花のかゞみはくもりつゝ春をぞかぞふ庭の矼(いしばし)
 散る花にみぎはの外のかげそひて春しも月はひろさはの池
 春よたゞ露の玉ゆらながめしてなぐさむ花のいろは移りぬ
 朝露のしらぬ玉の緒ありがほに萩うゑおかむはるの籬に
 あはれいかに霞も花もなれなれて雲しく谷にかへるうぐひす

元旦、霞、残雪、子の日、桜の開花、落花、うぐひす(定家が用いているのは、「麗」と「鳥」を組み合わせた字で「高麗ウグイス」の意とのこと)の帰山と、季節の光景が順番に詠み込まれている。また、たとえば第一首の「みかさ山」は、「朝日を見る」ということとの、第二首の「くれ竹」は「年が暮れる」ということとの掛詞。
定家によれば、この課題は難し過ぎて、他の人は詠めなかった由。ちなみに、おそらくこれは、一晩で詠んだ速詠であろう。掛詞の使い方など、やや安易すぎる(その分、定家のふだんの詠みぶりがわかるというメリットはある)。ただし普通に考えれば、以上の課題をこなすだけでも大変なことだ。
ところで、上掲の十六首を読んで、どこが「韻歌」かおわかりいただけたであろうか。
各和歌の最後に出てくる漢字に注目すると、「風・空・籠・夢」「蹤・松・鐘・峯」「江・釘・雙・矼」「池・移・籬・<麗+鳥>」と、音読みで漢詩のように脚韻を踏んでいるのだ!
これはおそらく、漢詩、漢文を好む中国趣味の良経が、漢詩の世界を念頭において、その脚韻の構造を和歌に移し入れたらどのような作品になるか、即興で歌を詠むようにと定家に下命したものであろう。良経は、こうした刺激的で誰も考えたことのない課題を考案するのが得意で、定家もまた、自分の力をフルに発揮できるのはこうした機会だとばかりに、良経の課題によくこたえている。
しかしこのような複雑な歌を詠んできた定家であるがゆえに、如何に高貴な人とはいえ、守覚法親王や後鳥羽院からなんの課題もともなわずにただ五十首歌や百首歌を詠めといわれても、それだけでは燃えなかったであろうと想像するに難くはない。良経が政治的に失脚し、もはや歌会を催すことがなくなったとき、定家の歌も実質的には終わったと私が考えるのは、そうした理由からだ。
ところで、こうした視点からみなおしてみると、定家の「韻歌 百二十八首和歌」は、十一月に良経をはじめとする九条家が失脚するわずか二カ月に詠まれた、九条家歌壇最後の強烈な輝きということができる。九条家が考えていた良き政治とは、まずだいいちに身分社会としての古代国家の秩序・規範を重視したうえで、それらを充分に知悉した専門家が行う整然とした政治ということであったと考えられるが(したがって院の好みによる恣意的な人事や行動が多い院政の政治方針とは180度対立する)、するとこの「韻歌 百二十八首和歌」という試みは、九条家の政治的イデオロギーに見事合致したものということができる。
そうしたイデオロギーをもった九条家の政界失脚が、後鳥羽天皇に遇された女性の妊娠・出産という「縁=人間関係」の世界に属するできごとの結果だったというのは皮肉だが、中世の政治原理とは所詮そんなものと言ってしまえばそれだけのことに過ぎない。九条家失脚の問題など、同じ時期に進行していた幕府権力の確立の問題に比べれば、問題にするにも値しないような小さなできごとなのかもしれない…。
しかし縁の世界は滅びても、良経・定家がかわした言葉のきらめきは、時代を超えて未だ燦然と輝いている。いや、言葉の世界にかけた良経・定家の思いが、そのものとして輝きを増すのは、コップのなかの嵐のような人間関係がすべて消えてしまってからこそだともいえるのではないだろうか。
なにはともあれ、まずは定家の超絶技巧をじっくりと味わっていただきたい。

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  1. 2006/02/15(水) 14:03:13|
  2. 和歌および古典文学
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九条家の文芸観と後鳥羽院の文芸観

藤原定家の和歌は、通常、『新古今集』の基調を構成しているとして高く評価されているわけだが、それとは別に、定家の和歌を考えるうえでは、その主家にあたる九条家の動きを無視することができないと思う。
九条家を起こした兼実(1149年-1207年)は、藤原忠通の三男として生まれ、世が世であれば摂関の位をのぞむことができない立場であったが、源平の争乱が、部外者的な立場にあった兼実に摂政の位をもたらす。平氏滅亡の翌文治二年(=1186年)、頼朝の強力な推挙により兼実は摂政の位を射止めたのだ。兼実が摂政となると同時に、九条家ではその子・良経が主催する和歌の催しがさかんになる。これには、朝廷で依然として勢力をふるう後白河院およびその近臣に対し、九条家が独自の文化政策をもっていることを示すという意味があったのだと私は考えている。文治に続く建久年間に良経が企画した公的歌会として、花月百首(建久元年=1190年、九月)、二夜百首(建久元年十二月)、十題百首(建久二年=1191年)、六百番歌合(建久四~五年=1193~4年)があり、それらにはいずれも定家が出詠している(定家の二夜百首は散逸)。
この四度の百首歌、通常の文学史では後鳥羽院による『新古今集』編纂につながるもの、『新古今集』の先駆けと位置づけられている。実際、この四度の百首歌からは、数多くの歌が『新古今集』に取り入れられ、いわゆる新古今的歌風の基調をなしていると考えられるので、それはそれで間違っていないともいえるのだが、私は、花月百首から六百番歌合にいたる百首歌の企画は、院勢力と一線を画した九条家の施政方針もしくは文化政策を和歌において実現したものであり、『新古今集』編纂の企図とは切り離して考えるべきではないかと思っている。
つまり、源通親を核とする院近臣勢力の巻きかえしによって九条家が失脚(建久七年=1196年)したのちに、後鳥羽院が和歌に関心を示しだし、最終的には『新古今集』を編纂するにいたるわけだが、それはあくまで結果からみた話であって、後鳥羽院の意図と良経(九条家)の意図は本来異なるものだったのではないだろうか。
また、これは九条家失脚ということを和歌の歴史からみた意味づけでもあるが、建久七年以降、良経は公的な百首歌を企画しなくなる。たとえば後鳥羽院の伯父・守覚法親王が出てきて、五十首歌による歌会を企画するのは、良経の歌会と後鳥羽院の歌会(後鳥羽院の初度百首主催は正治二年=1200年)のちょうど中間の時期(建久九年=1998年)だ。ちなみに、守覚法親王が企画した五十首歌への出詠者は、守覚法親王自身のほか、実房、隆房、公継、兼宗、俊成、季経、賢清、隆信、有家、定家、家隆、顕昭、禅性、覚延、生蓮、寂蓮といった人々。このうち賢清、禅性、覚延は守覚法親王が差配していた仁和寺の僧だ。蟄居中の良経、慈円はこの企画に参加しえない立場だが、定家は、九条家に変わる新たなパトロンをみつけなくてはならないので、ある意味必死で歌を詠んでいる(守覚法親王の歌会で詠まれた定家の傑作が「大空はうめのにほひに霞つつくもりもはてぬ春の夜の月」)。
良経の歌会、守覚法親王の歌会、後鳥羽院の歌会、これらの歌会のいずれが良い歌を生み出しているかを判断するのは、ある意味で非常に難しいが、それとは別に、守覚法親王、後鳥羽院の歌会と良経の歌会の明確な違いは、良経の歌会のルールが非常に厳しいことにある。具体的には、花月百首は桜の主題と月の主題のみの百首歌、二夜百首は速詠、十題百首は獣や草木などの奇題による百首歌、六百番歌合は恋歌五十首とその他五十首の複合。結局、良経主催の歌会というのは、いい歌を詠むのはもちろんのことだが、どのように詠んでもいいか悪いか評価がわかれてしまう(当時であれば、歌壇には御子左家と六条家の二つの流派があり、双方が主張する秀歌の条件を同時に充たすことは困難)ような歌を詠むということ以前に、難しい課題をこなすことのできる教養を誇るということにもあったのではないだろうか。つまり、定家等の歌がいい歌であるかどうかという価値判断とは別に、九条家に集まった歌人たちが難しい歌を詠んでいるというのは誰にでもすぐわかる。また個々の課題の難易度の問題以前に、良経の歌会は百首歌を前提としているが、守覚法親王の歌会は五十首歌しか要求していない。これは百首歌を詠むということがそれ自体難しいからで、百首歌を詠むことを要求すれば歌会に参加できなくなる人が出てくるであろうということは、明らかだ。つまり、守覚法親王の歌会は、プロ的な厳しさを要求しないうちうちのお楽しみの会だったともいえる。
ところで、教養主義と切り離して純粋にいい歌(秀歌)を詠むという観点は、定家の父・俊成の観点でもあるのだが、九条家の歌会はその俊成をもとりこんでいるので、俊成的な意味で秀歌を詠むという条件と主宰者である九条家が出している教養としての和歌という条件が重なり合っていて、どちらに主眼があるのか判別しにくい。その点からすれば、むしろ守覚法親王の歌会の方が俊成的な歌本位の価値観のうえに成立しているかもしれない。また後鳥羽院主催の歌会も、当初はそうした歌本位のものだったのではないかと思う。しかし後鳥羽院の歌会の場合、そのなかにしだいに、朝廷(院権力)を中心にして日本全体を統べるという後鳥羽院の政治的世界観が投影されてくる。すると歌本位の考え方をする定家は院についていけなくなる…。
話を元に戻れば、そうした後鳥羽院的な歌の世界と良経(九条家)の歌の世界は、政治を中心にして和歌(文芸)を考えるという点で極めて近いところに位置するようで、やはり根本的に違うところをめざしていたのではないかと思う。そしてそれは、結局、両者の政治ヴィジョンもしくは文化ヴィジョンの相違に由来するのではないだろうか。つまり、後白河院や後鳥羽院などの「院」は、従来の家柄や身分にとらわれない新しい人材を登用したり、朝廷文化のなかに今様、田楽、白拍子舞などの新しい要素をどんどん取りこんでいこうとするが、摂関家はそうした新しい要素を排除し、和歌に代表されるような古い文化を時代に合わせてリニューアルしていこうとする。平安時代末期からの院政期の朝廷文化とは、朝廷が一丸となって一つの文化や政治のあり方をめざすのではなく、朝廷そのもののなかにさまざまな価値観が芽生え、朝廷の権力、さらには文化がさまざまに分化していくところに特徴があったのだと私は考えている。

ところで、以上のような朝廷や歌壇の状況をふまえたうえで、西行と『新古今集』の問題を考えると、鎌倉時代初期の人たちがすべて西行の歌を高く評価していたといった表層的な分析とは違う側面が浮かび上がってくる。
上にも書いた院初度百首(正治二年=1200年)と『新古今集』竟宴(完成披露のセレモニー)のあいだには、実際問題としてあまり時間がない。それならばいい勅撰集をつくるために『新古今集』の完成をずらせばいいようなものだが、元久二年(=1205年)という竟宴のタイミングは、『古今集』完成後三百年というタイミングを見計らって定められたものであり、動かしようがない。このように、タイムリミットを定められたうえで勅撰集を編纂しようとすれば、下命者である後鳥羽院主宰の歌会を重視するのは当然のことながら、その直前に行われていた良経主宰の歌会も無視できないということになる。したがって、「花月百首」以下の歌会からも多くの歌がとられる。
すると結果的に、『新古今集』の歌人構成が良経の歌会と非常によく似たものになってしまうのだが、そこで後鳥羽院から出された至上命令(政治課題)が、できが良かろうと悪かろうと九条家とは無縁な西行の歌を大量にとりいれて『新古今集』のトップ歌人を西行とし、後鳥羽院としての独自色を出すということだったのではないだろうか。もちろん、西行は教養主義とは無縁な歌人だ。
いずれにしても、『新古今』のなかの西行の歌は、『新古今集』編纂の(政治的)意図をふまえたうえでもう一度見なおすべきだと私は考えている。

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  1. 2006/02/13(月) 00:08:48|
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すぐれた和歌とは?ーー定家と西行を例に考える

いい和歌、すぐれた和歌とはなんなのだろう。和歌の評価、歌人の評価について、私なりに少し考えてみた。といっても、私は、『万葉集』から現代まですべての和歌に目をとおしているわけではないし、登場人物がふえると話がややこしくなるので、ここでは、ともに『新古今』を代表するとされる定家と西行を例にとって考えてみる。

   *    *    *

まず西行だが、実はこの人の歌、個人的にはいいと思ったことが全然ない。ただ、これは「現代人」であるlunatiqueの行う「現代的」評価であるかもしれず、これに対しては、西行の歌は現実に『新古今』に一番多くとられており、西行は『新古今』を代表する歌人ではないか、現代と院政期では和歌に対する考え方が違うのだという反論がまず予想される。
これに対しては、私としても簡単に言って二つの再反論があるわけで、①勅撰集に一番多く歌が採られるのは歌人にとって非常な名誉であるが、それだけに競望も激しく、結局は故人をトップに撰ぶ例が多い(院政期の勅撰集でいうと、後拾遺和歌集の和泉式部、詞花和歌集の曽祢好忠、、千載和歌集の源俊頼はすべて編纂当時故人。金葉和歌集の源俊頼<=撰者>のみ例外)。もちろん、西行は『新古今』編纂当時故人。ちなみに、西行の次は、慈円、九条良経(この二人は伯父・甥)と続くが、このどちらがトップになっても九条家(=摂関家)重視という政治臭が出てしまう、②西行の歌は、勅撰集の核ともいえる四季の部、恋の部には少なく、雑の部に多い。逆にいうと、雑の部は秀歌が少ないので、人為的に穴埋め、てこ入れしなくてはならないが、ここに西行の歌が数多く入っている。ちなみに、慈円の歌も雑の部入集が多く、これは慈円の歌を多く入れるための政治的配慮と考えられるーーがその二つだ。要するに私としては、勅撰集の入集歌数とその歌人への同時代の評価はある程度一致するが完全に一致するわけではないといいたい。
そこで西行派からあらためて提出されることが予想される反論としては、純粋に和歌の問題にたちかえって、西行の歌は彼の生き方を反映した歌だが、定家の歌は人工的で定家の実人生を反映していない。定家の歌は虚であり、価値が低いというものがあると思う。
ただこの反論、私からすると、院政期の和歌のなかに知らずしらずのうちに近代的芸術論をもちこんだもので、院政期和歌を論じるときにストレートには採用しがたいと思う。つまり私としては、「和歌は詠み手の人生を反映しなくてはならない」とか「詠み手の人生を反映しない和歌は価値が低い」というような価値基準は誰が決めたのかといいたい。
したがって、そうした「反映論」によって歌の価値を論じるのではなく、院政期の和歌に関して重要だと思うのは、その多くがあらかじめ題を決めてからそれにあわせて詠む題詠だということ、したがって、和歌とは歌人の人生をもりこむ器ではなくて、題をいかにうまく読みこなすかという技術競争なのだということだ(夏でも冬の歌を詠まなくてならないし、恋をしたことがなくても恋の歌を詠まなくてはならない)。この点において、定家という人は、明らかに時代の頂点に立っている。
それと、和歌と詠み手の関係(反映)ということに関しては、定家の側からも若干の反論があり、定家の歌を強力に支持したした人の一人である慈円が、当時、「速詠」を流行させている。この速詠というのは、文字通り素早く和歌を詠むことで、一時とか一日といった限られた時間のなかで百首歌を詠むことを定家らにさかんに勧進する。これはどういうことかというと、時間をかけて歌を詠むと、そこにいろいろな作為が入り込んでしまうが、時間制限があると作為を入れようがないので、「自然な」歌ができるという主張だ(この主張、私はダダイズムの主張に似ていると思う)。慈円はこれを信仰の立場から提案するのだが、定家にもその提案に応じた和歌が多い。要するに、作品にその人が反映しているかどうかというのは、単純には論じられないということだ。
さて、西行と定家の問題(=院政期和歌をどのように評価するかという問題)に立ち返れば、これは、実は個々の歌人の評価や個々の作品の評価の問題ではなくて、私は、題詠さらには慈円が提起した速詠といった、いわば「和歌の装置」をどのように評価するのかという問題だと思っている。したがってこれは、純粋に文学的というよりは、やはり歴史的問題ではある。
そのうえで、この歴史的問題は、個の反映を核にして成立している近代文学に対する強烈なアンチテーゼとなりうるという意味で、強い現代性をもっていると考えている。

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  1. 2006/02/11(土) 01:44:20|
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クレンペラーの演奏と時代性

1月19日付けの記事「渋谷の画廊・美蕾樹の企画展と新年会」へのsea1900さんのコメント(感想)がおもしろかったので、そのフォーマットをお借りして、クラシック音楽の演奏評がどのようなものであるべきか少し考えてみたい。Sea1900さんのフォーマットのどこがおもしろいかというと、一般的な演奏評もこのやり方できちんと分類できてしまうからだ。
たとえば、晩年のブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、概して非常に遅いテンポのものが多いのだが、そうしたテンポ設定に関して、

 A「遅い演奏」-①「重厚だ!」
 A「遅い演奏」-②「なんかかったるくて、イヤ」
 B「早い演奏」-①「爽快、現代的だ!」
 B「早い演奏」-②「軽薄なやっちゃ」

というようなことが言えるわけで、これではもう、遅かろうと早かろうと「受け取る側の自由でさァ」と啖呵を切りたくなってしまう。しかし少し待って欲しい。演奏が遅いとか早いとかは特定の曲を聞きこめば誰にでもすぐわかる問題だが、だからといってそこで単に遅いとか早いで終わってしまったのでは紋切り型の感想文であり、演奏評にはならないのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏に関して私がいいたいのは、なぜ彼らがそういうテンポを設定するのか考えずに遅いとか早いとかといった速度だけを問題にしていると、それは結局、嗜好性の問題になってしまうのではないかということ。演奏評や演奏論というのはそういう底の浅いものなのだろうか。これはたとえばある人がクレンペラーの演奏を評価するかしないかという問題ではなくて、クレンペラーの演奏がいいという人のなかにも、彼がなぜそういう演奏するのかを考えずに、「重厚だから好き」といった評価をする人がいるからだ。これでは完全に「贔屓のひき倒し」になってしまうと思う(そうした評価をする人たちの多くは、ブルーノ・ワルターやクレンペラーがたまたま早いテンポの演奏をすると、今度は「らしくない」で片付けてしまう)。
目についた例でいうと、東芝EMIから発売されているクレンペラー指揮のモーツァルト交響曲第35・40・41番の解説書のなかで、歌崎和彦氏は、この演奏を「いかにもこの巨匠らしく作品を大きく巨視的に掴みとり、その音楽を強い筆致と妥協のない表現によって巨細に描ききった演奏」と評しているのだが、いくらもっともらしいかろうと、こうした書き方に私は納得できない。歌崎氏の文章からは、クレンペラーが音楽の細部に少しも拘泥していないようにとれるのだが、それは逆であり、クレンペラーほど音楽の細部にこだわる指揮者はほとんどいないと私は考えている。このモーツァルト演奏にもそうした一つ一つの音に対するこだわりはいかんなく発揮されており、クレンペラーのモーツァルト演奏がおもしろいのは、そうした細部へのこだわりが、あたかも点描主義の絵画のように徹底しているからだ。クレンペラーは、音楽を安易に流すことをけしてしない。またこうした几帳面なこだわりをいかそうとするとき、テンポ設定は必然的に遅くなる(第40番でいうと、終楽章の前進することを拒否したような「遅い」テンポ設定が、クレンペラーの主張を伝えて非常に雄弁だ)。
こうしたクレンペラーの演奏が、一部の人には「うどの大木のような大味な演奏をする」と酷評されるのだが、歌崎氏が書いているのは、そうした反クレンペラーの論者が言っていることと結局同じだと思う。(上掲フォーマットでいえば、両者はA①とA②のパターンのあいだで自分の好みを述べているに過ぎないのではないだろうか)。しかしこのような事態が生じるのは、実は、クレンペラーの音楽に対するこだわり方が、ある種の人には少しもこだわりには聞こえないという難しい問題点をはらんでいるからなのだが、クレンペラーを論じるならばそうした核心にこそ迫らなくてはならないと思う。
ところで、畑中良輔氏は、かつてクレンペラーのバッハ演奏を「反時代的」と評したが、こうした論点ならば私もうなづける。つまり、クレンペラーはいたずらに現代的(時代迎合的)演奏をめざしたのでも、その逆の伝統的(没価値的&伝統墨守的)演奏をめざしたのでもなく、その両者を一刀両断のもと切り捨てようとする。いやもしかすると、クレンペラーは、その演奏が現代的か伝統的かといった価値判断にはまったく無関心だったのではないかとも思う。だからクレンペラー演奏は、聴き方によってものすごく現代的にもきこえるし、保守的にもきこえる。クレンペラーのテンポ設定や細部表現は、彼がいたずらに「巨匠的」であろうとしたことからきているのではなく、表層的な現代性とも伝統性とも無縁な、文字通り「反時代的」としかいいようのない表現をめざしたところからきているのだと思う。
これは、モーツァルトやバッハの演奏に限らないのだが、クレンペラーは音楽演奏に音の明晰さを強く求める。その追求の激しさが、私には、この人はストラヴィンスキーの時代を経過してきた人なのだなという一種の新しさ、モダニズムといったものを強く感じさせるのだが、考えてみれば音楽演奏において音の明晰さを求めるということは、音楽の本質とかかわることだと思う。だから、音の明晰さに強くこだわる限り、クレンペラーの演奏は常に本質的な演奏であるともいえる。
バッハでいえば、たとえばカール・リヒターの演奏は、曲の中の特定の部分を強調して音楽にメリハリをつけていこうとするのだが、クレンペラーの演奏にはそうしたメリハリをつけようという方向性はまったくない。ただひたすら音にこだわるのだ。だから、リヒターの演奏(解釈)を現代的というならば、クレンペラーは少しも現代的ではないことになってしまう(「うどの大木的」<笑>)。
ところでおもしろいことに、クレンペラーの演奏は、その精神性の高さゆえにバッハやベートーヴェンがいいという人がいると同時に、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどのちょっと世俗的な音楽がいいという人も多く、しばしば入門者をとまどわせる。しかしこうしたいささか分裂症的な評価のなかにもクレンペラーの演奏の特徴はみごとに示されているのであって、クレンペラーのベルリオーズやメンデルスゾーンがいいというのは、ひたすら音の美感を求めるその演奏が、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどの音響主義的な音楽に合致する部分があるからだと思う。
なにやら脱線気味の記事になりつつあるが、要はクレンペラーのモーツァルトはひたすら美しい。そのひたすら美しいという事実は、ある意味「バロック(いびつ)」でもある。だからこれは、口当たりのいいモーツァルト演奏でだけはけしてない。

テーマ:クラシック音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/08(水) 12:32:50|
  2. クラシック音楽
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赤坂の呑み屋でいろいろ取材

今日、赤坂の呑み屋desperaで、亭主・渡辺一考さんと須永朝彦さんの合同誕生パーティーがあり、ちょっと顔を出した。
須永さん、渡辺さんというと、ともに先日放送のNHK新日曜美術館・鏡花本特集の関係者であり、今日はその番組を制作したKさんも顔を出して、番組についていろいろ感想をいったり、話をきいたりした。先日も書いたように、番組で流された音楽のなかで私が知りたい曲が一曲あるのだが、その話をしたところ、その曲はKさんが選んだ曲ではなく音楽担当者が選んだ曲なので、なんという曲か今調査中とのことをKさんから直接きいた。
パーティーは、Kさんだけでなくいろいろなお客さんで賑わったが、私は松山俊太郎さんをみつけ、さっそく次の取材。
というのは、三島由紀夫が『豊穣の海』を書いていた最中、作品全体を唯識思想(法相宗)でまとめるという構想は最初からできていたのだが、その構想がうまくいかなくて、ある時、澁澤龍彦邸でそのことをもらしたところ、その場に居合わせた松山さんが三島に唯識についていろいろ解説したということを、「皿屋敷事件」として澁澤さんが文章化しているからだ。その時、三島にどんな説明をしたのか、酒の席なので松山さんはほとんど語らなかったが、松山さんに私の疑問を直接ぶつけることができたのは、大きな収穫だと思っている。
そんなことでみんなわいわいやっていたら、後から、「更屋敷事件」のもう一人の立会人・金子國義さんがやってきたのにはびっくり。金子さんの登場で、店は一気に賑やかになった。
他には、フランスの現代哲学者・ドゥルーズの著作をいろいろ翻訳・紹介している宇野邦一さんも顔を出し、今日のdesperaは、さまざまな分野の人でともかく賑やかだった。
なお、「更屋敷事件」のことは、追ってくわしく紹介してみたい。

テーマ:只の日記つかメモ。 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/06(月) 01:29:31|
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