le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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私のブレッソン体験

ブレッソンとクレンペラーの対位法を書き継ぐ前に、私自身のブレッソン観・ブレッソン体験を少し書いておいた方がよさそうに思えてきた。浅沼圭司氏と品田雄吉氏のブレッソンをめぐる言説をクレンペラーに関する言説として読み替えるという作業そのものはさほど困難ではないのだが、その作業を機械的にすすめることがどれほど意味のあることかと自分でも疑問に感じられ、その疑問を解決するためには、自分自身のブレッソン感を書き、浅沼・品田対談を自分なりに肉付けしておくことが必要な気がしてきたからだ。

さて、私の高校生~大学生時代、家庭用ビデオというものは存在せず、テレビで放映される映画も限られていたので、観ることができる映画は非常に限定されていた。それでも東京に出て来ると、名画座あり、フィルム・センターありで、ようやくさまざまな過去の名作を観ることができるようになった。
それでもブレッソン作品の上映はない。そうしたなかで岩波ホールのエキプ・ド・シネマが発足し、その最初期の上映作品のなかにブレッソンの『少女ムシェット』が含まれていた。私はもどかしい思いで岩波ホールに行き、ようやく観ることがブレッソン作品『少女ムシェット』に非常に感動した。個人的には、『少女ムシェット』は、その後観た『バルタザールどこへ行く』とならぶ甲乙つけがたい傑作である。
ちなみに、『少女ムシェット』が公開された1974年は、ヨーロッパ映画の個性的傑作が数多く公開された充実した年だった。参考までに、この年のキネマ旬報ベスト10をあげておこう。
1位『フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ)、2位『叫びとささやき』(イングマル・ベルイマン)、3位『アメリカの夜』(フランソワ・トリュフォー)、4位『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『ペーパー・ムーン』(ピーター・ボグダノヴィッチ)、6位『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル)、7位『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ノーマン・ジュイソン)、8位『黒い砂漠』(フランチェスコ・ロージ)、9位『デリンジャー』(ジョン・ミリアス)、10位『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン)
ブレッソンの『少女ムシェット』は、またもや批評家からも無視されているが、滋野辰彦氏がこの年のベスト1に推した。
私自身はというと、前年の暮に試写会で観たレネの『ミュリエル』にまず大感激して、翌年のベスト1はこれでいこうと思っていたところ、正月早々ベルイマンの『叫びとささやき』が公開されてどちらかをトップにするか迷いだしていた。ところが5月にはブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が公開され、この自在な作法はレネ、ベルイマンをも上回ると、脱帽した。レネ、ベルイマンが、ある意味で私が想定していた常識のなかで映画をつくり、その範囲のなかでの「映画的」感慨だったとすると、ブニュエルはもう、そうした「映画」としての常識を完全に覆していたのである。しかも、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』を観ればすぐにわかるのだが、そうしたブニュエルの破格の映画作法(スタイル)は、この映画をとおして示されるブニュエルの人間観と直結するものであり、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』という映画は、その語り口なしには意味をもたない(つまり、ブニュエルの人間の見方・とらえ方が破格だとすれば、それを他者に伝達するつたえ方・表現方法も破格だった。逆にいえば、表現方法の破格さからもブニュエルの人間把握の破格さがわかる。いや、そうした表現方法なしにオーソドックスな方法<=枠組>でその人間観が表現されたとしたら、結局われわれは、そうした人間観を既存の月並みな枠組のなかに組み入れ、既存の枠組のなかで位置づけてしまうだけだろう。だから私は、このユニークな作品を『ミュリエル』よりも『叫びとささやき』よりも高く評価する)。
そうしたことから、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』こそ数年に一度の傑作と考えていたところ、9月に『少女ムシェット』が公開され、私はまたもや驚天動地した。ブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が、映画の常識を覆すために考えられるありとあらゆる手段を駆使していたのに対し、ブレッソンは、(一見したところ)そうした目だったわざを何もつかわずに、いや、わざをつかわないことで映画の常識を覆してみせたのである。高校生時代からどのような作家かといろいろ想像し、期待をふくらましていたブレッソンが想像をはるかに上回る作家であったことに、私は完全に圧倒された。

   *    *    *

さて今、ビデオやDVDでブレッソン映画を確認しながらこの記事を書ければ、私の個人的なヨタ話よりよほどましなのだが、DVDは無し、ビデオは故障という悲惨な状況なので、記憶のなかから思い出を引き出して、ブレッソン作品について書いてみる。
浅沼・品田対談のなかでは、ブレッソンのスタイルのことがまず問題にされているが、実際に『少女ムシェット』を観てまず最初に見事と思ったのも、このブレッソン独自のスタイルだった。
一口にブレッソンのスタイルといってもいろいろな特徴はあるのだが、最も有名で顕著なのは(そして私にもすぐ目に付いたのは)、全身や上半身のショット、顔(表情)のクローズ・アップをほとんど行わず、たとえば、誰かが歩いているといえば足、モノをつくっているといえば手、何かを見ているといえば目という具合に、人間の身体の一部だけを写したショットが非常に多いこと。これがブレッソン的な「明晰さ」に繋がると同時に、映画に強い緊張を生み出していた。
たとえば、ある人間がとあるモノに近づいてそれを手に取るといったシーンで、通常ならばカメラが登場人物と一定の距離をおいておかれ、その人物の全身を映し出しながら、画面の中で人物を動かし(演出し)その人間にモノを手に取る仕草をさせるのに対し、ブレッソンは、まずその人物の足を写しだし(歩く)、次に目のクローズ・アップ(モノを見つける)に切り替え、続いてモノをつかんでいる手のクローズ・アップに移る。この結果、われわれは、画面に映し出されている登場人物の意志とはかかわりなく、モノがある人の手に取られるというシーン(そのもの)に直面する。通常の映画のようにこれをワン・ショットにおさめると、どうしても、あるモノを手にとるという動作の背景にその人物の何らかの心理や動機を想定せざるをえない。
ブレッソンの場合、実は、人間のさまざまな動作から「心理」を排除するためにこうした細かいショットをモンタージュして画面の流れ(シーン)を構成しているわけで、そのスタイルと狙いが見事に合致している。

Bresson-mains.jpg
手が思考する?(『バルタザールどこへ行く』より)

ところで、ブレッソンは、自分の映画を定義して「アクション映画」だということがある。これは、いわゆるアクション映画に対する痛烈な皮肉ととれないこともないのだが、それはともかく、ブレッソンが嫌うのは、人間の行動の背景に、常に感情、心理といった動機を想定し、それによって人間の行動を解釈することで、そうした「心理映画」に対するアンチ・テーゼが、心理を排除した「アクション映画」であり、そうしたアクション映画を実現するためには、人間の身体動作の一部ずつを組み立てて映画をつくっていくしかないということになる。
こうしたブレッソンの映画では、画面に映し出される人間への(観客の)共感・感情移入が映画を牽引していくのではなく、画面と画面が結び付けられるリズムや緊張感が映画を牽引していく。浅沼・品田対談でいえば、このことが、「ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化している」(浅沼氏)という発言に繋がっていると思う。極端にいえば、ブレッソン映画では、さまざまな人間の動作は、その人物や物語を説明するためではなく、次にまた緊張した画面を呼ぶために必要とされるということになる。
たとえば『抵抗』(1956年作品)という映画は、死刑囚が脱獄するために、ほとんど何もない独房でさまざまな道具を作り出し、脱獄するプロセスを描いた映画であり、続く『スリ』(1959年作品)は、主人公であるスリが、他人のポケットからモノを取り出す瞬間を繰り返し繰り返し、執拗に描いている。『抵抗』にも『スリ』にも、物語らしい物語はほとんどなく、むしろ、ストーリーはそうした部分(プロセス)を呼び込むための約束事として付着しているような印象がある。
こうしたことの必然的結果として、ブレッソンは、出演者が演技をすることや、何かを表情に表すことを嫌う。またそうした結果につながりやすい職業俳優の起用をも嫌う。
しかしブレッソンがいくら出演者の演技や感情表現を嫌っても、人間を主人公とする限り、作品から演技や感情表現を完全に排除することはできない。そこで『バルタザールどこへ行く』では、最初から演技もしなければ感情表現もしない(できない)ロバを主人公にして、ブレッソンは理想的な「アクション映画」をつくりあげようとしたのではないだろうか。この映画のストーリーを簡単に要約すれば、『バルタザールどこへ行く』は、バルタザールと名づけられ、カトリックとしての洗礼を受けたロバが黙々として荷物を引き、むち打たれ、歩き続け、死ぬというプロセスを描いた作品である。そこでは、何の心理的説明も感情表現もないロバの行動が、感動や美的昂奮をもたらす。しかし、この映画の主人公であるロバを何者かの象徴とみたり、ロバの行動に何かの意味を見出そうとするのは、ブレッソンの意図に反していると思う。
私が最初にこの映画を観た時に特に強い感銘を受けたのは、ロバであるから当然なのだが、主人公のバルタザールが一言も言葉を発しないこと、にもかかわらずバルタザールの生き様、その喜びや苦しみが理解できるように思われたことだ。そして映画を観おわってから、そうした感銘を今度は何か「言葉」で表現しようとしてみたとき、言葉が完全に無力であるということにも気づかされた。言葉や余計な説明がないからこそ、バルタザールの行動は瞬間ごとに自足した完全なものであり、了解可能なのであって、言葉によってそれらの場面から受けた印象を伝えようとすれば、どうしても部分的で不完全なものたらざるをえないのである(この映画のなかでは、バルタザールの周囲の人間が発する言葉は「雑音」のように聞こえる。あるいは少なくとも、彼らがそれによってうまく意志を通じ合えているようには感じられない)。
『バルタザールどこへ行く』は、表面的にはどこまでいってもロバの一生を描いた映画であり、それ以外の何ものでもないのだが、実は、ブレッソンが問題にしているのは人間コミュニケーションのあり方であると思われた。

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  1. 2006/03/29(水) 14:46:27|
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ピエール・クロソウスキーーーサドとヴィトゲンシュタインを繋ぐ人物

ブレッソンのことを考えながらいろいろなサイトを検索しているうちに、『バルタザールどこへ行く』に粉屋の役で出演しているピエール・クロソウスキー(クロソフスキー)について研究している「Pierre Klossowski」というサイトに漂着した。そのサイトの記事のなかでは、クロソウスキーがなぜこの映画に出たのかわからないということだったが、クロソウスキーの弟に画家のバルテュスがおり、バルテュスの本名はバルタザール・クロソウスキーだというのがおもしろい。勝手な想像だが、たとえば、ブレッソンとクロソウスキーが話をしているうちに、バルテュスの話題になり、そこから、バルタザールという名前が出て来た(その縁でクロソウスキーも映画に出演することになった)といったことも考えられなくはないと思う(ちなみに、バルタザールとはキリスト生誕の際に、それを予見し祝って駆けつけた東方三博士の一人の名前。映画<ブレッソンのオリジナル・ストーリー>では、主人公となるロバが誕生の際にバルタザールと名づけられ、カトリックとしての洗礼を受ける)。

klossowski.jpg
ピエール・クロソウスキーとアンヌ・ヴィアゼムスキー(『バルタザールどこへ行く』より)

クロソウスキーの作品、私は代表作の『ロベルトは今夜』すら読んでいないのだが、「Pierre Klossowski」サイトに掲載されている年譜を読むと、サド研究の大家でもあり、このあたり、ブレッソンの人脈が一筋縄では説明できないということを示している。
そしてまた、このクロコウスキー自身がどうも一筋縄でいかない人らしく、年譜を読んでいたら、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の仏訳者であるということに驚いた。『論理哲学論考』には私も一時はまったことがあるのだが、サドは知っているがヴィトゲンシュタインのことはよく知らないという方のために、『論考』からいくつかの命題を抜き出してみる。

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(5.6)
「世界と生とは一つである。」(5.621)
「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」(5.63)
「思考し表象する主体は存在しない。」(5.631)
「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである。」(6.44)
「表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。謎は存在しない。いやしくも問を立てることができるのなら、その問に答えることもできるのである。」(6.5)
「生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。」(6.521)
「だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。」(6.523)
「本来哲学の正しい方法は、語られうること、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外の何も語らない、というものである。」(6.53)
「私の命題は、私を理解する人がそれを通り、その上に立ち、それをのり越えていく時に、最後にそれが無意義であると認識することによって、解明の役割を果すのである。(彼は梯子をのり越えてしまった後には、それをいわば投げ棄てねばならない。)」(6.54)
「話をすることが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。」(7)
以上、奥雅博氏訳(『ウィトゲンシュタイン全集 1』所収、大修館書店)

このように抜き出してみると、ヴィトゲンシュタインの思想は、ブレッソンの思想とつかず離れずの関係にあるようにも読め、その仏訳者クロソウスキーの出演が、ブレッソンにとって何らかの特別の意味(記号性)をもっているように感じられるのである。
ちなみに、ヴィトゲンシュタインに関しては、デレク・ジャーマン監督の『ヴィトゲンシュタイン』という映画もある(1993年作品)。
いずれにしても、私には、サドとヴィトゲンシュタインを同時に視野におさめていたクロソウスキーという人が非常に興味深い。

【参照】
「Pierre Klossowski」サイト
「Pierre Klossowski」サイト~『バルタザールどこへ行く』
松岡正剛の「千夜千冊」サイト~『ロベルトは今夜』(クロソウスキー)
松岡正剛の「千夜千冊」サイト~『バルテュス』(ロワ)

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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/27(月) 12:18:15|
  2. 哲学
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ブレッソンとクレンペラーの対位法 1

『アートシアター』76号掲載の品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談「ブレッソンという人と作風」の引用紹介の冒頭にも書いたが、大学時代の私は、ようやく観ることのできたブレッソン映画(私が最初に観たブレッソン映画は、『バルタザールどこへ行く』の次に公開された『少女ムシェット』だった)にはまり込むと同時に、ブレッソンが映画において志向したものを音楽という別のジャンルの芸術において実現させたらどうなるかを求めてクレンペラーの演奏にたどりついたのだった。そうした点からすれば、ある意味、当然といえば当然なのだが、今読み返してみて、引用したブレッソンの作風をめぐる対談のなかの浅沼発言が、固有名詞をかえればほぼそのままクレンペラーの演奏評にも適応できるということに驚いている。というか、音楽のことしかわからない(もしかすると音楽のことすらわからない)批評家が、「主観性・客観性」の対立軸だけからクレンペラーを語るよりも、よほどいきとどいたクレンペラー評になると思う。
以下、その読み替えを試みる。

   *    *    *

まず、表現者としての「スタイル(様式/文体)」の問題。ブレッソンにとっても、クレンペラーにとっても、究極的にはこのスタイルの問題が最も重要なものになってくるといっていいと思う。
ところで、ブレッソン同様、クレンペラーは少し聴けばすぐにクレンペラーとわかる独自のスタイルをもった演奏家だが、そのスタイルというのが、私には「ほかの指揮者のスタイルとはちょっと違った意味を持っている」ように思われる。それはつまり、「個人のスタイルをもう少し乗りこえた音楽固有の純粋化されたスタイル」「ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、音楽独自のスタイルを具体化しているような性質を持っているんじゃないか」ということである。
浅沼氏はそれを、「映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソンの言葉に結び付けて考えているわけだが、それに呼応するものとして、クレンペラーには、「たいせつなのはオーケストラに呼吸をさせるということ」「リズムのアーティキュレーションが演奏者に息をつくチャンスを与えるということ」「木管がきこえるということがもっとも重要」といった言葉がある。要するにクレンペラーは、音楽とは極言すれば音の連なりに過ぎず、そこでは”音そのもの”をどのように出すかが最も重要となるということをいいたいのだと思う(ついでに言っておけば、ワルターやセルの演奏でも、アーティキュレーションや木管は重要視されている)。
もっともこの部分は映画と音楽それぞれの芸術の根幹にかかわることで、安易な置き換えは危険でもあるのだが、その点では、「モデル(現実・具体)」との関連で成立する映画よりもモデルを必要としてない音楽というジャンルの方が、スタイルそのものを明確に打ち出すという点では有利だと思う。ただ逆に、まずモデルがあって、それからの離脱によってスタイルの存在をうったえる映画の方が、スタイルを強烈に打ち出しやすいという側面はあると思う。いずれにしても、クレンペラーは、「自己表現の手段として音楽を考えていない」、あるいは、「何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま音楽があった」という風には考えていないと思う。
つまり、この辺がクレンペラーの演奏に対する無理解や誤解のポイントなのだが、音楽を演奏者の「自己表現の手段」としてとらえようとすると、クレンペラーの音楽はまったくとらえようがないものとして立ち現れてくる。音楽を演奏者の「自己表現」の手段ととらえる論者の多くは、クレンペラーのライブ録音に注目して、スタジオ録音では最後まで冷静さを崩さないクレンペラーも、ライブでは燃える(自己表現する)といった評を行うことがあるのだが、私は、こうした評は完全な誤解だと考えている。要するに、クレンペラーは(たまたま燃える時があるにしても)燃える演奏など決してめざしていない。
したがって、クレンペラーの演奏を聴いていると、「いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的関係が切り落とされている感じ」が顕著であり、「指揮者でないクレンペラーとのつながりもみごとに切り落とされている」。そういう意味では、「クレンペラーの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じ」で私は聴く。こうした「完結性」は、映画と違い、音楽であればきわめて当然のことなのだが、この当然といえば当然のことが行われていない演奏はあまりにも多く(だからクレンペラーの「スタイル」は非常に目立つ)、一般的にいえば、音楽評はこの完結性の問題には触れない。いやむしろ、一般的な音楽評は、本質的に個人からも社会からも抽象化された一つのユニバースを構築する芸術である音楽のなかに、個人や社会を持ち込むような演奏についてだけ語ることが多い(まあ、その方が語りやすいということはあるだろう。しかし、当然のことながら、語りやすさとすばらしさは等価ではありえないはずだ)。
クレンペラーの演奏を聴いた印象として、「手アカにまみれていないという意味の新鮮さ」「むき出しのものが出ている」という感じをうけるのも、浅沼氏のブレッソン評に通底する。象徴派の芸術理念からブレッソンを分析するという浅沼氏の試みは、クレンペラーの演奏にもそのまま適用できると思う。つまり、「手アカにまみれた音楽を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見る」という感じは、クレンペラーの演奏を聴く場合、つねにまず最初に出てくる印象だ。しかしそれは、単純な客観主義や即物主義に還元できるものではなく、むしろ「音楽的なことばが本来持っている、音と音の関係をクレンペラーは守っている」というところからくるのだと思う。つまり、クレンペラーの演奏を聴いて驚くのは、演奏する曲に対して特定の解釈や逸脱がなされていることからくるのではなく、特別なことはなにも行われていないのにこの曲がこのように美しく響くのはなぜなのだろうという驚きなのだ。いや、だからこそその驚きは深い。
それと関連して、クレンペラーについて論じるとき、クレンペラーのことを知っている人であればすぐに出てくる彼の人生経験のすさまじさ、これをどう位置づけるかということが非常に難しい。クレンペラーという人は、ユダヤ人であったがゆえにナチスに演奏を拒まれアメリカ亡命を余儀なくされたというだけでなく、指揮台や飛行機のタラップからの転落、腫瘍による開頭手術、交通事故、大火傷(彼の写真は横顔をとらえたものが多いのだが、それは、正面から写すとみると、この火傷の痕があまりにも痛々しいからだと思う)などなど、通常の人であれば一度遭遇するのもまれな身辺の大事件にたびたび遭遇している。それらの事件は、生じるたびにクレンペラーの演奏活動を窮地においこむのだが、クレンペラーは単に事件の身体的ダメージから立ち直るというだけでなく、そのつど指揮者としても復活している(ただし晩年は、腕がほとんど動かなかったという)。そういうクレンペラーの伝記的事実を彼の演奏と結び付けようとしても、彼の演奏というのは、一聴したところ、「演奏家でないクレンペラーという人間とのつながりもみごとに切り落とされている」ように感じられるわけで(もちろんこれには、クレンペラーは腕がほとんど動かせなかったのでまどろっこしくかったるい、いわば「精神性」だけの演奏をしていたのだという、私には勘違いとしか思えない批評もある。しかし身体的な不自由さがクレンペラーの演奏に影響したとするならば、そういう人は、あの晩年にいたるまで崩れることのない音の磨き上げをどのように位置づけることができるというのだろうか)、その結び付け方が非常に難しい。
実は私は、結局、クレンペラーが受けた人生上の苦難は、彼の演奏に色濃く反映されていると考えているのだが、その反映の仕方が、通常の意味での反映とはまったく異なることに、クレンペラー独自の思想性があると思う。つまり、クレンペラーの人生経験は、一部の妥協も無きスタイルの追求ということで、彼の演奏に反映されてくるのだ。

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/25(土) 01:32:08|
  2. クラシック音楽
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ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 2

以下、『アートシアター』76号(1970年)に掲載された品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談「ブレッソンという人と作風」の続きを記しておく。両氏の対談は「ブレッソン作品のその序列」「バルタザール讃詩」と、『バルタザールどこへ行く』の作品に即した内容が続くが、当引用・紹介では、後半部は省略する。

   *    *    *

【ブレッソンとフランスの哲学】
浅沼 最初の『罪の天使たち』は見ていないのですけれども、『ブーローニュの森の貴婦人たち』から『バルタザールどこへ行く』まで、全く変わっていないですね。
品田 よくわからないけれども、ブレッソンの映画に、フランスの哲学とのかかわり合いみたんなものがあるんではないか。
浅沼 映画をつくること自体が一種の哲学なんですね。
品田 戦争中に使われた悪いことばだそうですけれども、「哲学する」みたいな、ね。
浅沼 そうなんですよ。映画をつくることが哲学することだ。そういう意味では、本当の意味の映画の思想家じゃないかと思うんです。そういう意味の哲学で問題になるのは、「何が語られたか」であって「どう語られたか」は必ずしも思想とは関係ないと考えられることが多い、内容がよければ少しくらい語り方が拙劣でも、というような区別の仕方をよくやるのだけれども、ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している。そういう意味では、最も根本的な哲学を持っている人だと思うんですね。
品田 そういうやり方というのが、かなりブレッソンの場合純粋ですが、一種の主知主義のような流れが感じられるような気もするし、それから、デカルトですか、の言ったクラルテ(明晰)という姿勢みたいなものが、人間というとおかしいけれども、つくっているもの自体の中に肉体的な形であるのではないかと思う。
浅沼 ぼくもそれは賛成ですね。特に、いま言った主知主義的な、あるいは明晰さというものは、ブレッソンの根本的な資質ではないかと思われます。さっきドレイエルの話も出したけれども、ブレッソンの映画の内容を考えると、一方でどうしてもドレイエルが出てくるし、他方、神なんかを常に考えているという意味ではベルイマンなんかが出てくる。この三人を比べてみると大変おもしろいと思うんですよ。ドレイエルの場合は一種のミスティシズム(神秘主義)が大変強い。特に『ゲートルート』とか『言葉』とか、ああいう後期の作品や、ごく初期の『吸血鬼』なんからずっと一貫してある。『裁かるるジャンヌ』でも、ああいう描き方の中に神秘的なものがどこか強いですね。ところがブレッソンの場合は同じ『ジャンヌ・ダルク裁判』でも神秘主義のようなものはない。
品田 非常に明晰ですね。
浅沼 一方、ベルイマンの場合は神秘じゃないのだけれども、思い切って荒っぽく言ってしまえば、人間というのを中心においているんですね。神が不在の世界の中で人間がいかに存在し、神を回復しようとしているか、つまり人間のナマな実存というものが問題にされているわけですから、当然そこでは明晰さというよりは、むしろ根源的なものを追求するという性格が非常に強いわけですね。
 その二人に比べるとブレッソンの世界というのは非常に明晰なんですね。

品田 一種のきびしさみたいな面では、いまの三人は共通したものがあるんですけれども、表れ方が全く違う。
浅沼 地上から直ちに離れて神の世界に神秘的に入っていくドレイエルの場合にも、文体というか、そういうものはきっちりあるけれども、明晰な文体ではない。むしろ、一種晦渋というか、ヘタすると冗長になりかねないような文体を持っている。ベルイマンの場合にも、人間の具体的な存在の問題を追及するのですから、当然、セックスその他の問題をどんどん追求していく。ときどきは精神分析的なものが出てきたり、一種混沌とした世界を形づくっている。思い切って言ってしまえば、ドレイエルの場合は現実から直ちに聖なる世界に飛び込もうとするところに一種の神秘性が生まれてくるし、ベルイマンの場合は人間の具体的な生存に、ドレイエルとは逆に、ぐっと入っていこうとするところに彼の世界が成り立っていると思うんですよ。
 ところがブレッソンの場合は、そういう直接的な神とかなんとかへのかかわりというのを持たずに、まず確固とした映画そのものの世界をつくろうとする意志がある。でき上がった映画は大変明晰なものになってくる。神とか聖なるものとのかかわりは、そうして作られた世界が始めて持つわけです。そういうかかわり方をしている点では、新しい古いと言うのはおかしな話だけれども、ベルイマンなどよりかえって現代的であり得ると思うんですね。
 一般的な問題として言うと、例の『抵抗』を論じた文芸評論家のことばにサジェストされて少し考えてみると、もっとはっきり言えばマラルメなどの”ことば”に対する考え方と大変、もちろんブレッソン自身はそんなことは考えていないと思うけれども、ぼくらが脇からみると、共通したものを感ずるんです。マラルメの有名な「詩の危機」(crise de vers)という論文があるんですが、そこの有名なことばで、ナマのことば日常のことばというのは貨幣みたいなものであって、思想交換、感情交換のための手段でしかない。それはそれ自身の存在を持たない。それに対して本来のことば、本質的なことばというのは”何かのための”ことばでなく、ことばそのものであって何かとの交換のためにあるのではない。それはいろいろひっついた思想とか感情とか習慣とかをどんどん落としていったところで純粋化されたことばなんですけれども、どんどん純粋化してみると結局何もなくなってくる。なくなるどころかあるものをなくしてしまうような働きを持ってくる。マラルメはおそらく彼の詩作を通して、ことばの純粋化をどんどんやっていたのだろう。ところがそうしていくと、純粋化されたことばというのは、いろいろな現実の表面的皮相的な、あるいはくっついたものをどんどん消していく力を持ってくるわけで、ことばそのものへの関心から始めた詩作は、次第次第に今度は現実の表面的なものを洗い流していくという力をおのずから持ってしまう。そうすると、向こうに見えてくるのは、現実を越え出た何かではないだろうか。ことばそのものへの関心、その純粋化への試みは結局超越的なもの、聖なるものへの関りを生じるわけですね。マラルメの確固たる硬い主知主義的な詩の世界は聖なるものに対して開かれ、現実に対しては閉ざされているような気がします。そういう性格というのはどうもブレッソンなんかにも、非常に強くあるんじゃないか。

品田 強いですね。ブレッソン自身が好むと好まざるとにかかわらず、あるような感じですね。
浅沼 最初、あるいは、ややフォーマルに映画的な表現への関心があったかもしれないけれども、その追求の仕方が非常にシビアであり、また映画というものの本質を衝いた追求の仕方であったために、おのずからそういう現実を越え出たように世界をめざさざるを得なかった。めざすというか、そういう世界を表わし出すようなことになったのじゃないか、という気もするんです。まあ、これは憶測ですから、どっちが先かわからないが。
 映画が非常に現実的な具体的な芸術だというのも一方では事実だけれども、それがすべてでないということも事実ですし、具体的現実的といっても現実そのものではないわけですから、そこに抽象化の可能性は常に秘められている。映画が現実的だというのも映画に関する単なる俗説ですし、ね。

品田 一種の素朴な信仰みたいなものですね。
浅沼 他方、厳密な反省もなしに、モンタージュはもうだめなんだ、それは終わっちゃったからだめなんだというのも俗説ですし、映画は時間芸術であり、その時制は常に現在形なのだから、現実の意識の流れの表現に非常に適しているというふうな考え、それも俗説にすぎない。そんな俗説を盲信するから、レネの亜流があとをたたないのでしょうね。ブレッソンが一切のそうした俗説から全然自由であるというのは、大変みごとだと思いますね。大体、ことばによって何ものかを表現する時代から、ことばそのものを反省し、ことばそのものの限界とか特性を見据えた上で、ことばによってのみ表現されるものを追求していって、いろいろな要素はつけ加えないという真摯な態度は、一種の、象徴主義以来ずっとつながる、大きな現代的な思想の流れなんですね。そういう意味では、ブレッソンというのは映画そのものへの反省といいますか、映画そのものを対象とし、映画”そのもの”以外を全部捨て、そこで語れるものを語ろうという、これは非常に現代につながるものがあると思うんですね。 (以下省略) 

   *    *    *

なお、浅沼圭司氏には、『ロベール・ブレッソン研究ーーシネマの否定』(水声社)という著作がある。
【参照】『ロベール・ブレッソン研究』(紀伊国屋書店サイト内)

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  1. 2006/03/22(水) 12:25:25|
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ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 1

たまには私事を…。

私が集中的に映画を観だしたのは高校時代だった。中学時代に私が住んでいた小さな町には映画館はなく、中学時代には、自分の意志で映画を観るというのはかなりの冒険だった。なにせ、一時間に一本の汽車にのって一人で隣の町に行き、駅から繁華街の映画館までくねくね曲がった道を歩いて行かなくてはならないのだから。まあそれでも、『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリ)とか『卒業』(マイク・ニコルズ)とか、中学時代に観た映画はいっぺんで私をとりこにした。
高校は、幸いなことにその映画館のある町だったので、高校時代は、暇があれば学校をさぼって映画を観に行っていた。そんな私を新たにとりこにしたのが『テオレマ』(ピエル・パオロ・パゾリーニ)で、『卒業』に夢中になっていた自分を文字どおり卒業し、それからの私の思考はパゾリーニを中心に旋回しだした。
その年、私ははじめて、映画のベスト10というものを気にしながら映画雑誌を読むようになったのだが、そこでは、私のお気に入り『テオレマ』の評価は必ずしも高くない。そこではじめて、私は世の中にはいろいろな価値観があるということを知ったのだった。参考までに、この年(1970年)の『キネマ旬報』ベスト10作品を挙げておく。
1位『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)、2位『サテリコン』(フェデリコ・フェリーニ)、3位『Z』(コスタ・ガヴラス)、4位『明日に向って撃て』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『M★A★S★H』(ロバート・アルトマン)、6位『テオレマ』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、7位『王女ネディア』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、8位『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴィー)、9位『地獄に墜ちた勇者ども』(ルキノ・ヴィスコンティ)、10位『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)
あとから考えてみると、この年は、アメリカからもヨーロッパからも、個性的な作家の映画が数多く公開された画期的な年だったのだと思う。パゾリーニに関して言えば、パゾリーニ現象は目だったものの、『テオレマ』と『王女メディア』で評がわれて、結果的にどちらも上位に食い込めなかったと言ってもいいと思う。
ところで、最初、世の評価とはそんなものかと思っていた私が、評論家といってもさまざまで、要するに、『テオレマ』を高く評価した評論家の発言や評価にだけ注目していればいいのだと気づくまでさほど時間はかからなかった。
そこで注目しだしたのが、飯島正氏だったり、滋野辰彦氏だったりするのだが、そうした人たちだけをピックアップしてベスト10を読み直してみると、ベスト10の様相はがらりと変わる。このお気に入り評論家ベスト10によって、私はたとえば『野性の少年』(フランソワ・トリュフォー)の重要さに気づかされた。
しかしこの選び直しによって最も評価がかわり、急浮上してきたのは、大多数の評論家によって無視された『バルタザールどこへ行く』(ロベール・ブレッソン)だった(飯島氏と滋野氏は、ともに同年のベスト1に推している)。私は、見方によってはパゾリーニ以上というこのブレッソンという監督が気になり(田舎では、ブレッソン作品はまったく観ることができなかった)、せめてもと思って、東京で公開された際のパンフレットを取り寄せたり、まだ観ぬブレッソン映画に思いを馳せるのだった。

    *    *    *

ブレッソン作品は、大学にはいって上京した後もなかなか観ることができなかったのだが(ちなみに私は、映画が観たいという理由で東京の大学を選んだ)、ようやく観た『バルタザールどこへ行く』は、私をすっかり昂奮させ、その後も、私が映画を考える際の規準の一つとなっている。
ところで、ここまでながながと思い出話を書いたのは、高校時代に入手した『バルタザールどこへ行く』のパンフレットをひさしぶりに読み返し、自分の思考が、結局はここに書かれていることを中心に旋回しているのだなと感じたため(たとえば、オットー・クレンペラーに対する私の思い入れは、もともとは、ブレッソンに対する思い入れを音楽という分野で探るところからはじまったものだ)。
要するに、ここまでの文章は、実は『バルタザールどこへ行く』をめぐる1970年当時の言説を紹介するための前置きだったのだが、以下、もはや入手はほとんど困難と思われる、公開当時のパンフレット(『アートシアター』76号)から、「ブレッソンという人と作風」という品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談の一部を紹介してみたい。

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【ブレッソンの世界】
品田 ブレッソンのフランスでの評価はどうなんでしょうか。
浅沼 フランス人がブレッソンと比較というか、同じようなタイプだと言って持ち出すのは、カール・ドレイエルです。どっちもジャンヌ・ダルクをつくっているというわけでもないんでしょうが。テーマにある意味で共通性があるし、最初から最後まで一定のテーマをずっと守っているということと、映画作家には大変まれな”様式”を持っているという点などよく比較しているようですね。
品田 スタイルという点ではブレッソンは非常にきびしいものを持っていますね。
浅沼 ブレッソンのスタイルという場合、ぼくはほかの作家のスタイルとはちょっと違った意味を持っているような気がする。”スタイル”の解釈も大変めんどうくさくなるんだけれども、たとえばチャップリンのスタイルとかベルイマンのスタイルとか、ある作家個人に固有のスタイルということが一般的にはまず言われるわけですね。もちろん、ブレッソンにも一目でブレッソンだというスタイルはありますが…。
品田 スタイルというのは、文学でいう文体という意味ですか。
浅沼 そう言っていいと思いますけれども、ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化しているような性質をブレッソンの場合は持っているんじゃないか。その根拠の一つは、これはブレッソンがよく言うことなんですが、映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだと言う。だから、どこかにある物語を映画でつくるとかいうふうな形で映画を考えていない。と同時にもう一つは、映画を使って自分を表すという、自己表現の手段としても映画というものを考えていない。もちろん創作行為ですから、結果としてブレッソンの個性なり人格あるいは世界観というのは当然表われるでしょうが。
品田 つまり、何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま映画があったということではない。
浅沼 ブレッソンの映画を見ていると、いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的な関係も切り落とされているような感じがします。もう一つ、ブレッソンという人間ですね。映画作家でないブレッソンという人間とのつながりもみごとに切り落とされている。そういう意味では、非常に誤解があるかもしれないけれども、ブレッソンの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じで私は見るんですね。ところがブレッソンを問題にするときには、たいてい、その映画の世界のそれこそ神との関係とか情念だとか、内容面だけが重視され、表現そのものは必ずしも十分に問題にされない。おそらくそれは、ブレッソンは、たとえばゴダールとか、もう少し前のウェルズとかあるいは最近のアメリカにあるような新しさがみられないということによるものでしょうね。そういうものとの関係もなかなかつけにくい作家だと思うんです。
品田 そうですね。つまり、新しいとか古いとか、ちょうど現代にぴったりだというような尺度ではとらえられない何かを持っているということはいえるのじゃないですか。たとえばアラン・レネなどというのはそういう意味では、かなり新しさみたいなこととつながりやすい面があるけれども。
浅沼 そういう直接的な関係ではブレッソンというのは新しくもないし、少し大げさにいえば現代の芸術表現というようなものとの関係も直接的にはないのだけれども、いま言ったようなことを中心に考えてみると、やはりブレッソンの持っている現代性というか、その表現の持つ現代性は大変あると思うんですよ。
 最初にブレッソンの映画を見たのは『抵抗』だったんですが、あれを見たとき大変驚いたわけです。新鮮で。その新鮮さというのは、いまできたばかりという新鮮さじゃなくて、手アカにまみれてないという意味の、映画なら映画というものの手アカが一切なくなってしまって、むき出しのものが出ているという意味での新鮮さですね。
 『抵抗』が上映されたときに、いろいろな批評があったのですけれども、おもしろいと思った批評は、ある文芸評論家の批評です。彼はフランス系の文芸評論家ですから当然出てきたのでしょうが、象徴主義(サンボリスム)の詩の感じということと、もう一つ、「本来の意味での映画の古典主義」というふうなことばを使っていた。ことばというものには日常の会話の中で、本来持っているものの上にいろいろな習慣とか何かがひっついている。あるいは個人の情緒なり感情がひっついていて、結局個人の感情を伝えるためのものか、日常をうまく円滑にするための手段化して、ことばの本来持つものを隠している。そういう意味でのホコリを全部取り払って、ことばに本来の輝きを与えようというのが、いわばサンボリスムだというのが常識だと思うのですけれども、その批評家はブレッソンの映画に、まさに手アカにまみれた映画を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見た、と言っているのです。それは大変正しいと思うんです。その感じというのはブレッソンの映画をいつ見ても、出てくるわけですね。結局、時代その他にかかわりなく、映画の持っている本来の姿を保ち続けているわけですからね。

品田 いろいろな手アカ的なもの、たとえばことばならことばにいろいろな要素がついてくる、そういう属性みたいなものは、状況が変わると変わっちゃうんですね。
浅沼 そうなんですね。だから、ときどきこういう批評を見るんですけれども、レネとかゴダールとかの最近の映画は、いわゆるモンタージュみたいなものの呪縛を全部断ち切ったところに成立している。ところがブレッソンの映画を見ると、大変みごとなモンタージュがあるわけですよ。そうすると、「古い」と言うわけです。エイゼンシュタイン以来のしっぽをくっつけているじゃないか、というんですがそうじゃないんですね。モンタージュというものは一般に言われているように、コンヴェンショナルなものとしてのみ理解されるべきではない。時流に乗っかって映画の表現が動いていったときにポッと出てきたものとしてのモンタージュじゃなくて、映画的なことばが本来持っている、画面と画面の関係をブレッソンはいまでも守っているところが、大きな違いと思うのですね。決して「いわゆる」モンタージュじゃない。
品田 モンタージュがあって、それが一種のテーゼだとすれば、そのアンチとしてモンタージュを全然無視したものが出てくるというような形でつくられている映画というのがあるわけですね。ブレッソンの場合は、ある何ものかに対して自分はこうやるというような、相関的なとらえ方をしていない。
浅沼 そういう意味では、一種の純粋主義者だろうし、映画というものの立場からみた絶対主義者ですね。 (続く)

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  1. 2006/03/21(火) 13:58:23|
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「事象そのものへ!」

今朝はブルーノ・ワルター指揮、ニューヨーク・フィルのモーツァルト交響曲第39番、第40番、第41番の演奏を聴きかえした。第39番は1953年12月および1956年3月の録音、第40番は1953年2月の録音、第41番は1956年3月の録音。私的な思い出を書けば、これはいずれも、私が最初に聴いた第39番~第41番の録音だ。

BW-Mozart-NY.jpg

1月28日付けの記事にも書いたように、私はその後、オットー・クレンペラーの演奏を聴くようになったので、このブルーノ・ワルターの演奏は、もはや用済みで聴くべきものは何もないと思っていた。それが文字通り何十年ぶりかでこれらの演奏を聴きかえしてみると、非常に引き締まったいい演奏で驚いた。そしてこれを機に、オットー・クレンペラーやジョージ・セルのモーツァルト演奏のことも合わせて考えてみた。
ブルーノ・ワルター(1876-62)、クレンペラー(1885-1973)、セル(1897-1970)はいずれもユダヤ人で、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しているのだが、比較しながら聴きかえしてみると、この三人の演奏にはある共通点がある。それは音楽のテクストがとても明晰に聴こえるということだ。実は、この「明晰さ」という点はクレンペラー、セルの演奏を語るときには、まず第一に指摘される点なのだが、私には、ブルーノ・ワルターも同じように明晰な演奏をしているように感じられる。
したがって、ここからどうしても、ユダヤ人指揮者の音楽演奏という問題を考えざるをえないのだが、実は、ブルーノ・ワルターらの演奏の明晰さというのは、いわゆる民族的な「血」や感性の問題とは少し違うところからきているように、私には思われる。ではそれは何に由来するかというと、ドイツ社会のなかでユダヤ人が置かれていた疎外と関係しているのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターらが育ち、活動を開始した19世紀末から20世紀はじめのドイツ社会のなかで、ユダヤ人の指揮者が社会に認められようとすれば、音楽的な感性や自己主張の展開の前に、まず技術的な完璧さを身につけなければならなかったということなのではないだろうか。すなわち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)に代表されるようなドイツ人の指揮者が、自己の感性やドイツ共同体への帰属意識を前面に打ち出すことで、ドイツ人の聴衆の共感を得ていた時代、ユダヤ人の指揮者たち(いずれも先駆者グスタフ・マーラー<1860-1911>に影響されている)が本能的に選んだ方法論とは技術主義ではなかったか、そしてそれは彼らの社会的な疎外と関係していたのではないかと私には思えるのだ(技術をともなわず、自己主張だけのユダヤ人演奏家は、音楽界から排除される。非常に主観的だったといわれるマーラーの演奏は、ドイツ・オーストリア社会のなかで強烈な讃辞と批判を同時に浴びていた。にもかかわらずマーラーが指揮者として第一線で活動できたのは、彼にはそうした主観性を裏打ちする演奏技術の裏付けがあったからではないか。しかし逆にドイツ人の演奏家は、技術を犠牲にして自己主張をとおしても、「ドイツ的」「伝統的」として共同体意識のなかで許容される)。
通常、この19世紀末から20世紀はじめの演奏史は、主観主義と客観主義(新即物主義)の対立を軸に語られることが多いのだが、私にはそれは、事実の一面しかとらえていないような気がしてならない。
つまり、主観主義と客観主義という二分法に従えば、ブルーノ・ワルターは主観主義の演奏家の最右翼にいれられてしまうのだが(そしてクレンペラーとセルは典型的客観派)、実際には、フルトヴェングラー(主観的演奏の代表者)とワルターでは演奏の方向性がまったく異なる(いずれにしても、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)をはじめとする客観主義的といわれる指揮者には、非ドイツ系の人物が多く、彼らは「伝統」の外にいたために客観主義的たらざるをえなかったともいえると思うのだが、この方法論と民族性の関連の問題はもう少し検討を要する課題といえるだろう)。
こうしたフルトヴェングラーとブルーノ・ワルターの演奏の方向性の違いが最も鮮明に出てくるのは、私はモーツァルトの音楽だと思うのだが、モーツァルトの音楽は、主観主義だけでは対応しきれない要素をもった音楽、いやむしろ、全体としてみれば反主観主義的な音楽だと思う。演奏をとおして自己主張する前に、まず音楽をきちんと鳴らし、音と戯れる感覚をもたなくてはならない。したがってフルトヴェングラーは、自己の方法論が適応できないのを自覚して、モーツァルトをほとんど演奏していないと思うのだが、対するブルーノ・ワルターは、20世紀におけるモーツァルト演奏の大家だ。そこで振り返ってなぜブルーノ・ワルターにモーツァルト演奏が可能だったのかを考えてみると、それはワルターの演奏には、単なる主観表現にとどまらない技術の裏付けがあり、モーツァルトの音楽の美を、純粋な音楽美として再現できたからだと思う。ニューヨーク・フィルを指揮したブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏は、そうしたことを考えさせるに充分な演奏だ。
では、世にいわれるワルターの演奏の「主観性」とは何なのだろうか。私はそれは、ほんとうは「主観性」と呼ぶべきものではなくて、技術主義にのっとった上での、主観を装った巧みな「演出」だと思う。モーツァルト演奏でいえば、たとえば交響曲第40番1楽章のルフトパウゼ(空中停止)がそれだ。ワルターは、気分によって曲にルフトパウゼをいれたりいれなかったりするのではなくて、ニューヨーク・フィルとのモノラル録音でも、コロンビア交響楽団とのステレオ録音でも(そして有名なウィーン・フィルとのライブでも)、同じところ(第211小節の冒頭)に微かな間を挿入して音楽を息づかせる。技術があり、そのうえ技術を技術と感じさせない細かい演出もあるので、ワルターは人気のある指揮者だったのだ(人気という点だけに限っていえば、技術があっても「演出精神」を欠くクレンペラーやセルは、客観的にいって、現役時代、ワルター以上の人気があったようには思えない)。
ついでに言えば、技術をともなわない観念だけのドイツ系指揮者の典型がカール・ベーム(1894-1981)だと思う。多くの場合、私には、ベームの演奏を聴きとおすのが、正直いって苦痛だ。たとえば、タンタンタンと演奏すべき音符がならんでいるところ、若い頃のベームはタ・タ・タとやや短く演奏し、それが(たとえばワルターにくらべて)謹厳実直と評されていたように思う。しかし私からすれば、ベームの演奏は、歯切れがいいのではなくてリズム感が悪くて舌足らずなのだ。また逆に、晩年のベームは、同じような音符の連なりをタ~ンタ~ンタ~ンと弛緩しているとしか思えない演奏をする。日本には、クレンペラーやブルーノ・ワルターの演奏を、テンポが遅いからというだけで否定する批評家や聴衆もいるが、それは批評になりえてないのではないか。批評というからには、彼らがなぜそうした演奏をするかに立ち入ってテンポを問題とすべきだと思う。この場合、クレンペラーやワルターの演奏からこたえをひきだすのは簡単だ。それは音楽の細部を明晰に伝えたいからだ。クレンペラーやワルターは、いかにテンポが遅くなっても、ベームのようにリズム処理のあまい弛緩した感じのする音を鳴らすことはめったにない。しかし、ベームの演奏に、こうした明晰さを追求する姿勢があるのだろうか。明晰どころか、彼の演奏はしばしば濁った音を鳴らす。
要は、戦後のドイツでベームが高く評価されたのは、ユダヤ人演奏家の亡命とドイツ人演奏家の死亡で人材が払拭し、ベーム以外にはドイツ音楽の「正統」を伝えると考えられる演奏者がいなかったためではないだろうか(ベームの最大のライバルと考えられていたカラヤン<1908-1989>は、反フルトヴェングラーの旗幟を鮮明に打ち出し、カラヤンなりの方向で客観主義と技術重視を打ち出していた)。
したがって、いくら世評が高かろうと、私はベームの演奏はまったく評価しない(若い頃、ベームはブルーノ・ワルターからモーツァルト演奏について学んだというが、いったい何を学んだというのだろう。この二人ほどかけ離れた演奏家はまずいないのではないか)。
そんなことを考えているうちに、ブルーノ・ワルターがつねに語っていたという「ほほえみを忘れず」という言葉も、実は通常考えられているのとは違う意味をもっているのではないかと思えてきた。
これまで私は、この「ほほえみを忘れず」という言葉は、ブルーノ・ワルターの演奏の穏やかさ、優美さに結びつくもので、ある意味でとてもぬるま湯的な標語ではないかと思っていた。しかしそうではなくて、この言葉は、ワルターのユダヤ人的なしたたかさ、生き抜くための計算を示す言葉であって、これを文字通りにうけとって、ワルターの演奏を「つねにほほえみを浮かべた」ものと見なすことは、ブルーノ・ワルターの理解からほど遠いのではないかと思えてきたのだ。
つまり、「ほほえみ」という仮面の下に厳しさを宿した演奏、それがブルーノ・ワルターの演奏の本質ではないだろうか。

(この問題、19世紀末から20世紀のはじめにかけてドイツ思想界で現象学と論理実証主義という新潮流を生み出したエドムント・フッサール(1859-1953)とルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)もユダヤ人だということも合わせて考えるべきかもしれない。そして現象学も論理実証主義も、同時期に興隆した新カント主義などと比較しながらあえて分類すれば、「客観主義」を標榜する哲学だ。すなわち、フッサールの言葉を借りて、思想界の新潮流の関心をまとめれば、「事象そのものへ(Zu Sache selbst!)」ということになるのではないか。)

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  1. 2006/03/20(月) 14:11:51|
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抜けば玉散る氷の刃ーー劇団ポツドール最新公演『夢の城』

劇団ポツドールの最新公演『夢の城』を観た(於:新宿THEATER TOPS)。
作・演出の三浦大輔が、前作『愛の渦』で第50回岸田國士演劇賞を受賞し、劇団の知名度も一段とアップしての今回の公演だが、ぎりぎりの人間をぎりぎりの表現で再現するという三浦大輔の方向性には少しの後退もなく、すばらしい作品となっていた。

舞台は例によって薄汚いアパートの一室(この薄汚くもけばけばしい舞台美術<田中敏恵>は、毎回のことながら非常にすばらしい。あまりにも薄汚くて、現実をポンと超越している!)。物語は、ある日の深夜から翌日の深夜まで、この部屋から一歩も動くことなく進行していく。
まず描かれるのはこの散らかり放題に散らかった狭い部屋の午前二時。オウジ(米村亮太朗)、エラオ(仁志園泰博)、ウシ(安藤玉恵)ら五人の男と三人の女が雑居し、乱交している。いや正確には、乱交する七人を尻目に、エラオは延々とテレビゲームを続けている。八人の間にはセックスのきっかけなどに関して何かしら会話のようなものがあるように見えるのだが、アパートのヴェランダに向かったガラスの扉が閉まっているために観客にはその会話はなにも聞こえない。
一転して同じ部屋の午前九時半。この場面から舞台設定が変更されて最初の場にあったガラス扉は取り外され、観客は部屋のなかに入り込んで八人をまじまじと観察することになる。しかし部屋のなかに入り込んでみれば、会話など何もなく、音が聞こえても聞こえなくても、実はなんのかわりもないということがこの場面で明らかになる。朝が来て、八人はひとり去り、ふたり去りと部屋から出て行くが、だからといって別れの挨拶があるわけではなし、なにごともなかったように部屋が空になっていく。ひとりの女がドライヤーで髪を乾かしている無機的な音だけが舞台に響く。
午後になり、部屋にはまた人が戻ってくるが、そこでも言葉のやりとりは何もない。エラオは延々とテレビゲームを続けている。誰かがゲームを止めてテレビ画面に切り替えるが(ニュースを伝えるテレビの音声は言葉として通常に流れる。そういう意味で、三浦大輔は「言葉」そのものを否定しているのではない)、だからといって別にチャンネル争いがあるわけではない。エラオは他にすることがないのでテレビゲームをしているだけで、別にテレビゲームに「夢中になっている」わけではない。実は私にはこの午後のシーンがひときわ印象的で、つまり、世界のなかでなにかしら「出来事」は確実に起こっているのだが、舞台をとおしてみると、それはテレビのなかの「出来事」にすぎず、登場する八人にはなんの「出来事」もおこらない。八人にとっては、セックスも別れも再会も、単なる物理的な現象にすぎず、会話をかわすきっかけにすらならない。いや、「俺とどうだ」とか「やろうぜ」とか「またな」とか「やあ」とか、そこに会話を入れてみたところで、その「会話」は人と人をつなぐ手段(コミュニケーション・ツール)ではまったくなく、物理的な機械音や単純記号となんの変わりもないということだろう。この芝居で最初から最後まで、登場人物のセリフのやりとりがまったくない(あっても聞こえない)のは、セリフのやりとり(日常会話)がいかに無意味なものであるかを際立たせるためである。
実は、三浦大輔は、二年前の作品『ANIMAL』でも、セリフのない芝居を試みているのだが、『ANIMAL』では、舞台で鳴り続ける音楽があまりにもけたたましく、セリフはあるが観客には聞こえないという設定だった。今回はそれを一歩進めて、セリフを入れても無駄だから一切いれないというところまで徹底している。
夕方、なんということもなく女たちが食事をつくりだし、なんとなくみんなそれを食べ始める。もちろん、「食事にしよう」とか「出来たよ」とか「いただきます」などのセリフはない。仮にあったとしても、それは意味伝達、心的コミュニケーションの伝達ということからは完全に無駄であろう(なんの説明にもならない)。そうしたなかで、八人が鍋物をすする咀嚼音だけが、またしても舞台に大きく響く。
そして深夜、繰り返される乱交と雑魚寝。誰かと誰かがすぐ隣で性交していても、他の登場人物にはなんの関心もよばない。むしろ平然と寝ている男のいびきのかしましさの方が耳につく。誰かがビデオをつけるとショパンやブラームスが流れる。女(ウシ)が目をさます。そしてすすり泣きをはじめる。そのすすり泣きを横目に、全裸の男たちが性器もあらわに部屋の中で乱舞をはじめる。

   *    *    *

感想を書くつもりが、結局あらすじ紹介になってしまったが、ポツドールの公演の感想を書くという行為はほんとうに難しい。
八人の男女が、舞台上で性器もあらわに組んずほぐれつ動き回り、物語としてはそれしかないという意味では、『夢の城』は完全なエロ芝居なのだが(そして今回の公演で、その表現としてのエロ性は徹底している)、この作品にエロティシズムを感じる観客はおそらく皆無に近いのではないだろうか。三浦大輔が舞台に再現するのは、「エロティシズム」とかそういった上品なものではなく、もっと生の物理的な人間のありようだ。そしてその生の人間のありようを再現するとき、三浦は、それを土俗的エネルギーといったかたちで無条件に肯定するのではなく、その生の人間をさらに高いところから突き放して見据えるといった冷たい情熱がある。
つまり、三浦大輔は文字通りの「裸」の人間を舞台に登場させるのだが、それはそうした裸の人間のありようを讃美するためなどではまったくなく、人間を裸にするすることが、彼の問題意識の出発点としてどうしても必要だからというそれだけのことに過ぎない。
そうしたなかで、「人間とは何か」を問いつめる三浦大輔の方向性がストレートに打ち出されたという点で、私はこの『夢の城』を高く評価する。文字どおり、「言葉にならない」なにかを目撃したという昂揚が、この舞台を見終えた後にはある。

ポツドールの公演のことを書くと、いつも手放しの絶賛ばかりになってしまうのだが、他に同じようなコンセプトの劇団は存在しようがないと思うので、それもやむなしだと思っている。私のあらすじ紹介を読んでいただいた人には(そして実際にポツドールの舞台を観た人には)明らかだと思うのだが、ポツドールの芝居というのは、他の芝居の範になるという意味で傑出しているのではけしてないし、ポツドール(三浦大輔)は、ある意味で永遠の異端児をめざしているのだと思う。そしてその異端ぶりが、安直な演劇界のなかで、あるいは社会全体のなかで鋭く屹立しているのだ。しかしそうした異端性を貫きとおすというのは、楽な行動ではないはず。また、劇団に対する社会的認知度が高まれば、そうした異端性に対する批判や無理解も増加しよう(現に、3月8日付けの読売新聞夕刊に掲載された祐成秀樹の公演評は的はずれもはなはだしいものだった)。そうしたなかで人間存在の根底を見続け、またそれを舞台でどのように表現するかという表現の限界を彷徨し続ける三浦大輔の試みは、孤独な厳しいものだと思うが、岸田賞受賞といった外部評価に甘んじることなく、これからもいっさい妥協のない厳しい探究・表現をとぎすましていって欲しいと、今回の舞台を観ながら強く思った。

【参照】劇団ポツドール公式サイト

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  1. 2006/03/16(木) 14:12:39|
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明月記研究10周年記念シンポジウムを聴く

昨日(11日)は、早稲田大学で開かれた「藤原定家と『明月記』―「明月記研究」10周年記念シンポジウム」を聴講した。
パネラーと講演タイトルは次のとおり。
尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
五味文彦氏「定家の空間と身体」
久保田淳氏「定家の生活と和歌」
また、司会は兼築信行氏と近藤成一氏。
非常に充実したおもしろいシンポジウムだったので、以下、その内容を簡単に紹介してみたい。

   *    *    *

尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
尾上氏の講演の骨子は次のようなもの。
藤原定家の日記『明月記』の手書き原本は、清書された部分と清書前の部分が交互に出現し、清書されているのは定家および息子為家や、仕えている九条家にとって重要な時期である。一方、定家が参議を辞し、為家が定家未経験の蔵人頭となる嘉禄年間以降は、それまで定家自身が細かく書き加えていた首書(記事の内容を「何々事」といった形式で要約し行間上端に付けた見出し)が記入されていない。
尾上氏の区分によれば、清書されているのは、年号でいうと、治承、建久前半、建仁後半~承元の三期。一方、建久末~建仁初、建暦年間の記事は清書されていない。尾上氏が何をもって清書とするかというと、『明月記』には、たとえば行替えもめちゃくちゃで隣の記事の方にはみ出したような書き方をしている部分もあるのに対し、とある時期の記事は、紙の上と下に横線をひいて、上下がそこからはみださないように書いているという。
『明月記』に関しては、実はすべて定家が清書したものであるという考え方もあるのだが、当日出席した美川圭氏(冷泉家時雨亭叢書『明月記』編纂者で、定家手書きの『明月記』に実際に接している)も、『明月記』の一部は清書されていないという尾上氏の考えに賛意を表明した。そのうえで、美川氏の質問をとおし、古い紙の反古に書き付けた記事は、裏面をも残す意図があったのか、紙背文書は表の記事と関係があるのかが新たな課題として浮上した。
また、首書をつけるかどうかは、日記を記す目的や態度と関連があるのではないかということも尾上氏によって指摘された。つまり、『明月記』の初期の記事は、息子為家が朝廷で定家と同じような地位についたときの参考になるようにと書いていると考えられるのだが、為家が定家以上に出世したため、嘉禄以降の定家の朝廷での行動は、もはや為家の参考にならない。したがって嘉禄以降、定家は自分自身の好尚の問題として日記をつけていると考えられる。この問題は、後述する五味氏の講演内容ともからむ重要な指摘といえる。

meigetsuki-1.jpg
清書してある記事(記事の上下もきちんとそろっている)

meigetsuki-2.jpg
清書していない記事(上下や行もそろわず、定家が消した部分がはっきりわかる)

田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
田渕氏の講演は、『新古今集』の成立年代に関する新見解で、尾上氏の講演にも劣らない重要な意味をもつものだった。
『新古今集』の伝本には、①竟宴本(元久二年<1205年>に行われた『新古今集』竟宴<=完成披露の宴>の時の本文を伝える本)、②切継時代の諸本(竟宴後にたびたび行われた切継ぎ<=歌の入れ替え>の途中の段階の本文を伝える撰者たちの書写本)、③家長本(建保四年<1216年>に和歌所開闔<=事務責任者、カイコウと読む>の源家長が書写させた本、④隠岐本(承久の乱後、後鳥羽院が隠岐でそれまでの本を抄出した本)の四系統の本があり、従来学説では、源家長が和歌所開闔である点を重視し、家長本が『新古今集』の公的な最終完成形体を伝える本とされてきた。
田渕氏は、この家長本をむしろ私的な書写本と位置づけ、また『拾芥抄』に「承元三年六月可施行」とあるところなどに注目し、承元三年<1209年>から承元四年<1210年>を『新古今集』の公的完成・披露の年限であると位置づけしなおした(ちなみに、問題となる承元三~四年の『明月記』の記事は現存しない)。
それにともない浮上するのが「切継時代の諸本」で、従来の位置づけでは、これらは未だ完成していない『新古今集』を、(完成を待ちきれない)定家ら撰者が私的に書写して流布させてものと考えられていたのだが、田渕氏は、それは逆であり、承元三年に『新古今集』が「可施行」となったために、それを機に数多くの書写が行われたのだとした(つまり、御子左家などの歌道家に伝わるいわゆる「切継時代の諸本」こそ、『新古今集』の公的完成形体を示す本である。また源実朝が鎌倉で手にした『新古今集』は、従来学説に従えば私的な切継本に過ぎないが、田渕説に従えば、正式本ということになる)。
この田渕説は、『新古今集』の成立史を一挙に書き換えさせる大胆な新説だが、当日出席した研究者から妥当なものとして受け入れられた。

五味文彦氏「定家の空間と身体」
五味氏の講演は、従来の五味氏自身の定家研究を振り返り、それがいわば定家の「空間」を主題に展開してきたのに対し、新たな視点として「身体」という概念を導入し、この新視点から定家の人物や時代をもう一度読み直してみたいと思っているということを述べたエッセー的なもの。そうした新たな視点から、五味氏が現在重要視している重要な概念が披露された。
それらの概念は、①人の習うべきこと(大事)、②定家の空間と身体ーーの二つの範疇に大きく整理され、それぞれ、次のような下位概念を含むという。
①人の習うべきこと(大事)
 A 学問
 B 手書くこと
 C 医術
 D 衣への関心
 E 住宅への関心
②定家の空間と身体
 A 故実
 B 和歌
 C 書
 D 『明月記』

久保田淳氏「定家の生活と和歌」
最後に登壇した定家研究の第一人者・久保田氏は、冒頭、定家の和歌や日記を定家の身体性の問題に引きつけて読んでみたいという五味氏の考え方に賛意を示したうえで、『明月記』のなかで、そうした定家自身の身体感覚が見事に記されている好きな記事を自由に披露した。

四人の講演(報告)終了後の質疑応答は、尾上氏と田渕氏に集中したが、五味氏および久保田氏に対しては、会場から、定家の身体性を問題にするならば、速詠の和歌を取りあげてもよいのではないかという主旨の意見も出された。これは、尾上氏の講演で指摘された『明月記』の書き方の二つのスタイル(首書の有無)のなかで、どちらが定家にとり重要なのかという問題ともからむもので、定家初期の和歌は速詠などの手法で詠まれることが多いのに対し、晩年にはむしろじっくり詠むことが重視されることと、日記のスタイルの問題は合わせて考えるべきではないかということともつながる。
以下、質疑応答を離れた私見だが、一般論として、若い時代の定家は、歌では奔放、日記は厳格なのに対し、晩年は、歌は古典的で厳格になり、日記は私的な記事を中心として自在な書き方になっていくという風にとれる点は、定家という人物を考えるうえでおもしろいと思った。
またこのブログにも書いたとおり、私は、建久七年<1196年>の政変後の定家の歌は、緊張感が途切れどこかしらなげやりな感じがすると考えているのだが、尾上氏の講演での、まさしくこの時期の『明月記』は清書されていないという指摘と考え合わせると非常に興味深い現象だと思った。ただしこの『明月記』の清書の問題に関しては、清書する意図があったのに清書されなかったのか、清書する意図自体なかったのかは、シンポジウムでも今後の課題とされたことを付け加えておく。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/12(日) 23:40:48|
  2. 和歌および古典文学
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神風連に連なる東文彦の家系

今、三島由紀夫研究のなかで東文彦が重要視されているのは、下に書いたペンネームの由来にくわえて、母方の祖父・石光真清(マキヨ、明治元年ー昭和十七年)を通じて、「神風連」に連なる人物だからだ。
三島が『豊穣の海』四部作のなかで、明治九年熊本に起こった士族の反乱・神風連の乱を大きく取りあげているのは周知の事実だが、同時期に起こった同じようなさまざまな動きのなかで、三島がなぜ神風連に着目したかは必ずしも明らかになっていない。
ところが、石光真清は熊本城下に生まれ、幼くして神風連の乱を目撃し、その手記のなかに神風連についてもくわしく記している(その手記は、現在、中公文庫『城下の人 石光真清の手記一』として刊行されている)。
三島は、東文彦、石光真清という流れのなかで神風連の乱に興味をもったという蓋然性も高く、それが東文彦の家系の研究と結びついているのだ。

   *    *    *

「神風連の領袖、加屋霽堅(はるかた)に初めて会い、熊本城の由来を聞いた私は、ざんぎり頭の洋学生の兄真澄や従兄弟たちに、手柄顔でその話をしたのに母までが苦笑し、兄たちは私の稚児髷、帯刀の姿をひやかして、声を立てて笑った。姉の真佐子だけが洋学生たちを睨み据えて私をかばってくれた。
 父は、この有様を黙って眺めていたが、
「お前たちは、神風連、神風連と、あの方々を、天下の大勢に暗い頑迷な人のように言うが、それは大変な誤りだ」
と、おだやかながらも、きつい眼付きで、ひとわたり皆を見まわして言った。
「あの方たちは、御一新前は熊本藩の中枢にあって、藩政に大きな功労のあった方々だ。学識もあり、勤皇の志も厚い。ところが御一新後の世の動きは、目まぐるしく総てが欧米化して、日本古来の美点が崩れて行くので、これでは国家の前途が危いと心配し、明治五年、太田黒伴緒雄氏、加屋霽堅氏等をはじめ国学の林桜園先生の感化を受けて百七十余名の方々が会合して今後の方針を協議された。この会合で日本古来の伝統は必ず護る。外国に対しては強く正しく国の体面を保つことを申し合わせた。この人々を進歩派の人たちが神風連と呼ぶようになったもので、その後、いろいろと保守の策を試みたが、時代の風潮を阻むことは出来なかった。(後略)」
 父はこう説明して皆の顔を見渡した。
「洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見透しも違うが、日本の伝統を守りながら漸新しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取り入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心掛けるお前たちと、国を思う心には少しも変りがない。(中略)いいかな。今後はあの方々を軽蔑するようなことは慎しみなさい。」
 兄や従兄弟は神妙な顔でお辞儀をした。父の話には、いつも厳しい説得力があった。」(『石光真清の手記』より)


【参考】
石光真清ホームページ
神風連の乱のページ(熊本城公式サイト内)

【追記】
三島は、昭和41年8月に、『豊穣の海』~『奔馬』取材のために熊本を訪れているが、この時に訪ねた人物は荒木精之(三島の書簡によれば、荒木には学習院時代からの師・清水文雄の紹介で会っている)で、石光真清関係の人物とは会っていないようだ。その点から推測すると、この取材の時点では、仮に事前に石光真清の手記を読んでいたとしても、石光真清~東文彦というつながりに三島は気づいていなかったということも充分考えられる。
したがって、その後何らかの経緯で、三島は、神風連~石光真清~東文彦というつながりを知り、あらためて、東との浅からぬ縁に気づかされたとする方が、小説的過ぎるかもしれないがおもしろい。
自決する直前、三島が『東文彦作品集』刊行に奔走したという事実も、『奔馬』を書いてから神風連と東の関係に気づいたとした方が、自然に解釈できるような気もする。(3月11日)

テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/06(月) 13:48:03|
  2. 文学(人と作品)
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「封印された星★展」を観る

京橋のギャラリー椿(東京都中央区京橋3-3-10第一下村ビル1F、TEL=03-3281-7808)で開催中の「封印された星★展」を観た。
この「封印された星★展」は、フランス文学者・巖谷國士氏が『封印された星 瀧口修造と日本のアーチストたち』(平凡社)刊行を機に企画したもので、当初、名古屋で開かれ好評だったため、東京でも同じコンセプトでの展覧会を開催することになったもの。評論家・瀧口修造氏ゆかりのアーチストを中心に、巖谷氏独自の視覚も加味し、さまざまなジャンルのアーチストの作品を紹介している。
出展アーチストは、加納光於、岡崎和郎、池田龍雄、合田佐和子、四谷シモン、上野紀子、中江嘉男、平沢淑子、高梨豊、秋山祐徳太子、荒木経惟、渡辺兼人、金井美恵子、金井久美子、桑原弘明、島谷晃、山下清澄、河原朝生、梅木英治、大月雄二郎、伊勢崎淳の各氏(敬称略)。
会場には瀧口修造氏をしのぶコーナーも設けられ、遺品の一部もみることができた。
展覧会の会期は3月11日(土)までで、入場無料。本日(5日)は、会場で巖谷國士氏の講演会も予定されている(講演会は要予約、なお本日に限り講演会参加者のみ入場可)。
ちなみに、「封印された星」という言葉は、もともと錬金術の概念で、シュールレアリストにも非常に好まれたタームとのこと。
瀧口氏などが中心になって日本に紹介されたシュールレアリスムのコンセプトが、1960年代以降の日本のアーチストのなかでどのように消化されているかを概観でき、コンパクトながらおもしろい展覧会だった。

【参照】封印された星★展の会場風景(ギャラリー椿サイト内)

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/05(日) 13:36:28|
  2. アート
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