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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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鎌倉時代の足利氏の信仰からほのみえてくるもの

昨日は中世史の勉強会があり、足利氏の信仰に関するMさんの研究発表を聴いてきました。足利氏の信仰といっても、足利氏が政権をとってからの室町時代の話ではなく、鎌倉時代の足利氏の信仰についての話です。
これがけっこう難しくて、要するに、鎌倉時代の足利氏のほんとうの根拠地は足利だったのか鎌倉だったのかとからんできますし(足利にある足利氏の氏寺は密教寺院で、鎌倉で足利氏がバックアップしていた寺院は禅宗寺院)、最終的には、鎌倉幕府がたおれたあとで足利氏が政権をとれたのはなぜなのか、鎌倉時代の足利氏はどのような位置にあったのかともからんでくるんですね。
ご承知のように、足利氏は源氏の一族で、足利に根拠をもつようになるのはそれほど古い時代ではありません。八幡太郎義家の孫・義康が足利氏の祖とされていますが、この義康は、清盛、義朝(義康の従兄弟・為義の子)とならんで保元の乱に出陣したことが知られていますし、この時点では、義康と義朝の活動にそれほど大きな違いはなかったと考えられるのではないでしょうか(義康の父、義国が北関東に進出したのは、『金葉集』が編纂された白河院政末期~鳥羽院政期と考えられます)。ただ、義康が保元の乱の翌年に若死しているので、義康の子は、平治の乱やそれに続く平氏の全盛時代にはあまり大きな活動ができませんでした。やがて頼朝が平氏に反旗を翻すと、義康の三男・義兼はいち早く頼朝に従い、幕府のなかでも上位の御家人と位置づけられるようになります。
今回の発表は、その先、鎌倉時代に入ってからの足利氏の動き(信仰問題)なのですが、発表後の質疑応答をとおして明らかになったのは、宇都宮氏、小山氏、千葉氏のようなすでに自分の根拠地を固め、それと一体化した御家人と違い、足利氏は足利の地と完全には一体化しておらず、鎌倉住人といった様相が強かったのではないか(したがって足利にある足利氏の菩提寺も、手厚いバックアップをうけなかったのではないか)、ということです。
実は私は武士論は苦手で、以上の議論も完全に消化できたとはいえないのですが、たとえば平安末に武士の棟梁といわれた人たちは、地方に完全に土着した土豪的武士ではなく、地方と京都に根拠をもち、地方武士と朝廷をつなぐことができる半定住の人たちを指したのだと考えています。平安時代の末には、こういう武士の棟梁が多くいたというか、京都(朝廷)だけを根拠にできない下級の軍事貴族が、安定した根拠を求めて地方に進出し、すでに地方に一定の支配権を確立していた「武士」(例:宇都宮氏、小山氏、千葉氏)と関係を結んで地方に割り込むと同時に、京都とのパイプ役になっていたのではないかと考えるのですね。ですから、地方に完全に定住してしまうと「棟梁」にはなれないわけで、要するに、武士の棟梁というのは、ある意味でとても不安定な存在だったのだと思います。
このことは、たとえば義朝や頼朝を例にとるとわかりやすいと思うのですが、義朝や頼朝(さらには義経)にはほんとうの意味での根拠地はなく、特定の根拠地をもった地方武士と結ぶことではじめて力をふるうことができるわけです。
平安末というのはそんな時代で、清盛も武士の棟梁だったし、頼政も義経もみんな武士の棟梁になる可能性をもっていたのだと思います。
鎌倉幕府をどう定義するかというのはとても難しい問題なのですが、それを単純に朝廷との相関関係で「武士政権・組織」とのみとらえるだけではなく、平安末まではいろいろな有力者が武士の棟梁になる可能性をあったのに対し、こうした可能性を制度的に否定し、頼朝以外が棟梁になれないようにしたという、対武士的な一面があるのではないかと私は考えています(清盛は、突出した実力者で、他の軍事貴族が武士の棟梁になるということを想定していなかったため、幕府といった組織をつくる必要がなかったのではないでしょうか。つまり、清盛の政治構想と頼朝の政治構想の大きな相違は、対朝廷というより、対武士にあるともいえるのではないでしょうか)。
さて足利氏の問題にもどせば、出発した時点で足利義康はそうした武士の棟梁のひとりだったし、その活動の比重の多くが京都にもかかっていただろうと思います。それが、有力な棟梁にもなれず、かといって足利の地を完全に固めることもできないうちに幕府という制度ができ、棟梁になる芽はつぶされ、しかしながら足利の地も盤石ではなかったということが、足利にある足利氏の氏寺経営の問題からほのみえてくるというのが今回のMさんの発表の要点ではなかったかと考えています。
勉強会には、室町時代の足利氏等を研究しているC大のS先生もお見えになり、足利氏関係の文献史料の読み方など、丁寧にお教え下さったのが大変勉強になりました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/25(日) 16:24:58|
  2. 日本中世史
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『金葉集』の編纂

『金葉集』の名前が突然飛びだして、とまどわれている方も多いかもしれませんね。『古今集』『新古今集』ならいざ知らず、『金葉集』は、普通、あまり読まれることのない勅撰集(天皇や院が編纂させた国家的和歌集。ちなみに『万葉集』は編纂の勅命がなく、非常に重要な和歌集ではありますが「勅撰集」ではありません。勅撰集に和歌が採用されることは、歌人にとって大きな名誉であり、重視されました)ですから。以下、下方の記事と一部重複しますが、『金葉集』の編纂に対する説を整理してみます。

さて、勅撰集は、平安時代から室町時代まで、二十一回編纂されていますが、そのなかでも『古今集』から『新古今集』までの八つの集は、八代集として特に重要視されています。『金葉集』はそのなかで五番目の勅撰集であり、編纂を下命したのは白河院、撰者は源俊頼です。
ところでこの『金葉集』、下の記事にも少し書いたように、編纂に複雑な事情があったらしく、初度本、二度本、三奏本の三つの版があるうえに、それらがなぜ改訂されたのか、いつ成立したのか、はっきりしないのです。
当時の和歌界の事情を伝えるものとして藤原清輔が執筆した『袋草紙』という著作あり、これによって『金葉集』が編纂された事情が少しわかるのですが、それによれば、『金葉集』は天治元年(1124年)に編纂の命令が下り、大治元年(1126年)もしくは二年(1127年)に完成したとあります。白河院が『金葉集』の前に編纂させた『後拾遺集』は、編纂に十年以上かかっていますから、下命後二三年で完成したというのは、勅撰集としては異様にスピーディーな編纂です。また上にも書いたように、『金葉集』にはいろいろな版があって、『袋草紙』によれば、撰者・俊頼の案は二度却下され、三度目の版がようやく承認されたとあります。俊頼の案のどこが白河院の意にそぐわなかったのかは、『袋草紙』によってもはっきりわかりません。
さて『金葉集』の三つの版ですが、現在それぞれに書写本が残っています。
まず初度本(最初の版)ですが、藤原定家の孫で鎌倉時代後期の歌人・冷泉為相が書写したとされる版だけが残っています。ただしこの版(伝為相筆本)は、『金葉集』前半の五巻分しかなく、初度本の全容は不明です。
二度本(二番目の版)。二度本も白河院に却下された版であり、その点からすると『金葉集』の最終的な形体を示すものとはいえないのですが、一般に広く流布し、数多く書写されました。通常、『金葉集』といえばこの二度本を指します。
三奏本(三度目の版)。白河院公認の『金葉集』最終版ですが、なぜか白河院がこの版をしまい込んでしまったため、世人の眼にはほとんどふれませんでした。それでも、三奏本には、定家の同時代人・藤原良経が書写したとされる版など、いくつかの書写本が現存しています。
そうしたなかで、『金葉集』がいつどのような経緯で編纂されたのかを詳細に研究し、現在にいたる定説をつくったのが、岩波文庫版の『金葉集』編集者でもある松田武夫さんです(『金葉集の研究』、山田書院、1956年)。
松田さんは、まず、『金葉集』に保安五年(1124年)閏二月の歌会の歌が含まれているところから、『金葉集』が編纂されたのはそれ以降であり、この点に関する『袋草紙』の記事は信頼できるとしました。そのうえで現存する初度本と二度本を比較し、初度本の伝本が不完全なためこの伝本から初度本成立年代を確定するのは不可能として二度本を優先的に検討し、その奥書から二度本天治二年四月成立説を唱えました。そこから遡って、初度本は天治元年四月以降の下命から二度本が成立した翌天治二年四月までの成立とし、両本に採用されている歌人の肩書きの変化から、天治元年末から天治二年はじめの成立と推定しています。そのうえで、「この仕事は、天治元年四月以降、恐らく同年中に成就されたと思はれるので、精々八箇月ぐらゐの間になされたのである。これは容易ならぬ仕事で、俊頼の識見と手腕をもつてして初めて成し得るところである」と、俊頼の仕事ぶりを評価しています。
三奏本に関しては、これまた手がかりが少ないため成立年代の確定が困難なのですが、『金葉集』成立後、俊頼は『散木奇歌集』を編纂しており、その編纂にかなりの期日を要したと考えられるところから、「三奏本の成立を天治二年とするよりも、天治元年と見る方が、合理的なやうに思はれる」というのが松田さんの考えです。

先日の和歌文学会例会での加畠吉春さんの発表「金葉集の撰進」は、一つには、この松田説の『金葉集』成立年月を全面的に見なおし、それぞれの版の成立を松田説より繰り下げようというものですが(加畠説にしたがうとしても、俊頼の編纂作業の速さは特筆されます)、そうすると今度は、『良玉集』成立と『金葉集』の関連という問題が浮上してくるというわけです。

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  1. 2006/06/23(金) 12:25:14|
  2. 和歌および古典文学
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久保木秀夫さんの「『良玉集』考」を読んで。

さてでは、久保木秀夫さんの論文「『良玉集』考ーー四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂文庫蔵「序」の紹介を兼ねて」(『国語と国文学』平成17年6月号掲載)の内容を検討してみましょう。ただし、私の関心は『金葉集』と『良玉集』の関連にあり、もっぱらその方面から久保木さんの論文を読むことになると思います。

まず『良玉集』そのものに関する基本データですが、これは『和歌色葉』『私所持和歌草子目録』などによってその名が知られる和歌集で、『和歌現在書目録』に、

 良玉集十巻
八条兵衛佐入道顕仲撰之。金葉集撰之比。大治元年十二月廿五日撰之。

と記されているところから、藤原顕仲撰の十巻仕立ての私撰集で大治元年(1126年)12月25日に成立したということがわかります。『良玉集』の撰者や成立年代がこれで良いかということには若干の問題もありますが、逆に『和歌現在書目録』以外に『良玉集』に関する有力史料がなく、また『和歌現在書目録』の記述を疑う積極的理由も存在しないので、『良玉集』の成立に関しては、この『和歌現在書目録』に従うというのが定説になっています。この点は、久保木さんも定説に従っていますし、加畠吉春さんも「金葉集の撰進」のなかで、この定説に従っています。
ところで肝心の『良玉集』そのものですが、室町時代頃まではテクストが残っていたらしいのですが、その後テクストはすべて失われ、その具体的な内容は、他のテクスト(例『校本謌枕名寄』)に記されたほんの一部しか現在に伝わりません。ところが、四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂に伝わる『諸集漢序』のなかには、『良玉集』の漢文序文が含まれているのです。
この『諸集漢序』、恩頼堂文庫本のほかはまったく伝わらず、奥書等もないので、どういう性質の本かはまったくわかりません(江戸中期頃の写しか?)。したがってこの『諸集漢序』だけからでは、掲載されている『良玉集』漢文序文がほんとうに『良玉集』の序文なのか真偽判断ができないのですが、これに関しても、『諸集漢序』の記述を疑う積極的理由が存在しないので、『良玉集』の漢文序文を伝える貴重な史料としてよいかと思います。
さてこの『諸集漢序』に記されているのは、「古今和歌集序」にはじまり、「新古今和歌集序」「続古今和歌集序」等。このなかに『良玉集』の序とおぼしき次のような文章が記されています。

良玉和歌集 大治元年十二月二十五日撰之八条兵衛佐顕仲
 和謌者、神世之余流、我朝之習俗也、是以、
 好事之家、或奉綸○以撰集、或顧忽忘、
 以部類、礼部納言後拾遺、将作太匠金
 葉集、能因法師玄々集、皆載佳句、悉尽
 能事、今予所撰、彼集之外、所漏脱也、編
 列之体、夫兼美実而已
 (○の部分は、糸偏に「孛」の字で、「大綱」の意)

久保木さんによれば、この大意は次のとおり。
「和歌は神代からの流れを汲む日本の習俗であるので、和歌に心を寄せる者達は、勅命によって撰集し、あるいは備忘のために部類してきた。その中でも「礼部納言」藤原通俊の『後拾遺集』、「将作太匠」源俊頼の『金葉集』、能因法師の『玄々集』はいずれも秀歌を載せており、もうできることは尽きているので、私は遺漏を拾うだけである。配列なども優れていない」

(この大意紹介の先の箇所で、久保木さんは私撰集である『玄々集』が勅撰集とならべて記され重んじられていることの意義について論及していますが、私からすれば、逆に、『後拾遺集』『金葉集』の両勅撰集が『玄々集』と同程度の重みしか与えられていないことに注目したいところです。勅撰集に高い権威が与えられるのは、やはり『千載集』以降のことではないでしょうか。その高い権威を『金葉集』成立当時まで遡らせるべきではないというのは、白河院の『金葉集』下命意図ともからむ、『金葉集』に対する私の基本的な見方の一つです。)

さて、いよいよこの紹介の核心部、久保木さんは自問します。「そもそも撰者顕仲に参看され真名序に明記された『金葉集』は、今日言うところの初度本、二度本、三奏本の一体いずれであったのか」。
するとまず、『良玉集』漢文序文に記されている「彼集之外、所漏脱也」が手がかりとなり、『校本謌枕名寄』に源顕房(六条右大臣)の「五月雨に笠取山は越えゆかじ花色衣かへりもぞする」が『良玉集』所収として紹介され、かつ現存する『金葉集』初度本にも同じ歌が採られているところから、顕仲は初度本を参照しなかったことが推定できます。また三奏本も、「その上奏は「大治元、二年」のあたりと伝えられ、しかもそれきり世間にほとんど流布しなかったらしいから(『袋草紙』)、やはり可能性としては考えられないようである」(久保木氏)ということになります。
よって残るは二度本ですが、久保木さんによれば、「おそらく真名序の『金葉集』は、複雑多岐にわたる二度本系統中のいずれか一本ーーさすがに特定までは困難ーーだったと認めてよいだろう」となります。
そこで久保木さんは『金葉集』二度本の上奏時期を確認するのでが、「これも確言しづらいのだが、仮に「天治二年四月依 院宣撰之/撰者木工頭源俊頼」という伝兼好本の奥書に従うならば天治二年(1125)四月とみられる。すると二度本の上奏から『良玉集』の成立までの間には、たったの一年八ヶ月しかなかったことが知られよう。これは確かに「撰進直後」と言うべきだろうが、ともあれこのように二度本の上奏・流布後、極めて短い期間のうちに『良玉集』が撰ばれており、しかも『金葉集』所収歌は一首も採らないという主張さえもが真名序に明記されている点からは、何よりも『金葉集』を強く意識して止まない顕仲、という撰者像が浮かび上がってくるようである」(久保木氏)と、『金葉集』二度本成立後に(それに撰ばれた歌を除外して)『良玉集』を撰ぶとなると、『金葉集』二度本が天治二年四月に成立したというのはギリギリの下限として、『金葉集』二度本天治二年四月成立説が支持されます。「金葉集の撰進」における加畠吉春さんの『金葉集』二度本は大治元年の夏頃までに成立というという説も、物理的には『良玉集』成立と矛盾しませんが、わずか半年程度の期間で、『金葉集』を強く意識した『良玉集』を撰するのは困難というのが、久保木さんの考えのように思われます。
『金葉集』二度本の成立に関し、私は従来の定説(松田武夫氏の説)である天治二年四月という説をとっていますから、『良玉集』に関する久保木さんの研究は、私の考えと矛盾せず、むしろそれを別の観点から補うものとして評価したいと思います。

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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/21(水) 14:22:53|
  2. 和歌および古典文学
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歴史上の真理とは

18世紀思想や和歌の話もさることながら、今回はいつもと少し趣向をかえて、日頃、歴史学あるいは歴史上の文献に接している身として、歴史上の真理というのをどのように考えているか、ちょっと記しておこうと思います。

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さて、ドイツの哲学者ライプニッツは、真理を次のように二つにわけます。
「真理にも二種類ある。思考の真理(verites de raisonnement)と事実の真理(verites de fait)である。思考の真理は必然的であってその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。」(ライプニッツ著作集第9巻~『モナドロジー』第33節、西谷裕作氏訳、工作舎)
この二分論は、通常次のように解されます。
「理性の真理(西谷氏の訳文では思考の真理)とは、『三角形の内角の和は二直角である』のように数学や論理学におけるア・プリオリな必然的真理であり、その反対はただちに論理的な矛盾を生む。それゆえ、これは矛盾律に支えられていると考えられる。もっとも、理性の真理は可能的本質の世界でのことであって、必ずしも現実存在には関わるものではない。他方、事実の真理は、可能性ではなくつねに現実存在に関わる。それは歴史的出来事や現実の世界におけるア・ポステリオリな偶然的真理である。これは理由律(充足理由律)によると言える。たとえばスピノザが、ハーグではなくレイデンで死んだとしてもそれは矛盾ではないが、ハーグで死んだことにも神の知恵と善性とが関わっている。」(山田弘明氏『真理の形而上学ーーデカルトとその時代』(世界思想社、2001年121-2頁)
ライプニッツによれば、事実の真理に関して、われわれは、理性の真理(思考の真理)と同様の確実性に到達することはなく、蓋然性のなかで議論をすすめるしかありません。私は、「歴史上の真理」というのは、一般的にいえばまさにライプニッツのいう事実の真理であり、その確実性はたかだか高い蓋然性を指すのではないかと考えています。「ある時代を正確に理解する」「ある出来事を正確に理解する」というのは、一見正当のようでも、これからすれば論理的に不可能な命題と位置づけざるをえないでしょう。
ただ歴史学が目指しているのが単に「ある時代の正確な記述」であるかといえば、それは必ずしもそうとはいえないのではないでしょうか。この問題は、今度は、厳密には「記述」の正確性・再現性もからんでくるのでややこしいのですが、私は、歴史学が目指しているのは(言葉のあやの問題のように思えるかもしれませんが)、「ある時代や出来事のより正確な記述」なのだろうと思います。別の言葉で言えば、歴史上の真理というのはどこまでいっても蓋然性のなかでの真理かもしれませんが、その蓋然性を高めていくという作業が歴史学なのだろうと思います。
ただ最近の歴史学(断定的にはいえませんが、思うに構造主義以降の歴史学)は、こうした真理論とは異なる真理論に依拠しているといえるような気もします。
それはつまり、「絶対確実な歴史的事実が存在する」ということを前提に、それを明らかにしていくのが歴史学なんだという素朴実在論的な考え方が構造主義によってくずされ、その時から、歴史学は史料解釈学におきかえられて、残存する史料からどれだけのことが論理的に帰結するかを記述する学問に変質しつつあるのではないかということです。
この変質を前提にしていえば、歴史学上の真実は、イデア的な歴史的実在とつきあわせて真偽を判断されるべきものではなく、個々の史料および史料の相互連関のなかで、史料と矛盾しないか検証されるべきものとなり、史料との連関という限定された枠のなかでは、事実との連関においては獲得できなかった確実性を獲得したということですね。これをライプニッツの真理論にもどして考えれば、歴史学の真理が、充足理由律上の真理から、矛盾律上の真理へとその審級を移動させたといえるのかもしれない。いずれにしても、歴史上の真理というのが、近年、その意味を変化させたのは事実だと思います(歴史学はそうした自己認識をもつ以前から本質的には史料解釈学だったのだといえなくもないとは思いますが、それを明確に自己認識しているかどうかは、学としての歴史学のあり方に大きく影響していると思います。少し前まで、歴史学という学問においても、「歴史的必然性」という概念が大手をふって歩いていたわけですから)。
以上述べたようなことが歴史学の矮小化なのかどうかは、また別に論ずべき問題だと思いますが。

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  1. 2006/06/20(火) 14:16:29|
  2. 哲学
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和歌文学会の例会を聴く

昨日は、Mの読書を一時中断して和歌文学会例会を聴講して参りました。そのなかで行われた加畠吉春さんの発表「金葉集の撰進」に興味があったからです。というのは、私も『金葉集』のことを少し研究しており、それについて小さな文章を発表しているものですから。

さて加畠さんの発表、はじめに私も依拠している松田武夫さん(岩波文庫版『金葉集』の編者)の説を要約してその問題点を指摘し、次に最近の説としてなんと私の説を紹介・吟味し、次に自説に移るというものでした。基本的には『金葉集』の三つの版(初度本、二度本、三奏本)の新たな成立年代比定と、『金葉集』が編まれた理由の推定の二点から構成された発表だったと思います。
『金葉集』という勅撰集は、いつ成立したのか、なぜ三つの版があるのか不明の点が多いのですが、加畠さんの説、『金葉集』の成立年代に関しては、たとえば、現存する初度本『金葉集』に、天治二年(1124年)三月に行われたと考えられる鳥羽院の歌会の歌が含まれているところから、初度本の成立を松田説の天治元年末成立より繰り下げた方がよいというもののように伺いました。ただこれについては、現存する唯一の初度本(伝冷泉為相筆本、すなわち鎌倉時代後期の書写)が善本とはいえず、その書写・伝本経緯等をさらに吟味した方がよくはないかという疑問を述べさせていただきました。
また、『金葉集』を難じた『良玉集』の成立年代比定から、逆に『金葉集』二度本の成立年代を推定し、二度本の成立をも松田説(天治二年四月)より繰り下げて大治元年(1126年)夏頃にするという提案もありましたが、これについては、『良玉集』を研究された久保木秀夫さんから質問がでました(久保木さんの考えは、『金葉集』二度本の成立は松田説のままでよいというもののように伺いました)。久保木さんの研究「『良玉集』考」は、『国語と国文学』平成17年6月号に掲載されているということでしたので、これについては、私も図書館で確認してきたいと思っています。
要するに、『金葉集』初度本の成立が天治二年三月以降(加畠説)とすると、一カ月でそれを改訂するのは不可能なので、二度本の成立も同年四月(松田説)より繰り下げなくてはならないが、その下限は『良玉集』の成立問題とからんでくるということです。
『金葉集』の撰進の背景そのものに関しては、加畠さんは、私の説をも評価してくださったうえで、白河法皇の晩年において待賢門院がしめていた位置を重視し、待賢門院の皇子・崇徳天皇の治世の予祝ということに意義があったのではないかという説を述べられました。そのなかで、『金葉集』には保安四年(1123年)の大嘗会の和歌が含まれており、現天皇の大嘗会和歌を採用するのは勅撰集として最初の試みであるという点は新たな視点で、興味深かったです。
いずれにしても、私の説を取りあげて吟味してくださいましたので、非常にうれしく聴かせていただきました(私の説に関していえば、私の説は松田武夫さんの『金葉集』成立年代推定に全面的に依拠したものであり、むしろその補説的な位置づけにあるように自分では考えていたのですが、それが松田説と切り離しても検討に値するとして頂けた点、望外の喜びでした)。

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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/18(日) 11:08:07|
  2. 和歌および古典文学
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18世紀末のとある道徳論

先週から、Mの道徳論を読んでいます。
この道徳論、1773年頃に書かれたのですが、出版は1784年。フランス革命の5年前です。当時の人たちは、どんな想いで、この道徳論を読んでいたんでしょうか。
ところで現代の眼でMの道徳論を読むと、Mが自然(自然状態)を手放しで肯定しているのでもなく、逆に社会状態や人間理性を全面的に信頼しているわけでもないところがおもしろいんですね。つまり、18世紀という時代に、感性(人間の自然な感覚)と理性のあいだでどちらをとるべきかという論争があったとすると、Mは、どちらもただしくないし、この議論は不毛だろうといっている。Mの議論のすすめ方、私にはゲーテの『ファウスト』なんかにつながるようにも思えるんですね。
以下に、Mの道徳論のなかからポイントとなるとおもわれる一節、引用しておきます(わかりにくい拙い訳でごめんなさい)。

    *   *   *

 私たちが善への傾向とともに生まれたといっても、また、私たちの社会的性質が公共の幸福のなかに個人の幸福を見出すよう、私たちを準備し、私たちを招くといっても、しかしながら、徳への傾向に危険なく身をまかせることができると信じないよう、また徳への傾向をあおりながら、道徳は美徳を増加・増大させることしかしなかったと信じないよう、用心しなくてはなりません。なぜでしょうか。なぜなら、自然はすべてをなし遂げてはいないからです。そして自然は私たちの理性になすべきことをゆだねたからです。その神秘的な叡智にまで入り込むことができないモチーフによって、人間を、理性(光明)が無謬で自由を濫用できない存在にすることを望まず、もしこうした表現が許されるならば、自然はその作品の素描しか行いませんでした。私たちにむかって自然は次のように語ります。「私はあなたたちにすべてなし遂げられた幸福を与えませんでした。しかし私は、あなたたちがこうした幸福を組み立てることのできるすべての道具をあなたたちに授けます。大地のみのりはあなたたちの生存に必要です。大地はそれを充分提供するでしょう。しかし私は労働によって大地を豊穣にする配慮をあなたたちの腕にゆだねます。平和、結合、友情、慈善、協和は幸福のための道具です。私はあなたたちの魂にそれらの貴重な種を捲きました。あなたたちに授けた社会的性質がそれらを育てるのです。そしてあなたたちの理性、最も崇高な知識へと自らを高めることが可能なこの知性に対し、私はあなたたちの繁栄という建造物を建てるに適したすべてのこうした素材を整理し、配置し、監督する配慮をゆだねます。」
 快楽の魅力によって私たちの魂を揺り動かし誘惑するすべての対象が、もしも私たちにつねに有益であったならば、またそれとは反対の結果によって私たちを尻込みさせるものが、もしも私たちにいつも有害であったならば、私たちはこの二つの印象に安全に身をゆだねていたことでしょう。しかし不幸なことに、私たちは偽りの快楽と偽りの苦に取り巻かれています。それらによって欺かれないために、私たちは熟慮し、反省し、比較し、どのような徴のもとに私たちがそれらの真の性格を認識するかを学ぶ必要があります。私たちの理性は感覚に警戒する習慣をつけなくてはなりません。また、比較するために過去を呼び起こしながら未来に向うときに、理性は、自分を酔わせたり誘惑したりする活動ではなく、理性を動かすことが必然的な活動しか情念にゆだねないようにしなくてはなりません。憂慮すべき反動にともなわれた快楽を跳ね返すために必要な勇気を私たちが獲得し、持続的な善を手に入れるために束の間の苦を露わにすることができるのは、この唯一の方法によってなのです。以上が私たちの運命です。臆病さがそれに抵抗することもありえます。しかし運命に従わなくてはなりません。もしこうした用心がその習俗を規則づけようとする個々の市民に不可欠であるとするならば、あなたがかくも愛し、また国家の一般的な命運を決定する政治には、さらにいかほどの用心が必要か判断してください。
 私たちを徳へと導くがゆえに私が有徳な情念と呼んだ社会的性質は、それ自身、ある種の規則のもとにおかれる必要があります。なぜなら、自然はそれらに限界を課したからです。もしこの社会的性質が限界を越えるならば、それらは徳であることをやめます。そこから諺風のこうした格言が生じます。「徳は自制を必要とする。過度でありはじめるとき人は賢者であることをやめる。」


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テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/11(日) 11:46:23|
  2. 哲学
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