le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

信者のとまどいーー法然の手紙を読む

下の記事の論点①に関し、これは浄土仏教の教理に対する私や伊藤益氏の主観的な解釈だとする人がいるかもしれませんから、その論拠として津戸三郎に宛てた法然の手紙(年代不明、9月18日付)を引用しておきます。残念なことに、津戸三郎から法然に宛てた手紙は残っていないのですが、法然の手紙を読むと、津戸三郎のもとには、「法然は熊谷入道(直実)、津戸三郎のような無智のものには念仏をすすめ、有智の人には念仏以外のことも教えている」と告げる人があり、それに戸惑った津戸三郎が法然に確認をもとめた手紙に対する返信であることが読み取れます。
この法然の手紙、通常は、法然は無智有智をとわず念仏だけをすすめていたという論拠としてのみ用いられるのですが、そうした観点にとらわれることなく自由に読めば、法然の信者といえども法然の教えの簡潔さ、平明さを十分には理解できず、まわりの人から何か言われるたびに戸惑っていたということの有力史料になるのではないかと思います。

「御フミクハシクウケタマハリ候ヌ。タツネオホセタヒテ候事トモ、オホヤウシルシ申候。クマカヤノ入道ツノトノ三郎ハ、無智ノモクナレハコソ、念仏オハススメタレ、有智ノ人ニハ、カナラスシモ念仏ニカキルヘカラスト申ヨシ、キコエト候覧、キワメタルヒカ事ニ候。ソノユエハ念仏ノ行ハ、モトヨリ有智無智ニカキラス、弥陀ノムカシチナヒタマヒシ本願モ、アマネク一切衆生ノタメ也。無智ノタメニハ念仏ヲ願シ、有智ノタメニハ余ノフカキ行ヲ願シタマエル事ナシ。十方衆生ノタメニ、ヒロク有智無智有罪無罪善人悪人持戒破戒、タフトキモイヤシキモ、男モ女モ、モシハ仏在世、モシハ仏滅後ノ近来ノ衆生、モシハ釈迦ノ末法万年ノノチ、三宝ミナウセテノ時ノ衆生マテ、ミナコモリタル也。マタ善導和尚ノ、弥陀ノ化身トシテ、専修念仏ヲススメタマヘルモ、ヒロク一切衆生ノタメニススメテ、無智ノモノニカキル事ハ候ハス。ヒロキ弥陀ノ願ヲタノミ、アマネキ善導ノススメヲヒロメムモノ、イカテカ無智ノ人ニカキリテ、有智ノ人ヲヘタテムヤ。モシシカラハ弥陀ノ本願ニモソムキ、善導ノ御ココロニモカナフヘカラス。サレハコノ辺ニマウテキテ、往生ノミチヲトヒタツネ候人ニハ、有智無智ヲ論セス、ミナ念仏ノ行ハカリヲ申候也。シカルニソラコトヲカマヘテ、サヤウニ念仏ヲ申トトメムトスルモノハ、コノサキノヨニ念仏三昧、浄土ノ法門ヲキカス、後世ニマタ三悪道ニカヘルヘキモノ、シカルヘクシテ、サヤウノ事オハ、タクミ申候事ニテ候ナリ。ソノヨシ聖教ニミナミエテ候也。(後略)」(『昭和新修法然上人全集』501-2頁、平楽寺書店、1955年)

ところで、法然側にたってもう一度この手紙を読み返すと、法然は有智の人にこそ念仏をすすめているのだととれなくもないのは、おもしろいですね。九条兼実あたりは、法然の教えのこうした部分に魅力を感じたのではないでしょうか。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif
スポンサーサイト

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/31(月) 12:45:01|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

小結ーー親鸞の教えはきちんと受容されていなかった

法然、親鸞の思想、さらには鎌倉時代の浄土宗の信仰、教団の動向について、これまでの書き込みを踏まえ、これらの問題を私はどう考えるか、当ブログとしての論点を整理しておきます。

①まず、基本的なポイントですが、私は法然流の浄土信仰(いわゆる専修念仏)が易信だとは考えていません。その教理についても、本質的には非常にわかりにくいもものだと思っています。

②次に、(これは①とも関係してきますが)法然、親鸞の信者も、法然、親鸞の思想をきちんと「理解」していたとはいえず、その実態をみていくと、別の宗派との混淆がみられるようです。このことを明確に指摘しているのは、今井雅晴氏で、今井氏によれば、関東における親鸞の有力信者グループのうち、高田門徒は善光寺如来との雑修、横曾根門徒は真言宗との兼修、鹿島門徒は鹿島神宮の神道との融合がみられます。また、法然の信者を研究した梶村昇氏は、津戸三郎為守が谷保天満宮の神主であった可能性を指摘していますが、今井氏の研究をふまえて考えれば、これは事実であった可能性が高いと思います。

③親鸞の教説に関する有力史料である『歎異抄』の執筆動機を考えると、親鸞教団のなかにはさまざまな異説がはいりこんで、親鸞の生存中から教団内部が混乱していたことがうかがえます。

以上の三点を主な根拠に、私は、専修念仏、なかでも親鸞系のそれは、鎌倉時代の社会にきちんと受容されていたとはいえないと思います。

①に関する補足として、とりあえず、伊藤益氏の次の指摘(その内容は、『歎異抄』第七条の解釈にかかわるもの)をあげておきます。
「自分のような悪しき存在者をお救いくださるという弥陀の本願力に縋れという師法然の教えを遵守し、わたしはただひたすら念仏するばかりである、と親鸞はいう。この、もはやそれ以上の単純化を不可能とする教えは、実践しやすいようでいて、実は、そこに身を投ずることがきわめて困難な教えである。人は、救済に至る道程として、若干の努力を求められれば、その実行可能性を確認することによって安心を得ることができる。しかし、念仏すればそれでよい、という親鸞の教えは、救済のための条件を何も呈示していないに等しい。端的にいえば、親鸞は、何もしなくてもただ信じれば救われるといっている。この、ただ信じればよいという教えほど、極限まで単純化され、それゆえ実行の困難な教えは、他に類例を見ない。わずかばかりの努力を要請されてはじめて、人は、自己の信心を自己の外側から確認できる安易さに憩うことができる。その教えは、そこに全霊を傾けるためには、あまりに容易にすぎ、単純にすぎたといってもよいだろう。人は、親鸞の教えのたやすさ・単純さに驚く。そして、ある者はその教えの背後に奥義を求めるという形で、またある者は自力の修行の必要性をあえてそこに見いだすという形で、それぞれ、親鸞の説く真実の信心から逸脱してゆく。単純さの極限にまで絞りこまれた親鸞の教えは、意外な程に、それを精確に歩み抜く者の少ない教えであった。」(『歎異抄論究』277-8頁)
たしかに、浄土宗の主張(教義)は、顕密仏教や禅宗のそれにくらべれば単純で説明しやすいと思います。しかしそれと浄土信仰の容易さは別の問題であり、これはわけて考えるべきだと私は思います。
ちなみに、一般的には、浄土仏教以外の宗派のさまざまな求道法が自力、念仏が他力という理解もあると思いますが、親鸞によれば、念仏も「往生するための念仏」であれば自力の行ということになり、積極的にすすめられることではありません(ただし法然は、「往生するための念仏」をある程度認めていたのではないでしょうか)。つまり、造寺・造仏等にくらべ念仏が行として容易でだれにでも実行できるから人は念仏を選択すべきだという考え方は、親鸞のとるところではないのです。人が阿弥陀仏への信仰(感謝)を態度で示そうとするとき、それが簡単にできるよう阿弥陀仏は「称名念仏」を本願としたというのが、親鸞の考えではないかと思います。

②に関し、たとえば伊藤益氏は、北関東における親鸞の信者は一万人程度と推定しています。通常は、こうした数値を確認し、また比較の問題としてそれが多いのか少ないのかということで教団の広がりが論じられてきたと思います。今井氏の問題提起は、それをさらに一歩進めたもので、従来数の問題としてしか考えられていなかったものを質の問題として考えることを可能にした重要な指摘だと思います。ちなみに、今井氏によれば、この北関東の信者の中心は武士である。「かつて昭和20年代から30年代に論争があったのです。それは親鸞の門弟たちの社会的階級は武士か農民かという論争でした。(中略)農民説は明らかな誤りです。もともとこの説は無理だったのです。その理由は、親鸞の生きていた鎌倉時代、ほとんどの農民たちには宗教を選択する権利はなかったからです。それを持っていたのは領主である武士たちです。外からやってきた親鸞の布教に応じることができるのは武士たちだったのです」(今井雅晴氏『親鸞の家族と門弟』111-3頁)。ただし、主要布教対象が武士であったということと、浄土宗の教義は直接的には結びつかないことを推測させる今井氏の指摘は、この点でも重要だと思います。
ところでこの②の問題は、やはり①の論点と切り離して考えることはできないもので、つきつめていくと、法然や親鸞の思想と関東武士団の心性は、本質的に異質なものだったのではないかという気がしてきます。つまり、法然や親鸞の思想は、阿弥陀仏のもとでの絶対的平等をうたうもので、それが被差別感をもつ階層と結びつきやすいのは事実だったでしょうが、本来的には特定の社会階層、ましてや特定の「悪人」の救済をめざすものではないということです。この点からして、浄土宗の絶対的平等主義を階級論と結び付けるのは無理があると思います。
これと関連して、現在の私は、法然の浄土宗というのは基本的に都市型宗教であり、布教対象としても、京都在住の貴族、僧侶、庶民を中心に考えていたのではないかという気がしています。つまり、地方武士を浄土宗でどのように救済するかということは、当初想定外であり、熊谷直実らの武士が入信してこるのは拒まないが、さりとて彼らに対する積極的布教方法ももたないというのが、初期浄土宗の実情だったのではないでしょうか(この考えが抱える最大の問題点は、法然の出自(地方武士)をどうとらえるかということですが、これに関しては、今のところ、私は決定的なこたえをもっていません)。
晩年の親鸞が、それまで約20年間布教し続けた北関東の教団に別れ京都に戻ってしまったという事実も、意外に、こうした親鸞と関東武士の心性・思惑の違い、いつまで布教を続けても自分の考えは伝わらないといったジレンマがあったすれば理解しやすいのではないでしょうか。
平雅行氏が提起した、法然や親鸞の思想のなかに悪人正機説はあるか、それは彼らのオリジナルかという問題も、おそらくはこうした問題とからんでくるのではないでしょうか。つまり、武士への布教が大きな問題となるにつれて、法然、親鸞の思想とはほんらい相容れない「悪人正機説」が、教団のなかにはいりこんできたとはいえないでしょうか(平説は、「史料の綿密な検討に基づいて展開されたこの論を無視することはできない。悪人正機の思想は、親鸞はもとより法然によって創始されたものでさえなく、平安・鎌倉仏教において顕在化した一潮流であったといってもよいであろう」と、伊藤益氏によっても支持されています<『歎異抄論究』72頁>)。
要は、親鸞が悪人の救済を説けば説くほど、それは誤解されて広がるという面をもっていたということです。

③については、『歎異抄』を丹念に読めば、わかることですし、私自身もすでにこのブログにいろいろと書きましたから、ここで新たに取りあげるべき論点はありません。要は、『歎異抄』は、②で指摘したような教団内外の異説の広がりに関する史料として読むことができるということです。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/30(日) 11:52:38|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

はじめにことばありき

宗教言語論についての考察、もう少し続けてみます。
まず極めて一般的にいえば、宗教が日常を離れた語り得ぬものにひたすら向かっていくのに対し、それを日常意識・日常言語のレベルに引き戻して説明しようとするのが宗教学ないしは哲学とか思想というものではないでしょうか。ですからその辺のところ、宗教学と宗教には根本的な乖離があるように思います。なんというか、宗教現象を説明することの難しさですね。
それと、宗教(仏教)で一般的にいう、「さとり」だとか、「目ざめ」だとか、「気づくこと」というのは、やはり何らかの不連続な心的事態、道元の言葉を借りていえば「跳出」をさしているのであって、こうした不連続の事態を指し示すというのは、言葉が最も苦手とする領域なのではないでしょうか。つまり、ある一定の安定した心的布置・構造というものができあがってしまえば、その布置を別の布置で置き換える、すなわち記号化するのは容易だと思うのですが、布置が成り立っていない段階、もしくはこれから布置をしこうという瞬間というのは、そもそも記号(言語)になじまないと思います。
ただそこで、そうした記号(言語)になじまないものも記号化(言語化)しうる、あるいはそうした特殊な記号(真言)を想定することで、その記号を手がかりにして布置がなりたっていない原初的段階や布置が成立する瞬間の存在論を明らかにできるというユニークな主張をするのが真言密教ですね。この辺の論理と実践というのは、密教の独壇場ではないかと思います。しかし法然は、そうした密教の議論を「学問」だとし、信仰とは別のものだと退けてしまいますから、専修念仏の論理のなかでこの問題をこれ以上つきつめていくのは、いわば禁じ手のような感じになってしまうのですね。
しかしこの跳出の問題、より浄土宗的にいえば発心なり回心という問題、いくら「易行」といっても、結局は、浄土宗もそれを無視して通過することはできないのではないでしょうか。そうでないと、専修念仏は、阿弥陀仏は誰でも助けてくださるし、おすがりする方法も「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよく簡単だから、ともかくおすがりしてみましょうという、自利中心のひからびた論理になってしまうと思うのです。親鸞が「自力」といって自分の思想から峻別するのは、こうした考え方ですね。
つまり浄土宗は、自分の力でさとるということを徹底的に否定し、信仰に入るのも阿弥陀仏の力のお陰とするわけですけれど、そうした阿弥陀仏の力なり慈悲に気づくのは信仰に入ろうとする人自身ですね。まあ、これをも「気づかされる」とどこまでも受け身で表現してもいいのですけれど、ともかく、どこかで主体の側の跳出、意識の不連続ということを考えなくてはならないのではないでしょうか。そうしないと、報謝の念仏といったことも難しくなってしまうような気がします。

以上のようなことをなるべく『歎異抄』の解釈に即していおうとすれば、次のようになるでしょうか。
「「信」が各自の内面に懐かれる瞬間において、人は皆孤独である、と親鸞は考えていた。人はひとり静かに弥陀に対向し、弥陀の呼び声に聴従しつつ、弥陀によって「信」へといざなわれる。各人の内面に、「信」が発起する瞬間には、他者が介在する余地はない。「我」ひとりが単独に弥陀と向き合うという、他の誰の援助も期待できない情態のなかでこそ、「信」は生起する。親鸞は、そのように考えていた。いいかえれば、親鸞にとって、「信」の生起は、「単独者」としての自覚に基づいて可能になるのであり、究極の場面でなお「師」の助力を期待することは虚しいわざでしかなかった。」(伊藤益氏『歎異抄論究』136頁)

ところで、親鸞の思想の核ともいえる「信」という言葉、やまとことばにするのがとても難しいですね。私にはちょっと思いつきません。ほんらいのやまとことばにはなくて、仏教と一緒に日本に移入された概念だということはできないでしょうか。つまり、日本古来の「信仰」では、カミは信じる対象ではなくて、怖れる対象であり、それを鎮めるのが日本古来の「信仰」だったといえるのではないでしょうか。ですから、法然や親鸞が主張した阿弥陀仏を信じるということ、現代からみれば当たり前の主張のような感じがしますけど、中世の日本人にはとてもわかりづらい考え方だったのではないかという気がします。
そこで、今度はこの「信」という文字(中国語における「信」概念)について考えてみると、それは「ことば」と「ひと」から合成されている。これもちょっと難しいんですけど、このことが指し示している事態は、「言葉」が「人」と一致し、その「人」のものとなるということでしょうか。辞書には、「信」=「まこと(真・言)」といった字義もみうけられますが、おもしろいことに、この「まこと」という概念も、漢字(中国語)では、「言葉」が「成る」という合成概念ですね。
このことは、私には、「ことば」が最初にモノ・オトとしてぽーんと飛び込んできて、あとからそれを中核にしてとある概念が結集されるという事態を指しているように思われるのです。なんというか、「はじめにことばありき」と。
親鸞の「南無阿弥陀仏」、もっとつきつめれば「南無」という言葉を、私はそうした根源語としてとらえてみたいような気がしています。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/28(金) 12:22:55|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

真理の住みつく場としての「ことば」

前の記事は少し説明不足かもしれませんから、つけ足しておきますと、伊藤益氏のいう「ことば」というのは、たとえば、経典やその注釈書さらには阿弥陀仏の第十八願といった「言葉」のことではないのだろうと思います。その辺のところをもう少し明確にするために、伊藤氏の著作のなかから、前に引用した文章と関連する部分を以下に抜き出してみます。

「この点に関して留意すべきは、大峯顕『親鸞のコスモロジー』<法蔵館、1990年、私は未読>が展開する宗教言語論である。それによれば、親鸞は、法統の連綿たる持続性をその内部から支える人格性に信憑を寄せているのではなく、むしろ、法統のなかで各々の人格性において開示される「ことば」に信を置いているのだ、という。すなわち、親鸞は、ある具体的なことばが弥陀や釈尊、あるいは善導、法然によって語られたがゆえに正しいといっているのではない。決定的な真実性に蔽い尽くされた「ことば」が、法統を構成する人格を媒介として「世界」へと開き示されてあるその姿のうちに、親鸞は真理の呼びかけを聞き取っているものと考えられる。「ことば」を人間が真理(存在)を語るための手段としてではなく、そのただなかに真理(存在)が住みつく場としてとらえたのはハイデガーであった。大峯顕の宗教言語論は、親鸞が、ハイデガーないしはハイデガー的(実存論的)な思索を先取りし、「ことば」を真理(存在)の住みかとする思索を披瀝しているのだ、とする。」(伊藤益氏『歎異抄論究』58-9頁)

ハイデガーはともかく、親鸞が「ことば」を真理(存在)の住みつく場としてとらえようとしていたという考え方は、私には魅力的です。そしてこの場合の「ことば」というのは、突き詰めていけば、「南無阿弥陀仏」と、それからあえていえば「弥陀」ではないでしょうか。いずれにしても文章化された命題のようなものではないと思います。

さて、大峯・伊藤両氏の考え方に影響されたというわけではありませんが、法然・親鸞の「思想」を考えるとき、私は、浄土三部教なり阿弥陀の第十八願の分析からはいるという方法論をとりません。これらの経典は、法然以前からあったわけですが、法然の思想はそれらから導き出された帰結ではないと思うからです。
親鸞はさておき、法然の場合、まず自己の思索なり宗教体験があって、それを正当化しようとすると浄土三部経に対する善導の解釈があったということではないでしょうか。いわば、法然の「読み」というのは、経典や善導の解釈の新たな意味の発見だったのだと思います。ある時、これらの経典等に記された言葉をとおして真理が法然に開示されたのだといってもいい。その新たな意味というのが、経典や注釈書の解釈として正しいかどうかは別の問題で、法然が主張するのは、それらが法然の解釈のようにも読めるということではないでしょうか。当然、既存仏教は、その解釈はあまりにも恣意的だと非難するわけです。
ですから、繰り返しますと、法然に生じたことというのは、第十八願が正確にはどのような意味をもつかという問題ではないのだと思います。そうではなくて、「ことば」の方から法然にやってきた。なんというか、その「やってきた」ということがものすごい意味をもつということではないでしょうか。とすると、これは「やってこない」人には永遠に説明できないかもしれない。法然がその著作等でいつも語っているのは「何がやってきたか」なのですが(その「何か」もしくは「何かを記した言葉」自体はある意味で単純)、「やってきた」という事実性については、法然はあまり語らない。私は、親鸞にも、兼実にも、直実にも、それ(es)は訪れたのだろうと思います。ただその自己を訪れたもの(es)をあらためて言語化しようとすると、各人ばらばらになってしまう。その時、それをつなぐ文字通りの核が「南無阿弥陀仏」であり「弥陀」という「ことば」なのではないでしょうか。これは、通常語られるところの言葉の意味、すなわちソシュールの術語でいえばシニフィエ(所記)というよりは、シニフィアン(能記)としての「ことば」ですね。意味から解き放たれた音の連なりです。いったんこれを解釈(意味付け)しようとしたらどのようにでも解釈できる。
ですから、この事態はそれ以上説明しようがない、説明したら別のものになってしまうという法然、親鸞の態度は極めて正しいのだと思います。

ところで、この辺の、法然の「法然の思想形成の中核をなすものは、まさしく法然独自のもの」という私の捉え方は、基本的に、井上光貞氏と一致します。
「法然の宗教的回心には、「往生要集」・「観経疏」・「往生礼賛偈」などはもとより、あるいは奈良の、あるいは天台の諸説などさまざまの契機を考えねばならない。しかし、これらはいずれかといえば思想形成に対する触媒的契機であつて、法然の回心の中核を貫いているものは法然独自の発想・体験・発見であろうということである。そのことは「往生要集」及び「観経疏」についてもいわれるのである。」(井上光貞氏『新訂日本浄土教成立史の研究』314頁、山川出版社、1975年)

【参考】
「シニフィアンとシニフィエ」(Wikipedia)

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/23(日) 17:51:53|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

如来より賜はりたる信心

それでは今度は、伊藤益氏の主張を、『歎異抄』全体の核ともいえる第一条の分析にさかのぼってみてみましょう。

「信心こそが肝要だと述べるとき、弥陀への「信」は、衆生の側が主体的に獲得するものであるかのように見える。「信」とは、自己に纏わりつく「我」性を放擲して、自己の全霊を超越的な何ものかに委ねることを意味する。その場合、「我」性の放擲という事態は、我の側から主体的に遂行されるかのような外貌を呈するからである。だが、親鸞は、「信」を主体的に実践される事態とは見ていない。「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思ひたつこころのおこる」という事態こそが、親鸞にとって「信」の成立を意味していた。親鸞は、弥陀の誓願の不思議な働きに導かれて、往生できると信じながら念仏するという態度が成り立ちうると考えている。往生できると信じながら念仏することこそが、親鸞にとっての「信」であり、それは弥陀の力によって「おこる」ものであって、衆生の側が自力で起こすものではなかった。後述のごとく、歎異抄第六条には、「如来より賜はりたる信心」という言辞が見える。この言葉がもっとも端的に示すように、親鸞にとって「信」とは、弥陀の超越的な権能に働きかけられた衆生の側が受動的にそこへ導かれる事態であった。人間の主体性を重視する現代的思惟にとって、「信」を徹底的に受動的な事態とするこのような態度は、にわかには認めがたいかもしれない。すべての行為は、自己の独自な意志に基づいて自己決定的になされるというのが、わたしたち現代人に馴染んだ思考方法であり、これによれば、「信」もまた、自己自身の主体的決断に基づいて遂行される事態ということになろう。しかし、親鸞によれば、そのような主体的決断は、自己の善性を確信しうる仮想的人格によってのみ可能になるもので、現実の「罪悪深重・煩悩熾盛」なる衆生のなしうるところではない。深くかつ重い罪悪のうちに沈み、煩悩の炎の燃え盛るわたしたち凡愚は、自身に纏綿して離れない悪性のゆえに、生来無力たらざるをえない。そのような無力な者がみずから意志して弥陀への「信」を確定することなどありえようはずもない。親鸞は、そう考えていた。」(『歎異抄論究』38-9頁)

私は、この主張(分析)に全面的に賛成です。
浄土宗の伝播というと、教科書的には、通常、「<念仏を称えれば誰でも往生できるし、往生するのに念仏以外の行はいらない>という教義が簡潔・わかりやすく、かつ、それまで仏教による救済から排除されていた(武士を含む)一般庶民を救済対象としていたので、庶民はその教義に共感を感じ、専修念仏の信者になった」という風に理解されていると思いますが、教義がわかりやすいから信じる、教義が民主的だから信じるというのは、伊藤氏の論旨からすれば、「主体的に実践される」自力の信なのですね。そうではなくて、信は「弥陀の誓願の不思議な働きに導かれて」ておこるものであり、これこそ他力なのだと思います。
つまり、衆生は信をおこすことができない。ましてや、聖道門(旧仏教)か浄土門(新仏教)かと、信を選ぶこともできない。ですから、実を言えば、私は人がなぜ信をおこすかというのは神秘的な事態だと思います(伊藤氏は「神秘的」という言葉があまり好きではないようにみうけられますが)。
この第一条の分析を前提に、伊藤氏の『歎異抄』第二条の分析をもう一度みてみましょう。

「親鸞が、「ことば」への不信者を徹底して拒絶するのは、第一条への論究において述べたように、彼が、「信」を受動的な事態ととらえたからである。親鸞によれば、「信」は衆生の側が独力で主体的に獲得しうるものではなく、如来から衆生に付与されるものであった。すなわち、親鸞にとって、「信」とは徹頭徹尾受動的な事態だった。そうした受動性を見据えながら「ことば」への不信者に接するとき、親鸞は不信者を、「ことば」から呼びかけられていない者、すなわち、弥陀において開示される真理に働きかけられていない者ととらえざるをえなかった。そうした、真理(弥陀)から疎遠な在りかたを親鸞は厳しく指弾する。弥陀によって「信」へといざなわれていない者に何を語っても無駄である。親鸞は、そう考えていた。」(上掲書63頁)

ある人が専修念仏の信者となりうるか否かは、究極的にはその人が弥陀から選ばれているか否かで決定するのであって、その人が社会的に差別されているか否かといった世俗的な問題は、それとは全く関係ない。また、ある人が関東からはるばる自分のところを尋ねてこようが来まいが、そのことと信仰は関係がない。
浄土仏教についての記述によくありがちな、親鸞の思想を民主主義や人道主義の観点から捉えようという試みは、無理な試みではないかと私は思います。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/21(金) 13:57:20|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

鎌倉時代の親鸞教団の内実とは

伊藤益氏の『歎異抄』第二条の読みの引用、続けてみましょう。

「彼らが投げかけた疑義に対する親鸞の回答は、至極単純だった。親鸞はいう。あなだがたがもし、この親鸞が念仏以外の法文等を知っていてそれを隠しているとでも考えているのなら、それは見当違いというものだ。念仏の教義の詳細を知りたいのなら、奈良や比叡山にこちらの身がすくむほどに優れた学匠たちがあまたいらっしゃるのだから、彼らに尋ねればよい。この親鸞においては、ただ念仏して弥陀にお助けいただくがよいという法然聖人の教えを被り、それを信じることのほかに格別のいわれはない、と。関東在住時の親鸞は、おそらく、弥陀の本願の不思議な力を信じてひたぶるに念仏せよ、そうすれば救われる(往生できる)と説いただけだったであろう。『教行信証』に説かれるような、複雑で晦渋な論理に、関東の門弟たちの理解が届いたと考えることには無理がある。親鸞は、法然以来の浄土教の教説から、すべての剰余的な部分を削ぎ落とし、それを極限まで単純化して布教した。それが、仏教的な教養を欠いた、文字にさえ暗い民衆のあいだに広く受け容れられた結果、一万人にもおよぶ教団が成立したと見るべきであろう。極限まで切り詰められた教説は、そこからの逸脱を厳しく指摘する指導者の存在をまって、はじめて誤解の伴わないものとして普及しうる。一般に、単純なものは、余分な尾鰭をつけて説明づけられる傾向にあり、単純な外観の背景に存する複雑な体系を熟知する者を後ろ盾とする場合にのみ、尾鰭の部分の剰余としての無意味さをきわだたせることができるからである。親鸞帰京後の親鸞教団、すなわち、親鸞という思想的な後ろ盾を失った教団は、教説の単純さゆえにかえって深い惑いのなかに陥った。親鸞は、上京した門弟たちに向かって、もう一度徹底した単純さのなかへと立ち返ることによって、その惑いを断つべきだ、と述べたのだった」(『歎異抄論究』50-1頁)

私は、『歎異抄』第二条の読みは、だいたい伊藤氏のとおりだと思います。
ただそうすると、「歴史」という観点からは、関東に親鸞教団が成立したのは事実にせよ、その教団に属する人たちは、ほんとうに親鸞の主張を心から理解していたのかという疑問が消せないんですね。あるいは、「単純な外観の背景に存する複雑な体系を熟知する者を後ろ盾とする」ことを必要とするような教説が、果たしてわかりやすい教説といえるかどうか。まあ、ここでいう「わかりやすい」ということは、言葉の表層的な意味ということと、心底理解し納得するという二つの意義をもちます。つまり、「言葉の表層的な意味」ということでいえば、親鸞や法然の主張はとてもわかりやすいんですけど、「心底理解し納得する」ということからいえば、とてもわかりにくいんじゃないでしょうか。
歴史の教科書などで浄土宗の主張がわかりやすいという場合、従来、この前者の「言葉の表層的な意味」におけるわかりやすさしか問題にされてこなかったように思います。でもそれはあまりにも一面的ではないかと私は思うんですね。
ですから、親鸞が関東にいなくなると、「教団」にはすぐに混乱が生じる。でもその混乱というのは、親鸞の主張が本質的に含んでいるものではないかと私には思えるのです。
『教行信証』の執筆にしても、いくら親鸞が、それはふだんの自分の主張とどこも違わないのだと力説しても、(漢文調で書かれていて信者には読みこなすことができない本なわけですから)親鸞の教えには、ふだんの主張とは別に、『教行信証』が読めるような教養ある人向けの奥義があるんじゃないかという疑念が生じるのは、ある意味当然ではないかと思います。
なんというか、親鸞には、分かりすぎて分かってないといったところがあったんじゃないでしょうか。
ですから私は、伊藤氏の解説のなかで、「親鸞は、法然以来の浄土教の教説から、すべての剰余的な部分を削ぎ落とし、それを極限まで単純化して布教した。それが、仏教的な教養を欠いた、文字にさえ暗い民衆のあいだに広く受け容れられた」という点にはあまり賛成ではありません。というか、これは解説全体と矛盾しているように思えるのです。
では親鸞の布教はなぜ成功したかというと、「主張のわかりやすさと民衆性」を強調する定説とは逆に、親鸞の教えのもつ神秘性と親鸞個人のカリスマ性によるものではないかと私は思います。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/20(木) 11:47:55|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

『歎異抄』と善鸞義絶事件ーー伊藤益氏『歎異抄論究』を読みながら

伊藤益氏の『歎異抄論究』(北樹出版、2003年)を読みながら『歎異抄』読解をすすめています。
伊藤氏の本やその他複数の『歎異抄』本を読むと、『歎異抄』第二条に記してある唯円ら門弟の上洛(この時に彼らが親鸞の言葉を直接聞いたことが『歎異抄』執筆につながった)というのは、やはり、建長八年(1256年)の善鸞義絶事件と深いかかわりがあるようですね。ですから、この時の親鸞は、唯円ら関東から来た信者たちに、自分の思想のなかでも事件と直接関係があることだけを語った可能性も高いと思います。これは、『歎異抄』の性格(『歎異抄』の記録にどのようなフィルターがかかっているか)を考えるうえで見逃せない事実ですね。
その辺のところを、伊藤氏の『歎異抄論究』から抜き出しておきます。

   *    *    *

 「親鸞は、いま、多数の門弟を前にして、「信」の本質についてみずからが思うところを切々と述べている。門弟たちは、はるばる関東から十余ヵ国の境を越えて京都にやってきた人々である。中世における街道、旅宿の不備、あるいは、治安の悪化を勘案すれば、彼らの旅が名状しがたい苦しみに満ちたものであったことは想像に難くない。そのように命懸けの旅に身を投じて、彼らが上京した背景には、それを余儀なくさせるような重大な事情があったと考えるのが自然であろう。
 常陸笠間の稲田郷に草庵を構え、そこで二十年にもわたって布教活動を展開していた親鸞は、六十数歳のころ京都へ戻ったものと推測される。帰洛の理由は判然としない。主著『教行信証』の撰述に関わって生じた資料操作上の問題を解決することが主たる目的ではなかったかとも考えられるが、その場合には、一般の門徒の理解の範囲を超えたこの書の撰述が、二十年間の布教の成果よりも重んじられなければならなかったのはなぜか、という新たな疑問が生じてしまう。
 親鸞帰洛後、関東の門弟たちはさまざまな難題に直面することになる。師父不在の状況下で、念仏の教えをめぐって生起する多様な議論をどう処理すればよいのか、彼らは判断に窮したのであった。
 彼らに身命を賭しての上京を決意させたものは、疑義が頂点に達するという宗教的情況ではなかったか。それは、おそらく、「善鸞事件」によって惹起された情況であった。自身の帰洛後に関東の門弟たちのあいだで異説が流布しつつあることを耳にした親鸞は、息男善鸞を関東に派遣して異説を鎮めようとする。ところが、関東の門弟たちを膝下に糾合しようとしたのだろうか、善鸞は、門弟たちに向かって、父子相伝の口伝と称する異説をとなえ、親鸞に対しては、関東の指導者たちが「造悪無碍」の言動をとっているという偽りの報告をする。当初、親鸞は、善鸞の報告に信を置いていたが、門弟たちから寄せられる多数の書信は、善鸞に煽られて異説がいっそう極端化してゆく情勢をあらわに示していた。善鸞が弥陀の第十八願に基づく念仏を「しぼめる花」に譬え、その無意性を強調したと聞くに及んで、親鸞は、もはや善鸞の活動を放置しておくことができなくなった。建長八年(1256)五月二十九日、親鸞は、「親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一なり。この事ども伝へ聞くこと、あさましき様申す限りなければ、いまは親といふことあるべからず、子と思ふこと思ひきりたり」と述べる書状を善鸞に送り、彼を義絶する。
 親鸞直々の門弟たちは、それぞれ道場主として数十から数百の門徒を抱えていた。『親鸞聖人門侶交名牒』から類推するに、道場主として立っていた門弟の数は、四十四名にのぼる。これに『末燈鈔』記載の門弟を加えれば、その数はおよそ六十に達する。したがって、直接・間接に親鸞の影響を受けた人々は、一万名近くを数えたことになる。これらの、親鸞を核として結び合った人々を、いまかりに親鸞教団と呼ぶならば、同教団は、善鸞事件に直面して思想的な混乱の極にあったものと推察される。異説の流布を抑止するためにはるばる京都から派遣された息男が、異説を説いたという理由で父から義絶される。そうした事態を目のあたりにして、教団内部の疑義は最高潮に達していたであろう。そのような情況下に、門弟たちは大挙して上京する。彼らは、親鸞の真意がどこにあるのかを、命懸けで問い質そうとしたのだった。」(伊藤益氏上掲書、48-50頁)

   *    *    *

ただし、伊藤氏が引用している建長八年五月二十九日の義絶状を、今井雅晴氏は「善鸞の敵方の人間が、善鸞は親鸞に勘当されていて跡を継ぐことはできないのだ、と善鸞の方をおとしめるために書かれた」贋物の手紙ではないかと推測しています。
その推測には書式等いろいろな根拠がありますが、結局は、「この手紙の内容がほんとうのことだとしますと、善鸞にとって、おもしろくないことですね。それに恥ずかしいことですね。もし皆様方がお父さんから勘当するという手紙をもらったら、どういう気持を持つでしょうか。少なくともうれしくはないですね。悲しく思う方もいらっしゃるでしょうし、逆に怒る方もいらっしゃるでしょう。そしてその手紙を人に見せるでしょうか、というのが私の疑問なのです。破るか、くしゃくしゃにするか、人に見せないようにしまっておくか、いずれかでしょう。それなのに、冷静に「何年何月何日に到着した」とか、さらにわざわざ年号を入れてもう一度「このことは何年何月何日に記入した」とか書くでしょうか」(『親鸞の家族と門弟』43-4頁)という心理的理由です。でも私は、この疑問、もっともだと思うのですね。

いずれにしても、こうしたもろもろのことを考えると、私は、晩年の親鸞は泰然自若という感じからはほど遠いような気がします。それは、自分は一番分かりやすい教説を述べているはずなのに、それがなぜ次々と誤解や分裂を生むのかといったことではなかったかと私は思います。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/17(月) 20:49:39|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

念仏の要文と法然ーー津戸三郎への手紙から

これは親鸞や『歎異抄』と直接の関係はありませんが、関東武士と浄土宗祖師との関係を知る参考として、法然が津戸三郎為守につかわした手紙(年代不明、九月二十八日付)に関する梶村昇氏の分析をみてみましょう。

まず、法然の手紙とその問題となる箇所は次のとおりです。

「おほつかなくおもひまいらせつる程に、この文返々よろこひてうけ給はり候ぬ。(中略)又要文の事、書きてまいらせ候へし。又くまかやの入道の文は、これへとりよせ候て、なをすへき事の候へは、そのゝちかきてまいらせ候へし。なに事も御文に申つくすへくも候はす、のちの便宜に又々申候へし。」(『昭和新修法然上人全集』571-2頁、平楽寺書店)

手紙の結びで、法然は、津戸三郎に念仏の要文を書いてあげようと約束し、また熊谷直実に宛てた文(おそらくこれも念仏の要文)は直すべき事があるので取り寄せるつもりであると記しています。梶村氏は、このことを問題にしているのです。
 
 「ここでいう「熊谷入道の文」は『(和語灯録)日講私記』のいう通り「但念仏の文」であり、それが「熊谷への消息」そのものであろうが、別に存在しているものであろうが、いずれにしても上人の書かれたものに違いない。
 そうなれば法然上人は、自分の書いた念仏の要文に間違いがあったから、取り返して訂正するということになる。そんなことが考えられるであろうか。そもそも上人にとって、念仏の要文など、間違いたくても間違えられるようなものではない。絶対といってよいほどあり得ないことだと思う。『日講私記』が、このように述べているので、今もこの説が踏襲されているようであるが、どうも納得のいかないものがある。
 私はこの「くまかやの入道の文」とは、法然上人が熊谷に渡した文ではなく、熊谷自身が書いた文ではないかと考える。これもまたシナリオめくが、関東では「無智者と念仏」の噂が立つほどであるから、それに対抗し、それが誤りであるということを主張するには、こちら側にもれっきとした証拠が必要になる。それは法然上人からの「念仏の要文」をおいて他にはない。そこで熊谷も津戸もそれを欲しがった。熊谷はすでにそれを上人からいただいている。それが法然上人の真筆「熊谷の入道へつかはす御返事」(五月二日付・京都嵯峨清涼寺所蔵)である。それは直実にとっては家宝のようなものであるから、それを津戸に渡すことはできない。
 熊谷が法然の門に入ったのは、津戸より二年前である。彼はあのような性格であるから、津戸に対しても先輩風を吹かせたくて仕様がない。そこで彼は自分がいただいたものを見ながら、津戸宛に書き直して進呈した。それが「くまかやの入道の文」ではなかったかと思う。熊谷はそのくらいのことはやりかねない。
 (中略)
 ところが(津戸)為守は、それをいただいて読んではみたが、どうもおかしい。そこで上人に尋ねた。上人はびっくりしたものの、直実の悪口を言いもならず、訂正して送ってあげるということになったのではなかろうか。以上は私の想像に過ぎないが、そうとでも考えないと、ここは収まらないものがある。」(梶村昇氏『津戸三郎為守ーー法然上人をめぐる関東武者3』85-7頁、東方出版、2000年)

津戸三郎がなぜ法然直筆の「念仏の要文」を欲しがったかというと、おそらく、法然という個人に帰依してはいても、専修念仏の信仰の要点はよく理解できなかった(納得していなかった)からではないでしょうか。
一方、法然直筆の念仏の要文を秘匿しようとしたり、親鸞の言行録を秘伝しようとする心性という面では、直実と唯円は共通してますね。

ちなみに、津戸三郎は、『更科日記』の作者の父、菅原孝標の孫です。孝標が常陸介として下向したとき、現地の豪族の娘と結婚して生まれたのが津戸三郎の父です。津戸一族が菅原氏であるという縁で、三郎は、谷保天満宮(国立市にある関東三大天神のひとつ)の初代・神主になっています。
専修念仏者であるはずの法然の直弟子が神主というのは、ちょっと考えると不思議な感じで、梶村氏は、その事実関係はよくわからないとしていますが、親鸞の門弟を詳しく調べた今井雅晴氏は、親鸞の門弟に神主がいたということを明らかにしています。それからすると、津戸三郎が谷保天神の神主だったというのは、むしろ十分ありうる話ではないかと私は思います。
この辺も、鎌倉時代初期の関東武士における浄土信仰の内容を考えるうえで、無視できない点ですね。

【参照】
谷保天満宮

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/16(日) 11:17:40|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

信者の心情ーー親鸞と頼朝の類似性

親鸞は嘉禎元年(1235年)秋頃に、妻・恵信尼や信者をおいて京都に戻っており(その後、亡くなるまで晩年の約三十年間は京都在住)、このために常陸(茨城)を中心とした北関東の信者のあいだに混乱がおこり、これが唯円が『歎異抄』を書いた遠因になっていると思います。
ところで私からすると、この混乱は、ちょっと、鎌倉幕府の動向について記した公的歴史書『吾妻鏡』が記している建久三年(1192年)の、幕府下文の書式変更に関する混乱(『吾妻鏡』建久三年八月五日条)を思い起こさせるところがあるのですね。
これは鎌倉時代の政治史を研究している人には有名な事件ですが、その混乱がどういうものだったかを簡単に記せば、この年征夷大将軍に任じられた頼朝が、それまで彼個人の名で御家人に発給していた所領安堵の下文を回収し、以後は将軍家政所家司の名前で下文を発給することに形式を変更・整備したのです。要するに、それまでの下文というのは、あくまでも頼朝が個人的に記した私的書類だったわけで、頼朝が将軍という公職についたことで、将軍・頼朝としての公式書類に、書類の書式を変更しようとしたのです。この公式書類というのは、将軍家政所の名で発給するもので、それには頼朝の署名(花押)はありません。
ところで『吾妻鏡』によれば、大御家人・千葉常胤はこの頼朝の決定に納得せず、従来どおり頼朝の花押が記された文書を要求して「頗(すこぶ)る確執した」といいます。この下文の件に関する政治的解釈はさまざまありますが、要は、千葉常胤は頼朝との人間関係、人的結びつきを重んじ、安堵の内容という実質は同じでも、人的関係が薄れた政所の事務的な下文を拒否したのだと解されます。
このように、形式や論理よりも、人的紐帯を重んじる精神風土が、関東の親鸞の信者にもあり(今井雅晴氏によれば、親鸞の信者の中心は武士)、したがって、彼らは親鸞が提示する浄土宗の理論だけでは満足できなかったのではないかと、私には思われるのです。
まあ、親鸞と頼朝は、都から来た貴種ということではある意味共通してますね。ですから、関東武士はその人と人的関係を結ぶことを重視し、自分が貴種と親しいことを強調したいわけで、その心性は親鸞や頼朝が考えるような論理性と相反するようなところがあったのではないでしょうか。私には、親鸞や頼朝は、関東武士のこうした心情を本質的には理解できなかったのではないかという気もするのです。まあこれは、親鸞の思惑と信者の意識のあいだの本質的なズレといってもいいかもしれませんね。これはあくまでも推測に過ぎませんが、親鸞の思想の論理性を理解し信じるというだけではなく、親鸞という人格を信じるという風潮が、関東にはあったのだと思います。
またこんな風に考えてみると、親鸞も頼朝ももとはといえば流人の身で、関東武士には、そうした流人に対し共感を感じるといった心情もあったのではないでしょうか。
ですから、親鸞が関東を去ると、信者同志のあいだで、自分の方が聖人と親しかったとか、聖人は自分にだけこう言ったとかいって、相論や混乱が生じてしまうのだと思います。
善鸞義絶事件が生じるルーツも、こうしたところにあったのではないでしょうか。つまり、自分の真の意図を説明するために息子・善鸞を関東に派遣するというのも、親鸞の真の意図の解明を求めて唯円ら信者が上洛するといのも、結局は同じ要請からきているように、私には思われます。

【参考】
「かつて昭和20年代から30年代に論争があったのです。それは親鸞の門弟たちの社会的階級は武士か農民かという論争でした。(中略)農民説は明らかな誤りです。もともとこの説は無理だったのです。その理由は、親鸞の生きていた鎌倉時代、ほとんどの農民たちには宗教を選択する権利はなかったからです。それを持っていたのは領主である武士たちです。外からやってきた親鸞の布教に応じることができるのは武士たちだったのです。」(今井雅晴氏『親鸞の家族と門弟』111-3頁)

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/15(土) 12:40:47|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

秘伝としての『歎異抄』

何十年ぶりかに『歎異抄』を読んでみました。唯円とされるこの著作の作者がどのような人物であるか、この著作が「親鸞の実像」をどこまで伝えているかといった問題は別にして、読み返してみるとやはり非常に興味深い著作であり、鎌倉時代における親鸞思想の受容に関して、重要なことを伝えている書だと思いました。そこで、『歎異抄』から親鸞の思想内容に迫るといった一般の読解(たとえば「松岡正剛の千夜千冊」~『歎異抄』参照)とは大きく異なりますが、以下、私の読みを自由に記してみたいと思います。
なお、私が読んだ『歎異抄』は金子大栄氏校注の岩波文庫で、引用ページ数は、同文庫によります。ただし私は、テクストの細かい異同にはこだわっていませんから、このブログを読んでおられる方は、お手元の版で『歎異抄』のテクストを確認しながら私の書き込みをお読み頂ければありがたいです。またネット上にも、たとえば「浄土真宗本願寺派高山寺サイト」~『歎異抄』といったページがあり、もちろん、これらを参照して頂いてもかまいません。
ちなみに、親鸞思想に関する私の関心は、下の書き込みにも記したように、それは同時代人にどのように理解され・受け止められたかという歴史的な事実関係の確認にありますから、私の読みはまずその点に集中しています。

前置きはこのくらいにして、今回『歎異抄』を読んで一番驚いたのは、その結びの文章です。曰く、「外見あるべからず」(結文89頁)。この本はほんらい秘伝書なのですね。親鸞思想なり浄土真宗の教理に対する一般的な理解からするとこの「秘伝」という事実はちょっと不思議な感じのする話で、親鸞の言説が隠されなくてはならないということは、親鸞の教えの平易性・民衆性と矛盾しているように私には思えるのです。
すなわち、現代、一般的に考えられている親鸞(法然)の教えの核は、①念仏すれば往生できる、②念仏よりほかに往生のみちはないーーの二点であり、そのことは、『歎異抄』冒頭にも、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと、云々」(第一条40-1頁)と明確に記してあります。つまり、この原則自体は浄土宗の公けの教えであり、秘すべき点はどこにもなかったと私には思われます。また一般に、親鸞(法然)の教えは、平等・容易であるとされていますが、それは教えの公開性と表裏一体のものなのではないでしょうか。つまり、相手の老少善悪や身分学識を問わず、法然、親鸞はこの二原則をこそつねに説き続けていたのではないかと私には思われるのです。
以上のことを前提に、今度は、『歎異抄』の著者(考証が面倒なので、以下、定説に従い唯円としておきます)が、なぜ、『歎異抄』を秘本としなくてはならなかったかを少し考えてみたいと思います。するとその直接的な理由は、結語の直前に記してある次の文章から説明できるように思われます。
すなわち、「まことに、われもひとも、そらごとをのみまうしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらふなり。そのゆへは、念仏まうすについて、信心のをもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論のたゝかひかたんがために、またくおほせにてなきことをも、おほせとのみまうすことあさましくなげき存じさふらふなり」(結文88-9頁)が、一応、その理由と考えられのではないでしょうか。
要するに、親鸞の教えを信じる信徒のあいだには、信心の内容に関する問答や親鸞の言説に関する論争(相論)があり、唯円は、こうした相論を避けるために『歎異抄』を秘本としたものと考えられます。もし『歎異抄』が無原則に公開されたならば、「いや、親鸞聖人はそんなことはおっしゃらなかった」「私には別のことをおっしゃった」といった論争が際限なく生じ、終始がつかなくなるであろうことを、唯円は予期していたのではないでしょうか。
実際、唯円が上京し親鸞と面談した理由は、関東の混乱した状況を背景に、親鸞から直接教えを授かること(もしくは教えの本質を糺すこと)、またその言説を直接聴くということにあったものと考えられます。
しかし、唯円のこうした態度を、親鸞は次のように激しく問詰します。
「おのおの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こゝろざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こゝろにくゝおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゝしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」(第二条42-3頁)
親鸞からすれば、法然から伝えられた浄土の教えは、非常に簡潔であり、自分が関東にいようがいまいが、それが誤解されることはありえないということだったのでしょう。したがって、その教えが関東にある程度定着したと見はからって、彼は信徒を置いて上京したのではないかと考えられます。
あまりにも有名な、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第六条50頁)という言葉も、そうした親鸞の考え方の延長線上にあるのではないでしょうか。
浄土の教えの要は、上にあげた、①念仏すれば往生できる、②念仏よりほかに往生のみちはないーーの二点につきるのであり、それ以上教えることはない(他の教え、たとえば「悪人正機説」なり「悪人正因説」といったものは、この原則から導き出される系に過ぎないといえるのではないでしょうか)。そしてこの二原則自体は、わざわざ教えるというほどのこともないことであり、それを教えたからといって、その教えを受けた人を「弟子」とするいわれはない。それが親鸞の基本的な考えではないでしょうか。
さらにいえば、専修念仏の教えが以上の二点に尽きていると考えるからこそ、親鸞は、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心もひとつなり」(結文85頁)と、自信をもって断言できるのではないでしょうか。
しかし現実には、親鸞上京後の関東では、浄土の教えや親鸞の言説をめぐってさまざまな混乱が生じたものと考えられます。おそらく、直接、親鸞の教えを得て不審を解決したいという欲求・悩みは、唯円に限ったことではなかったと私は思います。その混乱を、あまりにも聡明な親鸞は理解できないのですね。つまり、私が考える親鸞と唯円の思惑のずれは、単に関東の混乱状況に帰せられるものではなく、そもそも、親鸞から直接教えを受けてその混乱を打開しようとする唯円の態度そのものにあったように思われるのですが、それをさらにつきつめていけば、親鸞の教えそのものが含む矛盾につきあたってしまうのではないでしょうか。
その矛盾とはなんでしょう。法然・親鸞の教え、すなわち、①念仏すれば往生できる、②念仏よりほかに往生のみちはないーーの二原則は、言葉の表層的な意味は非常に簡明ですが、いざそれを自分の信仰の柱として真摯に受け止めようとすると非常に理解困難な教えだったのだと私は思います。すなわち、教科書的には、浄土宗(法然・親鸞の教え)は論理が単純明快とされるのですが、私は逆に、それを理解するのは非常に難しいことだったのではないかと思うのです。
ゆえに、親鸞が関東にいた間は親鸞の教えを信じる人たちが増えましたが、いったん親鸞が関東を去ると、信徒のあいだで親鸞の言説をどうとらえるかについてさまざまな解釈が生じ、混乱に陥ったのではないかと思われます。そして『歎異抄』は、そうした親鸞の教えを理解することの困難さ、親鸞の教えがおかれていた状況を端的に記しているように思えるのです。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/13(木) 12:33:16|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

鎌倉時代の同時代人による法然、親鸞思想の受容

さて、親鸞の行状、言説が、親鸞没後一世代を経て少しずつ編纂され、そのときに、親鸞ほんらいの思想とは異なるものに変質していったということは、下の整理(7月9日付けの「親鸞の子孫たちーー三者三様の覚如、存覚像」」)からほのみえてきたのではないでしょうか。法然と親鸞に関し、私は思想そのものよりも、やはりその受容や変質ということにとても興味があるのですね。
ですから、法然や親鸞の思想は、彼らの死とともに滅亡してもはや存在しない、彼らの死後にそれが法然や親鸞が考えていたのとは違ったように受け取られたとしても当然だと言い切って済ましてしまうのではなく、死後のみならず、たとえば生前、法然や親鸞の思想はどのように受容されていたのかを考えてみたいのです。それが私からする「法然、兼実、直実の問題」です。つまり、法然と面識があった九条兼実や熊谷直実は、果たして法然思想を真に理解していたのかということです。つまり、法然や親鸞の思想のすごさというものが時代全体の基調から屹立していたということにあるとすると、はたして「時代」はそれを受容、すなわち理解し受け止めることができたのかということですね。
この点は、たとえば道元思想の受容の問題と比較しながら考えるとわかりやすいと思います。道元の思想のすごさというのは、ある意味、時代から屹立しているというところにあるんだと思いますが、その分、時代には受容されませんし、教団(曹洞宗)もすぐには広がりません。これに対し、法然や親鸞の主張の核心は平等性・容易性にあるから道元と一緒に論ずることはできない、法然や親鸞の思想は現実に社会に受け入れられていたというのが、通常の見解だと思いますが、その平等性・容易性ということそのものが、時代から屹立している分だけ時代からは受容されなかったのではないかというのが、私の基本的な捉え方です。
これを下の書き込み「親鸞の子孫たちーー三者三様の覚如、存覚像」にもどして考えると、親鸞の思想(教え)というとき、血族であれ、面授の弟子であれ、それを各人がもっていた顕密仏教や土俗的信仰のカテゴリーのなかに位置づけ、受け入れたのではないかということですね。
いいかえると、法然思想のすごさというのは、顕密仏教や土俗的信仰のカテゴリーそのものを破戒してしまうところにあって、たとえば親鸞は法然思想のそうした画期性を理解していたと思うのですが、それは親鸞にしてはじめて可能だったのであり、それ以外の人は、自分がもっている信仰のカテゴリーをまもりながら、そのカテゴリーのなかで法然や親鸞の教えを(無批判に)信奉した。その時、思想の変質が生じてしまうということではないかと思うのです。
もちろん、宗教や救いということに重きをおいて考えればこれと違う見解がでてくるのは当然ですし、そうした立場からすれば、各宗教の教義が、法然や親鸞ほんらいの思想と同じなのか違うのかは、あまり大きな問題ではないといえると思います。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/12(水) 13:29:27|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

中世仏教を考える枠組ーー「顕密体制論」

法然、親鸞についての書き込みをすすめるための予備知識として、この辺で「顕密体制論」について、私なりに少し説明しておきたいと思います。

鎌倉時代および中世の仏教というと、普通は、法然、親鸞の浄土宗(浄土真宗)、日蓮の日蓮宗、道元の曹洞宗など、この時代に登場した新しい宗派を思い浮かべ、その教説の革新性が多くの人を魅了し、社会にひろがっていったというイメージをもつかと思います。
これらの教説(宗派)が、平安末から鎌倉時代にかけて次々に登場したということ自体はそれでいいのですが、第二次大戦後、中世史の研究、なかでも鎌倉時代の社会の研究が進むにつれ、こうした新しい宗派がただちに社会に受け入れられ、大きく広がったということに対する疑問が出されるようになってきました。
また、戦後まもなくの中世史は、中世=武士の自己実現の時代という階級闘争的テーゼのもとにすすめられてきましたが、はたして武士だけが時代の主役だったのか、武士や幕府について語れば中世の叙述はそれで済むのかと、その図式に対する批判も生じてきました。
ところで、この中世=武士の自己実現の時代というテーゼを思想的に支えてきたのが、中世は浄土宗立宗にはじまる仏教改革の時代という思想史上のテーゼで、「悪人」の往生を保証する浄土宗の教説が武士社会のイデオロギーとして社会に認められ広まっていったという説が、中世=武士の自己実現の時代という政治史上の説と一体化して、長い間、鎌倉時代を理解するための基本的枠組みとして受け入れられてきました。
この両説を簡単に整理すると、古代=天皇・貴族の時代、その時代を代表する宗教は密教、中世=武士の時代、その時代を代表する宗教は浄土宗などの新仏教という図式となります。これからすると、武士が幕府を中心に結集して天皇・貴族から権力を奪う、またそれと同時に新仏教が旧仏教を圧倒していくのが中世というわけですね。この図式の浸透力、影響力は、一般的には今も根強いと思います。
これに正面から異を唱えたのは、歴史学者・黒田俊雄氏で、黒田氏は、「中世における顕密体制の展開」(『日本中世の国家と宗教』所収、岩波書店、1975年)という論文のなかで、「平安時代に密教が移入されて以来、密教の理論と実践が他の宗派(顕教)にも浸透し、仏教界全体を統合していた。この基本構図は浄土宗などが登場した平安末から鎌倉時代にかけても基本的に変化はなく、こうした密教と顕教の併存を最も妥当なものとみなす体制が、仏教内外で続いていた」としたのですね。つまり、中世日本における宗教界の主流は天台宗を中心とする奈良・平安時代に移入された仏教諸派(教義的には密教および密教化した顕教)であり、これに対して浄土宗などの改革派は社会的にはあくまでも少数派でしかなく、いわゆる新仏教を中心に中世社会を考えるべきではないというものですね。黒田氏は、こうした体制を「顕密体制」と名づけました。
ちなみに、黒田氏は、中世=武士の自己実現の時代という政治史上の図式にも異を唱え、1960年代に「権門体制論」という理論を提唱しています。こちらは、中世とは中央の強い権力が解体していく時代であり、武士(幕府)のみならず、朝廷、大寺院等が「権門」として権力機能を分掌していく時代だというものです。この理論を思想的に支えるのが「顕密体制論」だともいえますね。
黒田氏の説は、仏教史研究者や中世社会の研究者に受け入れられ、その後、顕密体制論に基づいて多くの新しい研究が登場しています。
私はというと、私はもともと和歌に興味があり、和歌から中世文化、中世社会全般に興味をもつようになったのですが、定家などの和歌を具体的にみていくと、浄土教の影響ではかたづけられないことが多く、むしろ密教的な発想の和歌が多いのですね。ですから、もともと密教を中心に中世和歌をとらえてみたいと思っていましたから、顕密体制論を知ったとき、これは渡りに舟とすんなり受け入れました。浄土教が社会の中心という説で定家らの和歌をみていくと、源平合戦が終わり、鎌倉幕府が設立されたことを受けて、貴族の時代は終わったという一種の喪失感から、『新古今集』など鎌倉時代の和歌にはしんみりした和歌が多いのだといった否定的な見方しかでてこないのですが、私はこうした見方は根本的に間違っていると思っています。
ところで、平雅行氏の仏教研究も黒田氏の影響下にある研究の一つで、平氏は、『親鸞とその時代』の冒頭で、顕密体制論にいたる仏教史研究の歴史をうまく要約しています。以下、平氏による「中世仏教」の定義をみてみたいと思います。

「私たちはこれまで、法然・親鸞・道元・日蓮の思想を中世仏教と位置づけてきました。しかし中世社会に受け入れられなかった思想、広まらなかった仏教を、中世仏教と呼んでよいのでしょうか。もちろん、「中世仏教」という用語の使い方は研究者によって様々です。でも私は、それを中世法・中世都市・中世家族・中世文化などと同じ使い方をすべきだと思います。中世で一般的かつ支配的な法を中世法と呼び、中世で一般的かつ普遍的な文化様式を中世文化と呼んでいる以上、中世でもっとも浸透した仏教こそ中世仏教と呼ぶべきではないでしょうか。つまり顕密仏教こそが中世仏教であり、これが鎌倉時代の中核なのです。これまでの鎌倉仏教論でほとんど取りあげられなかった旧仏教が、鎌倉仏教論の中心となったのは、こうした考えに基づいています。しかもそれはただ単なる論理的要請によるものではなく、むしろ顕密仏教を中世仏教の中核と捉えた方が、中世仏教の実態を無理なく説明することができるという研究者の実感に支えられて、位置づけが大きく変わったのです。」(12-3頁)

ちなみに、このブログの浄土宗関係の記述も、浄土宗の教理を批判するという意図から行っているのではなく、鎌倉時代におけるその実像を知りたいという歴史学的関心から行っているのだということ、ご理解いただければ幸いです。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/10(月) 09:39:37|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

親鸞の子孫たちーー三者三様の覚如、存覚像

親鸞の曾孫で本願寺第三代(第二代は親鸞の孫・如信)とされる覚如(1270-1351)とその長子・存覚につき、今井雅晴氏、平雅行氏、佐々木正氏は、それぞれの覚如もしくは存覚像をもっており、それが親鸞関係の史料評価にもつながっているようですから、以下、簡単に各氏の覚如・存覚像を抜き出しておこうと思います。

まず覚如伝をもっともくわしく記している今井氏。
「覚如の激しい女性出入り。49歳のときから一転しての愛妻家。かたくななまでの本願寺中心主義。存覚に対する執拗な嫌悪。まわりの者たちがもてあましたこのような覚如の性格と行動は、持って生まれた要素もあるでしょうけれど、若いときの体験に大きな原因があるのではないかと私は思います。信じられるのは自分だけ、ということでしょうか。しかし家族にもてあまされようと門徒に疎まれようと、覚如が一生をもって示した道が、その後の無数の人びとを救うことになったのも事実です。もう一つ、考えさせられることがあります。それは、いままで見てきましたように、覚如ははじめから親鸞の教えに入っていたのではないということです。仏教諸派を長い間にわたって学んでから親鸞の教えに入った、ということなのです。親鸞の子孫は、蓮如の子どもたちの代になるまで、皆、そうなのです。如信を除いては。このことは、今日の私どもが十分に考えていかなければいけないことだと思います。」(『親鸞の家族と門弟』196頁)

続いて平氏。平氏の覚如評価は、覚如そのものに対するものというより、覚如が如信から聞いて口実筆記したとする親鸞の教えについての史料『口伝鈔』の読みをとおしてのものです。
「『歎異抄』と、覚如の『口伝鈔』の距離がいかに大きいかが判るでしょう。両者とも、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と語りました。しかし『歎異抄』のそれが「疑心の善人(-価値)でも往生できる、まして他力の善人(+価値)の往生は当然だ」という内容だったのに対し、『口伝鈔』のそれは「傍機(二番目)の善人(+価値)でも往生できる、まして正機(一番目)の悪人(-価値)の往生は当然だ」というに過ぎません。善人の捉え方が、マイナス価値からプラス価値へと百八十度異なっています。覚如は親鸞が保持していた「疑心の善人」概念を放棄して、顕密仏教との妥協を図ったのです。彼は親鸞の言葉を、悪人正機説の文脈で再解釈して、親鸞を顕密仏教的価値観のもとに位置づけ直しました。本願寺を延暦寺の末寺として維持・発展させるには、親鸞を顕密仏教的高僧に描きかえることが必要だったのです。覚如にとってはそれが、自らに課せられた思想的課題と考えたのでしょう。私は、それはそれで一つの重い歴史の選択だったと思います。」(『親鸞とその時代』156-7頁)

今井氏が「(覚如は)仏教諸派を長い間にわたって学んでから親鸞の教えに入った」と記している伝記的事実を、平氏は親鸞から覚如への思想の変質としてうけとめているようです。
その変質をもう一度今井氏の文章に即して考えると、それは次のようになると思います。
「覚如は、親鸞の信仰を理解するについて非常にすぐれた能力を持っていたと思います。それは、親鸞の教えの本質をつかみ、それを文章に表すことができたということです。(中略)覚如は、親鸞の信仰に入るのに、まず法然の信仰に戻って教えるのは困ったことであると考えましたまたもとへ戻って、南無阿弥陀仏はありがたい、念仏を称えて極楽へ往こうというのでは、せっかく親鸞が教えを示した意味がないというのです。そこで真宗の歴史の上ではじめて、報謝の念仏こそ親鸞の教えの本質であると強調するようになったのです。ですからそれは覚如からなのです。そのところを強調しなければ、すぐれた親鸞の信仰が一般的な浄土信仰に埋没してしまう、と覚如は強い懸念を抱いたのです。さらにこの覚如の考えを受け継ぎ、社会的に承認させたのが蓮如ということなのです。ですから覚如はその後の真宗の教学を固めた人物であるということになります。」(『親鸞の家族と門弟』197-203頁)

覚如における親鸞思想の変質の内容をどう捉えるかで平氏と今井氏は異なる見解をもっているようですが、それはそれとして、そこに何らかの変質があった、そしてそれは顕密仏教と親鸞思想の位置づけにもかかわることであったということでは両氏の見解は一致しているのでしないでしょうか。

一方、佐々木氏が論及しているのは、覚如の実子・存覚についてです。佐々木氏の存覚への論及は、史料論からのものですね。
今井氏によれば、親鸞の血統を重視する覚如と門弟を重視する存覚は激しく対立し、存覚を二度勘当しています(本願寺第四代は、存覚の弟・従覚の子・善如)。その辺の経緯をまず今井氏の記述から。
「門徒集団のなかでももっとも大事にされ尊重されるべきは親鸞の面授の門弟でした。そしてその門弟の面授の門弟、さらにまた…、と続くのです。親鸞の子、孫、曾孫ではありません。親鸞の子孫を指導者としての扱いで大事にしなければならないという常識が、当時の社会にはなかったのです。覚如が門徒たちの協力を得られず苦労したのは、不思議でも何でもないのです。門徒たちが薄情なのでもありません。覚如のほうが、いわば異常な行動に出ていたのです。覚如からいえば、この行動は新しい挑戦でした。でも存覚はそうではありませんでした。「お父さん、それは止めましょう。やはり門徒の人たちの立場を大事にしようではありませんか」と主張しました。ですから、門徒の間における存覚の人気は抜群です。また教理面でも、報謝の念仏を強調する考えには賛成でなかったようです。従来風の、法然の念仏に近い立場を取っていました。それらを覚如が気に入らなくて、勘当したのです。」(『親鸞の家族と門弟』204-5頁)
続いて佐々木氏の記述。
「この論考で依拠している伝記『親鸞聖人正明伝』は、本願寺の実質的創立者、親鸞の曾孫・覚如の長子・存覚の作である。日野一族の身内でありながら、存覚は関東の門弟集団と交流をもち、生涯、弟子の立場を守りつづけた。この伝記は、関東の有力門徒集団・高田門徒に伝承されてきた親鸞の伝記を、存覚が高田派三代目・専空から口伝として詳しく聞き出して記されたものである。したがって「<弟子のこころ>により制作された親鸞の伝記」と位置づけることができる。」(『法然と親鸞』73頁)
佐々木氏は<弟子のこころ>を強調していますが、それは暗に覚如に強く見られる血族主義を批判するということなのでしょうね。ですから、この辺の事実認識では今井氏と佐々木氏は一致していると思いますが、では「親鸞の思想」は覚如と存覚のどちらに受け継がれていたのか(どちら側の史料が信頼できるのか)となると、評価は二つにわかれてしまいます。ちなみに、『親鸞聖人正明伝』という伝記は、すでにみたように法然の直系の弟子としての親鸞を強調しているのですね(例:玉日との結婚のエピソード)。

覚如・存覚の世代になると、「親鸞の思想」に対して二通りの見解が生じ(その後の真宗教団史のなかで正統と位置づけられるのは、覚如系の見解)、それぞれが親鸞の「伝記」を記しています。今井氏の方法論が、血縁、血脈を非常に重視しているのは事実だと思いますが、それは、この問題を整理しないと、親鸞に関する史料の評価はできないという考えから発しているのではないでしょうか。
ところで、今井氏、平氏の上掲の記述を読むと、一見、覚如は親鸞の思想を変質させており、存覚(もしくは高田門徒)こそが親鸞の思想を忠実に信奉していたとうけとられかねませんが、今井氏によれば、高田門徒は親鸞の教えと善光寺如来の教えを融和させていたのであり、それはもはや「専修」からはほど遠いということになります。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/09(日) 09:54:26|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

悪人正機説は親鸞の説にあらずーー平雅行氏の『親鸞とその時代』を読む

今井雅晴氏および佐々木正氏の著作について、そして親鸞の「思想」について考える補助線として平雅行氏の『親鸞とその時代』(法蔵館、2001年)を読んでみました。以下、その内容を、私なりに簡単に要約してみます。

著作全体は五部にわかれ、それぞれの内容は①「専修念仏とその時代」、②「日本の女性と仏教」、③「親鸞と女犯偈」、④「親鸞の善人悪人観」、⑤「嘉禄の法難と聖覚・親鸞」と題されています。①は全体の序論、②と③は女人救済論として相補的な関係にあり、②と③の分析から明らかとなる中世初期の女性観、すなわち女性は一種穢れた存在であり仏教の直接的救済対象からは除かれるという考え方が④の悪人救済論と響き合います。⑤は親鸞が門弟に勧めた著作『唯信鈔』の著者・聖覚が嘉禄の専修念仏弾圧の主導者であったという事実の確認で、純粋な史料分析です。したがって、内容的には④が著作全体の柱といえるでしょう。
ところで、私がこの著作を読んだのはこれで二度目なのですが、最初は、①と②以下の記述のギャップのようなものにとまどい、平氏の真意をつかむことができずに終わってしまいました。今回もその印象は基本的に同じで、いわゆる「顕密体制論」に到る学説史を要約した本書の導入部「鎌倉仏教論の変容」(同書3-9頁)は非常に納得できるのですが、本論ではひたすら親鸞思想の解明が行われるため、結局、①がつけたし、もしくは親鸞論を行うための(それを「浄土仏教中心史観」とは受け止めないで欲しいという)弁解のようにしかとれないのです。
したがって前回読んだとき、私の読みは、②以下の本論を顕密体制論のなかにどのように位置づけたらいいのか、顕密体制論との関係のなかで平氏の意図はどこにあるのかという問題から一歩も進めなかったのですが、今回は逆に、①をある程度無視して、②以下を単論として読むという方針をとりました。その結果、②から⑤までに関しては、私なりに平氏の意図を把握できたように思うのですが、それが①とどのようにつながっているのかは、この文章を書いている現在でもまだよく理解できずにいます。

以上のことを前提にして、以下、④の部分を中心に本書をみていきます。
まず、平氏が要約する法然思想の核は次の二点です(同書44頁)。
a. 「念仏は阿弥陀仏の本願であるから、どのような人間でも念仏を称えるだけで極楽往生することができる。」(善導説)
b. 「念仏は阿弥陀仏が選ばれた唯一の本願であるから、念仏以外では往生できない。」(法然独自説)
私も、この二点を法然思想の核とすることに異存はありません。
ところで、a.に関しては、法然思想の核心の一つではありますが法然オリジナルの思想ではなく、天台宗をはじめとする他の仏教諸派からも公認されていました。たとえば、平安時代末期に編纂された『梁塵秘抄』には下掲のような今様があり、平氏は、「どのような悪人であっても念仏を称えるだけで極楽往生できる」という思潮が、法然以前にすでに流行歌として謡われていたことが明らかであるとします(同書21-2頁)。これはかなり挑発的で大胆な言い方ではありますが、論として無理はなく、納得できる見解なのではないでしょうか。

 弥陀の誓ひぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度御名を称ふれば、来迎引接疑はず

しかしここから、平氏は、さらに驚嘆すべき結論を導き出します。すなわち、いわゆる「悪人正機説」は、法然や親鸞のオリジナルの思想ではなくむしろ体制側の説であり、まして、この説と浄土宗弾圧は無関係である、と。
しかし、「悪人正機説」は、『歎異抄』などに明確に記してある親鸞の「思想」ではないでしょうか。親鸞の著作ではない『歎異抄』を史料としてどう受け止めるかの問題はさておき(平氏は、『歎異抄』は親鸞の著作ではないのでここから親鸞の思想を忖度することはできないとするものではありません)、「悪人正機説」を親鸞の思想であるとする見解を批判しながら平氏が主張するのは、親鸞が主張したのはいわば「悪人正因説」であるという見解で、平氏によれば、それは次のように要約されます。
「阿弥陀仏は末代の衆生を救済の正機としました。ところが、「疑心の善人」たちは、弥陀の正機であることも、末代に真実の善根が存在しないことにも気づいておらず、自らを善人と錯覚したまま、なお自力作善に励んでいます。そのため彼らは「仏智疑惑の罪」を背負っているのです。つまり、「疑心の善人」とは、ありていに言えば不信心の人のことです。不信心の人がマイナス価値なのは当然でしょう。一方、「他力の悪人」も末代の衆生の一員であり、弥陀の正機です。彼らは弥陀の誓願を理解し、悪人であることを自覚して他力の信心に入っています。つまり、「他力の悪人」とは信心をもった人の意に他なりません。ですから、悪人正因説とは、「不信心の者でも往生できる、況や信心の者の往生は当然だ」の意であり、別に特異なことを語ったものではありません。」(同書155頁)
平氏によれば、悪人正機説でいうところの「機」は、「機根」すなわち修行者の宗教的資質であり、ときには人間や衆生そのものを指します。したがって、「悪人を正機とする思想とは、「ある仏菩薩が悪人を中核的な救済対象にした」との意味」(同書124頁)となります。これに対して、正因の「因」とは「原因」であり、「悪人正因説」とは、「(他力の)悪人であることが救済の原因・根拠である」ということになるかと思います。つまり、正機説は、救済という事実を(救済する側から)平坦に述べているだけで、救済の因果関係にまで立ち入ったのが正因説だということになるでしょう。
ただここに、親鸞の悪人観がからんでくるために話は混乱してきます。つまり、親鸞が考えていたのは「悪人正因説」であるという見解にいたる基本的な前提として、平氏は、親鸞は末代の人間(=親鸞の同時代人)はすべて悪人だととらえていたとします(「通俗浄土教に見られた「善い人」と「悪い人」の別は消え去って、すべての人間が「穢悪の群生」ということになります」<同書143頁>)。したがって、親鸞の同時代にかぎっていえば、「善人」といっても世俗的な仮の言い方にすぎず、「善人」と対比しながら、「悪人」をことさら往生の対象とする理由はどこにもないことになります。教壇マルクス主義的に、親鸞の救済論と社会階層論をからめるような見解から、平氏の見解はほど遠いといえるでしょう。
これをもう少し具体的にみるとどうなるでしょうか。
「悪人正機説」そのものは法然・親鸞ではなくむしろ顕密仏教が主張した説であるとして、平氏は、『梁塵秘抄』にくわえて、たとえば専修念仏を弾圧した貞慶の『地蔵講式』を引きます。曰く、
「大聖の悲願、なんぞこの時を顧みざらんや。是を以て利益の世に新たなるや、末代はほとんど上代に過ぎ、感応の眼に満つるや、悪人かえって善人に超ゆ」。
貞慶によれば、地蔵菩薩にとっては、末代の悪人が(救済対象として)真っ先にその眼に飛び込んでくるのです。これこそ典型的な「悪人正機説」といえるのではないでしょうか。平氏が、「悪人正機説」は法然・親鸞のオリジナルではないと主張する所以です。
さて、以上の平氏の主張は、一般的な女人救済論批判(同書②③)とも通底します。
すなわち、「「女性は非常に罪深いため、数多くの経典や仏菩薩たちは女性の救済を拒絶してきた。しかし、そうしたなかにあって、○○だけは女性をお救いになるのだ。」これが女人救済論の典型です。ここでは女性の罪深さが強調されればされるほど、救済のカタルシスはよりいっそう劇的なものとなります。つまり女性の罪業を強調すればするほど女性信者が増大し、彼女たちはますます信仰にのめり込んでゆく」として、これを「差別的救済論」と断じています(同書81頁)。
つまり、「悪人正機説」もそうした「差別的救済論」に過ぎないというのが平氏による最終的な位置づけだと思います。
ただし、「悪人正因説」をふまえた親鸞思想の包括的な解明は、『親鸞とその時代』では行われません。本書、とくにその④は、ひたすら悪人正機説は親鸞の主張ではないという見解の説明にあてられ、「親鸞の信心為本の思想と、信の弥陀廻向論とは、もともと論理の矛盾を内包しています。そして両者をつなぎとめる危うい均衡の破綻、これがやがて親鸞を自然法爾思想へと向かわせた内的要因なのだろうと思うのですが、それはここのテーマからは大きく逸脱する問題です」(同書166-7頁)と、より大きな問題の存在を示唆しながら結ばれます。

   *    *    *

もしこの記事がおもしろかったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/08(土) 11:08:04|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

二つの親鸞伝・二つの親鸞像

親鸞思想の問題、先に進む前に、佐々木正氏、今井雅晴氏の著作から伝記の問題を少し整理しておこうと思います。

佐々木氏によれば、親鸞の伝記として『親鸞聖人正明伝』と『親鸞聖人正統伝』があるわけですが、「実証派」は、これらの伝記を採用しないわけです。
で、親鸞の思想形成の核心の一つとされる妻帯・破戒の実践について、伝承は、法然の命により、親鸞は(破戒は)不本意ながら、兼実の娘・玉日と結婚したとします。
ところで、伝承を採用しない場合、親鸞の妻帯を、どのような経緯で誰と結婚したのか新たに説明しなくてはならなくなるわけです(真宗関係者の前で語るということになれば、当然のことながら聴衆はこの点に強い関心をもつことになるでしょう)。
さて、越後時代の親鸞が恵信尼と結婚していたということは、伝承を承認する人もそれを否定する人もともに容認しています。そこで、この恵信尼といつ、どのような経緯で結ばれたのかということが、次の関心事として浮上してきます。
この点、伝承容認派の佐々木氏は、玉日が越後まで同行しなかった(できなかった?)ために、そこで新たに恵信尼と結婚した(恵信尼は玉日の侍女?)という説ですね。
伝承否定派にとっての大きな問題は、先にもあげたように、京都時代の親鸞の妻帯(女犯)の経緯等をどのように説明するかなのですが、否定派は、玉日との結婚という説をとらないので、どうしてもそれにかわる女性を想定せざるをえない。そのとき、実は親鸞と恵信尼が京都時代にすでに結婚していたといえれば、親鸞が(京都と越後で)複数の女性を妻としたといわなくて済むので、心情的に受け入れやすいということはあるのではないでしょうか。ですからそこに、恵信尼が実はもともと法然の弟子で、親鸞より先に法然に入門していた、親鸞は法然のもとで恵信尼を知り、見初めたのだという説がだされれば、とても受け入れやすいのだと思います。恵信尼の手紙の「き・けり」の文法に関する岡本嘉之氏の説「親鸞聖人と恵信尼公の出会いについて」(真宗教学学会東京大会レジュメ『近代における信仰的自覚』収載、1996年)というのは、おそらくそうした経緯で提示され、伝承否定派(たとえば今井氏)に受け入れられているのではないでしょうか。
岡本氏の説そのものは未確認ですので、今井氏の『親鸞の家族と門弟』から岡本氏の説の要点を記しておきますと、同じ過去をあらわす助動詞でも「き」は自分が実際に経験した過去をあらわし、「けり」は他人から伝え聞いた過去のことをあらわすという風に使い分けられられるのだが、たとえば親鸞の六角堂参籠について記した恵信尼の手紙には「百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまいりてありしに」と記してあり、この叙述から、恵信尼がこの参籠事実を、伝聞ではなく、自分で目撃した過去として知っていたことになるというものです。ただこれは、推測するに、「き・けり」の文法が、恵信尼が親鸞より先に法然に入門していたという絶対的根拠だというのではなく、親鸞と恵信尼は京都で結婚していた蓋然性が高いのだが、とするとこの「き・けり」はその有力な傍証となるということなのではないかと思います。
ところがこの手紙について、伝承容認派の佐々木氏は、「書き慣れた達筆の文字である。日記を記した事実から娘時代、貴族や宮廷周辺に身を置いていたに違いない。しかし、どのような人間であれ、時間の経過によって、記憶のずれや空白を生みだす。まして30年以上の歳月を隔つ出来事や耳にはさんだ言葉であれば、なおさらではないか。さらに「私信」という性格を踏まえると、『恵信尼消息』を史料として絶対視する観点は、親鸞の史実と思想形成を明らかにする上で、誤りをおかす可能性を秘めていると言わねばならない」(『法然と親鸞』72-3頁)と、恵信尼の手紙そのものにあまり重きをおいていません。

佐々木氏の考え方と今井氏の考え方はどこまでいっても平行線で、史料問題を決着させないかぎり、結局、現代においては二つの親鸞伝・二つの親鸞像がありうる、としかいいようがありませんね。

   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。↓クリックよろしく♪
banner_01.gif

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/06(木) 12:04:37|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

複数の親鸞伝を読む

鎌倉時代の足利氏の信仰を密教(足利)と禅宗(鎌倉)の両面からからみるという研究発表のことを書いたので、鎌倉時代に影響力が強かったのは浄土仏教ではないか、浄土仏教と足利氏の関係はどうなっていたのかといぶかしく思っておられる方もいたかもしれませんね。Mさんによれば、鎌倉時代の足利氏に浄土仏教の影響はほとんどみられないということであり、私もそれは正しいように思います。
ただ、鎌倉時代の北関東というと、親鸞が常陸に移り住んできたりして浄土仏教の勢力が強かったのも事実ですし、そんなことから、このところ浄土仏教、具体的には親鸞関係の本ばかり読んでいました。
とはいえ、私の関心はやはり、信仰そのものというよりは史料と親鸞思想の関係にあるのですが、たまたま読んだ本がおもしろい問題を提起しているので少し紹介してみたいと思います。

   *    *    *

さて私が最近読んだ親鸞関係の本というのは次の三冊です。
今井雅晴氏『親鸞と東国門徒』(吉川弘文館、1999年)、同じく今井雅晴氏『親鸞の家族と門弟』(法蔵館、2002年)、佐々木正氏『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』(青土社、2003年)。
まずはじめに、それぞれの本が書かれた経緯を記しておきましょう。
『親鸞と東国門徒』は、歴史書としては非常にオーソドックスなもので、大学(筑波大学)の紀要、学会報などに書いた論考を集めて編集したものです。
『親鸞の家族と門弟』は、浄土真宗の信徒を前にした講演を編集したものです。
一方、『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』は、NHK文化センターでの講演(公開講座)を下敷きに書き下ろされた著作です。
それぞれの著作の出発点となった場の宗教性、非宗教性ということになれば、『親鸞の家族と門弟』『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』『親鸞と東国門徒』という順に宗教色が薄まるといえそうですが、今井氏が『親鸞と東国門徒』と『親鸞の家族と門弟』で論旨や主張を変えているようには思われません。ただし、対象・聴衆の違いが主題の違いとなってあらわれている面はあると思います。浄土真宗の信徒(おそらくは平信徒ではなく真宗寺院内部の人)を対象として語られた『親鸞の家族と門弟』では、一般には興味の薄い親鸞の家族(=真宗教団の宗祖たち)の行情を明らかにすることに力点がおかれています。

さて、今井氏の著作と佐々木氏の著作はいろいろな意味で異なるのですが、その背景にあるのは史料論・史料観の相違ではないでしょうか。
これについては、佐々木氏が、一般論として自著のあとがきにその依拠する史料論を略述していますから、まず簡単にそれを一瞥してみたいと思います。
「江戸時代までは比叡山の20年を含めて、親鸞の生涯を詳細に記した存覚作『親鸞聖人正明伝』はじめ高田派の学僧・五天良空が編纂した『親鸞聖人正統伝』(東国門弟の直系・高田派の倉庫の伝記類を精査して集大成した伝記)など、さまざまな伝記や伝承が広く流布して、世人に信じられていた。玉日との結婚も事実として公認されていたのである。その流れを一気に切断したのが、明治以降の「実証主義」歴史学だったと言ってよい。(中略)赤松氏の流れを汲む弟子筋の人は、『正統伝』やその原史料となった『正明伝』など、一顧だにしないことは論を待たないだろう。」(『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』、250-1頁)
今井氏が赤松(俊秀)氏の弟子かどうか私は知りませんが、たしかに、今井氏はその著作のなかで『正明伝』や『正統伝』を一顧だにしておらず、その結果、親鸞の妻・恵信尼の手紙(これ自体は大正10年に発見された新史料)が重視されます。今井氏の『親鸞の家族と門弟』は、恵信尼の手紙から読み取れる親鸞像を門徒に向けて敷衍したという一面をもっていると思います。
しかしその結果、今井氏の親鸞像(親鸞伝)と佐々木氏の親鸞像(親鸞伝)にはどのような違いがでてくるでしょうか。
たとえば、上に引用した『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』のあとがきでもふれられているように、佐々木氏が、親鸞が京都で結婚した相手は九条兼実の娘・玉日であるとするのに対し、今井氏は、親鸞が結婚した相手は恵信尼であり、二人はおそらく京都時代に知り合ったとします(佐々木氏は恵信尼の存在そのものは否定しませんが、二人の結婚は親鸞の越後配流時代との見解をとります)。また今井氏は玉日の存在にはまったくふれません。つまり、佐々木氏が複数の親鸞伝にもとづき、親鸞は(自分の意志に反して)法然の勧めによって兼実の娘と結婚したということからその親鸞像を組み立てているのに対し、今井氏は、親鸞と恵信尼が京都時代に結婚していたという説を採用して、京都時代の親鸞と恵信尼の関係を独自の推論や恵信尼の手紙の文法に関する説でふくらましています。
したがって、親鸞の思想形成に重要な役割をはたしたとされる建仁元年(1201年)の六角堂参籠と女犯の夢告げを説明するに際して、佐々木説と今井説の、両極とも思われる考え方がでてくるのです。
実はこの結婚(女犯)問題の前に、佐々木氏と今井氏は、親鸞の比叡山生活に関しても見解を異にしています。すなわち、佐々木氏が、伝承によれば兼実の実弟・慈円が養和元年(1181年)とされる親鸞出家の戒師であることを重視し、「慈円の弟子として宮廷や貴族の邸宅に出入りすることもあったろう」(『法然と親鸞ーーはじめて見たつる思想』、61頁)と推測しているのに対し、今井氏は「いくら親鸞が藤原一族の端に連なるとはいえ、慈円とは身分が違いすぎる。まして京都ではいまだ平氏が圧倒的に強い勢力を有するなかで、親鸞は政治犯の長男である。慈円が後見の立場についたかどうか。それに、以後20年にも及ぶ延暦寺での修行生活のなかで、慈円が親鸞を援助した形跡は見あたらない」(『親鸞と東国門徒』、16頁)とします。また今井氏は、「慈円戒師説は伝説にすぎないのではないかと思われる」(同書、16頁)と、慈円戒師説そのものを疑問視します。
また佐々木氏の著作では、慈円は、法然・親鸞の流罪につながる建永元年(1206年)の浄土宗弾圧問題にも登場します。つまり、ここで佐々木氏は、梅原猛氏の説を援用して浄土宗弾圧の黒幕は慈円だとし、親鸞の戒師としての態度との矛盾を指摘します。一方今井氏も、浄土宗弾圧問題について著作のなかでさまざまに触れていますが、この弾圧と慈円との関係については一切触れていません。
最後にもう一点。親鸞による息子・善親の義絶問題でも、佐々木氏と今井氏は正反対の立場をとります。
これは、京都にいた晩年の親鸞が、関東での教えの乱れを配慮して自分の代理として善鸞を関東に派遣したが、結果的にこれが混乱に拍車をかけることとなり、最終的に親鸞は善鸞を義絶したとされる問題です。
これについて、佐々木氏は、通説をそのまま受け入れ、親鸞から浄土教の奥義を授けられたとする善鸞を親鸞が義絶したことにまったく疑いをはさんでいませんが、今井氏は、親鸞帰京後の関東門徒には、事実、専修から雑修への教えの変質があったのであり、それを非難し親鸞直流の専修への帰一を強硬に主張する善鸞が門徒から浮き上がり、最終的に親鸞は教団(門徒)をとって自分の教えを忠実に守る善鸞を義絶したのだとします。これに関連して、今井氏は、親鸞の義絶状には、書写の誤りもしくは積極的な作為を推定しています。

以上、親鸞の伝記に関する佐々木氏と今井氏の説の相違を簡単に記しましたが、それには、史料をどう扱うか、どのような史料にもとづいて親鸞伝を構成するかという問題が深く関わっていることがおわかりいただけたのではないでしょうか。
(ただし、佐々木氏が目指しているのがあくまでも法然・親鸞思想の新たな解明、新たな位置づけであり、そのために法然・親鸞の伝記を再構成したのに対し、今井氏は、親鸞の思想を解明するというより、親鸞に関する伝承を見直すことそのものに比重を置き、その問題だけに自己限定しているのは事実だと思います。)

   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。↓クリックよろしく♪
banner_01.gif

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/02(日) 22:46:34|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。