le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『花月のコスモロジー』を読む

『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)を読んでから気になっている大峯顯氏のエッセー集『花月のコスモロジーーー哲学の仕事部屋から』(法蔵館、2002年)を読みました。本書は、吉野の浄土真宗寺院で住職をつとめながら、哲学、俳句、浄土真宗の三分野で独自の活動をしている大峯氏の比較的短い文章を、星、花、月、海、真、光のテーマでまとめたものです。タイトルからいっても、『親鸞のコスモロジー』との連続性を意識した本といっていいでしょう。
冒頭大峯氏は、「「二兎を追うものは一兎をも得ず」という諺を苦い思いで噛みしめてきて何年になるだろう。二兎どころか三兎を追いかけてきたからである。「君は二足の草鞋ではなくて三足だね」と言われたりするときも、やはり忸怩たる思いである。三兎とか三足か言うのは、私の仕事が哲学、俳句、浄土真宗の三つだからである。今となっては、三足の草鞋の紐は深く肉に食い込んで、脱げそうにもない。どの一足を脱いでも、自分自身でなくなるような気がする。三匹に見えるのは外見だけであって、「自己」という名の一匹の兎だけを追い続けてきたと思っている。むろん、それを得たなどとは思っていない」(「ヘール・ボップ彗星]<星篇>、本書2頁)と自己を語っています。
『花月のコスモロジー』そのものも、バラバラの三つの主題を語りながら、いつしかそれが、それを語る大峯顯という人の自己に収束していきます。巧みな構成というべきでしょう。そしてその巧みさが、ほとんど自然体で行われているところに、大峯顯という人のすごさを感じます。
以下、気の向くままに、本書から目についた文章を抜き出してみます。

まずは俳句論から。俳句に関する文章では、俳句の特徴は短いということもさることながら、季語をもつことだとする考え方が興味深かったです。これは、院政期の和歌を中心に短い形式の詩を考えている私には、ちょっと思いつかない視点なのです。氏のもとを訪ねたウクライナからの留学生にむかって、大峯氏は次のように語ったことがあるといいます。
「日本人の季節感が詩歌のテーマになってくるのは『古今集』からである。けれども和歌では、季節は詩の内容になっているが、詩の形式にはまだなっていない。つまり、季は詠われる対象であるだけで、すべての事柄をそれを通して詠うところの形式としては自覚されていないのである。俳句において初めて、季が詩の形式となった。季節の言葉を必ず一つ入れるという約束が生まれたということは、詩というものについての今までになかった新しい考え方が生まれたということである。これは季節の自然の物たちと交流し、共生しようとする日本人の伝統的な生き方が、一つの文学形式にまで結実した注目すべき事件だと思う。季語というものによって一つの広大な詩的宇宙を開くという方法の発見は、江戸時代の日本人の独創に帰せられてよいのであって、これは世界の文化に対する日本人の貢献の一つだと思う。」(「ウクライナの乙女との会話」<月篇>、本書100頁)
季語の難しさは、それが日本独特のものだからというだけではありません。最近は、日本人でも季語のもつ意義がわからなくなってきていると大峯氏は指摘します。
「季語に対する無理解は、ひとり外国人だけでなく、案外、俳人たちにもあるのではないか。有季定型派の俳人の中にも、季語という形式は大事だが、それよりもっと大事なのは、この形式の中にいかに新しい内容を盛るかだ、と言う人がいる。この意見はちょっと見るとわかりやすいが、実は詩の形式というものの生理に対する根本的な誤解だと、私は思う。季という詩の形式は、既成のものとしてあるのではない。それはわれわれがそれを生かしたとき、初めてあるのである。」(同上101頁)

季語としてあらわれるような自然や外界は、親鸞の思想とどのようにかかわってくるのでしょうか。そこで大峯氏は「海」に注目します。「親鸞の著作を読んで驚くことの一つは、海という言葉が圧倒的に多いことである」(「親鸞の海」<海篇>、本書142頁)というのです。
「たとえば道元にとって、仏法は決して遠い世界ではない。山がそこにあり、水がそこにあるというその事実に、仏法は現前している。現にある山水は、われわれに自己本来の面目への覚醒を要求している。しかし親鸞の仏教においては、このような発想は見られない。親鸞にとっての自然は、そのような形ではなかったのである。
 この宗教的天才の世界経験は、光の意識と闇の意識とからできている。彼は自分の心の内にある底知れない煩悩の闇黒の中で、すべてを照破する不思議な阿弥陀の光明に出会った。自分の内に暗黒がなければ、光を受けとめることはできない。逆にまた、光を受けなければ、闇黒であること自体がわからない。闇を知ることと光を知ることは、同じ一つのことである。つまり、光と闇との交代があって、光と闇との中間というようなものはないのである。闇と光との境い目に、両者の混合として浮上してくる種々の形、山川草木や花月は、この激しい内省の天才にとっては、ほとんどリアリティをもたない。形をとった自然は、煩悩や罪業の闇黒と阿弥陀の輝く光明の内へ姿を消してしまうのである。
 このようにして、残されてくる唯一の自然は海である。その海とは色や形ではない。むしろ力とはたらきである。親鸞にとって、海とは、そういう形をもたない実在というもののシンボルである。そういう形なき実在を、われわれは、肉眼や心眼でもって観想することはできない。われわれの実存そのもの、いわば内臓でもって感得する他ないものである。親鸞は煩悩と如来との二つをそのような仕方で知ったと思う。こうして海は、彼の浄土真宗を表現する絶好のメタファーとなってくるわけである。」(同上146-7頁)


そうした大峯氏が蓮如を観る視覚にも、独自のものがあります。
「あんなにたくさんの一般大衆を教化した人だから、さぞかし大衆のニーズに応えて現世利益を説いたにちがいないと思いきや、正反対である。蓮如はこの世の幸福を手に入れる道なぞ、一つも説いていない。たとい、どんなに幸福な一生であっても、死はいつやってくるかもしれない。死はすべての幸福の幻想をいっぺんに空しくしてしまう。あらゆる弁解は無効である。そういう大きな不安をかかえたままの人生はお先まっ暗であって、要するに地獄が待っているだけではないか。われわれのこの現実をとっくに見抜いて、安らかな浄土の命の中へ救いとろうと誓った弥陀の本願を信じる以外に、われわれの安心はどこにもない。蓮如はこのはっきりとした真理をはっきりと説いただけである。その他の余計なことは説かなかった。
 大衆が気に入ることを説いて大衆と結びついたのではなく、大衆が気に入らない「後生の一大事」という真理を説いて大衆と結びついたところに蓮如上人の真の偉大さがある。宗教家の魅力を庶民的とか人間的とかいうところに見出そうとするのは、現代社会の一種の流行である。人間親鸞、人間良寛、人間蓮如といった具合である。思うに、平和ボケの現代人の発想である。そんな、ものわかりのよい「人間蓮如」が当時の門徒たちにとっての魅力だったとは、私は思わない。蓮如上人の真の魅力は、いかなる人間も本願を信ずることによって救われる、信心がなければ地獄があるだけだと言い切った、単純率直な言葉の比類なき衝撃力だったのである。(「蓮如の魅力」<海篇>、本書153-4頁)


哲学と宗教が結びついた地点では、大峯氏は次のように語ります。
「いったい、われわれは何のために生まれてきたのでしょうか。早晩、死で終わるこの短いいのちに、いったい何の意味があるのでしょうか。われわれ一人ひとりのいのちをして尊厳たらしめているゆえんのものは何なのか。それを見つけないかぎり、どんなに生命の尊厳と言っても、本当は「おたがい、死にたくありませんよね」という心情を言いかけただけのことでしかありません。しかし、ただ死にたくないという消極的な心情と、いのちが尊いという自覚の積極性とは決して同じとは言えないと思います。(中略)
 カントが言ったように、他のものの手段となる事物は価値(Preis)を持っているのに対して、人間の人格性はその自己目的性のゆえに尊厳(Wurde)を持っているわけです。その場合、人格とは個人を個人たらしめている超個人的な、永遠不滅なもののことです。仏教で言う「仏性」に似ています。たんにこの世だけで消えてしまうものは、どんなに高価なものであっても尊厳とは言えないでありましょう。
 そうしますと、個人のいのちが尊厳であるのは、死ねばそれっきりになってしまうからではなくて、個人を超えた大きないのちによって貫かれているからだということになります。個体をはなれていのちはありませんが、それにもかかわらず、個体のいのちは個体以上の次元に由来しているわけです。個体の内に生きていながら、しかも個体の枠の外にあふれているものであって初めて、物でなくいのちと言うことができるのです。個人のいのちを尊厳たらしめているゆえんのものは、実にこの超個体的な大生命に他なりません。」(「なぜ「いのち」は尊厳か」<真篇>、本書184-5頁)


実は、大峯氏の俳句論や宗教論、ギリギリのところで私には理解(体感)できないものがあるというのは事実です。それは結局、私は俳句をつくらないし、浄土真宗の信者ではないというころからくるのかもしれません。
では、大峯氏の考え方はまったく私に引っかからず、なんの説得力もないかというと、そうではないのです。身体的なものをも含む共感や了解というのは、思想理解のなかでもある意味で最も深いものかもしれませんが、大峯氏の文章を読んで、立場は違し、私はそういう考え方はしないけれども、氏の世界観が整合性をもった独自の世界観であることを私は了解し、私の世界観とは別に、そうした世界観が存在することを納得するのです。
その意味で、本書の最後におかれた大峯氏の鈴木大拙論は、思想理解とはどのような事態であるかという問題とも結びつく、深い考察であるというべきでしょう。
この小文の冒頭で大峯氏はまず、「浄土真宗に属する人びとは、大拙の真宗は禅の立場からの見方だというかもしれないが、私は決してそうは思わない。そうではなくて、禅とか真宗とかいう既成のドグマの枠から自由になって、真宗信仰の本質を発見しようとする志願がどの作品にも感じられるように思われる」(「『浄土系思想論』の大拙」<光篇>、本書220-1頁)と指摘します。
そのうえで、大峯氏は、鈴木大拙の主張を次のように要約します。
「これまでの真宗教学では、浄土は時空の世界の彼岸におかれ、これについては普通一般の論理を適用することを拒絶するというところでとどまっている。浄土は地球上の存在ではないし、弥陀は歴史上の人物ではない。だから論理や科学的知性をもって、これらのものの有無を論ずるべきではないというのが、伝統教学の立場である。しかるに大拙によれば、この種の考え方だけでは、知識人を納得させることはできない。知識人を納得させることができないということは、大拙が自然科学的なものの考え方を是としているという意味ではない。そうではなくて、真宗教学のこのような発想は、宗教経験や仏法の真理というものを本当に解明するやり方としては不十分なのだ、という意味である」(同上222-3頁)
「つまり、大拙によれば、真宗経験の事実はたんなる形式論理をもってしては決して解明できないのに、宗学者は論理の方式は一つしかないものと初めから決めてかかって、どこまでも形式論理にとらわれているわけである。真宗経験の世界は形式論理をもってしてはつかめないとしても、いかなる意味でも論理がない世界ではない。浄土の存在、弥陀の本願は不可思議と言われる。しかし、不可思議とは非合理とか無理とかいうことではないのである。人間の知的分別を超えた生命の論理、事実そのものの理法になかった自然なことである。信仰経験について何も論じないというのならともかく、いやしくも真宗教学を組織しようとするのならば、弥陀の本願や他力の信心そのものが、それに従っている超論理の論理、矛盾の論理というものを発見して、これにかなった教学を生み出さなくてはならない。しかるに、従来の真宗学者には、そういう大切な仕事をおこなうだけの知的用意や思考力が欠けている、と大拙は述べている。大拙の「即非の論理」は、自力聖道門の論理というようなものではない。宗教の真生命に肉薄せんとしたものである。親鸞聖人が他力の世界を「義なきを義とす」というふうに表現しているのと別な事柄ではない」(同上223-4頁)
大拙の浄土仏教理解は、浄土仏教の内在的論理に即したものではないかもしれないが、それとは別の角度から浄土仏教の本質をつかんだ、非にして即の議論であり、真の思想的議論とは、そうした非にして即という面をもつということを、大峯氏は主張しようとしているのではないでしょうか。
このようにして、大峯氏は、浄土真宗教学の外にある鈴木大拙の思想(教学批判)を真宗思想の内部に取りこみ、真宗の信徒としてそれを生きようとします。私は、そうした大峯氏の思想を、もう一度浄土真宗の文脈から説きはなって読んでみたいのです。

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  1. 2006/09/29(金) 15:23:51|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその8

この辺で、峰岸論文を読みながら考えていることをまとめておきます。

親鸞に関して私が最も興味があるのは、20年間も東国でいったい何をしていたのかということなんですけれど、いわゆる「史料」からはこれは皆目わからないんです。だから教団のことを分析して間接的にせめるしかないんだろうと思います(そんなわけで親鸞教団にこだわっている)。
ところで、親鸞の門弟について最もはっきり記した史料は「親鸞聖人門侶交名牒」です。そしてこれまでもたびたび指摘したように、この交名牒によれば、親鸞の高弟のほとんどは武士階級に属する人なわけです。
それと、親鸞の門弟の実態を考えるうえで欠かせないのは、親鸞の書状ですが、その大半は京都から関東の門弟に宛てたものです。ところでこの書状ですが、書状を書きかつ親鸞からの返事を読むことができるというのは、ある程度の知的階級に属した人なわけで、これらの人は生活にもゆとりがあり、かつ大半が交名牒記載の高弟と重なっているのではないでしょうか。となると、親鸞と書状のやりとりをした人々も、大半は武士と考えられます。少なくとも、農民、商人、猟師といった人々はそうした数に入らないでしょうし(繰り返しますが、それらの人たちは読み書きができないわけですから、農民らとかわした書信もほんとうはあったのだけれど時間経過とともに紛失してなくなってしまったという可能性は、この場合無視できると思います)、これらの人々に対する直接的な教化は、書状からは読み取れないと思います。
親鸞の門弟を探るもう一つの手がかりは『歎異抄』ですが、『歎異抄』執筆者とされる唯円にしても、その同輩にしても、とある事件を契機に京都にのぼって親鸞と対面したからこの書ができあがったわけで(『歎異抄』第二条参照)、するとここからも、親鸞の主要な門弟は遠くまで旅行するだけの経済的にゆとりのある人々、おそらくは武士ということになってしまうのですね。

この門弟たち、今井雅晴氏によれば、善光寺如来との雑修(真仏ら高田門徒)、真言宗との兼修(性信ら横曽根門徒)、鹿島信仰との融合(鹿島門徒)の可能性が高いといいます。私は、それはおそらく事実だろうと思います。
ところで、これら門弟たちの信仰が専修でないのは親鸞が教化不十分のうちに関東を離れたからかというと、そうではなくて、彼らは親鸞が関東に来る以前から雑修であり、そのなかで、念仏をも信仰していたのだろうと思います(真言宗に関しては、おそらく、阿弥陀仏を教主とする覚鑁流の真言宗だったのでしょう)。
それが、自分たちの念仏信仰に対する権威づけを欲していたとき、たまたま越後に配流されていた親鸞が赦免になったのを知り、法然直系の弟子として常陸に迎えたのではないでしょうか。親鸞=善光寺聖説によれば、親鸞の存在に最初に注目して親鸞を常陸に招聘したのは高田門徒で、横曽根門徒と鹿島門徒は、その後、親鸞教団に組み込まれたと考えられます。

で、「大宗教家」が20年間も常陸にいたからには、そこで何か布教活動をしていたのだろうと考えるのはある意味で当然で、いろいろな人が親鸞の布教活動をさまざまに想像していますが、端的にいうと、私は親鸞は常陸でほとんど布教活動をしなかったのではないかと推測しています。
でもちょっと考えてみてください。
そもそも、常陸に大勢の人が集まる、布教に適した場所や機会などあったでしょうか。田植えのときとか、祭りのときとか、市がたつときとか、なんらかの機会が考えられなくはありませんが、おそらくそれは例外的なケースでしょう。それ以外の日常の布教というと、私にはちょっと思いつきません。浄土宗の布教というと辻説法的なイメージを思い浮かべるのは、われわれに『法然上人絵伝』のイメージが強く焼きついているからで、それは京という大都市では可能でしょうが、常陸では不可能に近いと思います(地方でそうした「布教」をしようとしたら、一遍教団のように、人が集まるようななんらかの仕掛けをしなくてはならないのではないでしょうか)。
それでも一歩譲って親鸞が何らかの布教活動を行ったとしてもよいのですが、とすればそれは、民衆ではなく領主階級に属する武士(たとえば上に上げた横曽根門徒や鹿島門徒)を対象としたもので、それも、布教というより組織化に近かったのではないかと私は思います。ただしこの辺は判断が難しいところで、親鸞が武士を組織化したのか、雑修のなかでもともと念仏信仰をもっていた武士たちが権威づけや思想的バックボーンとして親鸞を利用したのか、二つのパターンを想像することが可能だと思います。
で、民衆との結びつきということでいえば、親鸞の直接の門弟(面授の人々)が、それぞれ支配下の民衆を集め、親鸞はそうした席に招かれて説教したのではないでしょうか。おそらく、親鸞が民衆を直接組織化したり教化しようとすることは、こうした面授の門弟たちによって忌避されていたのではないかと私は思います(その忌避に触れた有名な例が善鸞事件でしょう)。
話を少し前に戻して、親鸞の書状のことを考えると、読み書きを知らない民衆は、物理的に親鸞と書状のやりとりができるはずがないというのは一面の事実ですが、実は、親鸞と書状のやりとりをすることができる人というのは、教団のなかの特権階級だったのではないでしょうか。彼らは、親鸞と対面して教理について質問したり、書状をやりとりする特権をもつが、逆に、親鸞を扶養する義務をももつ。親鸞はそれ以外の人々とは直接接触しない。
親鸞教団とは、いってみれば将軍と御家人の関係にも似た、明確な双務関係で成り立つ集団だっのではないかというのが、現在のところの私の結論です。そしてその関係は、親鸞没後も親鸞の子孫と教団の間で続くのですね。峰岸氏がとりあげて浮き彫りにしているのは、そうした親鸞没後の教団のいくつかの側面ではないかと思います。
要は、『歎異抄』の「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第六条)という言葉、普通は比喩的なものと解されているわけですが、私は、これは親鸞の本音だったのではないかと思うのです。この言葉に前後する「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり」(同条)「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるゝことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり」(同条)というのも、私が考えているような事実関係にもとづくものだったのではないでしょうか。

ところで、峰岸純夫氏は、本年五月、吉川弘文館から『中世東国の荘園公領と宗教』を上梓しており、一段落したら、こちらも読んでみたいと思っています。ちなみにこの本には、当ブログで取りあげている論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」も収載されています。

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  1. 2006/09/28(木) 15:18:17|
  2. 仏教史&仏教思想
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその7

直前の記事で検討した、親鸞没後の初期真宗教団の動きを、経済(お金の動き)とからませながら、もう少し具体的にみてみることにしましょう。

さて、板碑の造営費について、峰岸純夫氏も参照している千々和到氏の論文「東国における仏教の中世的展開ーー板碑研究の序説として」(『史学雑誌』82-2・3号)は、次のように記しています。
「板碑の造営にどの程度費用がかかるかを明らかにする資料はまだ見出されていない。他の石塔の場合では、「大乗院寺社雑事記」明応元年九月三日条に一条兼良の墓石塔の費用が、石塔代八貫、供養方二貫、その他五百文だったと記されており、川勝政太郎博士はこの兼良の石塔と見られる宝篋印塔を東福寺墓地で見出され、その石塔の高さは五尺七寸だったという(『日本石材工芸史』)。」(同論文第一章註6)
この一条兼良の墓石塔の費用と比較して、真仏報恩碑の裏面に記してある百五十貫というのが、いかに膨大な額かわかりますが、逆にこの点から、百五十貫という額は、「仏事供養の費用も含まれていたかも知れない」という峰岸氏の推測が生まれてくるのですね。すると今度は、真仏の仏事供養が、ともかく非常に盛大なものであったということになると思います。

また、嘉元元年に専修念仏停廃令が出された際に横曽根門徒木針智信が出した三百貫というのもはんぱな額ではないですね(もちろん、門徒全体ではそれ以上)。親鸞門徒というのは、やはり、相当の経済力があったのではないでしょうか。『歎異抄』第二条に出てくる門徒代表の上洛というのも、それを示していると思います。彼らは、信仰上の重要問題では出費をいとわないし、すぐにそれを捻出できる。ちなみにこの訴訟費用というのは、事務経費というより、額からいって、現代風にいうならば賄賂性の高いお金と考えるべきではないでしょうか。
少しうがった見方をすれば、幕府の禁令というのも、親鸞門徒を取り締まるという意図はあまりなくて、門徒を少しおどして上納金を出させようと狙いで出されたと考えることも可能だと思います。
ところでこの横曽根(飯沼)の地は、『教行信証』開板に関して峰岸氏が平頼綱の領地と指摘していた土地ですね。幕府上層部は、頼綱の旧地には、親鸞門徒(念仏衆)が多く、しかも彼らは、大部の書を開板するだけの経済力をもっているということを知っていたのではないかという気がします。

これらの点を総合的に考えてみると、正応年間の横曽根門徒は、『教行信証』開板の資金が足りなくて領主・平頼綱に援助を依頼したというより、開板にともなって生じることが予想されるトラブルの排除を頼綱に期待したのであって、この時も、門徒の側から頼綱に、なにがしかの金銭等がわたされたと考えるべきではないでしょうか。
それが、平禅門の乱で頼綱が滅亡したために幕府と門徒とのパイプが途切れ、直後に嘉元の専修念仏停廃令が出されるに到る。しかしこのとき、訴訟をとおして幕府と門徒との間には新たなパイプができた。峰岸論文にそって考えれば、この新たなパイプ作りには唯善が大きくからんでおり、京都で大谷廟所相続訴訟に破れたとき、唯善は、この人脈(それは将軍に極めて近いが、将軍その人ではない)をたよって鎌倉に下向し、下河辺に定着したのではないでしょうか。

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  1. 2006/09/25(月) 09:47:13|
  2. 仏教史&仏教思想
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその6

平松令三氏による峰岸純夫論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」の評価にうつる前に、われわれとしても、ここで峰岸論文をもう少しくわしく検討してみることにしましょう。
すでに記したように、峰岸論文の構成は、
 はじめに
 一、荒川河畔に立つ大板碑
 二、幕府権力と真宗(1)ーー性海の教行信証開板と親鸞の一切経校合
 三、幕府権力と真宗(2)ーー唯善事件をめぐって
 四、真仏報恩板碑の造立

の五章からなりますが、ここで峰岸氏は、次の四つの問題を取りあげています。
 A 真仏報恩板碑の造立(一および四)
 B 教行信証開板と平頼綱(二の前半)   
 C 鎌倉における親鸞の一切経校合(二の後半)
 D 唯善事件と真宗教団(三)

峰岸氏は、BCにおいて、鎌倉時代における真宗教団が、時の権力と深くかかわっていることを確認したうえで、Dにおいて親鸞没後の教団の分裂を一瞥し、その分裂がAの真仏報恩板碑造立と強くかかわっている可能性を示唆したのでした。
真仏報恩板碑造立には、(真仏供養のための費用を含め)150貫の大金を集めたと記されていますから、この時点で、教団が非常に大きな経済力をもっていたことがわかります(ちなみに、嘉元元年の専修念仏停廃命令の際にも、教団は300貫以上の訴訟費用を集めています)。

ところで、峰岸氏は、DとAの論点を関連づけたほかは、BCをDAに直接関連づけることはせず、BCはあくまでも、DAの傍証にとどまっていました。そこでここでは、BC、とりわけ時間的に近いBの論点とDAの論点の連関を少しみてみることにしたいと思います。
まずそれぞれの論点を時間的に整理してみます。

【論点B】
(弘長二年(1262) 親鸞没)
弘安六年(1283) 性海が『教行信証』を相伝
弘安八年(1285) 霜月騒動。平頼綱が安達泰盛を滅ぼして幕府内の権力を掌握
正応三年(1290) 性海が『教行信証』の開板に平頼綱の助成を得るようにとの夢告を受ける
正応四年(1291) 『教行信証』開板

【論点D】
正安四年(1302) 後宇多院が覚恵の御影堂(本願寺)留守職を安堵
嘉元元年(1303) 幕府が専修念仏停廃を命令
徳治元年(1306) 唯善が覚恵・覚如の父子を大谷廟所(本願寺)から追放
徳治二年(1307) 覚恵没
延慶元年(1308) 本願寺留守職をめぐる唯善と覚如の訴訟はじまる
延慶二年(1309) 覚如が勝訴。唯善、鎌倉に下向

【論点A】
延慶三年(1310) 高田専修寺の顕智(反唯善派)没
延慶四年(1311) 真仏54回忌、報恩碑造立

論点Bと論点Dのあいだには、約10年の間隔がありますが、それを政治史年表から補ってみます。

正応六年(1293) 平禅門の乱。平頼綱滅亡、北条貞時親政開始
正安三年(1301) 後伏見天皇譲位。貞時出家。師時、執権就任
嘉元三年(1305) 鎌倉で北条宗方が嘉元の乱を起こし、連署・時村を殺害
徳治三年(1308) 将軍・久明親王追放、守邦王将軍就任。後二条天皇急死、花園天皇即位(=後宇多院政停止、伏見院政開始) 

嘉元の専修念仏停廃令は、『教行信証』開板を助成した平頼綱の殺害から約10年後に出されたものですが、はたしてこれは、真宗教団に対する幕府の姿勢の変化を示すものなのでしょうか。断定的な判断は避けたいと思いますが、峰岸氏によれば、この停廃令は、直接的には時衆の「諸国横行人」の禁制を目的としたものであり、それゆえ真宗門徒は、「在家止住」という時衆との違いを強調して禁制から除外されたといいます。真宗教団に対する幕府の姿勢は、頼綱存命当時とそれほど変化してはいないのではないでしょうか。
一方この間、京都では大谷廟所の留守職をめぐって、覚恵・覚如と唯善のあらそいがはじまります。正安四年に覚恵の留守職を安堵したのは後宇多院ですが、周知のように、大覚寺統と持明院統のあらそいのなかで、後宇多院の権威は絶対のものではありません。朝政が大覚寺統から持明院統へうつる微妙な時期(延慶元年)に、留守職をめぐる訴訟がはじまります。訴訟の結果は、いちおう覚如の勝訴に終わりましたが、これとて絶対のものとは言い難いのではないでしょうか。
ところで、峰岸氏は、訴訟に破れて鎌倉に下向した唯善には、将軍家の保護があったとしますが、時の将軍守邦王は前年就位したばかりで、まだ十歳の子供に過ぎません。峰岸氏の論を擁護しようとすれば、唯善を保護したのは、将軍の背後にいる得宗・貞時もしくは執権・師時としなくてはならないでしょう。彼らの唯善支持は、嘉元の専修念仏停廃令時以来、一貫しているのです。

興味深いことに、真宗教団内で大谷廟所留守職相続が大問題となっていたのと重なる徳治二年(1307)、後伏見院が『法然上人絵伝』を企画したという伝承があります。徳治二年当時朝政をになっていた後宇多院(後二条天皇の父)だけでなく、それと敵対する立場にある持明院統側も、留守職相続問題(真宗教団の動向)には大きな関心をもっていたのではないでしょうか。
(ちなみに覚如は、正安三年(1301)に法然の伝記『拾遺古徳伝』の詞書を撰しており、一連のできごとと『拾遺古徳伝』詞書執筆との関係も興味深いものがあります。後伏見院は、この『拾遺古徳伝』に相当の関心をはらっていたのではないでしょうか。)

こうしてみると、親鸞没後の真宗教団の動きは、常陸の在地のみならず、京都(大谷廟所、朝廷)、幕府の動きをからめて、総合的に検討していかなくてはならないのではないかという感が強くします。

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  1. 2006/09/23(土) 08:42:22|
  2. 仏教史&仏教思想
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその5

四、真仏報恩板碑の造立

ここでようやく、峰岸純夫氏の論点は真仏報恩板碑に戻ってきます。
まず峰岸氏は問います。「真仏報恩板碑の立つ馬込はどのような領主支配関係にある地であろうか」(62頁)と。
この地は、太田庄に属しています。太田庄は荒川(現在の綾瀬川および元荒川)と利根川(現在の古利根川)の流路にはさまれ、流路に沿って北西-東南方両に細長く仲びた地域で、現在の羽生市・加須市・鷲宮町・久喜市・白岡町・蓮田市・春日部市・岩槻市・越谷市などの広大な地域に比定されます。文治四年(1188)に、「八条院領武蔵国太田庄」とあり、女院領のこの荘園は、同じ下総国下河辺庄などとともに、「時政地頭にて他人沙汰不可入」という所でした(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。また寛喜二年(1230)には、「武州公文所」(北条泰時の公文所)において、「太田庄内荒野可新開事」が決定され、得宗家令の尾藤道然が奉行に任命されたとありますから(『吾妻鏡』寛喜二年正月二十六日条)、鎌倉時代を通じて北条氏得宗領となっていることが判明します。太田庄の開発については、建久五年(1194)の堤の修固が行われており、幕府の開発事業が進められた地域と考えられます。
一方、北東に隣接する下河辺庄は、建長五年(1253)の堤修固の記事を初見として、金沢文庫文書などによって、北条氏(金沢氏)関係の一円所領と認定されています。
太田庄、下河辺庄、そしてそれと東に接する下総国の幸島郡、大方庄、豊田庄(松岡庄)などは、北条氏所領が集中する地域を形成しているのです。ここに、下総・武蔵の門徒が分布し、その中に唯善派が根強く存在したことは三章で詳説されたとおりです。

さて、真仏報恩板碑の立つ馬込周辺に関しては、『飯野八幡宮文書』のなかに「永仁二年十一月十一日伊賀頼泰譲状案」という史料があります。
すなわち、永仁二年(1294)に伊賀頼泰が嫡子光貞に譲渡した所領の中に、武蔵国比企郡(実は埼玉郡)内の地として、潤戸村とこれに付属する新井西東、「みくら」(御蔵カ)、馬込が記載されているのです。さらに正和四年(1315)四月十三日に再び伊賀頼泰が光貞に譲渡した所領の中にも、潤戸・新井西東・駒前・蓮田・「みくら」とならんで馬込を見出すことができます。「みくら」は不明ですが、その他の地名は埼玉郡と足立郡の郡界をなす綾瀬川(元、荒川流路)の東北岸、現在の蓮田市内に見出すことができます。また横曾根門徒木針智信の「木針(こばり)」に比定される小針はその対岸にあります。これによって板碑の立つ馬込の地は、建立の時点では伊賀頼泰-光貞の所領であったことが確認できます。
以上のことから、真仏報恩板碑建立の地は北条得宗家領である太田庄の内部の、得宗と密着し、準得宗被官である法曹官僚家の伊賀氏の所領内の馬込であったことが確認されます。それゆえ、峰岸氏は、この板碑は伊賀氏の承認のもとに(あるいは助成も考えられる)建立されたと推察しています。

さて、板碑が建立された延慶四年(1311)三月八日というのは、いかなる時点だったでしょうか。一つは、その前年七月四日に高田専修寺の顕智が没しています。そして、その法系は顕智の師真仏の家である大内氏(椎尾氏)の専空に継承されて、その後の専修寺派の系となります。したがって、真仏報恩講は、顕智を継承する専空によってなされなければならないのに、真仏の門弟(顕智と同門)である唯願によってなされるのはどういう意味があるのでしょうか。唯願は『親鸞聖人門侶交名牒』では、常陸の唯願とのみ記され、その門弟に得信・願信の二人がいること以外に何の史料も存在しません。
ところで延慶四年の時点は、前述のように延慶二年に京都を逐われた唯善が、鎌倉を経由して、下総に下向したと考えられる時点でもあります。板碑が唯善支持派の多く分布する武蔵馬込の地に建立されたことを含めて総合的に考え、峰岸氏、次の新たな問題点を指摘します。

①唯願と顕智没後の高田専修寺門徒(専空ら)との間には、分裂・確執が生じていたのではないか。
②この唯願の板碑建立の趣旨は、真仏報恩を掲げて板碑を建立し、盛大に報恩供養を営むなかで、反専空派の真仏門徒の結集を図ったのではないか。
③そして、その動きは、本願寺覚如を支持する鹿島門徒を中心とする常陸門徒などと対抗して、唯善を文持する下総・武蔵門徒の総結集の意味を持っていたのではないか。


そして峰岸氏は、「これが、馬込の地に真仏報恩板碑が建立され、唯願がその後の本願寺・専修寺系の史料から消えさる理由ではないかと考える」(66頁)と結論づけているのです。

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  1. 2006/09/21(木) 10:57:45|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその4

三、幕府権力と真宗(2)

論点は、親鸞帰洛後に移ります。
親鸞の帰洛後、東国の真宗門徒は二つの分裂の危機にさらされました。一つは建長七~八年(1255-6)におこった善鸞事件で、親鸞の子善鸞と東国門徒が対立し、東国門徒の中心人物である横曾根性信が善鸞によって幕府に訴えられました。親鸞は善鸞を義絶して、性信らを支持し、事態は性信らに有利に決着しました。後年仏光寺派の基をきずいた武蔵国荒木(行田市)の源海(光信、俗は安藤駿河守隆光)が、上京して親鸞に接し真宗門徒となったのもちょうどこの事件の最中の建長八年です。
その二は、正安二年(1300)~延慶二年(1309)の唯善事件で、峰岸氏はこの事件の経緯に注目します。

弘長二年(1262)に親鸞は没しましたが、その後親鸞の京都大谷の廟所の留守職をめぐって、親鸞の孫唯善と覚恵(およびその子覚如)の異父兄弟の両系が相争い、その分裂は関東にも波及します。この唯善事件については、おおむね覚恵-覚如のその後本願寺教団に発展する側からの唯善の纂奪という形で叙述されており、唯善側の主張点は史料の不足から必ずしも明らかではありません。
唯善は、病弱な兄覚恵にかわって、常陸奥郡門徒などの協力による大谷南地の買得、この土地をめぐる争訟における勝利などに活躍しましたが、門徒は唯善を支持せず、覚恵の留守職を確認し、土地を門弟の管理下に置きました。ここでの対立は、常陸門徒を中心とする東国門徒と唯善の間にあり、東国門徒は親鸞遺跡の権威に依拠して門徒の上に主導権を発揮しようとする唯善を忌避して、覚恵-覚如を支持することとなったとされます。

ところで、嘉元元年(1303)に、関東では幕府の抑圧による「専修念仏停廃」の問題がおこりました。この問題は、覚如の子存覚の『一期記』(A)、および専修寺文書(B)、本願寺文書(C)に記されています。
峰岸純夫氏によって、三つの文書を読んでみましょう。

(A)は嘉元元年(1303)に関東で「専修念仏停廃」の命令が出された時、唯善が関東に下って、巨額の銭貨を集め、それで幕府の要路に働きかけて、安堵の御下知を得たというものである。その時集められた銭は、横曾根門徒木針智信三○○貫を含む数百貫のものであった。その安堵の内容は、親鸞の門流は「諸国横行之類」でなく、「在家止住之土民」であって、国の費え、人の煩いがなき故、禁圧の対象者に混入されるべきでない、という唯善の申し分に理があるので免許するというものであった。
(B)は、その安堵を受けて、その旨を下野高田門徒の顕智に伝達したもので、そこに専修念仏停止の嘉元元年九月付の御教書の文面の一部が引用されている。「一向衆」の名で、「横行」「不横行」の差を論ぜず停止することの不可を訴えて免許の御下知を得たので、下知状の案文を地頭に提示して、もとのように興行をはかれ、というものである。
(C)は、十八年後の元亨元年(1321)にも、(A)(B)で記された下知のごとく、専修念仏の停廃が免許されていないので、本願寺の本寺を任ずる延暦寺の青蓮院が幕府に訴えてほしいというものである。この言上状の中に「去乾元之比……」と乾元二年=嘉元元年(八月五日改元)の専修念仏停止令が出たことを引用している。


幕府の嘉元元年の一向衆制禁の御教書は現存せず、また本願寺関係史料以外その存在を確認することが出来ないという弱点を持ちますが、(A)(B)(C)三つの史料から総合的に判断して、峰岸氏は、「文暦二年(1235) 七月二十四日関東御教書を踏襲した形で、(B)に引用されているように「号一向衆、成群之輩横行諸国之由、有其聞、可被禁制」という内容のものが発せられた」(58頁)と推測しています。
またこの二つの文書(問注所の下知状と唯善の施行状)が、幕府権力との関係を背景に、教団における唯善の地位の優位を(意図するとしないとに拘らず)門徒に印象づけたことは想像に難くありません。峰岸氏によれば、この時点で、覚恵-覚如系と唯善との本願寺留守職をめぐる確執はすでに開始されていたのです。
さて、徳治元年(1306)覚恵は病臥し(やがて翌年四月に没)、唯善は覚恵・覚如を大谷廟所から追放し、延慶元年(1308)本願寺留守職をめぐる訴訟が院庁や領主の青蓮院の場で展開されます。結局、唯善は敗訴して、延慶二年七月、真鸞の影像と遺骨を奉じて鎌倉(常葉)に下り、覚如の大谷廟堂留守職は確定しました(これが狭義の「唯善事件」です)。
これら一連の問題をめぐって、東西門徒の分裂は深刻なものがあったと思われます。覚恵・覚如を支持したのは、鹿島門徒(願性)を中心とする常陸門徒、そして高田の顕智、武蔵荒木の光信らでした。正安四年(1302)四月に、後宇多上皇の院宣を受けて、覚恵の御影堂留守職を再確認した門徒31名の内訳は、順性・直信・鏡願・妙性・来信・導信・唯浄・信浄など鹿島門徒8名、慶西(常陸志田)、明信・教覚・西光(常陸田中)、法智・覚念(陸奥安積)、光信・証信・覚明(武蔵荒木)らでした。また徳治三年(1308)に使者を上京させ訴訟行動を提起し、覚如をバックアップした人物に、鹿島の順性、高田顕智、三河和田の信寂(常陸光明寺門徒)がいます。覚恵・覚如派は、鹿島門徒を中心にした常陸門徒に、下野高田-武蔵荒木の高田系門徒、陸奥の門徒が加わっています。
一方唯善派も、下総・下野・武蔵などかなり広範囲に見られます。『親鸞聖人門侶交名牒』のなかに「唯善与同位也」などと記されていることから、どのような人が唯善派(唯善与同)だったかわかるのです。この唯善派は、鬼怒川・利根川・荒川水系の下総・下野・武蔵に広範に分布し、また唯善の所属した常陸河和田門徒を中心に常陸の一部に食いこんでいます。
留守職問題に破れた唯善は、延慶二年(1309)に鎌倉の常葉に下り、親鸞の御影・御骨を安置したところ「田舎人々群集」(『一期記』)という有様でしたが、やがて下総下河辺庄中戸山(関宿町)に西光院という寺を建立して移住します。この下総移住の年次は明らかではありませんが、鎌倉下着後間もなくのことと考えられ、将軍家(守邦親王)の保護があり、寺領が与えられたと伝承されています(『遺徳法輪集』)。そして、文保元年(1317)二月にこの地で没します。西光院は、善秀・善了・善栄・仲鷲・善鷲と継承されますが、六世善鷲の時、蓮如の本願寺に御影・御骨が返還され、本願寺に服して常敬寺の寺号が与えられました。

峰岸氏は、唯善の鎌倉下向、そして下河辺庄定着には(嘉元元年の下知状以来一貫する)幕府の援助があったと推測していますが、『遺徳法輪集』以外に確実な史料は存在しません。しかし、唯善の定着した中戸山は利根川(江戸川)の流路にあたり、交通の要地であり、かつ下総・下野・武蔵門徒の分布地域の中心的位置にあります。峰岸氏は、「この地域が唯善与同者が濃密に分布していることを考えると、唯善はこの地域の人々に擁せられて、ここに定着したといえよう」(61頁)と推測しています。
以上が、峰岸純夫氏による幕府権力と真宗教団の結びつきの第二の様相(親鸞没後の様相)です。

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  1. 2006/09/18(月) 12:09:44|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその3

二、幕府権力と真宗(1)ーー後半部

次に、親鸞の帰洛時期とその理由に関する峰岸純夫氏の推論をみてみます。
親鸞自筆の板東本『教行信証』の成立について、赤松俊秀氏は、原本の綿密な検討の結果、その最初の成立は寛喜三年(1231)を溯り、改定が加えられて現存本が成立したのを嘉禎二年(1236)以前としています。そして、著述の場所としては、一切経の得やすい常陸の稲田をあげています。ところが親鸞が鎌倉で幕府の命で一切経の校合を行ったという伝承があり、峰岸氏はこれに注目します。
すなわち、峰岸氏によれば、親鸞の曾孫・覚如が撰述した『口伝鈔』は次のように記しています。

一、一切経御校合の事
西明寺の禅門の父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ、一切経を書写せられき。これを校合のために智者学生たらん僧を崛請あるへしとて、武藤左衛門入道<不知実名>ならびに屋戸やの入道<不知実名>両大名におほせつけてたつねあなくられけるとき、ことの縁ありて聖人をたつねいたしたてまつりき。<もし常陸国笠間郡稲田の郷に御経廻の比歟>聖人その請に応しましまして一切経御校合ありき。(以下略)


『口伝鈔』ではこの記事の後に、執権の催した宴席での、後の北条時頼(開寿殿九歳)とのあいだの魚鳥を食する時に袈裟を着用するか否かの問答があり、親鸞は、生類を解脱せしむるため着用して食するのだという解説をおこない開寿殿を納得させたという話が続きます。
さて『口伝鈔』では、この記述は、西明寺禅門・北条時頼の父時氏が政権を掌握していた時とありますが、時氏はその父泰時に先立って寛喜二年(1230)に二十八歳で没しており、峰岸氏は、これは「祖父泰時の誤解であろう」(52頁)と推測しています。また、時頼九歳の時点とは文暦二年(1235)で、この年二月、鎌倉明王院五大堂が建立され、一切経供養が行われています(『吾妻鏡』嘉禎元年二月十八日条)。
『口伝鈔』には「本願寺鸞上人、如信上人に対しましまして、おりおりの御物語の条々」とあり、親鸞から孫の如信に語られたことが、覚如に伝授され記録されたもので、伝聞過程での変化など疑問の余地もありますが、峰岸氏は、「前述の明王院一切経供養と関連させると、一切経書写の事実関係は一概に否定さるべきものではないと思う」(52頁)とします。また『口伝鈔』のなかで覚如は、この校合は親鸞の稲田在住の頃かと割注していますが、これは、「真宗教団の伝承にある相模(鎌倉あるいは「江津」=国府津)在住という関東在住二十年の最後の時期にあたるのではないか」(52頁)というのが峰岸氏の推測です。すなわち親鸞は、稲田から相模(鎌倉)に移住し、ここで一切経研究の学殖を幕府によって認められ、校合の役を命ぜられ、他の僧とともに執権主催の宴席に招じられているというのです。

この事実が確定すれば、親鸞の帰洛は嘉禎元年(1235)以後ということになります。そしてまた、この時期は赤松氏の指摘のように、『教行信証』板東本の完成(改定)の段階に当っています。「鎌倉における親鸞の一切経の校合という作業が、教行信証の完成に深く関係を与えていたと考えてよいと思う」(53頁)というのが峰岸氏の推測です。すなわち、峰岸氏は、「教行信証の完成のために、親鸞は一切経のもっとも得やすい鎌倉に移住し、幕府からその校合の機会も与えられ、そのことが教行信証の完成に有効に作用した」(53頁)と考えているのです。さらには、「沙門性海の教行信証開板にあたっての夢告(大般若経の書写への性海の招請)も、すでに親鸞において前例があったことと関連しているとも思われる」(53頁)とします。

ところで、この親鸞の一切経校合を行ったとされる文暦二年は、その直後に鎌倉幕府において念仏者の抑圧令が出された年です。すなわち、七月十四日、鎌倉中に対して「僧徒裹頭・横行鎌倉中事、可令停止」等の布達が出されました。さらに、これをふまえて幕府は六波羅に命じ、黒衣の念仏者の横行の禁止の宣旨を朝廷に要請するよう指示しています。
この指示は、黒衣の念仏者が諸所横行し、魚鳥を食い、女人を招き寄せ、党類を結び、酒宴を行うなど不当濫行を行うので、これを停止するというものですが、この対象となっている念仏者は浄土教信者が包摂され、いかようにでも解釈できる部分があります。またこの文暦二年の念仏者抑圧令は、直接には法然門流を対象として行われたものと考えられますが、親鸞門徒も法然から法流を受け継いている専修念仏には変わりなく、当然抑圧の対象となったと考えられます。
この抑圧令の布達は、幕府の命による一切経の校合の直後のことですが、親鸞がこれにいかに対応したかは明らかではありません。笠原一男氏は、「文暦元年の法難と親鸞の帰洛」(『親鸞と東国農民』、山川出版社、1957年)という論文のなかで、この弾圧を親鸞帰洛の直接の契機としていますが、この弾圧はそもそも京都から開始されており、まして山門の圧力などの点では鎌倉より激しいものがあったと考えられます。それゆえ、笠原氏のような直接の布教者・組織者としてでなく、外から関東門徒に指導を与えるための帰洛という解釈ではいま一つ説得力を欠くものがあります。そこで峰岸氏は、「確証はないが、親鸞は鎌倉を退去して一時相模国江津(国府津)に避難し、ほとぼりをさましてから帰洛したとも考える」(55頁)とし、帰洛の時点は、笠原氏の述べるごとく、文暦二年から遠くない時点と推測しているのです。
峰岸氏の論点は、それ自体が親鸞と幕府の関係についての重要な指摘であると同時に、親鸞の帰洛の時期、『教行信証』の完成ともからんでくる重要な問題だと思います。
(帰洛の直接の理由については峰岸氏は推測を保留しているようで、なにも記していません。)

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  1. 2006/09/17(日) 18:03:38|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその2

二、幕府権力と真宗(1)ーー前半部

さて、峰岸氏の視点は板碑をいったん離れ、『教行信証』の奥書原稿に飛びます。
平松令三氏、重見一行氏らは、高田専修寺本の二本の『教行信証』および中山寺本の化身土巻奥書を紹介し、『教行信証』が得宗の御内人・平頼綱の助成を得て開板されたことを明らかにしました。峰岸氏にとって、このことは、「誤解かもしれないが、権力の弾圧にも屈せず、在家農民層の間に深く根をおろしていく真宗教団の姿という私の真宗観(中世後期の一向一揆観の投影かも知れない)に少なからぬ衝撃」(45頁)だったといいます。峰岸氏によれば、「重見氏が、「親鸞の主著教行信証が、従来指摘されて来たような、史的徴証に見られる真宗門徒の置かれた位置にもかかわらず、すでに親鸞の滅後二十数年にして、しかも時の権力者とのかかわりにおいて出版されたとすれば、それは真宗史上一つの重要な視点を提供するといえよう」(『教行信証の研究』法蔵館、1981年)と述べているが、まさに「重要な視点」と考えられ、権力による抑圧の側面と同時に、権力との結びつきの側面も視野に入れ、政治と宗教の関係を全体として把握する必要を感じた」(45頁)というのです。

以下、峰岸氏によって、中山寺本の『教行信証』奥書原稿を検討してみます。
まずその第一面の前段には、「教行証」(教行信証)が親鸞の選述で六篇八巻をなし、真宗の真髄をなす著述であることを述べ、弘安六年(1283)二月二日に親鸞自筆本一部六巻を「先師性信法師所」より性海(後述)に相伝されたとしています。性海は、その開板を志し「弘通」をはからんとした所、正応三年(1290)から翌年にかけて計四回の夢告を得たことが第一面から第二面にわたって記されています。
その夢告は、次のようなものです。
①執権北条貞時の乳父平頼綱(杲円)が鎌倉七口の僧侶を「屈請」して大般若経の書写をした所、性海も成員に加えられ、書写作業の後に白馬・銭などを与えられた。
②北条貞時の十二、三歳の息男が性海の膝の上に座ろうとした。
③師の性信が現れて、教行信証の開板の時は、平頼綱の助成を得て行えと言った。
④二人の僧が五葉松一本と松かさ一つを持って性海に与えた。
これらの度重なる夢告によって、性海は平頼綱の「聴許」を得て開板し、開板に当っては親鸞自筆本との「校合」をして「印板」を作ったと第四面に記されています。
ところで、『教行信証』は、親鸞自筆本といわれるものが、(a)親鸞→性信→性海、(b)親鸞→性信→明性の二経路で伝えられ、(a)は高田系八冊本、(b)は坂東本となったと考えらます。
親鸞の高弟・性信は、常陸鹿島社の神官大中臣氏の出自と伝えられ、京都で親鸞に師事して以来、越後から関東へと随従し、下総国豊田庄(別称松岡庄)の横曽根を本拠地として活動し、建治元年(1275)七月十七日に没したといいます。しかし、『教行信証』の奥書に記載され、性信よりそれらを伝えられたとされる性海・明性の二人とも、性信の門下の交名には見出せません。ただし、「性海は、前述のごとく、鎌倉七口の屈請による大般若経の書写という夢告から、鎌倉に住したと推定されるから、性信が建立したという鎌倉法得寺に住した可能性があり、この法得寺が性信の鎌倉での訴訟対策の根拠地であり、またその門弟性海が教行信証の開板を平頼綱に働きかけたのも、この法得寺を前提に考えることが出来ると思う。しかし、法得寺はどのような形で、どこにあったのかは現在のところ明らかでない。なお、性海は飯沼天神社(大生天神)の社家で性信に帰依して、法名性海になったという伝承が横曽根聞光寺(報恩寺)にある」(50頁)といいます。
続けて峰岸氏は、夢告の①③に注目し、「執権北条貞時の内管領として権勢を振い、弘安八年霜月騒動で幕府の宿老安達泰盛を滅亡させた平頼綱は、性信・性海ら横曽根門徒とどこに接点を持っていたのであろうか」(50頁)と問います。峰岸氏によれば、平頼綱の祖は、平家生き残りの平資盛で、その子孫は捕虜から得宗被官へと転進を遂げていきました。平頼綱ら長崎氏の名字の地は伊豆国田方郡長崎(韮山町)といわれ、北条氏得宗領の地頭や地頭代として所領の経営にあたっていたと考えられます。「ところで、頼綱の子助宗は飯沼を称しており、この飯沼の地名は、関東地方では下総・安房・武蔵・常陸などに見られるが、豊田庄横曽根の飯沼の可能性が強い。もしこの想定が成り立てば、横曽根性信門徒の領主は平頼綱であったことになり、性信・性海が頼綱を頼ることの必然性はかなり強いものと考えられる」(51頁)というのです。
なお、平頼綱に関しては、細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)が詳しく記しています(ただし、細川氏は頼綱が資盛の子孫であることを否定)。細川氏によれば、頼綱は「(安達)泰盛とその一党を殲滅し、以後七年余にわたって「一向執政」・「諸人恐懼」(『実躬卿記』正応六年四月二十六日条)といわれる独裁的な権力をふるうのである。時宗期まで得宗袖判を有する執事奉書によって行われていた得宗家の重要政務の多くが、得宗の花押を有さない執事書状によってなされるようになるのは、頼綱の専制下においてである」(細川氏前掲書163頁)とされる人物ですが、峰岸氏も注目しているように、霜月騒動と『教行信証』の開板は時期をほとんど同じくしています。鎌倉幕府における「専制者」頼綱が『教行信証』の開板を援助し、結果的に親鸞流の浄土仏教布教を助けているのはどのような意図からでたものか、それは霜月騒動のイデオロギーとどのようにからむのか(からまないのか)、政治史の観点からも興味深い事実といえるでしょう。

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  1. 2006/09/15(金) 10:53:01|
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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその1

平松令三氏の『親鸞』<吉川弘文館歴史文化ライブラリー>の抜き書きをさらに続けたいのですが、親鸞帰洛の時期に関する問題で、平松氏は、峰岸純夫氏の論文「鎌倉時代東国の真宗門徒ーー真仏報恩板碑を中心に」(北西弘還暦記念論集『中世仏教と真宗』所収、吉川弘文館、1985年)に論及しており、やや回り道になりますが、ここで、峰岸氏の論文を紹介しておきます。

峰岸論文「鎌倉時代東国の真宗門徒ーー真仏報恩板碑を中心に」(以下、「鎌倉時代東国の真宗門徒」と略す)の構成は、つぎのとおりです。
 はじめに
 一、荒川河畔に立つ大板碑
 二、幕府権力と真宗(1)ーー性海の教行信証開板と親鸞の一切経校合
 三、幕府権力と真宗(2)ーー唯善事件をめぐって
 四、真仏報恩板碑の造立

峰岸氏の論文執筆時点で、萩原龍夫氏「中世下総地方の一向宗」(川村優編『論集房総史研究』、名著出版、1982年)、菊池勇次郎氏「親鸞とその門下」(『茨城県史研究』51号)、岡田寿恵子氏「下野における真宗の展開」(『栃木県史』<通史編3・中世>第二章第四節、1984年)などの論文が次々に発表され、また金石文や板碑に刻まれた偈頌の集成が公刊されたこと、さらには絵画資料としての絵解き研究が活発化したことなどをうけ、峰岸氏は、「地方史研究・宗教史研究の一部として、埼玉県蓮田市馬込にある真仏報恩碑をとりあげ、その造立の背景を追求するなかで、東国真宗門徒の特質を考えてみる」ことを論文の目的と記しています(「はじめに」)。
以下、例によって私の関心に添うかたちで、峰岸論文の論旨を章別に紹介してみます。

   *    *    *

一、荒川河畔に立つ大板碑

埼玉県蓮田市馬込に残る「真仏報恩板碑」といわれる名号大板碑は、地上の高さ400センチ、上幅65センチ、下幅80センチ、厚15.6センチの大板碑で、埼玉県秩父郡長瀞町に残る「釈迦一尊種子板碑」に次ぐ、関東最大級の武蔵型板碑の一つです。わずかに周縁部の剥落はありますが、保存状態も良好です。
表面には次の文言等が刻まれています(このブログでは横組みのため読みにくくなりますがご了解ください)。

                報恩真仏法師      敬
  南無阿弥陀仏(蓮座) 延慶四 辛亥 三月八日
                大発主釈唯願      白


また、裏面には線刻で、

  銭已上佰五十貫

と刻まれています。
供養されている真仏は親鸞の高弟で、下野国高田専修寺(当時は如来堂)の真仏です。真仏の忌日は正嘉二年(1258)三月八日で、碑面に記された「延慶四年(1311)三月八日」は真仏の五十四回忌にあたります。唯願は「親鸞聖人門侶交名牒」に、真仏の弟子として記され、また「常陸国・唯願」と記されている人物と考えられます。
裏面に記された「銭已上佰五十貫」は、「大発主」と記された唯願の「勧進」によって集められた銭貨の総量を示し、秩父長瀞からの石材の採取・加工、荒川を筏流しによると思われる輸送、そして文字の彫刻などの経費の支弁にあてられたもので、峰岸氏によれば、「盛大に行われたであろう仏事供養の費用も含まれていたかも知れない」(上掲書44頁)といいます。ちなみに、銭一貫は現在の十万円程度と考えられます。
この板碑に関し、峰岸氏はまず次の四つの疑問を提出します。
①板碑研究の上では、真宗系板碑といわれるものは少ない。その例外が建立されたのはなぜか。
②真仏は、下野高田専修寺の開祖である。それがなぜ、下野高田ではなく、武蔵馬込に板碑が建てられたのか。そもそも、この馬込の地は真宗にとっていかなる地であるのか。
③五十四回忌というのは、法要として異例に思われるが、なぜ、延慶四年というこの時点に板碑が造立されたのか。
④唯善とはいかなる人物であろうか。彼が、この地にこの大板碑を造立した背景にはどのようなものがあったか。

   *    *    *

以上の補足として、峰岸氏による註を若干引用しておきます。

【金石文や板碑に刻まれた偈頌の集成公刊に関して】
「千々和実編『武蔵国板碑集録』(1)(2)(3)((1)私家版、1956年、(2)小宮山書店、1968年、(3)雄山閣、1972年)、埼玉県教育委員会『埼玉県板石塔婆調査報告書』ⅠⅡⅢ、1981年、千々和実編『上野国板碑集録』(全)、西東出版、1977年、千々和実編『東京都板碑所在目録』(1)(2)、東京都教育委員会、1979年、千葉県史料調査会『千葉県史料・金石文篇』(1)(2)(3)、1975・78・80年などがある。」(註6抄)

【板碑の資料集成にもとづく宗教史研究に関して】
「『板碑概説』(鳳鳴書院、1933年、角川書店、1972年復刻)によって板碑研究の基礎をつくった服部清道氏は、「時宗名号の原初書体」(『横浜商大論集』14巻2号)を発表し、板碑に見られる書体から年代判定の問題を提起し、今井雅晴氏は、「踊り念仏の板碑」(『時衆研究』95号)、「『踊り念仏の板碑』補論」(『時衆研究』97号)、「一遍『六字無生頌』の板碑」(『藤沢市史研究』17号)などにおいて板碑に刻まれた銘文や偈頌に着目し、時衆と板碑の関連を論じ、板碑に「往生要集」の章句や一遍の作った頌が用いられていることを立証した。千々和到「『往生要集』と板碑の偈」(『金沢文庫研究』273号)は、この今井の提言にもとづき、板碑の偈頌から往生要集の世界と板碑の関連について論じている。なお千々和到「東国における仏教の中世的展開ーー板碑研究の序説として」(『史学雑誌』82-2・3号)は、板碑と宗教史研究の結合を目ざした画期的な論文である。なお今井氏は善光寺信仰と時衆一遍の関連についても論じている(『時宗成立史の研究』吉川弘文館、1981年)。」(註9)

【「真仏報恩板碑」裏面に彫られた銭貨に関して】
「千々和到前掲註(9)『史学雑誌』論文は、この150貫を板碑の造営費のみに解することに疑問を呈している。これはあくまで勧進額と考えてよいと思う。」(註13)

【参照】「鎌倉時代東国の真宗門徒」原文 (「後深草院二条」サイト内)
     「真仏報恩碑(寅子石)」画像 (蓮田市公式サイト内)

   *    *    *

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  1. 2006/09/14(木) 13:27:24|
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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその3

平松令三氏の『親鸞』<吉川弘文館歴史文化ライブラリー>の読み、続けてみましょう。

さて常陸へ移住してからの親鸞の事跡となると、謎だらけです。
戦国期の著書『反古裏書』は、関東へ入った親鸞が常陸の下妻小島に三年、稲田に十年居住したという伝承を記しているといい、下妻に居住したことは、恵信尼の書状からも確認できます。ただし、親鸞がなぜこの地を選んだかを示唆するような史料は存在しないのですが、平松氏は、「親鸞が善光寺勧進聖となって関東へ入ったこと、そしてこの筑波山麓一帯を支配していた八田氏に濃厚な善光寺信仰が見られることを思い合わせるならば、答えはおのずから明確であろう」(上掲書173頁)と、善光寺信仰とのつながりを重視して分析しています。
八田氏は宇都宮氏の分流で、初代知家は常陸国守護に任じられ、常陸国南部を支配していました。「その知家は法号を新善光寺殿といい、嫡子知重は定善光寺殿道義と称され、三代の泰知を除いて八田氏代々は、小野邑(新治村)の善光寺に葬られたと伝え(『茨城県史』第六章第一節)、善光寺に対して格別の信仰を持っていた、と思われる」(上掲書173-5頁)といいます。

【関東での行実】
上述のように、その後親鸞は、建保五年(1217)前後(四十五歳頃)に下妻から稲田に移るのですが、平松氏は、今度は稲田から15キロほどのところに位置する高田専修寺に注目します。
高田専修寺の開基は親鸞の門弟・真仏だと考えられます。ここでもキーワードは善光寺信仰です。
「真仏は筑波山の西麓真壁郡椎尾の在地領主椎尾氏の出身とされるが、この地域は善光寺と深い関係のあった高野聖明遍の弟子敬仏が念仏聖として活躍しており、「真仏」という法名はこの敬仏門下であったことを思わせるので、真仏が善光寺聖となっていた可能性がある。彼が高田に来た理由は審らかでないが、高田の在地領主大内氏と椎尾氏との縁故関係などが考えられ、高田に存在していた古代寺院を継承するとともに、そこに善光寺式阿弥陀三尊像を安置する堂を建立したと推定される。
 真仏が親鸞に帰依したのは、この善光寺信仰が縁だったことはほぼまちがいない。そして真仏門下に多く門弟が生まれた。『親鸞聖人門侶交名牒』に掲載されている門弟の中では、真仏門下が圧倒的に多数となっており、彼らは「高田門徒」と呼ばれていた。
 高田門徒と長野善光寺とり繋がりを思わせるものは、右の本尊のほかに、仏前荘厳の行儀がある。高田派寺院の仏前生花は、「高田の一本松」と称して、苗木から育てた実生の若松一本を供えるのが定式となっているが、じつは善光寺本堂にも同じような一本松が仏前生供花となっている。高さ2メートル以上もある巨大な松で、面白いことに善光寺ではこれを「親鸞松」と呼んでいて、親鸞が善光寺へ参詣したときに供えたのに基づくと伝える。偶然の暗合とも思われない。どこまで古く遡れるかはわからないが、高田門徒と善光寺とのつながりを思わせる習俗として興味深い。」(上掲書180-2頁)


   *    *    *

なお、峰岸純夫氏の論文「鎌倉時代東国の真宗門徒ーー真仏報恩板碑を中心に」(北西弘還暦記念論集『中世仏教と真宗』所収、吉川弘文館、1985年)の註8により、親鸞と善光寺聖に関する研究にはどのようなものがあるか補っておきます。峰岸氏の註の引用にあたっては、内容に変更をきたさないと考えられる範囲で、表記を一部あらためてあります。
「荻原祐純「善光寺念仏について」(『長野』19号)は、善光寺の口称念仏が、法然門下の西山派証空、その弟子聖人(善光寺に入寺)によって広められたと述べ、千葉乗隆「信濃真宗寺院成立の系譜」(宮崎円遵博士還暦記念会『真宗史の研究』1966年)は、信濃における真宗普及の前提として、真宗と善光寺阿弥陀信仰のかかわりを述べている。平松令三「高田専修寺の草創と念仏聖」(赤松俊秀教授退官記念『国史論集』1972年)は、親鸞と東国布教と善光寺阿弥陀信仰との関係を考察し、親鸞も善光寺の本願聖人として勧進し、高田専修寺の一光三尊を作った可能性を示唆している。また岡田寿恵子「下野における真宗の展開」(『栃木県史』<通史編3・中世>の第二章四節、1984年)は、高田真仏を善光寺一光三尊の勧進聖に見たて、それが親鸞と接触することになったとしている。」

   *    *    *

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  1. 2006/09/13(水) 13:51:05|
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『のだめカンタービレ』のことなど

この土日は、<親鸞本>を横に置いて、コミック『のだめカンタービレ』(講談社)の勉強?をしておりました。
この作品、クラシック音楽・演奏家の話ということで、CDショップにいくといつも売り場の傍らに置いてありますから、そういう作品があるということは前から知っていたのですが、読む決め手となる一押しがなく、「クラシック音楽を題材としたコミックなんて、読まなくたって中身は想像できる」とかなんとか自分で勝手に理屈をつけて、これまで手を出さずにおりました。
それが、再興中世前期勉強会のメンバーから最新巻(第15巻)を頂いたこと、日大のゼミ誌に掲載されていた作者・二ノ宮知子さんへのインタビューを読んだこと、そしてこの作品が10月からテレビドラマ化されることを知って、いい機会かも知れないと思って一気に読んでしまいました。
読む前の思い込みのなかでは、『ガラスの仮面』的に、クラシック音楽への蘊蓄がこれでもか、これでもかとちりばめられているのかなと想像していたのですが、実際に読んでみて、意外とあっさりしているなあという印象を受けました。もっともこれは、『ガラスの仮面』の主題が「演劇」なのに対して、『のだめカンタービレ』は「音楽」と、主題の違いも影響していて、音楽(演奏)というのはそもそも言語化しにくいということがあるのかもしれません。それに音楽演奏では、演劇よりも技術の占める役割が大きいので、いわゆる「ハート」だけでは処理できないということもあるのでしょう(主人公の「のだめ」こと野田恵ちゃんは、楽譜を読むのが苦手で、印象だけでハートフルな演奏をする少女という設定にはなっていますが…)。全体的に、『のだめカンタービレ』の物語は音楽以外のところ(演奏家の人間関係)で大きく拡がっていて、音楽は物語の背景という感じもしました。ともかく、全体がものすごくあっさりしているのがトレンディなのかもしれませんね。
とはいえ、出てくる曲の大半が知っている曲ですから、それを主人公であるのだめやそのあこがれの人・千秋真一(玉木宏に期待!)の演奏で想像してしまって、私などはかなり疲れます。文字通り、頭のなかで、存在しないのだめや千秋の演奏が、嵐のようにガチャガチャと響きまくっている感じで、この嵐は当分やみそうにありません。なにせのだめによれば、たとえばベートーヴェンの『悲愴ソナタ』は、「実家が新築した時二階に玄関ができて引っ越し中何度も階段を上り下りしなきゃいけなくて悲しい顔をしているおじいちゃんとおばあちゃん」というイメージの曲で、「階段の下りは上りより楽なんで長調のところは気持ちいいんデス。でも結局疲れ果ててこの第一楽章の最後はまた短調で嫌になって終わるんデス。だから最初と最後の和音はおばあちゃんの嘆きの訴えなんデスよ」(第12巻)というのですから…。

ところで、土曜日、そうやって『のだめカンタービレ』を読みながら渋谷から地下鉄に乗りこもうとしていたら、すぐ横に黒いTシャツの変なおじさんが乗りこんできました。それまで『のだめ…』に夢中でまわりの状況を全然把握していなかったので、突然、至近距離に黒服の怪人が登場したことにはびっくりです。そして、意識が地下鉄内の環境に同化しだすと、その怪人が、作曲家・ピアニストの高橋悠治さんであるということにまたびっくり。なにせ、彼は、私がお金を払ってそのCD(バッハのインヴェンション等)を購入した唯一の日本人演奏家なのです。もちろん、彼はそんなこと知るはずもなく、地下鉄のなかで、ぼんやりあくびなどをしてましたが、尊敬する演奏家のすご横で、音楽コミックを読むというのも、非常におもしろいものでした♪

ryuuzetsu.jpg
高く伸びたリュウゼツランの花茎
うってかわって日曜日は、知人の誘いで新宿御苑に晩夏から初秋の植物を観にいきました。新宿御苑にはこれまでも何度か行ったことがあるのですが、なぜかいつも閉園間際で温室に入れず、昨日は、「暑い暑い」と言いながら温室にも入ってみました。温室には、異次元から来たような不思議な植物が所狭しと並んでいて、ちょっと壮観でした。なかでも見事だったのは、数十年に一度花を咲かせ、花が咲くと枯れてしまうという龍舌蘭の花ですね。花茎が10メートル以上も伸びているのです。
知人は、私がコミック好きだということをよく知っていて、かつ、そのかなでも私が特に好きな内田善美作品を人に貸したら、そのまま戻らなくなって残念に思っているということまで知っていて、たまたまネットオークションで安く出ていたから入手したと内田善美の『草迷宮・草空間』をプレゼントされました。こういう気のきいたプレゼントは、とてもうれしいですね。
知人とは、新宿御苑を二時間弱散策して、近くで生ビールを一杯ひっかけながら定家の話などをして別れました。

と、ここまで書いていたら、宅配便のノックがして、九州に住んでいる若い友人から、これまた私が好きな映画『メゾン・ド・ヒミコ』のDVDが送られてきました。とても良いタイミングで、これまたうれしいです♪

   *    *    *

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  1. 2006/09/11(月) 13:08:11|
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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその2

平松令三氏の『親鸞』(歴史文化ライブラリー)の読み、続けてみます。
前の記事から時間は少し飛んで、承元元年(1207)の越後流罪、建暦元年(1212)の赦免(親鸞三十五歳から四十歳)の頃の親鸞の動向についての平松氏の解釈です。

【越後国府での親鸞】
越後で赦免になっても親鸞は京都に戻りません。この点については、さまざまな考え方があるのですが、平松氏は次のように考えます。
「流罪は五年で赦免になった。だが親鸞は京都へ帰らなかった。「伝絵」は「かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひたり」と記しているけれども、越後に親鸞の門弟が少ないところを見ると、それほど積極的な教化が行われたとは思われない。じつはその年の三月に生まれたばかりの嬰児(のちの信蓮房)があったことが恵信尼文書でわかっているので、それがとりあえずの理由だったろう。当時そんな嬰児を連れての長旅などとてもできるものではなかったから。
 そのうちに法然示寂の報が伝わってきたことが、京都へ帰る気持を鈍らせたと思うが、それと同時に念仏教団の著しい右旋回の模様がわかってきたことも、大いに関係しているのではなかろうか。それはまず法然中陰法要に象徴されている。「法然上人伝法絵」などの諸史料によるとこの法要は七日ごとに盛大に行われているが、その本尊と導師が次のようになっている。
  初七日 不動尊  御導師 信蓮房
  二七日 普賢菩薩 御導師 求仏房
  三七日 弥勒菩薩 御導師 住信房
  四七日 正観音  御導師 法蓮房
  五七日 地蔵菩薩 御導師 権律師隆寛
  六七日 釈迦如来 御導師 法印大僧都聖覚
  七七日 両界曼陀羅・阿弥陀如来 御導師 三井ノ僧正公胤
導師が法然一門の高弟なのは当然として、その本尊が完全に顕密仏教的であるのには唖然とさせられる。法然は六十六歳で大病に罹ったとき、二カ条の遺言をしているが、その第一条を「葬家追善事」と題して、
追善ノ次第、マタ深ク存ズル旨アリ。図仏・写経等ノ善、浴室・檀施等ノ行、一向ニ之ヲ修スベカラズ。モシ追善報恩ノ志アラム人ハ、タダ一向ニ念仏ノ行ヲ修スベシ。平生ノ時、既ニ自行化他ニツイテ、タダ念仏ノ一行ニカギル。歿没ノ後、アニ報恩追修ノタメニ、ムシロ自余ノ衆善ヲマジエムヤ
と、自分の死後もただ念仏一行を修するよう、厳しく言い遺しているのに、弟子たちはその意に反して盛大な法要を、しかも多分に密教的に実施しているのである。これを知った親鸞は京都に愛想をつかしたのではないだろうか。そのような教団の右旋回が親鸞を京都へ向かわせなかった原因の一つと考えたい。」(平松令三氏、前掲書157-9頁)


【関東への移住】
建保二年(1214)四十二歳の親鸞は関東に移住します。しかし、親鸞がなぜ越後から関東へ移ったのか、「伝絵」はその理由についてまったく触れていません。
平松氏は、農民とともに移住した(服部之総氏の説)、妻・恵信尼の実家である三善家の所領を頼った(笠松一男氏の説)、『教行信証』撰述の資料探訪(赤松俊秀氏の説)をしりぞけ、善光寺聖勧進説をとります。すなわち、親鸞は越後からいったん信濃の善光寺に向かい、そこにしばらく滞在した後、関東に移住したという説です。
「親鸞は越後国府での在住中に、善光寺聖と出合ったと思われる。越後国府は前節で述べたような宗教環境にあり、善光寺信仰はこの地に及んでいたにちがいないからである。それは流罪中であったか、あるいは赦免後であったかはわからない。しかし、法然の死とそのあとの京都の状況を知って、これからどこへ行って師法然の念仏を民衆へ伝えて行こうか迷っているときの大きな選択肢となったにちがいない。そして善光寺へ向かったと思われる。」(168頁)
ただし、善光寺聖勧進に関する平松氏の説は、心証に留まっていて、細かい論証を欠いているように私には思われます。そして、同じく善光寺聖勧進説をとなえる五来重氏の議論に関しては、「今の長野へ行くと、親鸞にまつわるいろんな伝説があちこちに残っている。五来重氏はそれらの伝承に意味を見つけ、親鸞は善光寺に滞在して、寺僧に自分が比叡山で学んだ常行三昧の念仏を教えたのだろうとか、いろいろ述べているが、史料価値の低い伝説に全面的に依存したもので、歴史学の立場からは賛同し難いものが多い」(168頁)と批判的です。
[参考]
「越後のこう(国府)、信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す。」(『日蓮聖人遺文集』第二巻「種々御振舞御書」)

   *    *    *

『親鸞』における平松氏の記述は、以上の抜き書きのように飛び飛びのものではなく、より編年体に近いものです。そして平松氏の分析の特徴は、その編年体の平叙の部分によくあらわれているのかもしれませんが、このブログでの抜き書きは、親鸞の年譜を編年的にあまねく追うという主旨のものではなく、あくまでも現在の私の関心にしたがって『親鸞』を抜き書きしています。このため結果的に、史料分析的な部分よりも、それらの分析に基づく平松氏の結論の紹介が多くなり、平松氏の方法論がみえにくくなっているかもしれません。その辺は、一連の記事の性格を総合的に判断してお読みください。

   *    *    *

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  1. 2006/09/07(木) 10:15:49|
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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその1

「親鸞本」の読みもだいぶすすみ、親鸞の行動(活動や生涯)について、自分なりのイメージもまとまってきました。それを確認するため、昨日は平松令三氏の『親鸞』(吉川弘文館<歴史文化ライブラリー37>、1998年)を読んでみました。この本も、細かい点では不審・不満がありますが、それ以上に、親鸞の活動や生涯全般に関し、私の抱いているイメージに非常に近い記述が行われており、自分のイメージを確認・補強することができました。
以下、そうした観点から、平松氏の『親鸞』の要点を抜き出してみます。

まず、基本的な点ですが、平松氏は、人物叢書『親鸞』(吉川弘文館、1961年)によって、親鸞の生涯を「実証的に」記述し、画期的な親鸞像を創出した赤松俊秀氏門下の歴史学者です。このため平松氏の『親鸞』は、基本的に赤松氏が導入した方法論にのっとり、そのうえで赤松氏の『親鸞』が書かれてから明らかになった事実をとりいれ、赤松氏の『親鸞』を批判的に読んでいくという性格が強く打ち出されています。
そのうえで、巻頭に、「世に名僧とか高僧とか言われて尊敬を集めている人物の中で、親鸞ほど自分のプライバシーについて発言しなかった人は少ないのではあるまいか。自分の生まれた家、父母、あるいは妻子など、私生活については、いっさい口をつぐんだままだった。なにもとくに黙秘しようとしたわけではあるまいが、ついぞ一言も喋ることはなかった」(1頁)と記し、親鸞の生涯についての記述をはじめます。
したがって、平松氏のように実証史学の立場をとる人にとって、親鸞の生涯を明らかにするということほど困難な問題はないともいえるのですが、それでも、この本は厳密な史料批判のあいだから、親鸞についてのあるイメージがたちのぼってきます。好著というべきではないでしょうか。

まずは、流罪になるまでの親鸞の活動等の記述から、(解釈上)印象に残った点をあげておきます。

【夢想から法然門下への道程】
建仁元年(1201)、二十九歳の親鸞は延暦寺を出て、法然に入門します。その経緯を示唆するものとして「親鸞夢記」があり、その一部に次のように記してあります。
「救世菩薩、此の文を踊してのたまはく、この文は吾が誓願なり、一切群生に説き聞かすべし、と告命したまへり。この告命によつて数千万の有情にこれを聞かしむ、と覚えて、夢悟めおはんぬ。」
この夢記の文を平松氏は次のように受けります。
「六角堂を出た親鸞は、恵信尼の書状によると、「ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと」法然のもとへ行った、というのだが、右の「親鸞夢記」の文から考えると、救世観音の告命、つまり、在俗のままでの仏道修行と民衆に宣布するという使命、を実行するために、法然を選んだはずである。当時の法然の下には、「沙弥・沙弥尼」と呼ばれた在俗のままの出家者が多く集まっていたことが親鸞を惹きつけた、と考えられる。法然を「ごせのたすからんずるえん」と呼んだのは後になってからの恵信尼の理解であって、このときの親鸞には、とにもかくにも、救世観音の告命の実践が、喫緊の命題であったはずである。したがって法然門下への参入を「雑行を棄てて本願に帰す」と言っていても、その当時それだけの信心が固まってからの行動であったわけではなかったはずである。」(104頁)
親鸞の法然入門は、それが自覚的になされたという点で、親鸞の行動のなかでも最初期の重要なポイントで、私はこの時点で、親鸞には強烈な阿弥陀仏体験(本願を聞く)があったのではないかと考えます。したがって、平松氏のように民衆宣布のために法然を選んだという考えはとりませんが、同時に「後世をたすかる」という明確な教理的自覚もなかったと思います。この「後世をたすかる」を「後になってからの恵信尼の理解」とする点で平松氏の分析は肯えます。

【法然真影図画の意義】
元久二年(1205)、三十三歳の親鸞は、法然から『選択集』を付属され、真影の図画を許されます。この真影の図画の許可を、平松氏は、小山正文氏に従って一つの寿像からの模写と解釈します。
「「既製品画像」といえば、小山氏は先記解説(『真宗重宝聚英』第六巻所収)の中で、福岡県善導寺とほか一寺に、妙源寺とまったく同じ賛銘の法然画像が所蔵されていることと、善導寺本は背裏に「元久二年二月十三日」との記年墨書銘のあることを紹介して、「法然の手許には一つの寿像があり、申し出た場合、特別にそれを写すことが許され、許可を受けた者は、その寿像を預かって絵師に図画させた事態が考えられる。そして完成した像には時として法然みずから賛銘を染筆することがあった」と推測している。親鸞の「空ノ真影マフシアツカリテ図画シタテマツル」という『教行信証』の言葉に相応するもので、卓見と言えるのではかなろうか。」(119頁)
そのうえで、平松氏は、寿像の模写をはじめとするさまざまの行為を、法然は伝授として使い分けていたとします。
「いうなれば、法然は三種類の伝授を併行して実施していたのである。それをどう使い分けていたか、伝授を受けた人びとから類推するしかないが、血脈はどうやら最も側近のいわゆる「入室」の弟子に伝えていたらしいし、『選択集』はそれに次ぐ「上足の弟子」に伝授し、真影は願主となった人びとに後白河法皇とか、九条兼実・熊谷直実など在俗入信者の名の見えるところに特徴があるようである。恐らく門弟の性格や理解度、生活態度を見極めたうえで、巧みに使い分けていたのではあるまいか。」(123頁)
このことは、いわゆる「法然の弟子」とはどのような人であるかを考えるうえで重要な具体的指摘ですが(要するに、法然の弟子には三種類の人々がいた)、同じことは「親鸞の弟子」に関してもある程度あてはまるのではないでしょうか。
ゆえに、このなんでもないような記述が、私には非常に重要に思えました。

【信行両座と信心諍論】
次に、親鸞が自己の信心が法然と同じであるかどうかをめぐって正信房、勢観房、念仏房らと論争をしたという「信心諍論」の説話(結果は、法然がそれを肯定した)の評価。これは「親鸞伝絵」のほか、『歎異抄』にもほぼ同じ内容で収録されており、平松氏は、「これは実際にあった出来事で、のちになってそれを親鸞が自分の門弟たちに語り聞かせていたにちがいない」(134頁)とします。
しかし興味深いのはこのエピソードに登場する人物の分析で、平松氏はそれを「意外」と素朴な疑問を呈しています。
「それにしても、正信房といえば、実名を湛空といい、京都嵯峨の二尊院に住み、法然流罪のときは配所にお供をしたと伝えられ、法然火葬後は遺骨を得て、二尊院に宝塔を立て、京都での専修念仏の基地とした人であり、勢観房は源智といい、法然の遺言によって、本尊の阿弥陀如来像や坊舎を相続し、知恩院の基礎を築いたので、開基法然につづいて第二世となっている。念仏房は、嵯峨の往生院に住んだ活動的な念仏者だった。いうなれば、彼らは法然教団の最高幹部クラスだった。それなのに信心という肝心の問題でこの程度の理解しかできていなかったとすれば、これは意外としか言いようがないが、どうなのだろうか。」(134頁)

(親鸞の家系、出家の理由、そして赤松俊秀氏が提起した「親鸞伝絵」の史料としての性質の問題などについても平松氏は詳細な考察を行っていますが、それらは私の当面の関心の外にありますから、ここでは紹介を省略しました。)

   *    *    *

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  1. 2006/09/04(月) 12:42:51|
  2. 仏教史&仏教思想
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親鸞の言葉から

いろいろ回り道をしましたが、親鸞の「思想」、現代の解釈から遡及して検討していくだけでなく、親鸞自身の言説にそって考えていった方がよいかとも思いますので、私見により要文抜き出しておきます。

   *    *    *

まずは、信心全般について。この文章が親鸞の信心観の全体像を語っているかは別として、私からすると、信心の困難さを具体的に指摘した非常に重要な言説です。一般には、浄土宗・浄土真宗というとその行(念仏)の容易さだけが強調されて、経典や親鸞の文章のなかに、信心の困難さについて述べた文章があることはあまり重要視されていないのですね。
「信心をえがたきことを経(『称讃浄土経』)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(『大無量寿経』)には、「若聞斯経、信楽受持、難中之難、無過此難」とおしへたまへり。この文のこゝろは、もしこの経をきゝて、信ずることかたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなしとのたまへる御のりなり。」(『唯信抄文意』)

往生のために特別の修行や持戒、莫大な喜捨、特殊な知識等が必要ではないということは浄土宗・浄土真宗の教義の大きな特徴です。それは、通常、救済の機会を無限に増やしたいという阿弥陀仏の慈悲の大きさから説明されますが、それだけではなく、浄土仏教では、上に記したような困難な信心が瞬間的に生じ、その瞬間的に生じる信心が救済を決定するからともいえるのではないでしょうか。つまり、修行や知識というのは、悟りや救済に向けての段階的・漸進的アプローチという側面をもっているわけですが、信心が瞬間的に生じるとされるとき、漸進的アプローチは(構造的に)完全に否定されます。それを明確に指摘しているのが、次の二分類ですね。
「二教といふは、一には頓教、二には漸教なり。いまこの教は頓教なり。」(親鸞消息<正嘉元年[1257]?閏三月二日付>)
ちなみに、浄土宗は、往生のために修行等を必要としないので、易行とされるわけです。親鸞の思想では、この容易さが信心に裏打ちされているということはすでにたびたび強調してきましたが、人々の心に信心が起こるという確実な保証はどこにもない。親鸞によれば、そもそも信心を起こすということができない(「如来より賜はりたる信心」)。となれば、凡人には段階的アプローチの方が確実で容易という考え方が生じるのも当然で、要するに、宗教における「容易さ」というのは相対的なものではないかと私は考えます(したがって、宗教においては、容易だからすぐれているという考え方を私はとりません)。

たとえば、法然の言葉を引用しながら、信心は「知」とは無縁であると親鸞は明確に記しています。しかしこれも、信心が能力とは関係ない突然生じる(突然生じさせられる)ものだからということを考え合わせて読むべきではないでしょうか。
「故法然聖人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候しことを、たしかにうけたまはり候しうへに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、えませたまひしをみまいらせ候き。ふみさたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、「往生はいかゞあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき」(親鸞消息<文応元年[1260]十一月十三日付>)

次に、当ブログでもたびたび問題にしてきた「聞く」ということについての親鸞自身による説明。これも、親鸞がつねにこの文章のように考えていたかどうかはわかりませんが、聞くということを、単にモノオトを知覚するというだけでなく、信心と深く結び付けて考えていたことがうかがわれると思います。
「(『無量寿経』に)「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をきゝてうたがうこゝろなきを、「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらわす御のりなり。」(『一念多念文意』)

以上のようなことを考え合わせると、浄土宗の教えは、理論的には普遍的でも、現実にはそれに納得できない人、誤解する人が多かったという事実を否定できないのではないでしょうか。みずから布教に携わっていた分だけ、親鸞は、この事実を強く感じていたと思います。
「往生をねがはせたまふひとびとの御なかにも御こゝろえぬこともさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。京にもこゝろえずしてやうやうにまどひあふてさふらふめり。くにぐににもおほくきこえさふらふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゝしき学生などゝおもひあひたるひとびとも、この世にはみなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあふてさふらふめり。聖経のをしへをもみずしらぬ、をのをののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こゝろえあること、おほくさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。」(親鸞消息<建長四年[1252]二月二十四日付>)

そうした人は、結局、「眼なき人」「耳なき人」であり、浄土宗とは無縁の人と見なさざるをえません。
「詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとにふれて、念仏の人々におほせられつけて、念仏をとゞめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらふんこと、よくよくやうあるべきことなり。そのゆへは、釈迦如来のみことには、念仏する人をそしるものをば、「名無眼人」とゝき、「名無耳人」とおほせおかれたることにさふらふ。善導和尚は、
 五濁増時多疑謗
 道俗相嫌不用聞
 見有修行起瞋毒
 方便破壊競生怨
とたしかに釈しおかせたまひたり。この世のならひにて、念仏をさまたげん人は、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそさふらはめ、とかくまふすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふて、念仏をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるき人はまふされさふらひしか。」(親鸞消息<建長七年?[1255]九月二日付>)


また、現実問題として、一端信仰に入ったようにみえた人の信仰が動揺することがあるというのも、信心がまことではないことが表面化したというだけであって、一面では悲しくもあるが、同時にもう一つの面では良きことと考えざるを得ない。それはもはや、親鸞とは無縁の世界のできごとであるということになってしまうと思います。
「奥郡のひとびとの慈信坊(=親鸞の実子・善鸞)にすかされて、信心みなうかれあふておはしさふらふなること、かへすがへすあはれにかなしふおぼへさふらふ。これ(私)もひとびとをすかしまふしたるやうにきこえさふらふこと、かへすがへすあさましくおぼへさふらふ。それも日ごろ、ひとびとの信のさだまらずさふらひけることのあらはれてきこえさふらふ、かへすがへす不便にさふらひけり。慈信坊のまふすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろぎてあふておはしましさふらふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ、よきことにてさふらふ。それをひとびとは、これよりまふしたるやうにおぼしめしあふてさふらふこそ、あさましくさふらへ。」(親鸞消息<建長八年?[1256]正月九日付>)

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  1. 2006/09/01(金) 12:43:03|
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