le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

ローマから

その後MCさんからまたメールがあり、彼がイタリアで監修している文化人類学の雑誌になにか寄稿して欲しいという依頼をうけました。英語で書かなくてはならないというのは大きな不安材料ですが、その依頼を受けようと思っています。雑誌は、記号学、哲学、芸術、コミュニケーションなど広い範囲にかかわるものとのことで、MCさんの希望は、日本発の人類学的な話題ということのようです。
できるかどうかはさておき、私としては、藤原定家の賦字(頭韻)と密教思想の関係について書いて、ヨーロッパの人たちを驚かせてみたいと思っています。
今の私の関心からすれば親鸞論でもいいのですが、おそらくこの問題は、あまりにも特殊すぎて、ヨーロッパ人の関心をよばないような気がするのです。つまり、そもそも浄土仏教というのが、ヨーロッパ人のイメージする仏教の概念と違いすぎて、そのなかでの親鸞の位置づけを語る前に、浄土仏教の説明だけで大変そうな気がします。
その点、賦字の問題は、和歌の内容や意味にかかわるというより、構造的な問題なので、日本文学を知らない人も問題点を把握しやすいだろうと思うのです。現に私は、レトリックに対する定家の関心を考えるとき、いつも反射的にバッハの音楽を思い浮かべます。
なにを隠そう、定家の和歌は非常にバロック的だというのが、私のイメージなのです。

【参照】「藤原定家の法華経題名和歌」

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif
スポンサーサイト

テーマ:イタリア(国、文化、音楽、イタリア語) - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/30(月) 01:14:29|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

近況報告

このところなかなかブログが更新できず、もうしわけありません。
すぐ下に、翻訳文化賞の記事を書きましたが、ちょうどその直後、ローマ大学の文化人類学者MCさんからメールをいただき、MCさんとのやりとりに追われていました。
私は文化人類学をきちんと勉強したことはありませんが、MCさんは、ドイツのフランクフルト学派の研究から文化人類学へ移行したとのことで、1930年代のドイツ文化に強い関心をもっており、それが私の「クレンペラーの時代」への感心とシンクロしているのですね。
こうしたことが少しおちついたら、またブログへの書き込みを再開したいと思います。

テーマ:思うこと - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/23(月) 12:35:27|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

翻訳文化賞授賞式レポート

昨日は、大学時代からの友人に誘われて、日本翻訳家協会主催の第43回日本翻訳文化賞、第42回日本翻訳出版文化賞の授賞式に行ってきました。私と友人の共通の先輩が翻訳した本が翻訳出版文化賞を受賞したので、そのお祝いのためです。
とはいえ万事いいかげんな私は、会場の学士会館に着くまで先輩が受賞したのが何という賞かきちんと知らず、会場の雰囲気もわからなかったのですが、友人が誰でも行けると言葉巧みに誘ってくれたので、それに応じたものです。前日に友人と電話で話したときは、授賞式だし一応きちんとした服装をしていった方がいいのかなとも思っていたのですが、昨日の東京はひどい土砂降りの雨で、結局、上はジャケットを着てネクタイを締めましたが、下はジーンズにブーツというカジュアルな服装になってしまいました。
ということで、以下、授賞式の様子と受賞作品を簡単に紹介してみましょう。
まずは受賞作品の紹介(受賞は各出版社)。

【第43回日本翻訳文化賞】
岩波書店 『繻子の靴』(クローデル著、渡辺守章訳)

【第42回日本翻訳出版文化賞】
未知谷 『ポーランド文学史』(ミウォシュ著、関口時正他訳)
新潮社 『ドン・キホーテ』(セルバンテス著、荻内勝之訳)
教文館 『マイモニデス伝』(ヘッシェル著、森泉弘次訳)
法政大学出版局 『ジャン・メリエ遺言書』(メリエ著、石川光一、三井吉俊訳)

受賞作はヨーロッパ作品が中心ですが、かつての翻訳文化の主流である英仏独の作品だけでなく周辺の国、周辺文化を紹介した作品に対象が拡大しつつあるのが特徴といえるでしょう。また翻訳文化の主流であるフランスに関しても、メリエの遺書は反キリスト教的な内容のもので、最近は、合理主義、理性主義的なヨーロッパ文化のなかでなかなか陽が当たらなかった分野の著作の紹介に評価が高まっているといえます。ところで、日本におけるキリスト教著作の翻訳紹介といえば、アウグスティヌス、トマス・アクィナス等の著作を出版している教文館はその最大の核ともいえるのですが、その教文館がキリスト教関係の出版では翻訳文化賞の受賞歴がなく、今回、ユダヤ思想の紹介で受賞したというのも、時代の流れを感じさせて興味深いと思います。また授賞式では、その教文館の代表とメリエの遺書を出版した法政大学出版会の代表がなかよく隣同士に並んでいたのも、私にはとてもおもしろかったです。

式ではまず翻訳文化賞作品の翻訳者・渡辺守章さんの挨拶があり、渡辺さんは、自分がフランスに留学することになり出発したのが10月6日で(その時はフランスに着くまで船で53日かかったという)、10月6日にはいろいろと縁があるということを枕に、優秀な編集者、校閲者が減っていくなかで、岩波書店はレベルの高い編集・校閲を存続させており、それで安心して仕事ができたと、本をつくるという作業と出版社のかかわりの重要性を指摘しました。渡辺さんのスピーチを生で聴くのはこれがはじめてで、イメージどおりの巧みな話しぶりに感心しました。ただし渡辺さんは昨日も京都の大学で演劇の集中講義を教えているとのことで、スピーチが終わるととんぼ返りで京都に戻りました。
渡辺さんに続いては、受賞出版社岩波書店社長・山口昭男さんの挨拶。岩波書店の社長を生で見るというのもこれがはじめてで、私は、「ああ、こういう人が岩波書店の社長なんだ」と、それだけでも興味深かったです。ちなみに山口さんは編集畑出身のソフトな感じの人(それにとても若い)で、今回の受賞は、経営者としてというよりも、長年渡辺さんとつき合ってきた人間として渡辺さんをお祝いしたいというような趣旨のことを述べました。
ちなみに『繻子の靴』は、岩波文庫の一冊として刊行されていますが、文庫本が翻訳文化賞を受賞したのは、今回がはじめてといいます。受賞作品『繻子の靴』は、上演すれば10時間はかかるというクローデルの大作戯曲で、外交官でもあったクローデルが日本にいた時期に完成されたものです。翻訳は、膨大な註などに渡辺さんの苦労が滲み出ていると高く評価されました。

続いて、翻訳出版文化賞作品を紹介しましょう。
まずは私の大学時代の先輩・三井吉俊さんと石川光一さんが訳した『ジャン・メリエ遺言書』。
この作品は、18世紀フランスでカトリック司祭を務めていたメリエが、司祭のつとめを終えた夜中に書きため、死後公になった文書で、その内容は、神の存在、教会の存在を否定するきわめて大胆なものです。当然、公権力によって黙殺されましたが、ヴォルテールによって刊行され、18世紀におけるキリスト教批判の起爆材となった非常に重要な書です。
この翻訳も、渡辺守章さんの『繻子の靴』同様、三井、石川両氏の20年以上のメリエ研究の賜物で、両氏によれば、一時は経済的・物理的に出版不可能かと思われたものが、ようやくここまでこぎ着けたといいます。しかしこの本が出版されたといっても、それは経済的にうまくいっているということではなく、法政大学出版会の編集代表・平川俊彦氏によれば、600部しか印刷することができず、非常に苦しいといいます。
ちなみに、先輩といっても、私の学生時代に三井さんはすでに大学院生だったので、厳密には先輩といえないかも知れませんが、私の通っていた大学は、学部と大学院の垣根がなく非常にフランクな感じだったので、やはり先輩と言った方がすっきりします。三井さんとお会いするのは学生時代以来実に20数年ぶりだったのですが、お会いすると、座っている後姿をみただけで三井さんとわかりました。また、式典後の懇親会でお話ししているうちに、しばし時間の経過を忘れてしまう感じがしました。

続いては『ポーランド文学史』。この本も、今後数十年間は類書がでないであろうといわれる決定版です(著者のミウォシュは、1980年のノーベル文学賞受賞者)。
授賞式には、ポーランド大使館の書記官ラドスワフ・ティシュキェヴィッチさんが来ていて、この本の出版が日本でポーランドのことを知ってもらうよい機会になればいいと日本語で即席のスピーチを行いました。私は18世紀の分割期のポーランドに興味があり、そんなことから少し氏とお話ししました。
縁とは不思議なもので、この本の出版社・未知谷の担当者Sさんは私の知っている編集者で、会場でぱったり会って、互いにまず、なぜあなたはここにいるのと驚きました(笑)。
ということでSさんともいろいろ雑談しましたが、いずれにしても、彼が元気で仕事をしている様子に安心しました。

『ドン・キホーテ』については、私は語る資格はほとんどないのですが、これまで何度か出ている翻訳の中で、今回の荻内訳は、「読める訳」になっているというのが高く評価されていました。新潮社の担当者も、自社は大衆文学の出版社と自認しており、今回の受賞作には難しい本が多いなかで、『ドン キホーテ』が読みやすいとして評価されたのは非常にうれしいと率直に語っていました。実はこの新潮社版『ドン キホーテ』には註が一つもないということですが、訳者・荻内勝之さんは、「『ドン キホーテ』を出版する時は註など一つもつけないで欲しいというのがセルバンテス自身の希望であり、自分はそれに従った。どうしても註が欲しいという人は岩波文庫などを読んで欲しい」と語って、会場をわかせました。

さて最後は『マイモニデス伝』。この本、今月1日の読売新聞読書欄で紹介されており、日本で初の本格的マイモニデス評伝といいます。また著者のヘッシェルは、20世紀を代表するユダヤ神学者とのことです。読売新聞の書評(神崎繁氏執筆)によれば、「1935年、既にユダヤ人排斥の始まったさなかに、著者はマイモニデス生誕800年記念に委嘱された本書を完成させ、米国に亡命した。その行程は、迫害を避けて彷徨したマイモニデスを彷彿とさせ、多宗教共存の崩壊を二重に刻印している」といいます。おもしろそうなのでさっそく注文しようとその記事を切り抜いた矢先に、会場で今回の受賞を知り、非常に驚きました。
私がマイモニデスの名前を知ったのは、井筒俊彦氏の著作『超越のことばーーイスラーム・ユダヤ哲学における神と人』(岩波書店、1991年)によってで、このなかに含まれた「中世ユダヤ哲学史における啓示と理性」のなかで、井筒氏は、「普通、西洋哲学史は、イスラーム哲学・ユダヤ哲学の叙述にかなりの頁を当てる。それは、13世紀のトマス・アクィナスをはじめとするキリスト教的中世スコラ哲学にたいするこれら二つの東方哲学潮流の決定的に重要な影響を考えてのことだが、その場合は、ユダヤ哲学は10世紀のサアディアーに始まり、12世紀のマイモニデースに終わるとされるのが通例である」(同書281頁)と、マイモニデスを非常に重要な思想家としてとりあげています。
マイモニデスといっても、ほとんどの人は初めてきく名前だと思いますが、現スペインのコルドヴァで生まれエジプトに移住して活躍した汎地中海的哲学者で、その思想は中世ユダヤ哲学の頂点とされます。また今日の政治状況ではとても考えられないことですが、マイモニデスは、それを当時の地中海世界の共通語であるアラビア語で記しました。エジプトではアイユーブ朝の宮廷に医師として仕えて、「天の徴」「時代の驚異」「東と西の光」「燃える希望」等と讃美され、その死にあたっては、ユダヤ人もアラブ人も、ともに三日間喪に服したといいます(以上井筒俊彦氏による)。生没年は1135-1204。同じころの日本では、法然が1133-1212、親鸞が1173-1262の生没です。
以下、井筒氏の叙述を少し追ってみましょう。
「マイモニデースにとって、ユダヤの啓示的宗教とギリシア哲学とは、二つの並立する独立の真理体系ではなかった。本性的に矛盾する二つの真理体系を、なんとか協調させて両者の間に一致点を見出すというようなことは、はじめから彼の念頭にはなかった。宗教と哲学とは、深層において全く同じ一つのものだったのである。より具体的には、哲学を、啓示の正しい理解ーーということは、前述した原則に従って、啓示の理性的理解ということにほかならないのだがーーへの唯一の方法として彼は構想した。」(井筒氏前掲書372頁)
「マイモニデースの出現とともに、中世ユダヤ哲学は、史的発展の壮麗な頂点に達する。いわゆるアリストテレス主義系統の哲学に関するかぎり、彼の作り出した広大で厳密な思想体系の上に出るものは、彼の以前にも以後にも現れなかった。ユダヤ教ーー特にラビ的・タルムード的に解釈されたユダヤ教ーーの、伝統的な宗教思想の地盤の上にギリシア哲学特有の理性的思惟を根づかせようとする大がかりな統合文化意図が、中世哲学の始めから蔭に陽に働いてきたことは前述の通りであるが、その試みは、イブン・ダーウードの例でもよくわかるように、いつも中途半端に終わっていた。それが、マイモニデースに至って、ほぼ完璧な形で実現したのである。」(同書363頁)
懇親会では小柄な紳士が私の横に座っていたのですが、会が進むと、司会者の紹介でその方が『マイモニデス伝』の訳者・森泉弘次さんだとわかりました。私はさっそく自己紹介させていただき、今回の本も、非常に楽しみにしているとお伝えしたところ、喜んで握手してくださいました。

ということで、不思議な出会いがいろいろあり、さまざまな人と話すことができて、私にとっては非常に充実した会でした。

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/07(土) 14:39:00|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:2
  4. | コメント:3

平松令三氏の『親鸞』を読むーー番外篇

[親鸞当時の関東での浄土信仰ーー千々和到氏の板碑研究から]
平松令三氏の『親鸞』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)の本文からは少しはずれますが、観親鸞当時の関東での浄土信仰がどのようなものであるか、千々和到氏の論文「東国における仏教の中世的展開ーー板碑研究の序説として」(『史学雑誌』82-2・3号)から補っておきます。
同論文第三章「加治氏とその信仰」で、千々和氏は中山智観寺(埼玉県飯能市)の板碑を詳しく紹介していますが、そのうち二基は次のような銘文をもっています。

[史料14]
(阿弥陀)
仁治第二暦<辛丑>季冬
廿四日<丁丑>当悲母比
丘尼<名阿弥陀仏>五七之
忌辰建弥陀三摩耶
一基之石塔矣


[史料15]
(阿弥陀)
仁治三年<壬寅>十一月
十九日当先孝聖霊
<丹治□□>三十八年星霜改
葬之間建弥陀三摩
耶一基之石塔矣


この二基の板碑について、千々和氏は次のように記しています。
「板碑は一基が造立者の母、名阿弥陀仏の五七之忌に建てられ、他の一基は造立者の父、丹治氏の三十八年忌改葬にあたって建てられている。この二基の板碑は、造立趣旨の記載方法が他に例を見ぬ独特のものでありながら全く相似であるばかりでなく、後述するように共に板碑を「弥陀三摩耶一基之石塔矣」などと呼んでいることにも注目され、大きさ、形態ともに一見して、(広義の)双碑であると考えられる。さらに、中藤栄祥氏の指摘されたように仁治二年(1241)十二月廿四日が五七の忌日である名阿弥陀仏の命日は十一月十九日だから、丹治氏の塔の建てられた仁治三年(1242)十一月十九日は名阿弥陀仏にとって丁度一周忌の日となる。このように考えると、この二人は極めて近い肉親同士であること、おそらくは夫婦であろうことが推測されよう。ところで丹治氏の欠損した字は、残画から家季または宗季と読めるようである。とすると、仁治三年はまさに元久二年(1205)から三十八年目であるから、この丹治家季とは、元久二年に畠山重忠と戦って討死した加治小二郎家季を指すものと考えることができる。
 次に、これら板碑はどのような信仰に基いて造立されたものであろうか。種子の阿弥陀仏からして、広義の浄土信仰によるものであることはまちがいない。ただ、「弥陀三摩耶一基之石塔」という呼び方からみて、その中でも真言念仏系の阿弥陀信仰を考えねばならない。すなわち、興教大師覚鑁の、「五輪九字秘釈」をもとに毘廬遮那仏の三摩耶形として図案化されたのが五輪塔であるが、ここでは、真言密教の言う、「毘廬、弥陀同体異名。」によって弥陀三摩耶塔と呼んでいると考えることができる。従って造立者が、この板碑を五輪塔と全く同じ本質をもつものと考えて造立していること、そしてまた、この板碑の造立が、真言系の阿弥陀信仰に基くものであることは全く明らかなのである。」(千々和到氏上掲論文)


われわれからすれば、親鸞が鎌倉で一切経を校合したと考えられる文暦二年(1235)前後に、関東(武蔵)に親鸞とは別系統の浄土信仰が存在したことを確認できれば、ここでは十分です。おそらく、この加治氏(丹治氏)と同様なケースは、親鸞が活動した常陸や下野にも多くあったものと十分に推測できます。親鸞は、浄土信仰の全く存在しなかった未開の土地に移住して浄土信仰を広めたのではなく、そうした信仰基盤のすでにある土地で、教団を組織したのだといえると思います。
また、板碑に多く刻まれている密教の光明真言についてふれながら、鎌倉時代には真言宗系の浄土信仰と法然流(西山派)の浄土信仰は相通ずるとする考え方もあったとする、千々和氏の次のような註も興味深いものがあります。
「無住の「沙石集」には、「…念仏真言ハ大概風情アヒ似タリ、義門互ニ相資ケテ信ヲマスベシ。アラソヒアヘル事、返々詮ナクコソ。当世ハ西山ノ浄土宗ノ人共真言ヲ習ヒアヘルト聞ク。尤モ然ルベキ事ニヤ。…仏陀ノ名字何ゾ真言ニアラザラン。」(巻八、不法にして真言の罰を蒙る事)とも言う。」(第二章註18)
ちなみに、無住(1226-1312)は、鎌倉に生まれ常陸で出家した人で、関東の仏教の状況を十分に知っていたと考えられます。

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:史跡 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/04(水) 13:10:26|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

平松令三氏の『親鸞』を読むーーその5

【親鸞帰洛の理由】
「帰洛の理由については学界に定説がない」(同書195頁)と、平松氏は述べます。
「かつては、『教行信証』を完成させるため、というのが有力だったが、関東滞在中に一応の成立を見たことが実証されてからは、学説としての成立の基盤を失った。親鸞も還暦の歳を迎えて、望郷の想いが強くなったのだろう、というのは、昔から言われ、それももちろんあったろうけれども、親鸞がそんな情緒だけで行動したとも思われない」(同書195頁)というのです。
親鸞の帰洛を鎌倉幕府の念仏取締りとの関連で考える説もありますが(笠松一男氏、赤松俊秀氏)、平松氏は、「念仏者への弾圧は、このころ関東よりもむしろ京都の方が激しいくらい」(同書196頁)と、これも否定します。
ではなぜ親鸞は関東を離れたのでしょうか。平松氏は、「それは20年以前、関東を志した理由に対応するものでなければならない、と思う。法然の弟子として専修念仏を弘めようという使命感を抱いて、そしてそのための手段として善光寺勧進聖の仲間に身を投じ、関東に入ったという目的が、20年間でほぼ達成した、という安堵感が関東から去らしめたのではないか、と私は思う」(同書196頁)とします。
ただし、この平松氏の考え方に対する私の疑問は、仮に親鸞が善光寺聖として関東入りしたということを認めるとして、この善光寺聖としての念仏は、はたして「専修」といえるのだろうかという点にあります。つまり平松氏の推測は、論として概ね正しいのではないかと私は考えるのですが、そのなかで、親鸞が関東で専修念仏を広めたという考え方に、私は疑問をもつのです。親鸞が関東で広めた念仏は、専修といえるようなものではなくて、もっと緩やかな念仏信仰だったのではないでしょうか(これは、先行する法然の布教に関してもいえると思います)。

この点について少し考えてみましょう。
法然・親鸞流の浄土思想をそれ以前の浄土思想とわかつ最大のポイントが「専修」にあるというのは事実だと思いますが、ではなぜ法然や親鸞は、専修を主張したのでしょうか。
これについては、通常、経典や善導ら先人の解釈を論拠として説明されることが多いのですが、私はそれは根本的説明に成りえていないし、だいいち、こうした権威主義的な説明で人々を十分納得させることはできなかったと思います(これは、仏教界内部に向けての、いわば論争にそなえた表向きの論拠というべきではないでしょうか)。
専修に関しては、もう一つ、念仏の易行性とむすびつけて、一種の平等主義、民衆主義の立場からとらえる見方も根強くあります。念仏は誰にでも実行できる容易な行為であり、しかも経典や論釈によって念仏によって往生できることが確実なのだから、往生するには念仏だけで十分と。しかしこの考え方は、たとえば「念仏は行者のために非行・非善なり」(『歎異抄』第八条)という親鸞の言葉に抵触するのではないでしょうか。というか、親鸞は、念仏が確実で容易な行為だからこれを選択するのだという考え方に備えて、「非行」ということを言ったのではないでしょうか。親鸞になぜこうした言い方が出てくるかというと、彼には往生だけを目的とした念仏の否定という考え方があるからではないかと思いますが、この点からすると、専修念仏の平等性を強調する捉え方は、いくら人道的で魅力的に響くからといっても、結局、親鸞の思想を表層的に把握したものでしかないのではないかと思います(ただし、法然に関しては、こうした見方もある意味で可能ではないかと思いますが、このブログではとりあえず親鸞中心に考えたいと思います)。
では親鸞の浄土仏教において、専修とは一体何だったのでしょうか。私はそれは、「如来よりたまはりたる信心」(『歎異抄』第六条)を自己のものとして感得すれば、それ以外のものは不要となるという意味において、結果的に専修だったのだと思います。したがって、この論理を逆転させて最初に専修を強調して雑修・兼修を排斥するような態度は、親鸞が感得した浄土信仰と反しているのではないかとも思うのです。
親鸞にすれば、如来から信心をさずけられていない人、あるいは「本願招喚の勅命」(『教行信証』行巻)が聞こえない人が念仏のみによる往生を疑うのはやむを得ないことで、だからといって彼らが行っている行としての念仏をやめさせることはできないということではないでしょうか。またさらには、人々が他の行や信仰と兼ねて念仏を行うことも容認せざるをえないということだったのではないでしょうか。
いってみれば、親鸞にとって「専修念仏」とは、それ自体が必須にして不可欠の原理ではなく、念仏者がめざすべき窮極目標として掲げられていたのではないかと私は思うのです。
ここでは詳論しませんが、法然に関しても、以上のような観点から「なぜ専修なのか」もう一度考えてみる必要があると私は思います。知られている法然の高弟のうち、たとえば藤原兼実の行実は、専修念仏者のものとはいえないですね。教団内の雑修、兼修を容認するというのは、親鸞が法然から引き継いだ布教方針だったのではないでしょうか。

専修の問題に関してはとりあえずこれくらいにして、善光寺勧進聖の経済面について、またそれと親鸞帰洛のからみについて、平松氏の推論を読んでみましょう。
「勧進聖の経済面については史料が乏しく研究が進んでいないが、勧進聖の中には上下のランクがあり、下級の聖は、勧進物の中から、自己の生活の資を差引いた残りを上級の聖に差出し、上級聖は一定額を自己の得分として差引き、残りを本寺へ上納する仕組みとなっていたものと考えられる。それはこの当時の荘園制経済がそうした仕組みだったことから、当然推測されるものである。」(同書198頁)
続いて平松氏は親鸞の次の書状をひきます。
「護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。さきに念仏のすゝめのもの、かたがたの御なかよりとて、たしかにたまはりてさふらひき。」(『親鸞聖人御消息集』第三通)
宮崎円遵氏は、この書状のなかの「こゝろざしのもの」と「念仏のすゝめのもの」を性質の異なるものとして区分し、「こゝろざしのもの」が個人の懇志であるのに対し、「念仏のすゝめのもの」とは念仏勧進によって得られた特殊な懇志と解しているといいますが、平松氏はこの解釈を一歩進め、「「念仏のすゝめのもの」とは、経済上は上級聖の得分に相当するのではなかろうか」(同書199頁)と推測し、さらには「関東の門弟たちの間に、そうした経済機構が安定的に形成されたことが、親鸞を安心して故郷へ帰らせた」(同書199頁)と想像しています。
この分析は、私には非常に説得的です。

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/03(火) 12:51:50|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

ブラームス・デイ

昨日はなぜか一日ブラームスのCDを聴いていました。

ゆっくり起きて、ブランチをとりながらまず交響曲第一番(ベーム、ベルリン・フィル)。これはベームの比較的若い頃(59年)の録音で、廉価版CDが出たのを機に購入したもののじっくり聞き込む機会がなく、そのままになっていたもの。次に、ベームからの連想でベーム、バックハウスが共演しているピアノ交響曲第二番。その次には、ブラームスを続けに二曲聴いたのだからまたブラームスをという発想でピアノ三重奏曲第一番(イストミン、スターン、ローズ)。この曲のこの演奏は、私が最も好きなCDの一つで、ブラームスに限らず、これ以上ノーブルな曲と演奏は他にちょっとないだろうと思っています(たとえば、同じ曲のルービンシュタインらによる演奏は、ゴツゴツした感じであまり好きではありません)。
と、ここまでくればオール・ブラームス・デイにするしかないということで、次にはヴァイオリン協奏曲。こちらは、これまた私が最も尊敬する指揮者であるクレンペラーとオイストラフの演奏。
この曲を聴いている最中に友人から電話があり、友人の買い物につきあうことにしました。赤坂の某ホテルで洋服のバーゲン・セールがあり、友人はそれを見に行きたいというのです。実はこのところメールの調子がよくなく、パソコン通の友人にはそれをどうしたらいいかの相談もあったので、着替えてホテルに向かいました。
このホテルは私のあまり行ったことのないホテルで、アーケード街から待ち合わせを約束したロビーにたどりつくのにちょっと手間取りましたが、なんとかすべりこみ。バーゲンでは、友人はいろいろ物色して気に入ったジーンズを見つけたようでした(友人がジーンズを試着している間、私はふだんなかなかできないジャケットの試着にトライ)。
買い物後は、広い庭の見えるホテルのラウンジでしばし休息。友人は巨大なショートケーキのセットを、私はマロングラッセをのせたナポレオン・パイに挑戦。
さてティー・ブレイクの話題はいろいろありましたが(もちろん親鸞論を含む)、その柱の一つは音楽演奏論。私は、今日出かけるまで聴いていたベームのことなどを話しました。

朝?一番に聴いたというのは、ベームが私のお気に入りの指揮者だからかというとそうではありません。逆に、ベームは私が最も苦手とする嫌いな指揮者の一人です。昨日も、ベームのブラームスは、勢いがあるといえばあるけれど、力まかせのかなり荒っぽい演奏だという感を強くしたばかりです。
で、音楽演奏の話題というのはまずは指揮者論なのですが、二十世紀に活躍した大指揮者たちを分類するのに、通常は主観派(フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、クナッパーツブッシュ等)と客観派(トスカニーニ、クレンペラー、セル等)でわけますが、そうではないのではないかという持論を存分に語りました。
つまりこれは、主としてブルーノ・ワルターの演奏を聴きながら考えていることなのですが、通常、フルトヴェングラーなどとともに主観派の代表と考えられている彼の演奏、じっくり聴くと、曲のなかの一つひとつの音を大事にした、いわば「音楽本位」のものであるという気がしてくるのです。
となると、ブルーノ・ワルターは、クレンペラー、セルとならぶ、「音」重視派であり、この三人は、音楽においては音もしくは響きが最も重要な要素で、それがきちんとだせたうえではじめて、主観とか客観といった表現があると考えていたという点で共通していると私は思います。彼らに比べると、フルトヴェングラーやベームの演奏は、音を整えることは二の次で、まずは表現だと主張しているようで、私には抵抗があるのです。
(このなかでカラヤンをどう位置づけるかは少し面倒ですが、カラヤンという人は、一見「響き」重視派のようにみえながら、セルやクレンペラーに比較すると非常に不徹底だと思います。カラヤンのモーツァルトやベートーヴェンは、私にはとても濁ってきこえるのです。)
ところで、50年代、60年代を代表する彼ら大指揮者たちを私のように二分すると、その区分はそのまま、ユダヤ系指揮者(ブルーノ・ワルター、クレンペラー、セル)とドイツ系指揮者(フルトヴェングラー、ベーム+カラヤン)という区分でもあります。私としては、双方のグループに属する指揮者の演奏の違いを、いわゆる「血」や「気質」の問題に還元したくはないのですが、となるとこれは20世紀のドイツ社会のなかでドイツ系音楽家とユダヤ系音楽家がおかれていた立場の違いに起因するのではないかと考えたくなります。つまり、ドイツ系の音楽家たちは、聴衆ととあるコミュニティーを共有し、その暗黙の了解のもと、結果的にコミュニティーの結束を高めるような演奏、演奏者と聴衆が同じコミュニティーに属することを体感できるような演奏をしていたのではないでしょうか。そういう演奏として、フルトヴェングラーの演奏は、やはり非常にすぐれたもの、インパクトの強いものというべきでしょう。
実は、聴衆を感動させるのがいい演奏だと、演奏論をここで打ち切る考え方もありますが、私はそれには賛成できません。
フルトヴェングラーに対し、ブルーノ・ワルターやクレンペラー(ともにマーラーの弟子)は、第一次大戦後のドイツ社会で華々しく活躍しながらも、ユダヤ人であるがゆえに、根本的なところでコミュニティーに受け容れられていないということを自覚していたのではないでしょうか。そのことが、無意識的に彼らの演奏を自己防衛的な色彩の強いもの、自己の主観をストレートにさらけだすよりも音そのものを磨き上げて欠陥の少ない音楽、批判されることの少ない音楽を練り上げるという方向に向かわせたのではないかと私は考えます(この音を磨き上げるという方法論は結果的にモーツァルトの音楽演奏に合致しており、ブルーノ・ワルターもクレンペラーも、モーツァルトを主要レパートリーの一つとしています。これに対するベームのモーツァルト演奏は、よくいえば、モーツァルトの人間性を重視したものといえるでしょうか。音がざらついていて、私にはそれがとても気になるのです)。
ところで、このところ私はハイデガーの著作も少し読んでいるのですが、就中、『言葉への途上』を読んでいると、この著作のもととなった講演の多くが50年代に行われており、その時期はちょうどフルトヴェングラーの晩年に重なること、フルトヴェングラーもハイデガーも、戦争中のナチスとのかかわりが問題とされ、戦後の活動に制約を受けたことを考えてしまいます。
この二人を同時代人として一緒に論究した例を私は知りませんが、戦後、ともにナチスとの関わりを問題にされながらも、フルトヴェングラーの方は、音楽家であったがゆえにその活動は本来的には非政治的なものであったとされ、許容されているように思われます。しかし、フルトヴェングラーの演奏が、主観か客観かという単純な表現スタイルの問題ではなく、ドイツ社会(コミュニティー)のあり方と深く結びつくものであることを考えると、フルトヴェングラーの演奏の政治性も、より深いレベルで考えなくてはならないのではないかという気がしてきます(注意していただきたいのですが、私はここで、フルトヴェングラーは戦犯だといいたいのではありません)。
そしてこの問題は即座に、ハイデガー思想の政治性の問題ともかかわってきます(現在この問題を考えるならば、『ハイデガー「哲学への寄与」解読』<鹿島徹他著、平凡社、2006年>がとてもおもしろいと思います)。戦後のハイデガーは、その関心領域を「言葉」の問題に先鋭化させていったともいえますが、言葉の問題とはすなわち社会(コミュニティー)の問題であるともいえるのではないでしょうか。
友人と話しながら、昨日は、そんなことをとりとめもなく考えていました。

(帰宅してからは、ルービンシュタインでブラームスのピアノ・ソナタ第三番を聴きました。)

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/02(月) 09:38:24|
  2. クラシック音楽
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:2

平松令三氏の『親鸞』を読むーーその4

さて、平松令三氏の『親鸞』<歴史文化ライブラリー>(吉川弘文館、1998年)の紹介(抜書き)を再開しましょう。前の記事では、「越後から関東へ越えて二十年」の章までをとりあげましたが、「帰洛の理由と京の生活」から再開します。

【一切経校合】
まずは一切経校合の節。
「親鸞の帰洛について「伝絵」は、「聖人東関の境を出でて、華城の路におもむきましましけり」とあっさり片付けていて、いつごろ、どういう理由で京都へ帰ることになったのかにはまったく触れていない。」(平松氏、同書184頁)
これに関して平松氏が注目しているのが、これまで紹介してきた峰岸純夫氏の論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」です。
峰岸氏が紹介・分析している覚如『口伝鈔』の記事は、それまで真宗史の学界ではほとんど事実として採り上げられることがなかったのですが、平松氏によればそれは、「教義面からは、袈裟の徳用が説かれている部分が、どうも親鸞の思想とは一致しないのではないか、と考えられることと、歴史学の方からは北条時頼には早くから廻国伝説がつきまとっていて、カリスマ化傾向が指摘されることや、この説話の冒頭が「西明寺の禅門の父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」となっているのだが、時頼が九歳になったときには、父時氏はすでに死去してしまっていて、歴史事実と喰い違う、ということなどが手伝っていた」(同書186頁)といいます。また、「しかしそれにもまして、この話は真宗教団に属する研究者の多くが抱いている親鸞像に照らしてみて、そんなことはあり得ないことのように思われたからではなかっただろうか。関東での親鸞は、片田舎で農民たちを相手に、ひたすら念仏の道を説いて廻っていただけで、政治権力とはまったく無縁の生活だったにちがいないから、鎌倉幕府のような権力中枢からお呼びがかかるはずがないし、仮にお呼びがかかったとしても、親鸞の信念からすればそれに応ずるようなことはあり得ない、という先入観があって、学者たちはこの話を歯牙にかけようとさえしなかったのであった」(同書187頁)といいます。ところが、「峰岸氏は真宗教団とは別世界の人であったために、従来の親鸞像にこだわることなく、無頓着にこの『口伝鈔』の説話に取り組んだ。そして父時氏というのを祖父泰時を誤解したものと訂正さえすれば、あとはこの記事は事実として何ら不合理なところはない、事実と認めてよい、という結論を出したのであった。まことに注目されるべき提案といえる」(同書187頁)と高く評価しています。
続いて平松氏は、テクスト・クリティックの観点から峰岸論文を点検します。
「じつは『口伝鈔』について、現存諸本を対校してその成立過程を研究してみると、「父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」という文言は、改訂本に見られるものであって、覚如の初稿本には「祖父武蔵守泰時世をとりて、政徳をもはらにせしころ」となっていたことがわかっている(龍谷大学善本叢書『口伝鈔・改邪鈔』平松令三執筆「口伝鈔」解説)。北条泰時が執権として在職中に、一切経の校合を行うことになり、武藤左衛門景頼や宿屋入道光則に親鸞を探させた、という初稿本の記載は、この当時の事情によく符合していて誤りはない。覚如がそれをなぜ「父修理亮時氏」と誤った方向へ改訂したのか、その事情は審らかでないが、こういう初稿本の記載からも、この一切経が鎌倉幕府で行われたものであり、それは峰岸氏の言うように文暦二年に明王院五大尊堂で供養されたもの、と認定して差支えないと思われる」(同書188-9頁)と、峰岸説を補強しています。
前述のように『親鸞伝絵』では、この一切経校合は全然触れられていません。これは『伝絵』が『口伝鈔』より36年前に成立し、その成立時点では、このエピソードが知られていなかったためとも考えられますが、平松氏は、「(覚如は)「伝絵」初稿を制作してからのち、少なくとも二度以上増補改訂しているのだから、この話を追加しようとすればできたはずである」(同書189頁)と自問します。
そこで平松氏が注目するのは、京都仏光寺に所蔵されている「伝絵」です。実はこの仏光寺本は、奥書などを欠くため制作年代が明確でないのですが(ただし画の描法などから推して室町初期の制作と判定されます)、そのなかに、次のように、この一切経校合の話が採用されているというのです。
「関東武州禅門<泰時>一切経の文字を校合せらるゝことありけり。聖人その選にあたりて、文字章句の邪正をたゞし、五千余巻の華文をひらきて、かの大願をとげしめ給けり。」(平成元年同朋舎出版刊『真宗重宝聚英』第五巻収載)
この記載は、『口伝鈔』の初稿と合致しています。
また平松氏はこの場面に付された絵も紹介していますが、それは、「座敷の中に座る親鸞の前に、砂金の包かと思われる小袋三個が角盆に載せられており、戸外からは幕府方の召使かと思われる男が、衣類らしいものを捧げ持ってきている。この校合に加わって、多額の謝礼を受取っている場面のように見える」(同書192頁)といいます。平松氏はさらに、「詞書に「壱岐左衛門入道<法名覚印>沙汰として、さまさまに四事の供養をのべられけり」というのは、親鸞の参加によって泰時の念願が成就したので、多くの布施物がとどけられた、という意味らしい」(同書192頁)とします。
この小袋のことまで事実かはわかりませんが、少なくとも、この画を書いた絵師は、こうした場合には小袋(砂金)を差し出すのが当然と考えていたのでしょう。
これらからする平松氏の結論は次のようなものです。
「ともあれ親鸞は、『口伝鈔』に記されているように、鎌倉幕府の招きに応じて、一切経校合に参加したか、あるいはまた峰岸氏がいうように、「教行信証の完成のために、親鸞は一切経のもっとも得やすい鎌倉に移住し、幕府からその校合の機会を与えられ」たか、したのであろう。したがって、帰洛は文暦二年以降ということにならざるを得ない」(同書194頁)

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/01(日) 13:35:33|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。