le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

のんびりと

浄土教団に関する研究論文(ノート)、20日に無事提出しました。
全体の構成をどうするか、最後まで悩みましたが、結局、冒頭に『バルタザールどこへ行く』についての浅沼圭司さんの発言の一部を引用するという歴史の論文としては風変わりなスタイルに落ち着きました。
今、査読にまわっていますから、これが無事査読を通過することを祈るばかりです。

ということで、久しぶりに締め切りから解放され、ちょっとぼうっとしています。
研究発表や論文執筆のあいだ読めなかった本がだいぶたまっていますから、まずはそれを少しずつ読んでいくというのがとりあえずの計画。
それがすんだら、某評伝の下読みを再開しようと思っています。
スポンサーサイト

テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/25(日) 10:07:11|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

ローマ発

ローマのMCさんから、久しぶりにメールがありました。
私が原稿を寄稿した論文集、ブラジルのに編集作業をまかせていたのだそうですが、作業が全然進まないので自分で編集することにした、論文集はまもなくできあがるだろうというものです。うれしいですね♪
MCさん、水曜日ににはサン・パウロに発つ予定とのことで、それまでの終了をめざしているようです。

テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/11(日) 21:58:54|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

ブレッソンの作風と親鸞

某仏教系研究会会報用の原稿の構想がうまくまとまらなくて、今日は大学時代の友人に電話をかけてみました(彼には、昨年末に行った研究報告のレジュメを送ってあります)。
話は歴史のことにはならなくて、もっぱら雑談に終始したのですが、そのなかでブレッソンのことが少し話題になりました。そこで電話を切ってから、このブログでもご紹介しているブレッソン『バルタザールどこへ行く』公開当時の「アートシアター」プログラム(第76号)をまた引っ張り出し、それを読みかえしてみると、こんなことははじめてなのですが、今の私には、これが親鸞と名号のことを語っているように思えました。私が書きたいのは、親鸞と民衆とのかかわりとか、救済の問題ではなくて、こんな親鸞論(名号論)なのですね。

   *    *    *

浅沼圭司:一般的な問題として言うと、例の『抵抗』を論じた文芸評論家のことばにサジェストされて少し考えてみると、もっとはっきり言えばマラルメなどの”ことば”に対する考え方と大変、もちろんブレッソン自身はそんなことは考えていないと思うけれども、ぼくらが脇からみると、共通したものを感ずるんです。マラルメの有名な「詩の危機」(crise de vers)という論文があるんですが、そこの有名なことばで、ナマのことば日常のことばというのは貨幣みたいなものであって、思想交換、感情交換のための手段でしかない。それはそれ自身の存在を持たない。それに対して本来のことば、本質的なことばというのは”何かのための”ことばでなく、ことばそのものであって何かとの交換のためにあるのではない。それはいろいろひっついた思想とか感情とか習慣とかをどんどん落としていったところで純粋化されたことばなんですけれども、どんどん純粋化してみると結局何もなくなってくる。なくなるどころかあるものをなくしてしまうような働きを持ってくる。マラルメはおそらく彼の詩作を通して、ことばの純粋化をどんどんやっていたのだろう。ところがそうしていくと、純粋化されたことばというのは、いろいろな現実の表面的皮相的な、あるいはくっついたものをどんどん消していく力を持ってくるわけで、ことばそのものへの関心から始めた詩作は、次第次第に今度は現実の表面的なものを洗い流していくという力をおのずから持ってしまう。そうすると、向こうに見えてくるのは、現実を越え出た何かではないだろうか。ことばそのものへの関心、その純粋化への試みは結局超越的なもの、聖なるものへの関りを生じるわけですね。マラルメの確固たる硬い主知主義的な詩の世界は聖なるものに対して開かれ、現実に対しては閉ざされているような気がします。そういう性格というのはどうもブレッソンなんかにも、非常に強くあるんじゃないか。

【参照】
ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 2

テーマ:仏教 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/07(水) 13:29:02|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

レジュメの反響

12月に行った浄土教団関係の研究報告のレジュメを、中世の仏教教団等について残存遺物中心に考古学的な立場から研究しておられるM渕さんにお送りしたところ、宗教の発生の機は何か、宗教体験とは?など色々考えながら興味深く読んだという主旨の丁寧な手紙を頂戴しました。うれしいですね。
私の研究方法はあくまでもテクスト中心なのですが、そのとき、テクストの意味や内容に注目するというよりも、テクストがどのような経緯で書かれたかというテクストの特性・構造といった部分に注目することが多いので、考古学的研究と重なる点も多く、考古学系の研究者の方には教えられることが多いのです。
M渕さんは、報告のなかの①概論(神秘主義としての浄土仏教)、②法然教団の専修性、④親鸞教団の部分が特におもしろかったと指摘してくださり、早く論文にするようにとも書いてくださっています。
とても励みになります。

テーマ:仏教 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/03(土) 09:40:21|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

共訳の合意

昨日の記事の最後に書いたMさんとの初顔合わせ、とてもうまくいき、ある本の翻訳(共訳)のこと、完全に合意に達しました。
共訳といっても、大学で美学(哲学)を教えておられるMさんと一介の個人研究者に過ぎない私では、正直いって世界が全然違うのですが、共訳は、それぞれの持ち味をいかして、とりあえず訳は私が主体となってすすめ、註、参考文献紹介、ディスコグラフィー作成といった細かい作業は、Mさんが責任をもつということになりました。
話を終えて帰るとき、私は史学科のCさん(私は、浄土教団研究のなかでCさんの論文を引用している)のことを思い出し、ご挨拶をと思って研究室をノックしたのですが、事前のアポイントもなかったのに、Cさんは私を快く迎えてくれたばかりか、待っていたMさんに、あらためて、私とは懇意にしているからと紹介してくれました。
これでMさんと初対面の緊張も完全にとれ、なにか、共同作業がスムーズに行きそうな雰囲気になりました。
縁というのは、ほんとうに不思議なものですね。
共訳のことが合意に達したといっても、すべての作業はこれから。あとはひたすら翻訳あるのみ。
(とはいえ、その前にまず浄土教団研究の研究ノートを仕上げないと!)

   *    *    *

この記事が興味深かったら、クリックお願いします↓
banner_01.gif

テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/02/01(木) 12:24:11|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。