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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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荻昌弘氏の『ジャンヌ・ダルク裁判』分析

昨日神田をau hasard(行きあたりばったり)にふらついていたところ、ロベール・ブレッソン『ジャンヌダルク裁判』のプログラム『アートシアター』72号(1969年発行)を発見した。この号は、私が『バルタザールどこへ行く』のプログラム(『アートシアター』76号、1970年発行)を買い求めた際すでに絶版となっていたもので、それ以来、実に30数年ぶりの発見!である。
資料的に非常に貴重なもので、以下、この号から、巻頭に掲載された荻昌弘氏の作品研究の一部を抜き出して紹介したい。荻氏の研究は、『ジャンヌ・ダルク裁判』という作品をその技法と関連づけながら分析したもので、今はじめて読んで、映画の作品分析としての質の高さに感心した(ブレッソン映画の質の高さが、こうしたすぐれた作品分析を呼ぶということでもあろう)。すでに紹介済みの『バルタザールどこへ行く』についての浅沼圭司氏と品田雄吉氏の対談と合わせ、ブレッソン映画の特質がよくおわかり頂けるのではないかと思う。
(残念ながら、私は『ジャンヌ・ダルク裁判』未見。DVDも絶版で購入不可という。とりあえずは、こうした作品分析から『ジャンヌダルク裁判』に迫るしか手がなさそうだ。)

bresson-jeanne.jpg


作品研究 ジャンヌ・ダルク裁判(抜粋) 荻昌弘氏

 強く信念に生きる人間が、一筋の行為と思想をつらぬき通してゆく潔癖な純粋感は、つねに、ロベール・ブレッソン映画の、根底をなす精神である。
 「田舎司祭の日記」は病魔と中傷に堪えぬいて、魂の救済に使命をみいだしつづける青年司祭の、純白の日記であった。「抵抗」(56)では、対独レジスタンスをみずからのの使命と思いさだめたフランスの青年将校が、逮捕直後から黙々と独房のドアを削りつづけ、誰の命令でも誘いでもなく、ひとりの信念と判断で脱獄を実践してゆく。「スリ」(59)は、極度の潔癖な洗練を必要とするこの職業の技法的緊張を、徹底的な局部のつみ重ねで凝視した映画であった。ロベール・ブレッソン作品にあっては、主人公のこのような無垢の純粋感が、それを映像に凝縮してゆく作者自身の文体の簡潔さと完全に一致することによって、極度に夾雑物を蒸留しきった、独自の、白木のようなシンプリシティがうみだされるのである。
 そのブレッソン作品のなかでも、1962年の黒白スタンダード作品「ジャンヌ・ダルク裁判」は、簡潔のうちにも簡潔な秀作、と呼ばなければならないものだ。ここには、中世、絶対の権力であったカソリック教会に向って、あくまで、「自分は神の声をきいた」と”われ”の目ざめを言い張りつづける一人の少女、その少女の使命確信とそこへいたる人間的苦悩が、いっさいの余分な属性を切り捨てた形で、抽出される。おそらく70余年の映画史中、劇場用に製作されたフィーチュアで、これほど簡素な統一体へ、いっさいのぜい肉と湿気をしぼりあげ、削りぬいた劇映画はなかったのではあるまいか、と思える一時間五分である。

(中略)

 ロベール・ブレッソンは、処女作「罪の天使」(43)いらい、一作が一作ごとに、環境描写を、その映像から駆逐しつづけてきた、といわれる。その「剰余の排除」は、端的なクローズアップ芸術であった。「スリ」のあとをうけるこの「ジャンヌ・ダルク裁判」にいたって、ほとんど極限に達してしまう。局部の微細な凝視のつみあげ、が美学の基盤となっている点は、これが、「抵抗」や「スリ」と、少しも変わっていない、彼独自の特質である。ここでは、例によってカメラは、ほとんど歩むことも、首をふることさえも、やめる。移動撮影は、刑場へ運ばれるジャンヌの素足の歩み、そのほかわずかに見られる程度である。パンニングは、ジャンヌが独房へ戻り、人間的動揺と弛緩をとり戻す際、ごくしぜんに視線の動きなどにつれて行われるにすぎない。あとは徹底したフィックスショット。その硬質なモンタージュは、ただ、ヒロインが入廷するその間際だけ、ディゾルヴで和らげられるのみである。
 カメラの首が固定しているだけではない。ここでは、特に法廷を凝視する場合、カメラは、定位した人物に対する位置から角度まで固着させてしまう。判事に証言(答弁)をつづけるジャンヌは、つねに、斜右前からだけ、不動のカメラ位置でキャッチされる。裁判官たちも、陪席の僧侶も、傍聴者も、同様のフィックスである。右前から、とらえられたういういしい素人娘、フロランス・カレのジャンヌは、そのカメラの固定によって、いいようなく確信にみちみちて見え、この少女が全心全身に安定してもちつづけた慈愛を表現しつくす。そして判事の場合は、聖書のせまい解釈から故意に一歩も出ようとしない、頑なな教条主義を。
 特に重要な独自の文体は、この映画が全篇、たった一ショットもの「全景」も「遠景」も、そして人物の「大写し」も持たぬことであった。法廷の全景すらない。独房や刑場の、ひきもない。ブレッソンは、1時間5分のほとんどを、徹底的に、動きのない、ミディアム・ショットのつみ重ねだけで押通すのである。たえずジャンヌは、ミディアムで入廷し、ミディアムで毅然と判官たちの難問をきりぬけつづける。

(中略)

 そしてその正論の少女は、一日の訊問を不動の姿勢で胸張って耐えぬくと、独房のベッドで、涙に乱れる。迫ってくる処刑。近づかない救い。映画は、彼女の、この凛然たる法廷と、涙の独房とのつきることのない繰返しをループしてゆく。すべてが定位置の、同じリズムでおこなわれるこの繰返しは、映画に、さながらカノンのような、堅固な構築性をうみだしてゆくだろう。そして、その構築のはてにあるものーーそれこそがブレッソンの作品をつらぬく、いわゆる、”どうしても避けられない結末を待つ、焦慮のサスペンス”なのである。「田舎司祭の日記」を、そして「抵抗」を「スリ」を、禁欲的なまでにするどくひきしめたサスペンスフルなドラマ的前進感が、ここでも、一見まったく粘着力をもたぬショットを、目にみえぬ磁性で結びつけ、悲劇のクライマックスへ向って集約する。(以下省略)


【参照】ディゾルヴ(多重露出)[週刊シネママガジンサイト内]

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テーマ:映画監督 - ジャンル:映画

  1. 2006/04/19(水) 13:46:28|
  2. 映画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
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  1. 2006/04/19(水) 23:40:09 |
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