le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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歴史上の真理とは

18世紀思想や和歌の話もさることながら、今回はいつもと少し趣向をかえて、日頃、歴史学あるいは歴史上の文献に接している身として、歴史上の真理というのをどのように考えているか、ちょっと記しておこうと思います。

   *    *    *

さて、ドイツの哲学者ライプニッツは、真理を次のように二つにわけます。
「真理にも二種類ある。思考の真理(verites de raisonnement)と事実の真理(verites de fait)である。思考の真理は必然的であってその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。」(ライプニッツ著作集第9巻~『モナドロジー』第33節、西谷裕作氏訳、工作舎)
この二分論は、通常次のように解されます。
「理性の真理(西谷氏の訳文では思考の真理)とは、『三角形の内角の和は二直角である』のように数学や論理学におけるア・プリオリな必然的真理であり、その反対はただちに論理的な矛盾を生む。それゆえ、これは矛盾律に支えられていると考えられる。もっとも、理性の真理は可能的本質の世界でのことであって、必ずしも現実存在には関わるものではない。他方、事実の真理は、可能性ではなくつねに現実存在に関わる。それは歴史的出来事や現実の世界におけるア・ポステリオリな偶然的真理である。これは理由律(充足理由律)によると言える。たとえばスピノザが、ハーグではなくレイデンで死んだとしてもそれは矛盾ではないが、ハーグで死んだことにも神の知恵と善性とが関わっている。」(山田弘明氏『真理の形而上学ーーデカルトとその時代』(世界思想社、2001年121-2頁)
ライプニッツによれば、事実の真理に関して、われわれは、理性の真理(思考の真理)と同様の確実性に到達することはなく、蓋然性のなかで議論をすすめるしかありません。私は、「歴史上の真理」というのは、一般的にいえばまさにライプニッツのいう事実の真理であり、その確実性はたかだか高い蓋然性を指すのではないかと考えています。「ある時代を正確に理解する」「ある出来事を正確に理解する」というのは、一見正当のようでも、これからすれば論理的に不可能な命題と位置づけざるをえないでしょう。
ただ歴史学が目指しているのが単に「ある時代の正確な記述」であるかといえば、それは必ずしもそうとはいえないのではないでしょうか。この問題は、今度は、厳密には「記述」の正確性・再現性もからんでくるのでややこしいのですが、私は、歴史学が目指しているのは(言葉のあやの問題のように思えるかもしれませんが)、「ある時代や出来事のより正確な記述」なのだろうと思います。別の言葉で言えば、歴史上の真理というのはどこまでいっても蓋然性のなかでの真理かもしれませんが、その蓋然性を高めていくという作業が歴史学なのだろうと思います。
ただ最近の歴史学(断定的にはいえませんが、思うに構造主義以降の歴史学)は、こうした真理論とは異なる真理論に依拠しているといえるような気もします。
それはつまり、「絶対確実な歴史的事実が存在する」ということを前提に、それを明らかにしていくのが歴史学なんだという素朴実在論的な考え方が構造主義によってくずされ、その時から、歴史学は史料解釈学におきかえられて、残存する史料からどれだけのことが論理的に帰結するかを記述する学問に変質しつつあるのではないかということです。
この変質を前提にしていえば、歴史学上の真実は、イデア的な歴史的実在とつきあわせて真偽を判断されるべきものではなく、個々の史料および史料の相互連関のなかで、史料と矛盾しないか検証されるべきものとなり、史料との連関という限定された枠のなかでは、事実との連関においては獲得できなかった確実性を獲得したということですね。これをライプニッツの真理論にもどして考えれば、歴史学の真理が、充足理由律上の真理から、矛盾律上の真理へとその審級を移動させたといえるのかもしれない。いずれにしても、歴史上の真理というのが、近年、その意味を変化させたのは事実だと思います(歴史学はそうした自己認識をもつ以前から本質的には史料解釈学だったのだといえなくもないとは思いますが、それを明確に自己認識しているかどうかは、学としての歴史学のあり方に大きく影響していると思います。少し前まで、歴史学という学問においても、「歴史的必然性」という概念が大手をふって歩いていたわけですから)。
以上述べたようなことが歴史学の矮小化なのかどうかは、また別に論ずべき問題だと思いますが。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/20(火) 14:16:29|
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