le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

久保木秀夫さんの「『良玉集』考」を読んで。

さてでは、久保木秀夫さんの論文「『良玉集』考ーー四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂文庫蔵「序」の紹介を兼ねて」(『国語と国文学』平成17年6月号掲載)の内容を検討してみましょう。ただし、私の関心は『金葉集』と『良玉集』の関連にあり、もっぱらその方面から久保木さんの論文を読むことになると思います。

まず『良玉集』そのものに関する基本データですが、これは『和歌色葉』『私所持和歌草子目録』などによってその名が知られる和歌集で、『和歌現在書目録』に、

 良玉集十巻
八条兵衛佐入道顕仲撰之。金葉集撰之比。大治元年十二月廿五日撰之。

と記されているところから、藤原顕仲撰の十巻仕立ての私撰集で大治元年(1126年)12月25日に成立したということがわかります。『良玉集』の撰者や成立年代がこれで良いかということには若干の問題もありますが、逆に『和歌現在書目録』以外に『良玉集』に関する有力史料がなく、また『和歌現在書目録』の記述を疑う積極的理由も存在しないので、『良玉集』の成立に関しては、この『和歌現在書目録』に従うというのが定説になっています。この点は、久保木さんも定説に従っていますし、加畠吉春さんも「金葉集の撰進」のなかで、この定説に従っています。
ところで肝心の『良玉集』そのものですが、室町時代頃まではテクストが残っていたらしいのですが、その後テクストはすべて失われ、その具体的な内容は、他のテクスト(例『校本謌枕名寄』)に記されたほんの一部しか現在に伝わりません。ところが、四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂に伝わる『諸集漢序』のなかには、『良玉集』の漢文序文が含まれているのです。
この『諸集漢序』、恩頼堂文庫本のほかはまったく伝わらず、奥書等もないので、どういう性質の本かはまったくわかりません(江戸中期頃の写しか?)。したがってこの『諸集漢序』だけからでは、掲載されている『良玉集』漢文序文がほんとうに『良玉集』の序文なのか真偽判断ができないのですが、これに関しても、『諸集漢序』の記述を疑う積極的理由が存在しないので、『良玉集』の漢文序文を伝える貴重な史料としてよいかと思います。
さてこの『諸集漢序』に記されているのは、「古今和歌集序」にはじまり、「新古今和歌集序」「続古今和歌集序」等。このなかに『良玉集』の序とおぼしき次のような文章が記されています。

良玉和歌集 大治元年十二月二十五日撰之八条兵衛佐顕仲
 和謌者、神世之余流、我朝之習俗也、是以、
 好事之家、或奉綸○以撰集、或顧忽忘、
 以部類、礼部納言後拾遺、将作太匠金
 葉集、能因法師玄々集、皆載佳句、悉尽
 能事、今予所撰、彼集之外、所漏脱也、編
 列之体、夫兼美実而已
 (○の部分は、糸偏に「孛」の字で、「大綱」の意)

久保木さんによれば、この大意は次のとおり。
「和歌は神代からの流れを汲む日本の習俗であるので、和歌に心を寄せる者達は、勅命によって撰集し、あるいは備忘のために部類してきた。その中でも「礼部納言」藤原通俊の『後拾遺集』、「将作太匠」源俊頼の『金葉集』、能因法師の『玄々集』はいずれも秀歌を載せており、もうできることは尽きているので、私は遺漏を拾うだけである。配列なども優れていない」

(この大意紹介の先の箇所で、久保木さんは私撰集である『玄々集』が勅撰集とならべて記され重んじられていることの意義について論及していますが、私からすれば、逆に、『後拾遺集』『金葉集』の両勅撰集が『玄々集』と同程度の重みしか与えられていないことに注目したいところです。勅撰集に高い権威が与えられるのは、やはり『千載集』以降のことではないでしょうか。その高い権威を『金葉集』成立当時まで遡らせるべきではないというのは、白河院の『金葉集』下命意図ともからむ、『金葉集』に対する私の基本的な見方の一つです。)

さて、いよいよこの紹介の核心部、久保木さんは自問します。「そもそも撰者顕仲に参看され真名序に明記された『金葉集』は、今日言うところの初度本、二度本、三奏本の一体いずれであったのか」。
するとまず、『良玉集』漢文序文に記されている「彼集之外、所漏脱也」が手がかりとなり、『校本謌枕名寄』に源顕房(六条右大臣)の「五月雨に笠取山は越えゆかじ花色衣かへりもぞする」が『良玉集』所収として紹介され、かつ現存する『金葉集』初度本にも同じ歌が採られているところから、顕仲は初度本を参照しなかったことが推定できます。また三奏本も、「その上奏は「大治元、二年」のあたりと伝えられ、しかもそれきり世間にほとんど流布しなかったらしいから(『袋草紙』)、やはり可能性としては考えられないようである」(久保木氏)ということになります。
よって残るは二度本ですが、久保木さんによれば、「おそらく真名序の『金葉集』は、複雑多岐にわたる二度本系統中のいずれか一本ーーさすがに特定までは困難ーーだったと認めてよいだろう」となります。
そこで久保木さんは『金葉集』二度本の上奏時期を確認するのでが、「これも確言しづらいのだが、仮に「天治二年四月依 院宣撰之/撰者木工頭源俊頼」という伝兼好本の奥書に従うならば天治二年(1125)四月とみられる。すると二度本の上奏から『良玉集』の成立までの間には、たったの一年八ヶ月しかなかったことが知られよう。これは確かに「撰進直後」と言うべきだろうが、ともあれこのように二度本の上奏・流布後、極めて短い期間のうちに『良玉集』が撰ばれており、しかも『金葉集』所収歌は一首も採らないという主張さえもが真名序に明記されている点からは、何よりも『金葉集』を強く意識して止まない顕仲、という撰者像が浮かび上がってくるようである」(久保木氏)と、『金葉集』二度本成立後に(それに撰ばれた歌を除外して)『良玉集』を撰ぶとなると、『金葉集』二度本が天治二年四月に成立したというのはギリギリの下限として、『金葉集』二度本天治二年四月成立説が支持されます。「金葉集の撰進」における加畠吉春さんの『金葉集』二度本は大治元年の夏頃までに成立というという説も、物理的には『良玉集』成立と矛盾しませんが、わずか半年程度の期間で、『金葉集』を強く意識した『良玉集』を撰するのは困難というのが、久保木さんの考えのように思われます。
『金葉集』二度本の成立に関し、私は従来の定説(松田武夫氏の説)である天治二年四月という説をとっていますから、『良玉集』に関する久保木さんの研究は、私の考えと矛盾せず、むしろそれを別の観点から補うものとして評価したいと思います。

   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。↓クリックよろしく♪
banner_01.gif
スポンサーサイト

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/21(水) 14:22:53|
  2. 和歌および古典文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<『金葉集』の編纂 | ホーム | 歴史上の真理とは>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://lunatique.blog20.fc2.com/tb.php/110-b766af35
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。