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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

親鸞の子孫たちーー三者三様の覚如、存覚像

親鸞の曾孫で本願寺第三代(第二代は親鸞の孫・如信)とされる覚如(1270-1351)とその長子・存覚につき、今井雅晴氏、平雅行氏、佐々木正氏は、それぞれの覚如もしくは存覚像をもっており、それが親鸞関係の史料評価にもつながっているようですから、以下、簡単に各氏の覚如・存覚像を抜き出しておこうと思います。

まず覚如伝をもっともくわしく記している今井氏。
「覚如の激しい女性出入り。49歳のときから一転しての愛妻家。かたくななまでの本願寺中心主義。存覚に対する執拗な嫌悪。まわりの者たちがもてあましたこのような覚如の性格と行動は、持って生まれた要素もあるでしょうけれど、若いときの体験に大きな原因があるのではないかと私は思います。信じられるのは自分だけ、ということでしょうか。しかし家族にもてあまされようと門徒に疎まれようと、覚如が一生をもって示した道が、その後の無数の人びとを救うことになったのも事実です。もう一つ、考えさせられることがあります。それは、いままで見てきましたように、覚如ははじめから親鸞の教えに入っていたのではないということです。仏教諸派を長い間にわたって学んでから親鸞の教えに入った、ということなのです。親鸞の子孫は、蓮如の子どもたちの代になるまで、皆、そうなのです。如信を除いては。このことは、今日の私どもが十分に考えていかなければいけないことだと思います。」(『親鸞の家族と門弟』196頁)

続いて平氏。平氏の覚如評価は、覚如そのものに対するものというより、覚如が如信から聞いて口実筆記したとする親鸞の教えについての史料『口伝鈔』の読みをとおしてのものです。
「『歎異抄』と、覚如の『口伝鈔』の距離がいかに大きいかが判るでしょう。両者とも、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と語りました。しかし『歎異抄』のそれが「疑心の善人(-価値)でも往生できる、まして他力の善人(+価値)の往生は当然だ」という内容だったのに対し、『口伝鈔』のそれは「傍機(二番目)の善人(+価値)でも往生できる、まして正機(一番目)の悪人(-価値)の往生は当然だ」というに過ぎません。善人の捉え方が、マイナス価値からプラス価値へと百八十度異なっています。覚如は親鸞が保持していた「疑心の善人」概念を放棄して、顕密仏教との妥協を図ったのです。彼は親鸞の言葉を、悪人正機説の文脈で再解釈して、親鸞を顕密仏教的価値観のもとに位置づけ直しました。本願寺を延暦寺の末寺として維持・発展させるには、親鸞を顕密仏教的高僧に描きかえることが必要だったのです。覚如にとってはそれが、自らに課せられた思想的課題と考えたのでしょう。私は、それはそれで一つの重い歴史の選択だったと思います。」(『親鸞とその時代』156-7頁)

今井氏が「(覚如は)仏教諸派を長い間にわたって学んでから親鸞の教えに入った」と記している伝記的事実を、平氏は親鸞から覚如への思想の変質としてうけとめているようです。
その変質をもう一度今井氏の文章に即して考えると、それは次のようになると思います。
「覚如は、親鸞の信仰を理解するについて非常にすぐれた能力を持っていたと思います。それは、親鸞の教えの本質をつかみ、それを文章に表すことができたということです。(中略)覚如は、親鸞の信仰に入るのに、まず法然の信仰に戻って教えるのは困ったことであると考えましたまたもとへ戻って、南無阿弥陀仏はありがたい、念仏を称えて極楽へ往こうというのでは、せっかく親鸞が教えを示した意味がないというのです。そこで真宗の歴史の上ではじめて、報謝の念仏こそ親鸞の教えの本質であると強調するようになったのです。ですからそれは覚如からなのです。そのところを強調しなければ、すぐれた親鸞の信仰が一般的な浄土信仰に埋没してしまう、と覚如は強い懸念を抱いたのです。さらにこの覚如の考えを受け継ぎ、社会的に承認させたのが蓮如ということなのです。ですから覚如はその後の真宗の教学を固めた人物であるということになります。」(『親鸞の家族と門弟』197-203頁)

覚如における親鸞思想の変質の内容をどう捉えるかで平氏と今井氏は異なる見解をもっているようですが、それはそれとして、そこに何らかの変質があった、そしてそれは顕密仏教と親鸞思想の位置づけにもかかわることであったということでは両氏の見解は一致しているのでしないでしょうか。

一方、佐々木氏が論及しているのは、覚如の実子・存覚についてです。佐々木氏の存覚への論及は、史料論からのものですね。
今井氏によれば、親鸞の血統を重視する覚如と門弟を重視する存覚は激しく対立し、存覚を二度勘当しています(本願寺第四代は、存覚の弟・従覚の子・善如)。その辺の経緯をまず今井氏の記述から。
「門徒集団のなかでももっとも大事にされ尊重されるべきは親鸞の面授の門弟でした。そしてその門弟の面授の門弟、さらにまた…、と続くのです。親鸞の子、孫、曾孫ではありません。親鸞の子孫を指導者としての扱いで大事にしなければならないという常識が、当時の社会にはなかったのです。覚如が門徒たちの協力を得られず苦労したのは、不思議でも何でもないのです。門徒たちが薄情なのでもありません。覚如のほうが、いわば異常な行動に出ていたのです。覚如からいえば、この行動は新しい挑戦でした。でも存覚はそうではありませんでした。「お父さん、それは止めましょう。やはり門徒の人たちの立場を大事にしようではありませんか」と主張しました。ですから、門徒の間における存覚の人気は抜群です。また教理面でも、報謝の念仏を強調する考えには賛成でなかったようです。従来風の、法然の念仏に近い立場を取っていました。それらを覚如が気に入らなくて、勘当したのです。」(『親鸞の家族と門弟』204-5頁)
続いて佐々木氏の記述。
「この論考で依拠している伝記『親鸞聖人正明伝』は、本願寺の実質的創立者、親鸞の曾孫・覚如の長子・存覚の作である。日野一族の身内でありながら、存覚は関東の門弟集団と交流をもち、生涯、弟子の立場を守りつづけた。この伝記は、関東の有力門徒集団・高田門徒に伝承されてきた親鸞の伝記を、存覚が高田派三代目・専空から口伝として詳しく聞き出して記されたものである。したがって「<弟子のこころ>により制作された親鸞の伝記」と位置づけることができる。」(『法然と親鸞』73頁)
佐々木氏は<弟子のこころ>を強調していますが、それは暗に覚如に強く見られる血族主義を批判するということなのでしょうね。ですから、この辺の事実認識では今井氏と佐々木氏は一致していると思いますが、では「親鸞の思想」は覚如と存覚のどちらに受け継がれていたのか(どちら側の史料が信頼できるのか)となると、評価は二つにわかれてしまいます。ちなみに、『親鸞聖人正明伝』という伝記は、すでにみたように法然の直系の弟子としての親鸞を強調しているのですね(例:玉日との結婚のエピソード)。

覚如・存覚の世代になると、「親鸞の思想」に対して二通りの見解が生じ(その後の真宗教団史のなかで正統と位置づけられるのは、覚如系の見解)、それぞれが親鸞の「伝記」を記しています。今井氏の方法論が、血縁、血脈を非常に重視しているのは事実だと思いますが、それは、この問題を整理しないと、親鸞に関する史料の評価はできないという考えから発しているのではないでしょうか。
ところで、今井氏、平氏の上掲の記述を読むと、一見、覚如は親鸞の思想を変質させており、存覚(もしくは高田門徒)こそが親鸞の思想を忠実に信奉していたとうけとられかねませんが、今井氏によれば、高田門徒は親鸞の教えと善光寺如来の教えを融和させていたのであり、それはもはや「専修」からはほど遠いということになります。

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  1. 2006/07/09(日) 09:54:26|
  2. 仏教史&仏教思想
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