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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』再見

昨日(30日)は種村季弘さんをしのぶ会で出会った知人を誘って『メゾン・ド・ヒミコ』を再見。一つの映画を一日おいてまたすぐに観るというのは、私もはじめての経験だが、にもかかわらず『メゾン・ド・ヒミコ』は新鮮。ほんとうに不思議な映画だ。とはいえ、二度目なので、こちらもこの映画の壺というか、チェックのしどころはわかっているつもり。前回見逃していた点を丹念にみることができた。初回書き落としたこと、性懲りもなく、また書いてみよう。

まず感心したのは渡辺あやの台本(これは知人も感心していた)。言葉の流麗さをほこるのではなく、日常会話のなかからいろいろなものをそぎ落としたような、ぎりぎり最低限の言葉のやりとりだけでなりたっている。
こうした台本の性格は、実は犬童一心の演出ともからんでくるのだが、それが大島弓子的なものをめざしているのだということは、今回、最初から強く感じた。卑弥呼をはじめとするゲイたちが、あるいはむしろとりわけ卑弥呼の描写が、ゲイとしてのリアルさをめざしているのではなく、ある視点からみたゲイらしさというかティピカルなものを指しているだけで、そこから先には一歩も踏み出さないのだ(美術の磯田典宏が、そうした演出意図を一瞬で伝えるいい仕事をしている)。
コミックやアニメの世界、実は私は<アンチ・リアリズム>ということで人形浄瑠璃に通ずるものを感じるのだが、希有なことに、『メゾン・ド・ヒミコ』はそれを実写で達成している。
前回みたとき、私は田中泯(卑弥呼)の演技をどう評価したらいいかわからなかったのだが、こうした方向からみると、田中は、演技するというより、いってみれば人形もしくは非実在的なゲイを身体で表現するということに徹しており、これは誰にでもできることではない。死を直前にした病人という役だから動きが少ない、セリフのわりふりも少ないというのではなく(それだとまた<リアル>に戻ってしまう)、田中は、生身の人間など最初から<演じて>はいないのだ。これは舞踏を自己表現としてきた田中にしてはじめて可能な反演技的演技の骨頂であり(舞踏者・田中の本来芸の一端は、ディスコの場面の挿入シーンで示される)、演技力がどうこういう前に、通常の役者・演技者に可能なこととは思えない。そしてこうした田中の演技の方向性は、映画全体のアンチ・リアリズムという方向性にみごとにマッチしている。
オダギリジョー演じる春彦という若者も、実のところ性格がよくわからないのだが(卑弥呼と春彦がどのように出会い、どのようにつきあっていたのかは、映画をみても皆目見当がつかない)、これも卑弥呼の描写と似たところがある。ようするに、こういう若者ということで映画のなかにポンと置かれているだけなのだ。そのわけもわからない若者を、オダギリジョーは、田中泯とは違った意味で、ふわっと身体で表現しているといえるだろうう。
一方、この二人と、柴崎コウの演じる沙織は、演出方針がまったく異なる。全体の非実在的な世界・演技のなかで、いわば彼女だけがリアルに動き回るといっていい。
だからこれは、非リアルな様式感で統一したといった演出ではない。むしろ、様式という意味では統一を欠いているのだが、統一を欠くがゆえに、観る側になんともいわれぬ落ちつかなさ、そこからくる幻想性を与えるのだ。非リアルな様式感で統一してしまったら、この映画は単なる夢物語で終わってしまっただろう。
とここまできて私は、こうした作品の構造が、大島弓子の代表作『綿の国星』とよく似ていることに気がついた(『メゾン・ド・ヒミコ』にインスピレーションを与えた『つるばらつるばら』は未読)。『綿の国星』は、自分は人間だと思っている猫と人間が共存する非リアルな世界を描いたコミックなのだが、それを描く視線はチビ猫のもので、チビ猫のまわりの人間達は、理解不能な奇妙な行動をする不思議な共存者として描かれている。つまり、チビ猫のまわりの人間たちにもそれなりの行為や行動はあるのだが、それは明確な原因・結果に結びついたものではなく、単にそうした行為・行動としてあるにすぎない。そのことによって人間の行動は異化され、あたりまえの行動がファンタジーを生み出していく。
『メゾン・ド・ヒミコ』の視線はまさにこの『綿の国星』的なもので、ここではチビ猫は沙織であり、沙織だけが「意識」をもった存在なのだ。したがって観客は、自然に沙織に共感することができる。たくみな作品構造だ。
こうした作品構造を指向する作家がゲイの世界に引かれるのは、ある意味で当然だ。社会のなかで異化されていると同時に共感をよぶ矛盾した世界。犬童一心にとっても大島弓子にとっても、ゲイの世界とはそうした世界なのだろうが、そうした視点がゲイという題材からファンタジーを紡ぎ出す。
この映画を貫いているのは、現実のなかを浮遊するような脆弱な美ではなく、現実の矛盾をすべてのみこむような、絶対的な美への指向なのだ。
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  1. 2005/08/31(水) 10:27:56|
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