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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『歎異抄』と善鸞義絶事件ーー伊藤益氏『歎異抄論究』を読みながら

伊藤益氏の『歎異抄論究』(北樹出版、2003年)を読みながら『歎異抄』読解をすすめています。
伊藤氏の本やその他複数の『歎異抄』本を読むと、『歎異抄』第二条に記してある唯円ら門弟の上洛(この時に彼らが親鸞の言葉を直接聞いたことが『歎異抄』執筆につながった)というのは、やはり、建長八年(1256年)の善鸞義絶事件と深いかかわりがあるようですね。ですから、この時の親鸞は、唯円ら関東から来た信者たちに、自分の思想のなかでも事件と直接関係があることだけを語った可能性も高いと思います。これは、『歎異抄』の性格(『歎異抄』の記録にどのようなフィルターがかかっているか)を考えるうえで見逃せない事実ですね。
その辺のところを、伊藤氏の『歎異抄論究』から抜き出しておきます。

   *    *    *

 「親鸞は、いま、多数の門弟を前にして、「信」の本質についてみずからが思うところを切々と述べている。門弟たちは、はるばる関東から十余ヵ国の境を越えて京都にやってきた人々である。中世における街道、旅宿の不備、あるいは、治安の悪化を勘案すれば、彼らの旅が名状しがたい苦しみに満ちたものであったことは想像に難くない。そのように命懸けの旅に身を投じて、彼らが上京した背景には、それを余儀なくさせるような重大な事情があったと考えるのが自然であろう。
 常陸笠間の稲田郷に草庵を構え、そこで二十年にもわたって布教活動を展開していた親鸞は、六十数歳のころ京都へ戻ったものと推測される。帰洛の理由は判然としない。主著『教行信証』の撰述に関わって生じた資料操作上の問題を解決することが主たる目的ではなかったかとも考えられるが、その場合には、一般の門徒の理解の範囲を超えたこの書の撰述が、二十年間の布教の成果よりも重んじられなければならなかったのはなぜか、という新たな疑問が生じてしまう。
 親鸞帰洛後、関東の門弟たちはさまざまな難題に直面することになる。師父不在の状況下で、念仏の教えをめぐって生起する多様な議論をどう処理すればよいのか、彼らは判断に窮したのであった。
 彼らに身命を賭しての上京を決意させたものは、疑義が頂点に達するという宗教的情況ではなかったか。それは、おそらく、「善鸞事件」によって惹起された情況であった。自身の帰洛後に関東の門弟たちのあいだで異説が流布しつつあることを耳にした親鸞は、息男善鸞を関東に派遣して異説を鎮めようとする。ところが、関東の門弟たちを膝下に糾合しようとしたのだろうか、善鸞は、門弟たちに向かって、父子相伝の口伝と称する異説をとなえ、親鸞に対しては、関東の指導者たちが「造悪無碍」の言動をとっているという偽りの報告をする。当初、親鸞は、善鸞の報告に信を置いていたが、門弟たちから寄せられる多数の書信は、善鸞に煽られて異説がいっそう極端化してゆく情勢をあらわに示していた。善鸞が弥陀の第十八願に基づく念仏を「しぼめる花」に譬え、その無意性を強調したと聞くに及んで、親鸞は、もはや善鸞の活動を放置しておくことができなくなった。建長八年(1256)五月二十九日、親鸞は、「親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一なり。この事ども伝へ聞くこと、あさましき様申す限りなければ、いまは親といふことあるべからず、子と思ふこと思ひきりたり」と述べる書状を善鸞に送り、彼を義絶する。
 親鸞直々の門弟たちは、それぞれ道場主として数十から数百の門徒を抱えていた。『親鸞聖人門侶交名牒』から類推するに、道場主として立っていた門弟の数は、四十四名にのぼる。これに『末燈鈔』記載の門弟を加えれば、その数はおよそ六十に達する。したがって、直接・間接に親鸞の影響を受けた人々は、一万名近くを数えたことになる。これらの、親鸞を核として結び合った人々を、いまかりに親鸞教団と呼ぶならば、同教団は、善鸞事件に直面して思想的な混乱の極にあったものと推察される。異説の流布を抑止するためにはるばる京都から派遣された息男が、異説を説いたという理由で父から義絶される。そうした事態を目のあたりにして、教団内部の疑義は最高潮に達していたであろう。そのような情況下に、門弟たちは大挙して上京する。彼らは、親鸞の真意がどこにあるのかを、命懸けで問い質そうとしたのだった。」(伊藤益氏上掲書、48-50頁)

   *    *    *

ただし、伊藤氏が引用している建長八年五月二十九日の義絶状を、今井雅晴氏は「善鸞の敵方の人間が、善鸞は親鸞に勘当されていて跡を継ぐことはできないのだ、と善鸞の方をおとしめるために書かれた」贋物の手紙ではないかと推測しています。
その推測には書式等いろいろな根拠がありますが、結局は、「この手紙の内容がほんとうのことだとしますと、善鸞にとって、おもしろくないことですね。それに恥ずかしいことですね。もし皆様方がお父さんから勘当するという手紙をもらったら、どういう気持を持つでしょうか。少なくともうれしくはないですね。悲しく思う方もいらっしゃるでしょうし、逆に怒る方もいらっしゃるでしょう。そしてその手紙を人に見せるでしょうか、というのが私の疑問なのです。破るか、くしゃくしゃにするか、人に見せないようにしまっておくか、いずれかでしょう。それなのに、冷静に「何年何月何日に到着した」とか、さらにわざわざ年号を入れてもう一度「このことは何年何月何日に記入した」とか書くでしょうか」(『親鸞の家族と門弟』43-4頁)という心理的理由です。でも私は、この疑問、もっともだと思うのですね。

いずれにしても、こうしたもろもろのことを考えると、私は、晩年の親鸞は泰然自若という感じからはほど遠いような気がします。それは、自分は一番分かりやすい教説を述べているはずなのに、それがなぜ次々と誤解や分裂を生むのかといったことではなかったかと私は思います。

   *    *    *

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/17(月) 20:49:39|
  2. 仏教史&仏教思想
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