le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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はじめにことばありき

宗教言語論についての考察、もう少し続けてみます。
まず極めて一般的にいえば、宗教が日常を離れた語り得ぬものにひたすら向かっていくのに対し、それを日常意識・日常言語のレベルに引き戻して説明しようとするのが宗教学ないしは哲学とか思想というものではないでしょうか。ですからその辺のところ、宗教学と宗教には根本的な乖離があるように思います。なんというか、宗教現象を説明することの難しさですね。
それと、宗教(仏教)で一般的にいう、「さとり」だとか、「目ざめ」だとか、「気づくこと」というのは、やはり何らかの不連続な心的事態、道元の言葉を借りていえば「跳出」をさしているのであって、こうした不連続の事態を指し示すというのは、言葉が最も苦手とする領域なのではないでしょうか。つまり、ある一定の安定した心的布置・構造というものができあがってしまえば、その布置を別の布置で置き換える、すなわち記号化するのは容易だと思うのですが、布置が成り立っていない段階、もしくはこれから布置をしこうという瞬間というのは、そもそも記号(言語)になじまないと思います。
ただそこで、そうした記号(言語)になじまないものも記号化(言語化)しうる、あるいはそうした特殊な記号(真言)を想定することで、その記号を手がかりにして布置がなりたっていない原初的段階や布置が成立する瞬間の存在論を明らかにできるというユニークな主張をするのが真言密教ですね。この辺の論理と実践というのは、密教の独壇場ではないかと思います。しかし法然は、そうした密教の議論を「学問」だとし、信仰とは別のものだと退けてしまいますから、専修念仏の論理のなかでこの問題をこれ以上つきつめていくのは、いわば禁じ手のような感じになってしまうのですね。
しかしこの跳出の問題、より浄土宗的にいえば発心なり回心という問題、いくら「易行」といっても、結局は、浄土宗もそれを無視して通過することはできないのではないでしょうか。そうでないと、専修念仏は、阿弥陀仏は誰でも助けてくださるし、おすがりする方法も「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよく簡単だから、ともかくおすがりしてみましょうという、自利中心のひからびた論理になってしまうと思うのです。親鸞が「自力」といって自分の思想から峻別するのは、こうした考え方ですね。
つまり浄土宗は、自分の力でさとるということを徹底的に否定し、信仰に入るのも阿弥陀仏の力のお陰とするわけですけれど、そうした阿弥陀仏の力なり慈悲に気づくのは信仰に入ろうとする人自身ですね。まあ、これをも「気づかされる」とどこまでも受け身で表現してもいいのですけれど、ともかく、どこかで主体の側の跳出、意識の不連続ということを考えなくてはならないのではないでしょうか。そうしないと、報謝の念仏といったことも難しくなってしまうような気がします。

以上のようなことをなるべく『歎異抄』の解釈に即していおうとすれば、次のようになるでしょうか。
「「信」が各自の内面に懐かれる瞬間において、人は皆孤独である、と親鸞は考えていた。人はひとり静かに弥陀に対向し、弥陀の呼び声に聴従しつつ、弥陀によって「信」へといざなわれる。各人の内面に、「信」が発起する瞬間には、他者が介在する余地はない。「我」ひとりが単独に弥陀と向き合うという、他の誰の援助も期待できない情態のなかでこそ、「信」は生起する。親鸞は、そのように考えていた。いいかえれば、親鸞にとって、「信」の生起は、「単独者」としての自覚に基づいて可能になるのであり、究極の場面でなお「師」の助力を期待することは虚しいわざでしかなかった。」(伊藤益氏『歎異抄論究』136頁)

ところで、親鸞の思想の核ともいえる「信」という言葉、やまとことばにするのがとても難しいですね。私にはちょっと思いつきません。ほんらいのやまとことばにはなくて、仏教と一緒に日本に移入された概念だということはできないでしょうか。つまり、日本古来の「信仰」では、カミは信じる対象ではなくて、怖れる対象であり、それを鎮めるのが日本古来の「信仰」だったといえるのではないでしょうか。ですから、法然や親鸞が主張した阿弥陀仏を信じるということ、現代からみれば当たり前の主張のような感じがしますけど、中世の日本人にはとてもわかりづらい考え方だったのではないかという気がします。
そこで、今度はこの「信」という文字(中国語における「信」概念)について考えてみると、それは「ことば」と「ひと」から合成されている。これもちょっと難しいんですけど、このことが指し示している事態は、「言葉」が「人」と一致し、その「人」のものとなるということでしょうか。辞書には、「信」=「まこと(真・言)」といった字義もみうけられますが、おもしろいことに、この「まこと」という概念も、漢字(中国語)では、「言葉」が「成る」という合成概念ですね。
このことは、私には、「ことば」が最初にモノ・オトとしてぽーんと飛び込んできて、あとからそれを中核にしてとある概念が結集されるという事態を指しているように思われるのです。なんというか、「はじめにことばありき」と。
親鸞の「南無阿弥陀仏」、もっとつきつめれば「南無」という言葉を、私はそうした根源語としてとらえてみたいような気がしています。

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テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/28(金) 12:22:55|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
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