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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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小結ーー親鸞の教えはきちんと受容されていなかった

法然、親鸞の思想、さらには鎌倉時代の浄土宗の信仰、教団の動向について、これまでの書き込みを踏まえ、これらの問題を私はどう考えるか、当ブログとしての論点を整理しておきます。

①まず、基本的なポイントですが、私は法然流の浄土信仰(いわゆる専修念仏)が易信だとは考えていません。その教理についても、本質的には非常にわかりにくいもものだと思っています。

②次に、(これは①とも関係してきますが)法然、親鸞の信者も、法然、親鸞の思想をきちんと「理解」していたとはいえず、その実態をみていくと、別の宗派との混淆がみられるようです。このことを明確に指摘しているのは、今井雅晴氏で、今井氏によれば、関東における親鸞の有力信者グループのうち、高田門徒は善光寺如来との雑修、横曾根門徒は真言宗との兼修、鹿島門徒は鹿島神宮の神道との融合がみられます。また、法然の信者を研究した梶村昇氏は、津戸三郎為守が谷保天満宮の神主であった可能性を指摘していますが、今井氏の研究をふまえて考えれば、これは事実であった可能性が高いと思います。

③親鸞の教説に関する有力史料である『歎異抄』の執筆動機を考えると、親鸞教団のなかにはさまざまな異説がはいりこんで、親鸞の生存中から教団内部が混乱していたことがうかがえます。

以上の三点を主な根拠に、私は、専修念仏、なかでも親鸞系のそれは、鎌倉時代の社会にきちんと受容されていたとはいえないと思います。

①に関する補足として、とりあえず、伊藤益氏の次の指摘(その内容は、『歎異抄』第七条の解釈にかかわるもの)をあげておきます。
「自分のような悪しき存在者をお救いくださるという弥陀の本願力に縋れという師法然の教えを遵守し、わたしはただひたすら念仏するばかりである、と親鸞はいう。この、もはやそれ以上の単純化を不可能とする教えは、実践しやすいようでいて、実は、そこに身を投ずることがきわめて困難な教えである。人は、救済に至る道程として、若干の努力を求められれば、その実行可能性を確認することによって安心を得ることができる。しかし、念仏すればそれでよい、という親鸞の教えは、救済のための条件を何も呈示していないに等しい。端的にいえば、親鸞は、何もしなくてもただ信じれば救われるといっている。この、ただ信じればよいという教えほど、極限まで単純化され、それゆえ実行の困難な教えは、他に類例を見ない。わずかばかりの努力を要請されてはじめて、人は、自己の信心を自己の外側から確認できる安易さに憩うことができる。その教えは、そこに全霊を傾けるためには、あまりに容易にすぎ、単純にすぎたといってもよいだろう。人は、親鸞の教えのたやすさ・単純さに驚く。そして、ある者はその教えの背後に奥義を求めるという形で、またある者は自力の修行の必要性をあえてそこに見いだすという形で、それぞれ、親鸞の説く真実の信心から逸脱してゆく。単純さの極限にまで絞りこまれた親鸞の教えは、意外な程に、それを精確に歩み抜く者の少ない教えであった。」(『歎異抄論究』277-8頁)
たしかに、浄土宗の主張(教義)は、顕密仏教や禅宗のそれにくらべれば単純で説明しやすいと思います。しかしそれと浄土信仰の容易さは別の問題であり、これはわけて考えるべきだと私は思います。
ちなみに、一般的には、浄土仏教以外の宗派のさまざまな求道法が自力、念仏が他力という理解もあると思いますが、親鸞によれば、念仏も「往生するための念仏」であれば自力の行ということになり、積極的にすすめられることではありません(ただし法然は、「往生するための念仏」をある程度認めていたのではないでしょうか)。つまり、造寺・造仏等にくらべ念仏が行として容易でだれにでも実行できるから人は念仏を選択すべきだという考え方は、親鸞のとるところではないのです。人が阿弥陀仏への信仰(感謝)を態度で示そうとするとき、それが簡単にできるよう阿弥陀仏は「称名念仏」を本願としたというのが、親鸞の考えではないかと思います。

②に関し、たとえば伊藤益氏は、北関東における親鸞の信者は一万人程度と推定しています。通常は、こうした数値を確認し、また比較の問題としてそれが多いのか少ないのかということで教団の広がりが論じられてきたと思います。今井氏の問題提起は、それをさらに一歩進めたもので、従来数の問題としてしか考えられていなかったものを質の問題として考えることを可能にした重要な指摘だと思います。ちなみに、今井氏によれば、この北関東の信者の中心は武士である。「かつて昭和20年代から30年代に論争があったのです。それは親鸞の門弟たちの社会的階級は武士か農民かという論争でした。(中略)農民説は明らかな誤りです。もともとこの説は無理だったのです。その理由は、親鸞の生きていた鎌倉時代、ほとんどの農民たちには宗教を選択する権利はなかったからです。それを持っていたのは領主である武士たちです。外からやってきた親鸞の布教に応じることができるのは武士たちだったのです」(今井雅晴氏『親鸞の家族と門弟』111-3頁)。ただし、主要布教対象が武士であったということと、浄土宗の教義は直接的には結びつかないことを推測させる今井氏の指摘は、この点でも重要だと思います。
ところでこの②の問題は、やはり①の論点と切り離して考えることはできないもので、つきつめていくと、法然や親鸞の思想と関東武士団の心性は、本質的に異質なものだったのではないかという気がしてきます。つまり、法然や親鸞の思想は、阿弥陀仏のもとでの絶対的平等をうたうもので、それが被差別感をもつ階層と結びつきやすいのは事実だったでしょうが、本来的には特定の社会階層、ましてや特定の「悪人」の救済をめざすものではないということです。この点からして、浄土宗の絶対的平等主義を階級論と結び付けるのは無理があると思います。
これと関連して、現在の私は、法然の浄土宗というのは基本的に都市型宗教であり、布教対象としても、京都在住の貴族、僧侶、庶民を中心に考えていたのではないかという気がしています。つまり、地方武士を浄土宗でどのように救済するかということは、当初想定外であり、熊谷直実らの武士が入信してこるのは拒まないが、さりとて彼らに対する積極的布教方法ももたないというのが、初期浄土宗の実情だったのではないでしょうか(この考えが抱える最大の問題点は、法然の出自(地方武士)をどうとらえるかということですが、これに関しては、今のところ、私は決定的なこたえをもっていません)。
晩年の親鸞が、それまで約20年間布教し続けた北関東の教団に別れ京都に戻ってしまったという事実も、意外に、こうした親鸞と関東武士の心性・思惑の違い、いつまで布教を続けても自分の考えは伝わらないといったジレンマがあったすれば理解しやすいのではないでしょうか。
平雅行氏が提起した、法然や親鸞の思想のなかに悪人正機説はあるか、それは彼らのオリジナルかという問題も、おそらくはこうした問題とからんでくるのではないでしょうか。つまり、武士への布教が大きな問題となるにつれて、法然、親鸞の思想とはほんらい相容れない「悪人正機説」が、教団のなかにはいりこんできたとはいえないでしょうか(平説は、「史料の綿密な検討に基づいて展開されたこの論を無視することはできない。悪人正機の思想は、親鸞はもとより法然によって創始されたものでさえなく、平安・鎌倉仏教において顕在化した一潮流であったといってもよいであろう」と、伊藤益氏によっても支持されています<『歎異抄論究』72頁>)。
要は、親鸞が悪人の救済を説けば説くほど、それは誤解されて広がるという面をもっていたということです。

③については、『歎異抄』を丹念に読めば、わかることですし、私自身もすでにこのブログにいろいろと書きましたから、ここで新たに取りあげるべき論点はありません。要は、『歎異抄』は、②で指摘したような教団内外の異説の広がりに関する史料として読むことができるということです。

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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/30(日) 11:52:38|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
<<信者のとまどいーー法然の手紙を読む | ホーム | はじめにことばありき>>

コメント

武士階級

当方へのご訪問ありがとうございます。
関心が近い方とお近づきになるのはうれしいことです。今後ともよろしくお願いいたします。

本稿を拝読させていただきました。
「法然・親鸞の教えはきちんと受容されていなかった」という結論には少し違和感をもちました。

私の感覚では,宗教の教えがきちんと受容される,ということはまずありません(「きちんと受容される」の定義にもよりますが)。釈迦の教えもきちんと受容されたかわからないところがあるように思います。
万巻にも及ぶ仏教経典はそれを示しているのではないでしょうか。ですから,法然・親鸞の教えについてもきちんと受容されなくて当然であるような気がします。

ただ,「念仏さえすればだれもが救われる」という大胆な教えですから,解釈の自由度は他派より大きい,したがって異説があらわれやすい,実際多くあらわれた,というのはご指摘の通りかと思います。武士階級による受容と農民による受容は食い違う可能性は高そうです。教えに含まれる平等思想は農民には受け入れやすかったでしょう。武士には必ずしもそうではなかったように思えます。個人的には武士による受容のされ方に興味があります。
  1. 2006/08/05(土) 09:20:01 |
  2. URL |
  3. azumando #-
  4. [ 編集]

ご来訪、ありがとうございます。

azumandoさん、さっそくのご来訪およびコメントありがとうございます。
親鸞に関しましては、最終的に私とazumandoさんの関心が異なっているかとも思いますが、それはそれとして、互いに刺激的で有益なコメントができれば幸いと思っております。どうぞよろしく。
さて、いろいろな「親鸞本」を読むと、思想家・宗教家が書いたものと歴史学者が一般論として書いたものでは、叙述の方向性がかなり異なっており、鎌倉時代の一般論のなかでは、法然・親鸞の教えは、「きちんと受容されていた」という結論になっているような印象を受けます。私の関心が歴史学、それも中世初期にあるものですから、このブログでの一連の記事は、親鸞思想の本質を明らかにするというよりは、そうした一般論をつきくずすということにあります。
ですから個人的には、私も、「宗教がきちんと受容される」ということは、ありえないのではないかと思っています。
ただ、このコメント欄の狭いスペースでは、これ以上の詳細な議論ができませんから、こうして少しずつお話しができれば幸いと思っております。
(末木さんの本、気になりながらまだ読んでおりませんから、今度読んでみます。)
  1. 2006/08/05(土) 10:14:52 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

親鸞の考えを一言で言えば、「自分(親鸞)は、また今想い悩み続けるお前自身(この筆者)も、それぞれに"生かされている”のだということを悟れ」ということに尽きる。
親鸞の事跡をただ虚心に辿れば、そのとおりに生き、全うしたのだと実感できる。
 親鸞自身は、いわゆる弟子さちが、現在どうであろうと関心がなかったのではないか。自分(親鸞)の考えにすがってくる弟子のみ、弟子たちの悩みの水準に応じて対応していただけではないだろうか。
この一見単純容易にみえる思想は、当時すでに(そして今も)世界思想の最高水準に達していたとわたしには思える。
  1. 2008/03/25(火) 21:27:09 |
  2. URL |
  3. #-
  4. [ 編集]

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