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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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北関東での親鸞布教の意味

ずっと書き続けてきた親鸞関係の記事に、azumandoさんからコメントをいただきました。うれしいことです。さて、azumandoさんは、「個人的には武士による受容のされ方に興味があります」とのことですが、その問題をも含めて、このところ私は、常陸を中心とする北関東における親鸞の布教とはなんだったのか、はたしてそれは成功といえるのか、晩年の親鸞はなぜ北関東を離れ京都に戻ったのかという問題をずっと考えています。といっても、この辺は有効な史料がほとんどないので、少ない史料や議論からなんとか自分で納得のいくこたえを導こうという程度のものですが…。

ともかく、嘉禎元年(1135年)頃に六十歳を過ぎた親鸞が京都に戻り、それ以後二度と関東に来ることがなかったということは動かしようがない事実と思われますが、さまざまな親鸞研究者によっても、その理由は不明とされているわけです。
7月13日付けの記事「秘伝としての『歎異抄』」のなかでは、私は、それを「親鸞からすれば、法然から伝えられた浄土の教えは、非常に簡潔であり、自分が関東にいようがいまいが、それが誤解されることはありえないということだったのでしょう。したがって、その教えが関東にある程度定着したと見はからって、彼は信徒を置いて上京したのではないかと考えられます」と推測したわけですが、その後さまざまな研究書を読んでいるうちに、そうした考え方に対する疑問が生じ、むしろ親鸞は北関東の教団を見限って京都に戻ったのではないかと思えてきたのです。
そこでもう一度、北関東における親鸞の布教の意味を考え直したいと考えるようになったのですね。

その出発点としては、一度引用しましたが、まず伊藤益氏の次の推定を掲げておきます。
「親鸞直々の門弟たちは、それぞれ道場主として数十から数百の門徒を抱えていた。『親鸞聖人門侶交名牒』から類推するに、道場主として立っていた門弟の数は、四十四名にのぼる。これに『末燈鈔』記載の門弟を加えれば、その数はおよそ六十に達する。したがって、直接・間接に親鸞の影響を受けた人々は、一万名近くを数えたことになる。」(『歎異抄論究』49-50頁)
これに対し、前は、今井雅晴氏の、親鸞の門弟たちの信仰をつぶさにみていくと、専修念仏ではなく雑修と考えざるをえないという、門弟の「質」からくる疑問をあげておきました。
今度は、少し方向をかえて、北関東における親鸞教団は具体的にどのような人たちだったのかを、やはり今井氏の著作からみてみようと思います。
今井氏によれば、昭和二十年代から三十年代にかけて、親鸞の布教対象はどのような社会階級に属する人だったのかに関して論争があったといいます。つまり、
「(昭和二十年代から三十年代には)親鸞は労働者・農民の味方である、関東の草深い農村で農民のために支配者と戦っていたのだという考え方が根本にありました。そうすると、その考え方からは当然、親鸞の門弟たちは農民ということになります。しかし実際のところ、武士出身としか思えない門弟もいましたので、このような論争になったのです。親鸞が自分を悪人であるとする内省の深さなどは、人や生き物を殺さざるをえない武士の罪業観を反映しているとして、門弟の中心は農民であっても武士のそのような内省心がもとにあるのだ、とする考えかたもありました。でも論争はいつのまにか立ち消えになってしまいました。それは昭和四十年代の日本の経済的発展が背景にあります。政府を敵視する感情がいつのまにか日本の国内で弱くなっていったからです。それに農民説は明らかな誤りです。もともとこの説は無理だったのです。その理由は、親鸞の生きていた鎌倉時代、ほとんどの農民たちには宗教を選択する権利はなかったからです。それを持っていたのは領主である武士たちです。外からやってきた親鸞の布教に応じることができるのは武士たちだったのです。事実、二十四輩第一の性信は鹿島神宮の神主の一族とされています。神主というのは、今日からでは想像がつきませんが、鎌倉時代は武士なのです。農村の支配者なのです。二十四輩第二の真仏は、先に申しましたように椎尾氏あるいは大内氏という武士の出身です。真仏の息子は近隣の大豪族結城氏の婿に迎えられたと伝えられています。二十四輩第三の順信の出身も鹿島神宮の神主の一族とされています。これも武士で片岡氏といいます。二十四輩第四の常念は順信の弟と伝えられていますから、同じように武士です。これを見ただけでも、主な門弟たちは武士の出身であったことがわかります。その武士たちが、自分の領地の農民たちに親鸞の宗教を信仰することを許し、あるいは強要することはあったでしょう。しかしその場合でも、あくまでも主体は武士です。」(112-3頁)
この説と先にあげた伊藤氏の説を単純にプラスすれば、北関東には武士を主体とする一万名近くの親鸞教団が存在したということになります。
実際、『歎異抄』第二条には、関東の親鸞教団での混乱に際し、唯円ら複数の有志が北関東から京都まで上洛したことが記されているわけですから、こうした教団幹部クラスはゆとりのある領主階級の人間であったと推測されます。

ところで、私が疑問に思うのは、実際問題として北関東の親鸞はまず領主クラスの武士を対象として布教したにせよ、それは、そうしないことには布教活動が成立しないからそうなっただけで、だからといって、親鸞がほんらい布教しようとした対象は武士だと考えることはできるのかということです。すなわちこれは、今井氏が指摘する昭和二十年代から三十年代にかけての論争の原点に戻ることを意味します。

推測するに、この論争は、想定布教対象と実際の布教対象を同一視して行われたために、実際の布教対象が武士であるということが明らかになったとき、(今井氏によれば)立ち消えになったわけですが、私の考えでは、実際の布教対象と想定布教対象の相違ということは十分考えられることであり、親鸞が実際にどのような人に布教していたかという問題とは別に、親鸞が想定していた布教対象はどのような人であったかという問題も、思想史的な問題としては十分成立するのではないかと思うのです。
今井氏の文脈に戻して私の疑問を要約すれば、親鸞は(法然の意志をついで)実際の労働者や農民に専修念仏を布教したいと考え北関東に移住したが、そこで直面したのは、まず領主階級(武士)に布教しないと、ほんらい布教したい労働者・農民にも布教できないという事実であり、そこで戦略を変更して、まず領主階級に布教したというものです。専修念仏の教えがもつ普遍性からは、私にはこう考える方が「腑に落ちる」のです。
で、とりあえず領主階級、すなわち武士に布教するということになると前面に出てくるのが「悪人」もしくは「悪人往生」の問題ですね。法然や親鸞が考えていた「悪人」というのは、必ずしも人や生き物を殺すことを職業とする人=武士に限定されたものではなく、(自己をも含む)末世に生きるすべての衆生という普遍的な意味の言葉だったのではないかと思いますが、武士たちは、浄土宗の教えと自分たちの処世・後世の問題を直結してとらえる傾向があった。今井氏があげている「親鸞が自分を悪人であるとする内省の深さなどは、人や生き物を殺さざるをえない武士の罪業観を反映している」というとらえ方が生じてくるのは、こうした背景があってのことだと思います。
すると問題は、こうしたかたちで、北関東での布教はある意味で成功し、一万名近くの門弟を数えるに至ったとき、果たして親鸞はそれに満足したのかということなのですね。で現在、私は、帰洛という事実がそれに対するこたえではないかと考えているわけです。つまり、北関東にいて布教活動を続けても、あまねき人のための念仏、自己の内奥をみつめての念仏という考え方が、限定されたかたちでしか受け取られない。もうこれ以上この地で布教を続けるのはやめようと…。
教団側の論理からこれをとらえれば、教祖自身が教団を見限ったというような、かなりきわどい結論になってしまうんですけど、もう少し親鸞よりに考えれば、自分は教えられるだけのことは教えたのだからこの人たちはこの人たちでやっていけばいい、もともと自分は門弟も名誉も欲したわけではなし、弟子一人いないという原点にもどって、浄土宗の教えを根本から見つめ直し、深めていきたいというようなことになるでしょうか。『教行信証』も、親鸞のこうした思いのなかで執筆され、京都で完成されたといってもいいような気がします。この辺、厳しいといえば厳しいし、冷たいといえば冷たい。親鸞という人は、法然や一遍とはやはり違うタイプの人だと思います。
さて、それ以後の親鸞と門弟の考え方のズレというのは、北関東におる親鸞の弟子・唯円が執筆した『歎異抄』に見事に描き出されていますね。なんとしても往生したいという門弟たちと往生そのものは必ずしも問題ではないのだという晩年の親鸞の思想のズレは、結局埋まらなかったのではないでしょうか。

   *    *    *

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/05(土) 10:47:13|
  2. 仏教史&仏教思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
<<千輪慧氏の『歎異抄と親鸞』を読む | ホーム | 人を「理解」するとは?ーーある父親の手記を読む>>

コメント

笠間時朝

さっそくのご論考ありがとうございます。
私も親鸞帰洛の理由に関心があります。
帰洛後の親鸞の生活を大きく支えていたのは関東の信者たちだといわれています。
求めに応じて多くの手紙を彼らに書いています。
親鸞が信者たちを見捨てることはありそうにないと思います。
宋の最新文献を入手したかったのではないか,そのために入手しやすい京都に戻ったのではないか,などという説もあるようです。
私はもっと強い理由があっただろうと考えています。

新潟の親鸞を笠間稲田に招いたのは時の笠間領主かその周辺であるという説があります。
親鸞が稲田を中心に布教した時代はちょうど年少の領主笠間時朝が成長していく時代でした。
今井氏がどこかで言っていたような気がしますが,
成長して笠間城を完成させた笠間時朝との関係が気になります。

親鸞の教えは平等思想ですから,領主(王権)との間に緊張が生まれる可能性がつねにあります。
承元の法難により法然・親鸞は流罪になりましたし,天福2年(親鸞62歳)の念仏禁止令,蓮如の頃の一向一揆などが,その可能性が現実化した例です。とくに天福2年(親鸞62歳)の念仏禁止令は親鸞の動向に大きく関わっただろうと思います。笠間においても問題が生まれ,親鸞が笠間を離れるという条件で緊張が緩和する,ということがあったとしてもまったく不思議はないと思います。信者たちへの迫害をさけるためならば,親鸞はたしかに笠間を離れるでしょう。

時朝を含め,後の善鸞を巻き込む訴訟事件など当時の関東の状況の実証的分析は面白そうですね。資料の発掘・分析等大変でしょうが。
  1. 2006/08/05(土) 13:16:10 |
  2. URL |
  3. azumando #-
  4. [ 編集]

親鸞と鎌倉将軍の類似性

今、『末灯鈔』をはじめとする親鸞の手紙、精読してみたいと思っているところです。

ところで、親鸞(およびその子孫)と北関東の武士団の関係ですが、なんとなく、鎌倉将軍と武士団の関係に似てるのではないかという気がしてきました。それも源家将軍が断絶してからの藤原将軍や宮将軍のあり方に。
ご指摘の笠間領主が親鸞を笠間稲田に招いたという説ですが、これなどはまさに、自分たちの支配を権威付けるために、実朝暗殺後、北条氏が九条家の幼児・三寅(後の頼経)を鎌倉に連れてきたということを思い起こさせます。親鸞も頼経も、別になにもする必要はなく、京下りの権威として、組織のうえに乗っかっていればいいわけです。で、彼らははじめはそうした傀儡として存在しているわけですが、次第に布教や政治活動などで独自の動きをするようになり、独自の信奉者も生まれてくる。頼経以降の将軍は、幕府の機構のなかで非常に曖昧な存在で、幕府そのものは将軍なしにも運営されるわけですが、将軍が成長していくと、彼のまわりにいわば「将軍派」ともいうべき武士団が形成され、その動きが明確化してくると、武士団は粛正され、将軍は京都に送りかえされます。鎌倉時代後半の政治史はこの繰り返しですね。将軍というのはそういうやっかいな存在なのですが、それでも最後まで、鎌倉幕府は、将軍を必要とするわけです。
もちろん、こうした世俗の問題と宗教上の問題を単純に同一化することはできませんが、この辺のところ、自分なりにもう少し考えてみようと思います。
  1. 2006/08/05(土) 21:52:30 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

真剣な招請

たしかに構図は見ていますね。頼経将軍の場合,完全に傀儡として招かれたと思いますが,親鸞の場合はそうではなかったようにも思います。単なる傀儡ならば,親鸞は新潟ないし「さぬき」から移動しないでしょう。真剣な招請ー今回日本サッカー協会がオシムを招いたようなーがあっただろうと私は推測しています。笠間一族の者が後に親鸞に帰依しています。ブログにも書きましたが,笠間氏(宇都宮氏)は,笠間における寺同士の争いに乗じて笠間入りを果たしました。そのおり多くの僧を殺しています。自分たちをふくめ何らかのケアーが必要な状況だったようです。ただ,ときがたてば状況は変わります。
  1. 2006/08/05(土) 22:38:00 |
  2. URL |
  3. azumando #-
  4. [ 編集]

面授体制と親鸞

親鸞教団と幕府の構図の類似、賛同していただきありがとうございます。
私の推論は、もとより、親鸞の立場が頼経という個人の立場とそっくり同じだというものではなく、実朝でも宗尊親王でもいいのです。要は、将軍が幕府組織(御家人)を直接コントロールできないということですね。
親鸞教団というのも、もしかすると、親鸞面授の高弟たちがそれぞれの門弟たちをがっちり組織し、そうした末端に対して、親鸞は直接はたらきかけできなかったのではないか、もし直接はたらきかけたら、彼らも「面授」となり、いわば面受体制が崩れてしまうというようなことをちょっと考えているのです。
まあ、実際にこれをやって組織そのものから追放されたのが善鸞ですよね。
  1. 2006/08/06(日) 09:33:42 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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