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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその1

伊藤益氏の『歎異抄論究』(北樹出版、2003年)を読んでから気になっていた大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)を読みはじめました(参照:7月23日「真理の住みつく場としての『ことば』)。
本書全体は、「Ⅰ 生死を超えてーーほんとうの救いとはーー」「Ⅱ 名号の宇宙ーー親鸞の念仏とは何かーー」の二部六章からなり、第一部は朝日カルチャーセンターでの講演にもとづくもので、第二部は単独で行われた講演をまとめたもの。著作全体として共通するテーマを扱ってはいますが、個々の章の連続性はやや弱いように思われます。
本書の「あとがき」によれば、『親鸞のコスモロジー』をまとめた大峯氏の立場は、「浄土教の思想を出来るだけ現代人の普通の言葉で考え、かつ言い表したい」(本書223頁)ということであり、「教義や教学の概念はあっても、生きた言葉としての機能を発揮していない」(本書223-4頁)という一種の危機意識が大峯氏にはあるといいます。したがって、「仏教をこのような危険から守るには、伝統されて来た教義の用語をもう一度その発生の源泉にまでもどして、そこから言葉を新しく語りなおそうとする試みが必要である。概念から概念へと横這いするのではなく、概念の殻を破って、その内部にある言葉のエキスをしぼり出すことである。言葉を言葉として感じることだと言ってもよい。そういう思いが最近の著者には通切になっている。十九世紀のドイツの詩人ヘルダーリンは、『帰郷』と題する詩の中で、「聖なる名が欠けている」という暗示深い句を記している。聖なるものについての種々の言葉が語られて来たけれど、聖なるものそれ自体を宿しているような真に生きた言葉、つまり名がないのが現代世界の状況だ、とハイデッガーはこの詩句を解釈している。聖なるものがないのではない。聖なるものが無名となっているのである。これはヨーロッパだけのことではなく、われわれの社会のことでもあると思う」(本書224-5頁)とします(大峯氏は、ヨーロッパの宗教哲学研究者)。

   *    *    *

さて本書第一部「Ⅰ 生死を超えてーーほんとうの救いとは」は、「生死を超える自然の道」「人間の願いと仏の願い」「親鸞のコスモロジー」の三章からなります。個人的にもっともおもしろかったのは巻頭の「生死を超える自然の道」で、まずはこの章の要点を以下に抜き出してみます。

「法然上人には、どこか知的なところが感じられます。『選択本願念仏集』という書物は非常に論理的で、われわれでもなるほどとすぐ納得できます。これと比べて『教行信証』という書物の論理は、ちょっとわかりにくいのです。親鸞聖人は、「なぜ阿弥陀如来はわれわれ衆生の往生のために必要な至心、信楽、欲生の三心を起こしたのか」という問いを出しておられますが、これこれだという明確な、わかりやすい答が返ってきません。まず「仏意量り難し」という言い方をされる。仏さまの心、意図というものは、とても人間にはわからないと言うのです。なぜ仏さまが「ナンマンダブツ」だけで救う、そんな願をたてたかということは人間ではわからない、「仏意量り難し」と言っているのですから、われわれはどこかはぐらかされたような印象を受けます。
 それに続いて、「われわれ、衆生の心の中を見たら、清浄心、つまり澄んだ浄い心などもとから微塵もない」と書いてある。実は答はそこにあるのです。なぜ南無阿弥陀仏で救おうという如来の本願が出たかというと、如来の心の中にこれこれのものがあるからだというのではなかった。如来の心が、こうなっているのではないのです。われわれの心の中には救われる条件はひとつもなく、それだから如来が自らその条件を作って、われわれに回向してくださったのだ、というのです。これはつまり、われわれは救われないから救われるのだということです。これが親鸞の論理です。これこれの理由によって救われるというのではないのです。救われないことが救われることだ、そういう論理を語ったものです。
 これはちょっとわかりにくいですね。救われないから救われるとはいったいどういうことか。これは論理学で言ったら矛盾律を破るパラドックス(逆説)に当たります。救われないから救われる。これは普通の論理ではない。しかし親鸞にとっては、そういう言い方でしか正確に、念仏の本当の真理を言うことはできない。これこれの理由で救われるなどと言うと、念仏の真理というものはどこかに消えてしまうのだということです。人間の言葉を差し向けるなら逆接でしか表現しようがないのです。「われわれは、なぜ仏に救われるのですか」ーー「救われないからだ」。これが、親鸞が発見した本願念仏の救済の論理です。」(本書8-9頁)


「阿弥陀仏の本願といいましても、まず阿弥陀さまがおりまして、その阿弥陀さまが本願を起こしたというふうに考えると間違いです。「弥陀の本願」とは阿弥陀という仏さまがいらっしゃって、その方が十方衆生を救おうとの願いを起こされたーーこう受け取りますと、これはもう本願ではなくなる。それでしたら、本願という広大無辺なものを、なにかひとつの主体の枠の中に閉じ込めることになる。枠に入れることになってしまいます。
 ところが私たちは普通、どうしてもそうした発想をしてしまいます。これは誰の物かと所有者や主体を決めようとする。これが人間のはからいなのです。だから弥陀の本願でも、まず阿弥陀さまがいて、それが発願して、十方衆生を救うという本願を成就した、というふうに考えがちですが、そうではなくて、本願が先にあるのです。主体なき本願というものが、形をとったのを阿弥陀仏と呼ぶわけです。
 本願という広大無辺なもの、われわれの世界の根底にある、あらゆるものを捨てないという根源的な願い。この願いには主語はありません。有限なものには主体がありますけれども、広大無辺なものには主体などありはしません。ひとりも捨てない。十方の衆生をひとつも捨てないという本願。すべてを包もうという願いに、主語があったらおかしいわけです。つまり本願は無我です。
 ここのところを親鸞は和讃でこう言っています。
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」。十方の世界の念仏する人を、ずっと見ている、見るということは眼の中に入れるわけだから収め取るということですね、そしてどんなことがあっても捨てることがない。そういう摂取不捨のはたらきのことを阿弥陀という、と言っているわけです。阿弥陀仏がいて、それがどうかするのでなく、そういう摂取不捨の誓いが根源的にある、それを阿弥陀と言うのです。」(本書19-20頁)

「親鸞聖人はこういう具合におっしゃったのです。つまり、仏さまに抱かれているということを一生わからずに、私は本当に孤独で不安だと思って死んでしまう人と、抱かれていることをわかっている人と、二種類ある。それを「信」と「不信」というわけです。抱かれているという事実は同じなのです。みな抱かれている。この宇宙の中に、仏に抱かれないで生きることなど誰にもできない話です。けれども、そのことをわかる人とわからない人がいる。これがわかったことを「信」と呼ぶのです。如来の本願を信じるというのです。」(本書28頁)

「さて、『末灯鈔』では親鸞が年齢を加えてきまして、思想がますます単純かつ明瞭化してまいります。七番目の書簡にこう言われています。
  往生は何事も何事も凡夫のはからひならず、如来の御ちかひにまかせまいらせたればこそ、他力にてはさふらへ。様々にはからひあふてさふらふらん、おかしく候。
「往生の心とは、どういうことでしょうか」と、弟子があれこれと聖人に聞いてくるわけです。如来にまかせよと言われても、さまざまな心配がつきまとうから、どういう具合にまかせたらいいのですかと尋ねる。それに対して親鸞は、そんなことをあれこれ思わないことが、如来にまかせるということであると答えているのです。極楽に生まれるということは、もともと人間の力などのとうてい及ばない世界です。人間の力などではどうしようもない仏智の不思議による事柄について、なお自分のはからいでどうかなるように思っているのがおかしい。如来にまかす以外に何も要らないのだと言っています。」(本書41頁)

   *    *    *

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テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/09(水) 10:00:49|
  2. 仏教史&仏教思想
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