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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその3

『親鸞のコスモロジー』第一部の第二章、第三章は、それぞれ「人間の願いと仏の願い」「親鸞のコスモロジー」と題された論考。この二つの章では言語に関する独自の議論は展開されていないように思われますから、その要文だけを紹介しておきます。

【人間の願いと仏の願い】
この章では、本願について考察されます。
「およそ人間というものは、永遠に生きたいという願いを心のどこか深い深い奥底に持っているのだろうと思います。しかし、これは、仏さまの側の「浄土に生まれさせよう」という願いに出遇ってこそはじめて気づかされることで、自分だけでは、それはわかりません。」(54頁)
「浄土真宗とは要するに、大いなる生命の自覚のことだと思います。自覚というと自力聖道門的に聞こえますが、それなら親鸞聖人の「信知」という言葉でもよいのです。法蔵菩薩は、無限の生命への願いを成就しようとして五劫のあいだ修行して仏になった。無量寿如来とは無量寿を得た人のことです。生命そのものを自覚したら無量寿如来です。法蔵菩薩は生命の自覚にいたる無限の道程をどこまでも行こうという志を持たれたのです。できないことをしようとするのが菩薩です。できることだけをやるのなら、菩薩とは言えないでしょう。永遠に生きたい、仏になりたいという願いをぜったいにお離しにならなかったから菩薩なのです。私たちは、仏法をよく聞かないで、この願いを途中で捨ててしまう。自分の中にあるところの生命の願いに忠実でないのです。大事なもの、すばらしい宝物をいただいているのに、それを開花させることができずに殺してしまうわけです。」(82頁)
「私には俗世の願いしかないが、如来は十方衆生を永遠の生命に生きさせようという途方もない、崇高な願いを持っていらっしゃるーーこれでは、どこまで行っても「私は私」、「如来は如来」で別々です。極楽は「西方十万億土」の遠いところに行ってしまいます。それでは如来は、はるかかなたの存在で私とは無関係です。私の中は真っ暗闇でしょう。しかるに『無量寿経』は、まさしくこの対立を否定し、突破した真理の書でした。思えば如来の本願は、私の心の奥底の最後の願いだったのです。それは生きとし生けるものの願いを聞きとった願いだから、私自身の心の底にもある願いです。その願いがもとはといえば私の唯一の願いだったのに、それがどうしても私にはわからなかった。このことが知らされた経験を信心と言います。如来の本願は私の願いではないというのは、如来を疑っている証拠です。如来を信じたら、如来の本願はそのまま私のものとなるのです。」(83-4頁)


【親鸞のコスモロジー】
この章は、本書全体のタイトルともなっており、親鸞のコスモロジー(宇宙観、世界観)が考察されます。
「親鸞は宇宙を一つの円環として考えていると思います。親鸞の宇宙の真相は生命の環流です。世界というものには、まずこちらから向こうへ流れる生命の運動がある。如来の世界に生まれざるを得ないという大きな生命の潮流のようなもの、海流のようなものがある。信心によってわれわれはこれに乗るのです。それに乗ることを信という。潮流に乗らなかったら迷いです。その大きな潮流、浄土に向かって滔々と流れている、生きとし生けるもの、あらゆる物を乗せている大きな生命の流れがある。如来の他力回向がある。に乗ること、それが往相回向の利益です。ところがこの往相回向の潮流はこちらへ向かう潮流でもある。だから往相回向の潮に乗れば還相回向にならざるを得ません。同じ一つの生命の流れだからです。これとあれと流れが二つあるということはないのであって、流れの方向が違うだけのことです。二つの流れがあるのではない。大いなる如来の生命の流れがあるだけです。」(116頁)
「生きられないところで生きることができるような力はどこから来るのか。自分が決めた主観的な意味ではなくて、世界の客観的な意味というものに目が覚める。そのためには、親鸞は自分のあらゆる意味に絶望したわけです。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という親鸞は、生きることも死ぬこともできなくなったのです。「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」というのは、道徳的自己の判断についての迷いではないのです。自己の足もとが崩れるニヒリズムの経験が親鸞を襲ったのだと思います。生きることも死ぬこともできなくなった。自殺はなお世界の意味づけですが、それも無意味になる。この世のあらゆる意味がなくなったのです。それは、既存仏教のコスモロジーが、自力のコスモスが、破られたということでしょう。自分を含めた世界に意味がなくなる。自分の存在の足もとが崩れて虚無の深淵がのぞく。そのような無意味の中で親鸞は意味を回復したのです。その意味とはどういう種類の意味か。それは無意味と別にあるような意味ではなくて、この無意味の世界がそのままで持っているような意味であります。すべてを無意味にする罪悪深重の凡夫の世界のただ中に、ひとつの意味を親鸞は発見した。それが、阿弥陀仏の本願、本願の念仏というものであったのです。」(123頁)


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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/12(土) 09:33:50|
  2. 仏教史&仏教思想
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