le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその6

続いて大峯氏は、『無量寿経』のなかの法蔵菩薩の第十七願、すなわち「たといわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずんば、正覚を取らじ」を「言葉」をキーワードにして分析します。

「これはどういう意味かと申しますと、私が阿弥陀仏になった時に、十方世界のたくさんの仏たちがことごとく阿弥陀仏の名前をほめたたえなかったら自分は阿弥陀仏にならない、という意味です。しかしこれはどういうことでしょうか。自分が阿弥陀仏になった時に、その私の名前を十方世界の諸仏がみなほめたたえるということがなかったら、自分は仏にはならないという。自分が有名にならなかったらいやなんだというようなこととは違うのです。そうではなくて、阿弥陀仏が阿弥陀仏になるためには、根源的な言葉が成就しなくてはならないということを言っているのです。宇宙の中のありとあらゆる仏たちがひとしく称えるような、そういう言葉が出現しなかったら、それを生むことができなかったら自分は仏にならないという誓いです。これはつまり、およそ世界というものが完成するのは、本当の言葉が完成した時だということであります。真理というものは、実は言葉の真理にほかならない、という意味です。阿弥陀仏の勝利はとりもなおさず、言葉の勝利であるということを言っている。これは実に、われわれの世界の一番の深層にある出来事を表現したものです。
 第十七願はけっしてお伽噺を言っているのではありません。阿弥陀仏の誓願を遠い昔の物語とかお伽噺と考えるかぎり、浄土真宗を根本的に誤解することになると思います。昔、法蔵菩薩がいて、それが四十八の願いを立てたことがあった。もしそれだけなら、それは私となんら関係がない。『無量寿経』はそんなお伽噺を説いているのではなくて、われわれのこの現存在の深みにおいて今も起こっている事柄、現に今われわれが生きているこの世界の一番の根底にある出来事を説いているわけです。人間と世界が支えられるのは、実に真実の言葉によってだということを教えているのだと思います。」(本書153-4頁)


法身概念をめぐって、大峯氏はさらに先にすすみ、本章を次のようにしめくくります。
「しかしなぜ、言葉も形もない仏が言葉になるのか。『教行信証』の中で親鸞はそれを「仏意量り難し」と書いていますけれども、それは実に仏の悲しみのなせるわざであります。真実の言葉、真実というものに出遇うことができず、「そらごとたはごと」の中をどうしても出ることができないでいる衆生を見捨てることができない。そういう衆生を救うためには、自分が自ら言葉になって人間を呼ぶほかはない。真実の言葉にならなくてはならないと仏は思った。その衆生に対する底知れない仏の悲しみと申しますか、大悲というものが、世界にはじめて言葉を生むわけです。仏自らがそれであるような言葉を生むのです。南無阿弥陀仏という名号は、仏が自分自身を与えた姿です。自分の持っているお金を与えるとか、自分の持っている才能を与えるとか、そんな一部を与えたんじゃなくて、仏は自分の全部丸ごとを与えた。だから、南無阿弥陀仏以外に仏はない。南無阿弥陀仏のうしろに仏がいるのではなくて、南無阿弥陀仏という言葉が仏そのものです。そのことを経験し、そのことを信じることが浄土真宗の信心にほかなりません。」(157頁)

   *    *   *

ところで、大峯氏が提唱している言語の三区分に関しては、私には日常語と宗教言語の二区分でいいのではないかと思え、学問的認識の言語というのを独自の次元としてたてるという点は、大峯説に必ずしも納得しているわけではありません。概念語を独立した次元としてたてているために、(言語論としてはともかく)名号論としてはちょっと回りくどくなっているような印象を受けます。

それとは別に、大峯氏の発想をつきつめていくと、浄土教も一種の「真言思想」ということになってしまいそうな気がするんですが、私はそれもありかなと思ってはいます。つまり、親鸞をはじめとする浄土教信奉者のなかにも、ベースとしての真言志向は潜在していて(大峯流にいえば、この志向は、時代背景と関係なく普遍的?)、彼らの場合、それが「南無阿弥陀仏」という根源語・絶対語として表面に出てきたということですね。
大峯氏のこうした発想は、8月6日付けの記事「千輪慧氏の『歎異抄と親鸞』を読む」で紹介した千輪慧氏の『歎異抄』分析にも通底するところがあると思うんですが、千輪氏の分析のキーワードの一つと考えられる「本願からのよび声」という概念は、用語そのものがある意味でとてもハイデガー的だし、また同時に真言的発想ともいえますね。
要するに本願のウダーナ(感興語・自発語)とでもいったらいいんでしょうか?この辺は、意味論的アプローチがとても難しいところだと思います。

   *    *    *

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テーマ:意識・認識・認識論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/16(水) 11:42:56|
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