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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその8

浄土真宗の信仰における言葉の重要性の指摘に続いて、大峯氏は次のように自問します。
「阿弥陀さまの本願がまことであるなら、お釈迦さまのお説教がウソでないということはどういう意味でしょうか。阿弥陀さまというのは人間ではありません。その阿弥陀さまの本願がまことだから、それを説かれたお釈迦さまの説教がウソでないと言われるのです。(中略)『無量寿経』は弥陀の本願を説いている。仏さまの語りを説いているのです。お釈迦さまの口を通して、人間の言葉ではない言葉、真理そのものであるような言葉が説かれていると親鸞は言うのです。」(本書175頁)
大峯氏の自問は続きます。
「しかしいったい『無量寿経』がフィクションでないという根拠はどこにあるのでしょうか。このことをわれわれの実存をもって実証することが信仰の問題だとも言えます。『無量寿経』も誰か人間が作ったテキストではないかと、そんなことを思っていると、『無量寿経』によって救われるということは起こりません。『無量寿経』というものはたしかに人間の言葉で書かれてある。しかもそれは弥陀の本願を説いている。その間のギャップをどうやって飛び越えていくかという問題です。」(本書175-6頁)
『無量寿経』が「人間の言葉」によって説かれたということは、通常の意識の問題としては理解しがい・超えがたい大事件であると大峯氏はいいます。
「お釈迦さまは自分の我を捨てたから、阿弥陀さまの本願という原始言語を聞き、それを説くことができた。本願の大いなる海鳴りをお釈迦さまは聞いたのです。阿弥陀さまの言葉が人間の言葉に反射しているのが『無量寿経』です。だから「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」ということは、実に本願の言葉が人間の言葉になった大事件のことであります。お釈迦さまという方を通してこの大事件は起こりました。お釈迦さまのおっしゃっていることがウソでないのは、人間としてのお釈迦さまは、阿弥陀さまの本願海のなかに没入して消えてしまっているからです。この没入によって『無量寿経』は、人間を超えた弥陀の本願を人間の言葉にしているわけです。親鸞聖人はそのことを、真実の教えである『無量寿経』の「宗」は弥陀の本願、名号はその「体」だとおっしゃっているのではないでしょうか。」(本書177頁)
こうした意識の問題に入っていかない限り、経典の言葉の問題は永遠に言葉の問題に留まり、そこでおさえられる言葉の「意味」は、結局、トートロジーを超えることができません。大峯氏は、それを超えたのが、善導であり、蓮如(「聖教は読み破れ」)であるとします。
「これらの人々はみな、言葉を通りながら言葉の原初へと突き抜けて行ったのです。人間としてのお釈迦さまが語ったり、善導が語ったりという、そんな地平はもう超えられている。言葉を超えたものが人間の言葉になる、人間の言葉を通して伝えられていくという、そういう不思議がここに起こっているのです。そのようにして今、われわれの前にこの浄土真宗があるのです。七高僧の伝統というのは、そういう不思議な真実の言葉の伝統のことだと思うのです。」(本書178頁)

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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/18(金) 08:29:03|
  2. 仏教史&仏教思想
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