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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその9

「名号の宇宙」の章の最後、大峯氏はハイデガー思想の問題にもどってきます。われわれは、通常、語ることが言語に対する人間の一番最初の関係のように思っていますが、大峯氏のみるところ、ハイデガーによればそうではありません。
「(ハイデガーは)言葉に対する人間の最も原初的な関係は、言葉を聞くところにあると言うのです。聞くということ、言葉が語っていることを人間が聞くということがまず最初になければ、人間は本当に言葉を語ることはできない。聞くことが語ることの基礎だとハイデッガーは言うのです。」(本書180頁)

この辺で、8月11日の記事「大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』を読むーーその2」をご参照ください。
そこでは個人における「自己自身の始まり」「自意識の始まり」が問題にされていたのですが、言葉の問題をこれに重ね合わせて考えると、人はまず聞くことによって言葉と接触することが明らかではないかと思います。人が話しているのを聞くことで、言葉(会話)の前提にある他者の意思の存在を知り、それを自己の内部に投影していく。その内部投影が完了してはじめて、人は言葉を語りはじめるのではないでしょうか。ですから、この記事でも指摘したように、意識形成とはある「転移」であるともいいうると思います。
大峯氏が引く、ハイデガー自身の言葉を聞いてみましょう。
「語るということは、もともとひとつの聞くことである。それは我々が語っているところの言葉を聞くということである。それだから、語ることは同時に聞くことであるというのではなくて、語ることは前もって聞くことなのである。我々は単に言葉を語るだけではなくて、言葉から語るのである。我々にこのようなことができるのはただ、我々がそのつど、すでに言葉に聞いたということによってのみである。その時我々はいったい何を聞くのか。言葉が語るのを聞くのである。」(『言葉への道』)
大峯氏によれば、この文章は、「言葉自体の語るのを聞くということが、実は言葉というものの持つ最も深い次元である。その深い次元へ入っていくことが、言葉に対する人間の最も深い関係である」(本書180頁)と解されます。

この分析をうけて、本章は次のように締めくくられます。
「ハイデッガーはもちろん、称名念仏の思想は知らなかった人ですが、言語の本質の中に称名念仏が持っているのと同じような次元を発見していると私は思います。南無阿弥陀仏を称えるということにおいて、われわれは、測り知れない言葉の深みに入っていく。われわれの称名念仏は、仏の語りを聞くということによって、はじめて起こるわけでしょう。南無阿弥陀仏は、こちらから先に出る声ではなくて、仏さまが語っている、向こうから私の方へ呼んでいる声です。親鸞聖人は「帰命とは本願招喚の勅命なり」と『教行信証』「行巻」の中で言っておりますが、私が南無阿弥陀仏を称えるということは、向こうから私が呼ばれているということでしょう。」(本書180-1頁)

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テーマ:意識・認識・認識論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/19(土) 10:26:24|
  2. 仏教史&仏教思想
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