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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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伊藤益氏『親鸞ーー悪の思想』『歎異抄論究』を読むーーその1

伊藤益氏の『親鸞ーー悪の思想』(集英社<集英社新書>、2001年、以下では『親鸞』と略す)を読み、その勢いで『歎異抄論究』(北樹出版、2003年)を再読しました。

まずは『歎異抄論究』の「後記」から、伊藤氏の親鸞観を概観しておきましょう。
「一般に、親鸞の教えは他力の教えであるといわれる。けっして誤りではない。しかし、もしこの一般的な解釈が、親鸞思想を、他力か自力かという問題を他のすべての問題に優先させるものと見る理解を示すとすれば、そこには思想解釈として看過できない誤謬があるといわざるをえない。なぜ誤りなのかは、歎異抄を丹念に読めば瞭然としてくる。この書は、他力という精神の様態が、親鸞の思索の前提ではなくむしろその結果であったことを確示しているからである。親鸞は、何よりもまず、人間存在の根本構造を直視し、そこに不可避的な悪性が根源的なものとして巣くうことを確認した。そのとき、親鸞は、人間的能力の無力を実感せざるをえなかった。親鸞を他力の思想へと導いたものは、この実感である。人間的能力の無力を実感せざるをえなかった。親鸞を他力の思想へと導いたものは、この実感である。悪ゆえの無力を抱えた人間が、独力で救済者たる超越者を信じることができるとすれば、それはほかならぬその「信」が超越者の側から与えられる場合にかぎられる。親鸞はそのように考えるがゆえに、苦渋に満ちた思索の結果として、他力の思想を選び取ったのだった。」(同書317頁)
この人間構造に不可避的な悪性をつきつめるということが、伊藤氏の親鸞論の根底にあるのではないでしょうか。

にもかかわらず、『親鸞』と『歎異抄論究』の叙述には「転回」とも呼べるような大きな断絶があり、伊藤氏の苦悶のあとがうかがえます。
それはなぜでしょう。『親鸞』刊行と同時期に平雅行氏の『親鸞とその時代』(法蔵館、2001年)が刊行され、伊藤氏は、平氏が主張する「悪人正機説は親鸞オリジナルではない」という説と対峙し、最終的に、「史料の綿密な検討に基づいて展開されたこの論を無視することはできない」(『歎異抄論究』72頁)と、平氏の説を受け容れたためではないでしょうか。それによって、「悪」を中心に旋回する『親鸞』の議論は全面的に変更を余儀なくされ、伊藤氏は、新たな視覚から親鸞像を組み立てる必要を感じたのではないかと私には思われます。
しかしもともと、伊藤氏の悪人正機説に関するテクスト解釈(=『歎異抄』第三条の読み)と平氏のそれは非常に近いところにあったようにも思われます。
つまり、「『歎異抄』の悪人正機の説をめぐる従来のすべての解釈は、「悪」を道徳的・倫理的悪と解してきたといっても過言ではない。(中略)だが、もし、悪人正機の説にいう「悪」が道徳的・倫理的悪ではなく、別の種類の悪をさすとすれば、事態は一変する。たとえば、それが、人間が「いま」「ここ」に在るということの根本にかかわる悪、すなわち「存在論的悪」であるとすればどうだろうか。その場合、親鸞は、人間が在るということそれ自体を「悪」と見定めていることになり、そうした視点からは、具体的行為のいかんを問わず、道徳性・倫理性とは無関係な次元で、すべての人間が「悪人」以上の何ものでもないという認識論が導かれる」(『親鸞』77頁)という伊藤氏の解釈と、「親鸞は言います。「さるべき業縁の催さば、いかなる振る舞いもすべし」。自分という人間が、いかに恐ろしい可能性を秘めた存在であるかを見抜いた言葉です。心やさしき兄、親孝行で家族思いの息子や、実直で木訥な夫や父親たちが、虐殺者に豹変して蛮行をかさねることなど、珍しい話ではありません。そして彼らにできたことなら、私にできないはずがありません。私は状況次第で、どのようなことでもやりかねない人間なのです。だから、私たちはすべて悪人たらざるを得ない、と親鸞は語っているのです。」(『親鸞とその時代』143-4頁)という平氏の解釈は、ともに、親鸞が考えるところでは(末世に生きる)すべての人間が悪人である(善人は存在しない)という点で共通しており、それゆえ伊藤氏は、平説から深刻な影響を受けたのだと思います。
ただし、『歎異抄論究』の悪人論は、その影響の克服が未だ不十分で、伊藤氏は、「悪」にかわる親鸞思想の中心テーマを探りあぐねているという感じが私にはします。

ところで、大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)に対する、伊藤氏の高い評価は、この転回のプロセスのなかからでてきたのではないでしょうか。
伊藤氏はもともと、『親鸞』のなかでも『親鸞のコスモロジー』をとりあげているのですが、そこでは、「教説を受け継ぐ伝統がそのままただちに教説の正当性を保証するわけではないことは、誰の目にも歴然としている。大峯顯氏の宗教的言語論(『親鸞のコスモロジー』など)を敷衍するならば、この部分に、人間が「ことば」を語るのではなく、「ことば」が人間をとおして語るという発想をみとめることができるかもしれない。いわば「存在のすみか」(ハイデガー)ともいうべき、「ことば」が、先師たちの身に宿り、それが絶対に正しいものとして、自分にも呼びかけている。親鸞は、そう考えていたのだろうか。大峯氏の理解に添ってそうとでも解釈しないかぎり、法統の正統性から自説の正当性を導く親鸞の思考を論理的に説明づけることはできないように見える。しかし、すくなくとも『歎異抄』の文脈は、「ことば」が、人間をとおして、あるいは、人間において語るという発想が親鸞にあったということを明確に示すものではない。大峯氏の理解に即して親鸞の真意をとらえる途は、平坦ではないというべきだろう」(『親鸞』32-3頁)と、留保付きの紹介に留まっています。
それが『歎異抄論究』では、次のように変化します。
「この点に関して留意すべきは、大峯顯『親鸞のコスモロジー』が展開する宗教言語論である。それによれば、親鸞は、法統の連綿たる持続性をその内部から支える人格性に信憑を寄せているのではなく、むしろ、法統のなかで各々の人格性において開示される「ことば」に信を置いているのだ、という。すなわち、親鸞は、ある具体的なことばが弥陀や釈尊、あるいは善導、法然によって語られたがゆえに正しいといっているのではない。決定的な真実性に蔽い尽くされた「ことば」が、法統を構成する人格を媒介として「世界」へと開き示されてあるその姿のうちに、親鸞は真理の呼びかけを聞き取っているものと考えられる。「ことば」を人間が真理(存在)を語るための手段としてではなく、そのただなかに真理(存在)が住みつく場としてとらえたのはハイデガーであった。大峯顯の宗教言語論は、親鸞が、ハイデガーないしはハイデガー的(実存論的)な思索を先取りし、「ことば」を真理(存在)の住みかとする思索を披瀝しているのだ、とする。
 もとより、歎異抄第二条の文脈において、そのような思索の痕跡を明確に跡づけることはできない。それを跡づけようと試みることは論者の恣意を出ないという批判も、当然起こりうるであろう。しかし、歎異抄後序が、故親鸞聖人の言説を思い出すままに書きつけるという同著述作の意図を鮮明にすべくつぎのように述べているのに接するとき、本書は、大峯顯の宗教言語論がけっして牽強付会ではないことを認めざるをえない。歎異抄後序はこう語っている。

 これ、さらに、私の言葉にあらずといへども、経釈のゆくぢも知らず、法文の浅深を心得わけたることも候はねば、定めて、をかしき事にてこそさふらはめども、故親鸞の仰せ言さふらひしおもむき、百分が一、片端ばかりをも思ひ出で参らせて、書きつけ候ふなり。
」(『歎異抄論究』58-9頁)
こうした評価の相違を考えると、『歎異抄論究』の伊藤氏は、大峯氏の言語論の方向に、親鸞思想を組み替えようとしている途上にあるといえるのではないでしょうか。伊藤氏の次のような叙述も、私にはそうした模索のなかから生じてきたもののように思われるのです。
「親鸞は、師法然に対して絶対的な随順の姿勢をとる。その姿勢の根底に、法然から受けた人格的感化があったことは否定できない。人間法然の測り知れない魅力が親鸞をとらえて離さなかったことが、そうした絶対的随順のもっとも大きな原因であったことは確実であろう。しかし、厳密には、親鸞は、なま身の「人」としての法然に情緒的に寄り縋っていたちいうよりも、むしろ、法然において自己を開示する「ことば」に絶対的な信を置いていたと見るべきではないか。法然がその人格の面で親鸞を魅きつけなかったといっているのではない。法然の人格は、多大な魅力を湛えつつ、親鸞を圧倒したであろう。だが、親鸞から見た法然には、人格的魅力を超えた絶対的な権能があった。それは、述べてきたような、真理として自己自身を語り出す「ことば」の力を前提とするものだったと見るべきであろう。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに、別の子細なきなり」とは、時間的・空間的に限局される一人格への盲目的信憑を表出するものではなく、時空を超えて同一性・不変性を保ち続ける「ことば」への信頼を語るものであった。」(『歎異抄論究』61頁)

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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/22(火) 13:59:28|
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