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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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宗教言語論ーーイスラームの場合 その1

このブログでは、このところずっと浄土仏教(主として親鸞の思想)についていろいろ考察してきましたが、考察をさらに先にすすめるため、この辺で少し視点を変え、浄土仏教とは違ったタイプの啓示宗教における言語コミュニケーションの問題をとりあげてみましょう。私が問題にしたいのは、井筒俊彦氏の神と預言者との間の「啓示(コミュニケーション)」に関する記述です。

井筒俊彦氏の論考「言語現象としての「啓示」」(『超越のことばーーイスラーム・ユダヤ神学における神と人』所収、岩波書店、1991年)は、端的にいえば神の啓示はどのようなかたちで預言者(ムハンマド)に下ったか、その啓示が下ったとき、預言者はなぜそれが啓示であると了解できたのかを追求した論考だと思いますが、この問題、ある意味で、浄土仏教でいう「如来より賜はりたる信心」にも通じる部分があるのではないでしょうか。
具体的に、井筒氏の文章を読んでみましょう。
「「預言者」の妻アーイシャに遡る一つの有名な「聖伝集(ハディース)」がある。ある時、ある人がムハンマドに訊ねた、「神の使徒よ、啓示はどんなふうにして貴方に下るのですか」と。この問いにたいして、ムハンマドは、こう答えたという、「[啓示の下り方はいろいろだ]。ある場合には、それは鈴がジャラジャラいう音のように(mithla salsalati al-jaras)やって来る。私にとっては、これが一番苦しい啓示の下り方だ。やがて、鈴の音は私を放して遠ざかる。そのとき、ふと気がつくと、神が私に語ろうとしたことが、この鈴の音から私に了解されていたことを私は意識する。」
 この文章には、ある顕著な文法的特徴がある。すなわち、鈴の音が去ったとたん、ふと気がつくと、神のこころを「私は[すでに]了解していた(wa'aitu)のだ」というふうに、了解するという動詞が文法的に、いわゆる完了形で言われていることである。この文法的事実が何を示唆しているか、については、イブン・ハルドゥーンの鋭い洞察がある。第一に、「私は了解していた」という文の「了解」とは言語的了解である、ということを注意する必要がある。そして、それよりもっとはるかに重要なことは、この「言語的了解」の裏の意味として、「啓示」を実際に受けつつあった現場では、ムハンマドは、ただ奇妙な金属性の音を聞いていただけであって、有意味的なコトバは全然聞いていなかった、ということである。「啓示」体験の現場で、彼の耳に響いていたのは、意味のわからない不分明な音(dawi)だけ。だが、「啓示」が終了して、日常的意識のレベルに戻った瞬間、彼は、自分の聞いていた異様な音が、明瞭に分節された有意味語の連鎖であったことに、ふと気づくのである。
 ついでながら、「鈴のジャラジャラいう音のように」(mithla salsalati al-jaras)という表現は、実は、絶対に確実というわけではない。最後の語al-jaras(「鈴」)は、別の伝承ではal-jarsである。とすれば、ムハンマドの聞いたものは「鈴の音」ではなくて、「何やら低い、わけのわからぬ音」であったことになる。そのほか、「何か金属を叩く音」とも、「鳥の羽搏きのような音」とも伝えられている。が、いずれにしても根本的な意味は変わらない。要するに、「啓示」そのものは非言語的な音であり、それが消えたとたん、いわば自動的に言語記号に翻訳されている、ということである。」(上掲書36-7頁)


「鈴のジャラジャラいう音のように」というと、なにかとても即物的な感じがしますが、結局これは、浄土仏教でいう「本願の海鳴り」(大峯顯氏)にとても近い現象なのではないでしょうか。法然や親鸞が阿弥陀仏の本願(勅命)を聞いたとき、それはまず、意味がどうのこうのというより、ナムアミダブツナムアミダブツという音の連なり、ようするに「海鳴り」として聞こえた。しかしその海鳴りが聞こえたとき、法然や親鸞は、そこに阿弥陀仏からの呼びかけを感じ、その呼びかけに従おうと思ったということじゃないかと。ナムアミダブツという「音」に対する意味づけ(教理)は、ムハンマドの場合がそうであったように、あとから来るのではないかと私には思えるのです。

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テーマ:意識・認識・認識論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/24(木) 13:13:14|
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