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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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後期ハイデガーの思想ーー『存在論的、郵便的』から

浄土仏教やイスラームの思想を「暗号」や「根源的コミュニケーション」の位相からとらえるには、それらを脱宗教化して言説のレベルをずらしていくという戦略もある意味で有効かもしれません。以下、それに必要な範囲で、東浩紀氏の『存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』(新潮社、1998年)の要文を抜き出してみます。浄土仏教、イスラームという文脈のなかでは見えにくかった要素が、東氏のテクストと照合することによって見えてくるという部分もあるのではないでしょうか。
ちなみに、この『存在論的、郵便的』という著作は、「伝達(郵便)」を大きな主題の一つとしており、伝達の問題を存在論とからめようというのが東氏の戦略だと思いますが、そこでは、「通常、テクストはとある意図・意味を伝えるものであり、その伝えられた意図・意味からテクストのオリジナリティーが判断されるが、正確に伝えられるものにオリジナリティーはない。そうではなくて、テクストが伝えられるときに誤配や配送ミスによって差し戻されたり伝達過程で消えていくメッセージがあり、その誤配等にこそオリジナリティーがあるのだ」と主張されていると私は考えています。今回この著作を部分的に読みかえしてみて、「痕跡」という概念が、言い得て妙というか、非常におもしろかったです。
ところで、この抜き書きは、大峯顯氏の『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)に対するより直接的な註をもめざしています。後記ハイデガーをキー・ワード(キー・パーソン)にして、『親鸞のコスモロジー』と『存在論的、郵便的』は図らざる連関を示しているのではないかと私には思えるのです。

   *    *    *

「後期ハイデガーは言語のみに、それもギリシア語とドイツ語を中心とする特定の語彙の解釈のみに依存して思考を進める。これは通常、哲学の神秘思想化、あるいは解釈学化(あわせればカバラ化)と見なされている。」(東氏上掲書238頁)

「ハイデガーはフッサールから出発した。後者の現象学は、カントの超越論哲学を継承し採用している。超越論的自我(メタ)が意識的相関者(オブジェクト)を構成するという現象学の主張、いわゆる「ノエシス-ノエマ構造」は形式的には、論理形式(メタ)が世界=思考の底面の安定を要請する。」(同書239-41頁)

「では前期ハイデガーはどうか。前述したように、彼のシステムは二レヴェルの短絡から成立している。その短絡回路を以下「クラインの管」と呼ぶことにしよう。その存在は声(フォネー)の機能、メタとオブジェクトの峻別を犯す。第三章でも触れたように、『存在と時間』はこの機能侵犯に「呼び声 Ruf」という音声的隠喩を当てている。呼び声(ルフ)は私の外から到来するものではない。それは「私の中からしかも私を超えて aus mir und doch uber mich」響く。そしてその声こそが「現存在の本来的な存在可能」を、つまり「客体的存在者の『事実性』からは本質的に区別されるべき」「実存性」を開示する。呼び声(ルフ)が実存論的構造を可能にする。私たちはこのハイデガーの主張を、今度はクラインの壺の安定化装置について語られたものと解釈できるだろう。(中略)私たちは以下このシステムを、やはり前二章にしたがい「否定神学システム」と呼ぶことにしよう。」(同書241-2頁)

「30年代のハイデガーはそこからの前進を図る。それが転回(ケーレ)と呼ばれる。ではどのように前進したか。呼び声(ルフ)の由来が現存在内部に求められないとすれば、それは外部から侵入したと考えられるほかない。したがって転回(ケーレ)後のハイデガーは、超越論的シニフィアンの循環運動ではなく、その到来の局面を問題とする。私たちはこの変化を隠喩的には、超越論的シニフィアンを指示する語が「呼び声(ルフ)」から「存在の声(シュティンメ)」へ移動したことに確認できる。所有者が不明だった呼び声(ルフ)と異なり、「存在の声」はまさに「存在」の声として聞かれる。つまりその聴取において、現存在ははっきりと受動的位置に置かれる(後期ハイデガーにおいては、「聞くこと horen)」は一般に「隷従・所属 horig, gehoren」を意味する)。そしてこの論理的変化に伴って、「存在」の含意もまた前期とは微妙に異なっていく。それはもはや単なる思考の限界、「不可能なるもの」を指示するひとつの語ではない。後期ハイデガーにおいては「存在」はむしろ、現存在が耳を傾け従う声、否定神学システムを安定化させる超越論的シンフィアンの発信源(Ursprung)の名として機能する。例えば『「ヒューマニズム」について』のドイツ語は、つぎのように記している。「Dass aber das Da […] sich ereignet, ist die Schickung des Seins selbst」。意訳すればこうだ。Daの性起、すなわちクラインの壺の底面の成立可能性は、「存在そのもの」から送付(schicken)される。現存在はその受信者に過ぎない。したがってそこでは、哲学の目的も変わってしまう。哲学はいまや実存論的構造ではなく、実存そのものの成立可能性の根拠=発信源を問わなければならない。そして「Als das horend dem Sein gehorende ist das Denken, was es nach Wesensherkunft ist.」。存在の声に耳を傾け、そこに所属したときはじめて、思考は自分がどこから到来したかを考えることができる。」(同書245-6頁)

「46年の「アナクシマンドロスの箴言」は、つぎのように記している。「to chreonは、存在者の存在を思考が言葉へともたらした最古の名である」。「言葉は存在の現成するものを名付けるため、ある唯一な、それしかない唯一の語を発見せねばならない」。「存在の存在者に対する区別は[…]、存在がそこに到来する言葉のなかで保持され続けるような、ある痕跡を刻印する[…]そしてそのときのみ、その区別は忘却された区別として経験に入ることができる」。ハイデガーの主張はこうだ。まず最初に「存在」は、つまり声(シュティンメ)の発信源はなんらかの語で命名されねばならない。そしてその語は命名の力を痕跡として(声として)保持する。哲学はその痕跡を手がかりにしてはじめて、存在者の領域を超え「存在」そのものへと遡行できるだろう。この規定は具体的には、ハイデガーが各々の哲学用語(例えばchreon)を一種の固有名として読解していることを意味する。そしてこの含意は、50年代のテクストではさらに明確になっている。「人間存在の二重襞への関わりにおいて、支配的でありかつ支持的なものは言葉である」。呼び声(ルフ)=声(シュティンメ)は、言語を介してのみ現存在に到達する。したがって「語は物でも存在者でもない。[…]詩人の経験に従っても、また思考の最古の伝承[Uberlieferung]に従っても、語は存在を与えるものだ」(Unterwegs zur Sprache<言葉への途上>)」(同書247-8頁)

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テーマ:言語学・言語論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/08/30(水) 09:31:36|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
<<親鸞の言葉から | ホーム | 「暗号」を解読する能力>>

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