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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその1

「親鸞本」の読みもだいぶすすみ、親鸞の行動(活動や生涯)について、自分なりのイメージもまとまってきました。それを確認するため、昨日は平松令三氏の『親鸞』(吉川弘文館<歴史文化ライブラリー37>、1998年)を読んでみました。この本も、細かい点では不審・不満がありますが、それ以上に、親鸞の活動や生涯全般に関し、私の抱いているイメージに非常に近い記述が行われており、自分のイメージを確認・補強することができました。
以下、そうした観点から、平松氏の『親鸞』の要点を抜き出してみます。

まず、基本的な点ですが、平松氏は、人物叢書『親鸞』(吉川弘文館、1961年)によって、親鸞の生涯を「実証的に」記述し、画期的な親鸞像を創出した赤松俊秀氏門下の歴史学者です。このため平松氏の『親鸞』は、基本的に赤松氏が導入した方法論にのっとり、そのうえで赤松氏の『親鸞』が書かれてから明らかになった事実をとりいれ、赤松氏の『親鸞』を批判的に読んでいくという性格が強く打ち出されています。
そのうえで、巻頭に、「世に名僧とか高僧とか言われて尊敬を集めている人物の中で、親鸞ほど自分のプライバシーについて発言しなかった人は少ないのではあるまいか。自分の生まれた家、父母、あるいは妻子など、私生活については、いっさい口をつぐんだままだった。なにもとくに黙秘しようとしたわけではあるまいが、ついぞ一言も喋ることはなかった」(1頁)と記し、親鸞の生涯についての記述をはじめます。
したがって、平松氏のように実証史学の立場をとる人にとって、親鸞の生涯を明らかにするということほど困難な問題はないともいえるのですが、それでも、この本は厳密な史料批判のあいだから、親鸞についてのあるイメージがたちのぼってきます。好著というべきではないでしょうか。

まずは、流罪になるまでの親鸞の活動等の記述から、(解釈上)印象に残った点をあげておきます。

【夢想から法然門下への道程】
建仁元年(1201)、二十九歳の親鸞は延暦寺を出て、法然に入門します。その経緯を示唆するものとして「親鸞夢記」があり、その一部に次のように記してあります。
「救世菩薩、此の文を踊してのたまはく、この文は吾が誓願なり、一切群生に説き聞かすべし、と告命したまへり。この告命によつて数千万の有情にこれを聞かしむ、と覚えて、夢悟めおはんぬ。」
この夢記の文を平松氏は次のように受けります。
「六角堂を出た親鸞は、恵信尼の書状によると、「ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと」法然のもとへ行った、というのだが、右の「親鸞夢記」の文から考えると、救世観音の告命、つまり、在俗のままでの仏道修行と民衆に宣布するという使命、を実行するために、法然を選んだはずである。当時の法然の下には、「沙弥・沙弥尼」と呼ばれた在俗のままの出家者が多く集まっていたことが親鸞を惹きつけた、と考えられる。法然を「ごせのたすからんずるえん」と呼んだのは後になってからの恵信尼の理解であって、このときの親鸞には、とにもかくにも、救世観音の告命の実践が、喫緊の命題であったはずである。したがって法然門下への参入を「雑行を棄てて本願に帰す」と言っていても、その当時それだけの信心が固まってからの行動であったわけではなかったはずである。」(104頁)
親鸞の法然入門は、それが自覚的になされたという点で、親鸞の行動のなかでも最初期の重要なポイントで、私はこの時点で、親鸞には強烈な阿弥陀仏体験(本願を聞く)があったのではないかと考えます。したがって、平松氏のように民衆宣布のために法然を選んだという考えはとりませんが、同時に「後世をたすかる」という明確な教理的自覚もなかったと思います。この「後世をたすかる」を「後になってからの恵信尼の理解」とする点で平松氏の分析は肯えます。

【法然真影図画の意義】
元久二年(1205)、三十三歳の親鸞は、法然から『選択集』を付属され、真影の図画を許されます。この真影の図画の許可を、平松氏は、小山正文氏に従って一つの寿像からの模写と解釈します。
「「既製品画像」といえば、小山氏は先記解説(『真宗重宝聚英』第六巻所収)の中で、福岡県善導寺とほか一寺に、妙源寺とまったく同じ賛銘の法然画像が所蔵されていることと、善導寺本は背裏に「元久二年二月十三日」との記年墨書銘のあることを紹介して、「法然の手許には一つの寿像があり、申し出た場合、特別にそれを写すことが許され、許可を受けた者は、その寿像を預かって絵師に図画させた事態が考えられる。そして完成した像には時として法然みずから賛銘を染筆することがあった」と推測している。親鸞の「空ノ真影マフシアツカリテ図画シタテマツル」という『教行信証』の言葉に相応するもので、卓見と言えるのではかなろうか。」(119頁)
そのうえで、平松氏は、寿像の模写をはじめとするさまざまの行為を、法然は伝授として使い分けていたとします。
「いうなれば、法然は三種類の伝授を併行して実施していたのである。それをどう使い分けていたか、伝授を受けた人びとから類推するしかないが、血脈はどうやら最も側近のいわゆる「入室」の弟子に伝えていたらしいし、『選択集』はそれに次ぐ「上足の弟子」に伝授し、真影は願主となった人びとに後白河法皇とか、九条兼実・熊谷直実など在俗入信者の名の見えるところに特徴があるようである。恐らく門弟の性格や理解度、生活態度を見極めたうえで、巧みに使い分けていたのではあるまいか。」(123頁)
このことは、いわゆる「法然の弟子」とはどのような人であるかを考えるうえで重要な具体的指摘ですが(要するに、法然の弟子には三種類の人々がいた)、同じことは「親鸞の弟子」に関してもある程度あてはまるのではないでしょうか。
ゆえに、このなんでもないような記述が、私には非常に重要に思えました。

【信行両座と信心諍論】
次に、親鸞が自己の信心が法然と同じであるかどうかをめぐって正信房、勢観房、念仏房らと論争をしたという「信心諍論」の説話(結果は、法然がそれを肯定した)の評価。これは「親鸞伝絵」のほか、『歎異抄』にもほぼ同じ内容で収録されており、平松氏は、「これは実際にあった出来事で、のちになってそれを親鸞が自分の門弟たちに語り聞かせていたにちがいない」(134頁)とします。
しかし興味深いのはこのエピソードに登場する人物の分析で、平松氏はそれを「意外」と素朴な疑問を呈しています。
「それにしても、正信房といえば、実名を湛空といい、京都嵯峨の二尊院に住み、法然流罪のときは配所にお供をしたと伝えられ、法然火葬後は遺骨を得て、二尊院に宝塔を立て、京都での専修念仏の基地とした人であり、勢観房は源智といい、法然の遺言によって、本尊の阿弥陀如来像や坊舎を相続し、知恩院の基礎を築いたので、開基法然につづいて第二世となっている。念仏房は、嵯峨の往生院に住んだ活動的な念仏者だった。いうなれば、彼らは法然教団の最高幹部クラスだった。それなのに信心という肝心の問題でこの程度の理解しかできていなかったとすれば、これは意外としか言いようがないが、どうなのだろうか。」(134頁)

(親鸞の家系、出家の理由、そして赤松俊秀氏が提起した「親鸞伝絵」の史料としての性質の問題などについても平松氏は詳細な考察を行っていますが、それらは私の当面の関心の外にありますから、ここでは紹介を省略しました。)

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  1. 2006/09/04(月) 12:42:51|
  2. 仏教史&仏教思想
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