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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその2

平松令三氏の『親鸞』(歴史文化ライブラリー)の読み、続けてみます。
前の記事から時間は少し飛んで、承元元年(1207)の越後流罪、建暦元年(1212)の赦免(親鸞三十五歳から四十歳)の頃の親鸞の動向についての平松氏の解釈です。

【越後国府での親鸞】
越後で赦免になっても親鸞は京都に戻りません。この点については、さまざまな考え方があるのですが、平松氏は次のように考えます。
「流罪は五年で赦免になった。だが親鸞は京都へ帰らなかった。「伝絵」は「かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひたり」と記しているけれども、越後に親鸞の門弟が少ないところを見ると、それほど積極的な教化が行われたとは思われない。じつはその年の三月に生まれたばかりの嬰児(のちの信蓮房)があったことが恵信尼文書でわかっているので、それがとりあえずの理由だったろう。当時そんな嬰児を連れての長旅などとてもできるものではなかったから。
 そのうちに法然示寂の報が伝わってきたことが、京都へ帰る気持を鈍らせたと思うが、それと同時に念仏教団の著しい右旋回の模様がわかってきたことも、大いに関係しているのではなかろうか。それはまず法然中陰法要に象徴されている。「法然上人伝法絵」などの諸史料によるとこの法要は七日ごとに盛大に行われているが、その本尊と導師が次のようになっている。
  初七日 不動尊  御導師 信蓮房
  二七日 普賢菩薩 御導師 求仏房
  三七日 弥勒菩薩 御導師 住信房
  四七日 正観音  御導師 法蓮房
  五七日 地蔵菩薩 御導師 権律師隆寛
  六七日 釈迦如来 御導師 法印大僧都聖覚
  七七日 両界曼陀羅・阿弥陀如来 御導師 三井ノ僧正公胤
導師が法然一門の高弟なのは当然として、その本尊が完全に顕密仏教的であるのには唖然とさせられる。法然は六十六歳で大病に罹ったとき、二カ条の遺言をしているが、その第一条を「葬家追善事」と題して、
追善ノ次第、マタ深ク存ズル旨アリ。図仏・写経等ノ善、浴室・檀施等ノ行、一向ニ之ヲ修スベカラズ。モシ追善報恩ノ志アラム人ハ、タダ一向ニ念仏ノ行ヲ修スベシ。平生ノ時、既ニ自行化他ニツイテ、タダ念仏ノ一行ニカギル。歿没ノ後、アニ報恩追修ノタメニ、ムシロ自余ノ衆善ヲマジエムヤ
と、自分の死後もただ念仏一行を修するよう、厳しく言い遺しているのに、弟子たちはその意に反して盛大な法要を、しかも多分に密教的に実施しているのである。これを知った親鸞は京都に愛想をつかしたのではないだろうか。そのような教団の右旋回が親鸞を京都へ向かわせなかった原因の一つと考えたい。」(平松令三氏、前掲書157-9頁)


【関東への移住】
建保二年(1214)四十二歳の親鸞は関東に移住します。しかし、親鸞がなぜ越後から関東へ移ったのか、「伝絵」はその理由についてまったく触れていません。
平松氏は、農民とともに移住した(服部之総氏の説)、妻・恵信尼の実家である三善家の所領を頼った(笠松一男氏の説)、『教行信証』撰述の資料探訪(赤松俊秀氏の説)をしりぞけ、善光寺聖勧進説をとります。すなわち、親鸞は越後からいったん信濃の善光寺に向かい、そこにしばらく滞在した後、関東に移住したという説です。
「親鸞は越後国府での在住中に、善光寺聖と出合ったと思われる。越後国府は前節で述べたような宗教環境にあり、善光寺信仰はこの地に及んでいたにちがいないからである。それは流罪中であったか、あるいは赦免後であったかはわからない。しかし、法然の死とそのあとの京都の状況を知って、これからどこへ行って師法然の念仏を民衆へ伝えて行こうか迷っているときの大きな選択肢となったにちがいない。そして善光寺へ向かったと思われる。」(168頁)
ただし、善光寺聖勧進に関する平松氏の説は、心証に留まっていて、細かい論証を欠いているように私には思われます。そして、同じく善光寺聖勧進説をとなえる五来重氏の議論に関しては、「今の長野へ行くと、親鸞にまつわるいろんな伝説があちこちに残っている。五来重氏はそれらの伝承に意味を見つけ、親鸞は善光寺に滞在して、寺僧に自分が比叡山で学んだ常行三昧の念仏を教えたのだろうとか、いろいろ述べているが、史料価値の低い伝説に全面的に依存したもので、歴史学の立場からは賛同し難いものが多い」(168頁)と批判的です。
[参考]
「越後のこう(国府)、信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す。」(『日蓮聖人遺文集』第二巻「種々御振舞御書」)

   *    *    *

『親鸞』における平松氏の記述は、以上の抜き書きのように飛び飛びのものではなく、より編年体に近いものです。そして平松氏の分析の特徴は、その編年体の平叙の部分によくあらわれているのかもしれませんが、このブログでの抜き書きは、親鸞の年譜を編年的にあまねく追うという主旨のものではなく、あくまでも現在の私の関心にしたがって『親鸞』を抜き書きしています。このため結果的に、史料分析的な部分よりも、それらの分析に基づく平松氏の結論の紹介が多くなり、平松氏の方法論がみえにくくなっているかもしれません。その辺は、一連の記事の性格を総合的に判断してお読みください。

   *    *    *

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テーマ:佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/07(木) 10:15:49|
  2. 仏教史&仏教思想
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