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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその2

二、幕府権力と真宗(1)ーー前半部

さて、峰岸氏の視点は板碑をいったん離れ、『教行信証』の奥書原稿に飛びます。
平松令三氏、重見一行氏らは、高田専修寺本の二本の『教行信証』および中山寺本の化身土巻奥書を紹介し、『教行信証』が得宗の御内人・平頼綱の助成を得て開板されたことを明らかにしました。峰岸氏にとって、このことは、「誤解かもしれないが、権力の弾圧にも屈せず、在家農民層の間に深く根をおろしていく真宗教団の姿という私の真宗観(中世後期の一向一揆観の投影かも知れない)に少なからぬ衝撃」(45頁)だったといいます。峰岸氏によれば、「重見氏が、「親鸞の主著教行信証が、従来指摘されて来たような、史的徴証に見られる真宗門徒の置かれた位置にもかかわらず、すでに親鸞の滅後二十数年にして、しかも時の権力者とのかかわりにおいて出版されたとすれば、それは真宗史上一つの重要な視点を提供するといえよう」(『教行信証の研究』法蔵館、1981年)と述べているが、まさに「重要な視点」と考えられ、権力による抑圧の側面と同時に、権力との結びつきの側面も視野に入れ、政治と宗教の関係を全体として把握する必要を感じた」(45頁)というのです。

以下、峰岸氏によって、中山寺本の『教行信証』奥書原稿を検討してみます。
まずその第一面の前段には、「教行証」(教行信証)が親鸞の選述で六篇八巻をなし、真宗の真髄をなす著述であることを述べ、弘安六年(1283)二月二日に親鸞自筆本一部六巻を「先師性信法師所」より性海(後述)に相伝されたとしています。性海は、その開板を志し「弘通」をはからんとした所、正応三年(1290)から翌年にかけて計四回の夢告を得たことが第一面から第二面にわたって記されています。
その夢告は、次のようなものです。
①執権北条貞時の乳父平頼綱(杲円)が鎌倉七口の僧侶を「屈請」して大般若経の書写をした所、性海も成員に加えられ、書写作業の後に白馬・銭などを与えられた。
②北条貞時の十二、三歳の息男が性海の膝の上に座ろうとした。
③師の性信が現れて、教行信証の開板の時は、平頼綱の助成を得て行えと言った。
④二人の僧が五葉松一本と松かさ一つを持って性海に与えた。
これらの度重なる夢告によって、性海は平頼綱の「聴許」を得て開板し、開板に当っては親鸞自筆本との「校合」をして「印板」を作ったと第四面に記されています。
ところで、『教行信証』は、親鸞自筆本といわれるものが、(a)親鸞→性信→性海、(b)親鸞→性信→明性の二経路で伝えられ、(a)は高田系八冊本、(b)は坂東本となったと考えらます。
親鸞の高弟・性信は、常陸鹿島社の神官大中臣氏の出自と伝えられ、京都で親鸞に師事して以来、越後から関東へと随従し、下総国豊田庄(別称松岡庄)の横曽根を本拠地として活動し、建治元年(1275)七月十七日に没したといいます。しかし、『教行信証』の奥書に記載され、性信よりそれらを伝えられたとされる性海・明性の二人とも、性信の門下の交名には見出せません。ただし、「性海は、前述のごとく、鎌倉七口の屈請による大般若経の書写という夢告から、鎌倉に住したと推定されるから、性信が建立したという鎌倉法得寺に住した可能性があり、この法得寺が性信の鎌倉での訴訟対策の根拠地であり、またその門弟性海が教行信証の開板を平頼綱に働きかけたのも、この法得寺を前提に考えることが出来ると思う。しかし、法得寺はどのような形で、どこにあったのかは現在のところ明らかでない。なお、性海は飯沼天神社(大生天神)の社家で性信に帰依して、法名性海になったという伝承が横曽根聞光寺(報恩寺)にある」(50頁)といいます。
続けて峰岸氏は、夢告の①③に注目し、「執権北条貞時の内管領として権勢を振い、弘安八年霜月騒動で幕府の宿老安達泰盛を滅亡させた平頼綱は、性信・性海ら横曽根門徒とどこに接点を持っていたのであろうか」(50頁)と問います。峰岸氏によれば、平頼綱の祖は、平家生き残りの平資盛で、その子孫は捕虜から得宗被官へと転進を遂げていきました。平頼綱ら長崎氏の名字の地は伊豆国田方郡長崎(韮山町)といわれ、北条氏得宗領の地頭や地頭代として所領の経営にあたっていたと考えられます。「ところで、頼綱の子助宗は飯沼を称しており、この飯沼の地名は、関東地方では下総・安房・武蔵・常陸などに見られるが、豊田庄横曽根の飯沼の可能性が強い。もしこの想定が成り立てば、横曽根性信門徒の領主は平頼綱であったことになり、性信・性海が頼綱を頼ることの必然性はかなり強いものと考えられる」(51頁)というのです。
なお、平頼綱に関しては、細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)が詳しく記しています(ただし、細川氏は頼綱が資盛の子孫であることを否定)。細川氏によれば、頼綱は「(安達)泰盛とその一党を殲滅し、以後七年余にわたって「一向執政」・「諸人恐懼」(『実躬卿記』正応六年四月二十六日条)といわれる独裁的な権力をふるうのである。時宗期まで得宗袖判を有する執事奉書によって行われていた得宗家の重要政務の多くが、得宗の花押を有さない執事書状によってなされるようになるのは、頼綱の専制下においてである」(細川氏前掲書163頁)とされる人物ですが、峰岸氏も注目しているように、霜月騒動と『教行信証』の開板は時期をほとんど同じくしています。鎌倉幕府における「専制者」頼綱が『教行信証』の開板を援助し、結果的に親鸞流の浄土仏教布教を助けているのはどのような意図からでたものか、それは霜月騒動のイデオロギーとどのようにからむのか(からまないのか)、政治史の観点からも興味深い事実といえるでしょう。

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/15(金) 10:53:01|
  2. 仏教史&仏教思想
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