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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその3

二、幕府権力と真宗(1)ーー後半部

次に、親鸞の帰洛時期とその理由に関する峰岸純夫氏の推論をみてみます。
親鸞自筆の板東本『教行信証』の成立について、赤松俊秀氏は、原本の綿密な検討の結果、その最初の成立は寛喜三年(1231)を溯り、改定が加えられて現存本が成立したのを嘉禎二年(1236)以前としています。そして、著述の場所としては、一切経の得やすい常陸の稲田をあげています。ところが親鸞が鎌倉で幕府の命で一切経の校合を行ったという伝承があり、峰岸氏はこれに注目します。
すなわち、峰岸氏によれば、親鸞の曾孫・覚如が撰述した『口伝鈔』は次のように記しています。

一、一切経御校合の事
西明寺の禅門の父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ、一切経を書写せられき。これを校合のために智者学生たらん僧を崛請あるへしとて、武藤左衛門入道<不知実名>ならびに屋戸やの入道<不知実名>両大名におほせつけてたつねあなくられけるとき、ことの縁ありて聖人をたつねいたしたてまつりき。<もし常陸国笠間郡稲田の郷に御経廻の比歟>聖人その請に応しましまして一切経御校合ありき。(以下略)


『口伝鈔』ではこの記事の後に、執権の催した宴席での、後の北条時頼(開寿殿九歳)とのあいだの魚鳥を食する時に袈裟を着用するか否かの問答があり、親鸞は、生類を解脱せしむるため着用して食するのだという解説をおこない開寿殿を納得させたという話が続きます。
さて『口伝鈔』では、この記述は、西明寺禅門・北条時頼の父時氏が政権を掌握していた時とありますが、時氏はその父泰時に先立って寛喜二年(1230)に二十八歳で没しており、峰岸氏は、これは「祖父泰時の誤解であろう」(52頁)と推測しています。また、時頼九歳の時点とは文暦二年(1235)で、この年二月、鎌倉明王院五大堂が建立され、一切経供養が行われています(『吾妻鏡』嘉禎元年二月十八日条)。
『口伝鈔』には「本願寺鸞上人、如信上人に対しましまして、おりおりの御物語の条々」とあり、親鸞から孫の如信に語られたことが、覚如に伝授され記録されたもので、伝聞過程での変化など疑問の余地もありますが、峰岸氏は、「前述の明王院一切経供養と関連させると、一切経書写の事実関係は一概に否定さるべきものではないと思う」(52頁)とします。また『口伝鈔』のなかで覚如は、この校合は親鸞の稲田在住の頃かと割注していますが、これは、「真宗教団の伝承にある相模(鎌倉あるいは「江津」=国府津)在住という関東在住二十年の最後の時期にあたるのではないか」(52頁)というのが峰岸氏の推測です。すなわち親鸞は、稲田から相模(鎌倉)に移住し、ここで一切経研究の学殖を幕府によって認められ、校合の役を命ぜられ、他の僧とともに執権主催の宴席に招じられているというのです。

この事実が確定すれば、親鸞の帰洛は嘉禎元年(1235)以後ということになります。そしてまた、この時期は赤松氏の指摘のように、『教行信証』板東本の完成(改定)の段階に当っています。「鎌倉における親鸞の一切経の校合という作業が、教行信証の完成に深く関係を与えていたと考えてよいと思う」(53頁)というのが峰岸氏の推測です。すなわち、峰岸氏は、「教行信証の完成のために、親鸞は一切経のもっとも得やすい鎌倉に移住し、幕府からその校合の機会も与えられ、そのことが教行信証の完成に有効に作用した」(53頁)と考えているのです。さらには、「沙門性海の教行信証開板にあたっての夢告(大般若経の書写への性海の招請)も、すでに親鸞において前例があったことと関連しているとも思われる」(53頁)とします。

ところで、この親鸞の一切経校合を行ったとされる文暦二年は、その直後に鎌倉幕府において念仏者の抑圧令が出された年です。すなわち、七月十四日、鎌倉中に対して「僧徒裹頭・横行鎌倉中事、可令停止」等の布達が出されました。さらに、これをふまえて幕府は六波羅に命じ、黒衣の念仏者の横行の禁止の宣旨を朝廷に要請するよう指示しています。
この指示は、黒衣の念仏者が諸所横行し、魚鳥を食い、女人を招き寄せ、党類を結び、酒宴を行うなど不当濫行を行うので、これを停止するというものですが、この対象となっている念仏者は浄土教信者が包摂され、いかようにでも解釈できる部分があります。またこの文暦二年の念仏者抑圧令は、直接には法然門流を対象として行われたものと考えられますが、親鸞門徒も法然から法流を受け継いている専修念仏には変わりなく、当然抑圧の対象となったと考えられます。
この抑圧令の布達は、幕府の命による一切経の校合の直後のことですが、親鸞がこれにいかに対応したかは明らかではありません。笠原一男氏は、「文暦元年の法難と親鸞の帰洛」(『親鸞と東国農民』、山川出版社、1957年)という論文のなかで、この弾圧を親鸞帰洛の直接の契機としていますが、この弾圧はそもそも京都から開始されており、まして山門の圧力などの点では鎌倉より激しいものがあったと考えられます。それゆえ、笠原氏のような直接の布教者・組織者としてでなく、外から関東門徒に指導を与えるための帰洛という解釈ではいま一つ説得力を欠くものがあります。そこで峰岸氏は、「確証はないが、親鸞は鎌倉を退去して一時相模国江津(国府津)に避難し、ほとぼりをさましてから帰洛したとも考える」(55頁)とし、帰洛の時点は、笠原氏の述べるごとく、文暦二年から遠くない時点と推測しているのです。
峰岸氏の論点は、それ自体が親鸞と幕府の関係についての重要な指摘であると同時に、親鸞の帰洛の時期、『教行信証』の完成ともからんでくる重要な問題だと思います。
(帰洛の直接の理由については峰岸氏は推測を保留しているようで、なにも記していません。)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/17(日) 18:03:38|
  2. 仏教史&仏教思想
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