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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその4

三、幕府権力と真宗(2)

論点は、親鸞帰洛後に移ります。
親鸞の帰洛後、東国の真宗門徒は二つの分裂の危機にさらされました。一つは建長七~八年(1255-6)におこった善鸞事件で、親鸞の子善鸞と東国門徒が対立し、東国門徒の中心人物である横曾根性信が善鸞によって幕府に訴えられました。親鸞は善鸞を義絶して、性信らを支持し、事態は性信らに有利に決着しました。後年仏光寺派の基をきずいた武蔵国荒木(行田市)の源海(光信、俗は安藤駿河守隆光)が、上京して親鸞に接し真宗門徒となったのもちょうどこの事件の最中の建長八年です。
その二は、正安二年(1300)~延慶二年(1309)の唯善事件で、峰岸氏はこの事件の経緯に注目します。

弘長二年(1262)に親鸞は没しましたが、その後親鸞の京都大谷の廟所の留守職をめぐって、親鸞の孫唯善と覚恵(およびその子覚如)の異父兄弟の両系が相争い、その分裂は関東にも波及します。この唯善事件については、おおむね覚恵-覚如のその後本願寺教団に発展する側からの唯善の纂奪という形で叙述されており、唯善側の主張点は史料の不足から必ずしも明らかではありません。
唯善は、病弱な兄覚恵にかわって、常陸奥郡門徒などの協力による大谷南地の買得、この土地をめぐる争訟における勝利などに活躍しましたが、門徒は唯善を支持せず、覚恵の留守職を確認し、土地を門弟の管理下に置きました。ここでの対立は、常陸門徒を中心とする東国門徒と唯善の間にあり、東国門徒は親鸞遺跡の権威に依拠して門徒の上に主導権を発揮しようとする唯善を忌避して、覚恵-覚如を支持することとなったとされます。

ところで、嘉元元年(1303)に、関東では幕府の抑圧による「専修念仏停廃」の問題がおこりました。この問題は、覚如の子存覚の『一期記』(A)、および専修寺文書(B)、本願寺文書(C)に記されています。
峰岸純夫氏によって、三つの文書を読んでみましょう。

(A)は嘉元元年(1303)に関東で「専修念仏停廃」の命令が出された時、唯善が関東に下って、巨額の銭貨を集め、それで幕府の要路に働きかけて、安堵の御下知を得たというものである。その時集められた銭は、横曾根門徒木針智信三○○貫を含む数百貫のものであった。その安堵の内容は、親鸞の門流は「諸国横行之類」でなく、「在家止住之土民」であって、国の費え、人の煩いがなき故、禁圧の対象者に混入されるべきでない、という唯善の申し分に理があるので免許するというものであった。
(B)は、その安堵を受けて、その旨を下野高田門徒の顕智に伝達したもので、そこに専修念仏停止の嘉元元年九月付の御教書の文面の一部が引用されている。「一向衆」の名で、「横行」「不横行」の差を論ぜず停止することの不可を訴えて免許の御下知を得たので、下知状の案文を地頭に提示して、もとのように興行をはかれ、というものである。
(C)は、十八年後の元亨元年(1321)にも、(A)(B)で記された下知のごとく、専修念仏の停廃が免許されていないので、本願寺の本寺を任ずる延暦寺の青蓮院が幕府に訴えてほしいというものである。この言上状の中に「去乾元之比……」と乾元二年=嘉元元年(八月五日改元)の専修念仏停止令が出たことを引用している。


幕府の嘉元元年の一向衆制禁の御教書は現存せず、また本願寺関係史料以外その存在を確認することが出来ないという弱点を持ちますが、(A)(B)(C)三つの史料から総合的に判断して、峰岸氏は、「文暦二年(1235) 七月二十四日関東御教書を踏襲した形で、(B)に引用されているように「号一向衆、成群之輩横行諸国之由、有其聞、可被禁制」という内容のものが発せられた」(58頁)と推測しています。
またこの二つの文書(問注所の下知状と唯善の施行状)が、幕府権力との関係を背景に、教団における唯善の地位の優位を(意図するとしないとに拘らず)門徒に印象づけたことは想像に難くありません。峰岸氏によれば、この時点で、覚恵-覚如系と唯善との本願寺留守職をめぐる確執はすでに開始されていたのです。
さて、徳治元年(1306)覚恵は病臥し(やがて翌年四月に没)、唯善は覚恵・覚如を大谷廟所から追放し、延慶元年(1308)本願寺留守職をめぐる訴訟が院庁や領主の青蓮院の場で展開されます。結局、唯善は敗訴して、延慶二年七月、真鸞の影像と遺骨を奉じて鎌倉(常葉)に下り、覚如の大谷廟堂留守職は確定しました(これが狭義の「唯善事件」です)。
これら一連の問題をめぐって、東西門徒の分裂は深刻なものがあったと思われます。覚恵・覚如を支持したのは、鹿島門徒(願性)を中心とする常陸門徒、そして高田の顕智、武蔵荒木の光信らでした。正安四年(1302)四月に、後宇多上皇の院宣を受けて、覚恵の御影堂留守職を再確認した門徒31名の内訳は、順性・直信・鏡願・妙性・来信・導信・唯浄・信浄など鹿島門徒8名、慶西(常陸志田)、明信・教覚・西光(常陸田中)、法智・覚念(陸奥安積)、光信・証信・覚明(武蔵荒木)らでした。また徳治三年(1308)に使者を上京させ訴訟行動を提起し、覚如をバックアップした人物に、鹿島の順性、高田顕智、三河和田の信寂(常陸光明寺門徒)がいます。覚恵・覚如派は、鹿島門徒を中心にした常陸門徒に、下野高田-武蔵荒木の高田系門徒、陸奥の門徒が加わっています。
一方唯善派も、下総・下野・武蔵などかなり広範囲に見られます。『親鸞聖人門侶交名牒』のなかに「唯善与同位也」などと記されていることから、どのような人が唯善派(唯善与同)だったかわかるのです。この唯善派は、鬼怒川・利根川・荒川水系の下総・下野・武蔵に広範に分布し、また唯善の所属した常陸河和田門徒を中心に常陸の一部に食いこんでいます。
留守職問題に破れた唯善は、延慶二年(1309)に鎌倉の常葉に下り、親鸞の御影・御骨を安置したところ「田舎人々群集」(『一期記』)という有様でしたが、やがて下総下河辺庄中戸山(関宿町)に西光院という寺を建立して移住します。この下総移住の年次は明らかではありませんが、鎌倉下着後間もなくのことと考えられ、将軍家(守邦親王)の保護があり、寺領が与えられたと伝承されています(『遺徳法輪集』)。そして、文保元年(1317)二月にこの地で没します。西光院は、善秀・善了・善栄・仲鷲・善鷲と継承されますが、六世善鷲の時、蓮如の本願寺に御影・御骨が返還され、本願寺に服して常敬寺の寺号が与えられました。

峰岸氏は、唯善の鎌倉下向、そして下河辺庄定着には(嘉元元年の下知状以来一貫する)幕府の援助があったと推測していますが、『遺徳法輪集』以外に確実な史料は存在しません。しかし、唯善の定着した中戸山は利根川(江戸川)の流路にあたり、交通の要地であり、かつ下総・下野・武蔵門徒の分布地域の中心的位置にあります。峰岸氏は、「この地域が唯善与同者が濃密に分布していることを考えると、唯善はこの地域の人々に擁せられて、ここに定着したといえよう」(61頁)と推測しています。
以上が、峰岸純夫氏による幕府権力と真宗教団の結びつきの第二の様相(親鸞没後の様相)です。

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  1. 2006/09/18(月) 12:09:44|
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