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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその5

四、真仏報恩板碑の造立

ここでようやく、峰岸純夫氏の論点は真仏報恩板碑に戻ってきます。
まず峰岸氏は問います。「真仏報恩板碑の立つ馬込はどのような領主支配関係にある地であろうか」(62頁)と。
この地は、太田庄に属しています。太田庄は荒川(現在の綾瀬川および元荒川)と利根川(現在の古利根川)の流路にはさまれ、流路に沿って北西-東南方両に細長く仲びた地域で、現在の羽生市・加須市・鷲宮町・久喜市・白岡町・蓮田市・春日部市・岩槻市・越谷市などの広大な地域に比定されます。文治四年(1188)に、「八条院領武蔵国太田庄」とあり、女院領のこの荘園は、同じ下総国下河辺庄などとともに、「時政地頭にて他人沙汰不可入」という所でした(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。また寛喜二年(1230)には、「武州公文所」(北条泰時の公文所)において、「太田庄内荒野可新開事」が決定され、得宗家令の尾藤道然が奉行に任命されたとありますから(『吾妻鏡』寛喜二年正月二十六日条)、鎌倉時代を通じて北条氏得宗領となっていることが判明します。太田庄の開発については、建久五年(1194)の堤の修固が行われており、幕府の開発事業が進められた地域と考えられます。
一方、北東に隣接する下河辺庄は、建長五年(1253)の堤修固の記事を初見として、金沢文庫文書などによって、北条氏(金沢氏)関係の一円所領と認定されています。
太田庄、下河辺庄、そしてそれと東に接する下総国の幸島郡、大方庄、豊田庄(松岡庄)などは、北条氏所領が集中する地域を形成しているのです。ここに、下総・武蔵の門徒が分布し、その中に唯善派が根強く存在したことは三章で詳説されたとおりです。

さて、真仏報恩板碑の立つ馬込周辺に関しては、『飯野八幡宮文書』のなかに「永仁二年十一月十一日伊賀頼泰譲状案」という史料があります。
すなわち、永仁二年(1294)に伊賀頼泰が嫡子光貞に譲渡した所領の中に、武蔵国比企郡(実は埼玉郡)内の地として、潤戸村とこれに付属する新井西東、「みくら」(御蔵カ)、馬込が記載されているのです。さらに正和四年(1315)四月十三日に再び伊賀頼泰が光貞に譲渡した所領の中にも、潤戸・新井西東・駒前・蓮田・「みくら」とならんで馬込を見出すことができます。「みくら」は不明ですが、その他の地名は埼玉郡と足立郡の郡界をなす綾瀬川(元、荒川流路)の東北岸、現在の蓮田市内に見出すことができます。また横曾根門徒木針智信の「木針(こばり)」に比定される小針はその対岸にあります。これによって板碑の立つ馬込の地は、建立の時点では伊賀頼泰-光貞の所領であったことが確認できます。
以上のことから、真仏報恩板碑建立の地は北条得宗家領である太田庄の内部の、得宗と密着し、準得宗被官である法曹官僚家の伊賀氏の所領内の馬込であったことが確認されます。それゆえ、峰岸氏は、この板碑は伊賀氏の承認のもとに(あるいは助成も考えられる)建立されたと推察しています。

さて、板碑が建立された延慶四年(1311)三月八日というのは、いかなる時点だったでしょうか。一つは、その前年七月四日に高田専修寺の顕智が没しています。そして、その法系は顕智の師真仏の家である大内氏(椎尾氏)の専空に継承されて、その後の専修寺派の系となります。したがって、真仏報恩講は、顕智を継承する専空によってなされなければならないのに、真仏の門弟(顕智と同門)である唯願によってなされるのはどういう意味があるのでしょうか。唯願は『親鸞聖人門侶交名牒』では、常陸の唯願とのみ記され、その門弟に得信・願信の二人がいること以外に何の史料も存在しません。
ところで延慶四年の時点は、前述のように延慶二年に京都を逐われた唯善が、鎌倉を経由して、下総に下向したと考えられる時点でもあります。板碑が唯善支持派の多く分布する武蔵馬込の地に建立されたことを含めて総合的に考え、峰岸氏、次の新たな問題点を指摘します。

①唯願と顕智没後の高田専修寺門徒(専空ら)との間には、分裂・確執が生じていたのではないか。
②この唯願の板碑建立の趣旨は、真仏報恩を掲げて板碑を建立し、盛大に報恩供養を営むなかで、反専空派の真仏門徒の結集を図ったのではないか。
③そして、その動きは、本願寺覚如を支持する鹿島門徒を中心とする常陸門徒などと対抗して、唯善を文持する下総・武蔵門徒の総結集の意味を持っていたのではないか。


そして峰岸氏は、「これが、馬込の地に真仏報恩板碑が建立され、唯願がその後の本願寺・専修寺系の史料から消えさる理由ではないかと考える」(66頁)と結論づけているのです。

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テーマ:史跡 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/21(木) 10:57:45|
  2. 仏教史&仏教思想
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