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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその6

平松令三氏による峰岸純夫論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」の評価にうつる前に、われわれとしても、ここで峰岸論文をもう少しくわしく検討してみることにしましょう。
すでに記したように、峰岸論文の構成は、
 はじめに
 一、荒川河畔に立つ大板碑
 二、幕府権力と真宗(1)ーー性海の教行信証開板と親鸞の一切経校合
 三、幕府権力と真宗(2)ーー唯善事件をめぐって
 四、真仏報恩板碑の造立

の五章からなりますが、ここで峰岸氏は、次の四つの問題を取りあげています。
 A 真仏報恩板碑の造立(一および四)
 B 教行信証開板と平頼綱(二の前半)   
 C 鎌倉における親鸞の一切経校合(二の後半)
 D 唯善事件と真宗教団(三)

峰岸氏は、BCにおいて、鎌倉時代における真宗教団が、時の権力と深くかかわっていることを確認したうえで、Dにおいて親鸞没後の教団の分裂を一瞥し、その分裂がAの真仏報恩板碑造立と強くかかわっている可能性を示唆したのでした。
真仏報恩板碑造立には、(真仏供養のための費用を含め)150貫の大金を集めたと記されていますから、この時点で、教団が非常に大きな経済力をもっていたことがわかります(ちなみに、嘉元元年の専修念仏停廃命令の際にも、教団は300貫以上の訴訟費用を集めています)。

ところで、峰岸氏は、DとAの論点を関連づけたほかは、BCをDAに直接関連づけることはせず、BCはあくまでも、DAの傍証にとどまっていました。そこでここでは、BC、とりわけ時間的に近いBの論点とDAの論点の連関を少しみてみることにしたいと思います。
まずそれぞれの論点を時間的に整理してみます。

【論点B】
(弘長二年(1262) 親鸞没)
弘安六年(1283) 性海が『教行信証』を相伝
弘安八年(1285) 霜月騒動。平頼綱が安達泰盛を滅ぼして幕府内の権力を掌握
正応三年(1290) 性海が『教行信証』の開板に平頼綱の助成を得るようにとの夢告を受ける
正応四年(1291) 『教行信証』開板

【論点D】
正安四年(1302) 後宇多院が覚恵の御影堂(本願寺)留守職を安堵
嘉元元年(1303) 幕府が専修念仏停廃を命令
徳治元年(1306) 唯善が覚恵・覚如の父子を大谷廟所(本願寺)から追放
徳治二年(1307) 覚恵没
延慶元年(1308) 本願寺留守職をめぐる唯善と覚如の訴訟はじまる
延慶二年(1309) 覚如が勝訴。唯善、鎌倉に下向

【論点A】
延慶三年(1310) 高田専修寺の顕智(反唯善派)没
延慶四年(1311) 真仏54回忌、報恩碑造立

論点Bと論点Dのあいだには、約10年の間隔がありますが、それを政治史年表から補ってみます。

正応六年(1293) 平禅門の乱。平頼綱滅亡、北条貞時親政開始
正安三年(1301) 後伏見天皇譲位。貞時出家。師時、執権就任
嘉元三年(1305) 鎌倉で北条宗方が嘉元の乱を起こし、連署・時村を殺害
徳治三年(1308) 将軍・久明親王追放、守邦王将軍就任。後二条天皇急死、花園天皇即位(=後宇多院政停止、伏見院政開始) 

嘉元の専修念仏停廃令は、『教行信証』開板を助成した平頼綱の殺害から約10年後に出されたものですが、はたしてこれは、真宗教団に対する幕府の姿勢の変化を示すものなのでしょうか。断定的な判断は避けたいと思いますが、峰岸氏によれば、この停廃令は、直接的には時衆の「諸国横行人」の禁制を目的としたものであり、それゆえ真宗門徒は、「在家止住」という時衆との違いを強調して禁制から除外されたといいます。真宗教団に対する幕府の姿勢は、頼綱存命当時とそれほど変化してはいないのではないでしょうか。
一方この間、京都では大谷廟所の留守職をめぐって、覚恵・覚如と唯善のあらそいがはじまります。正安四年に覚恵の留守職を安堵したのは後宇多院ですが、周知のように、大覚寺統と持明院統のあらそいのなかで、後宇多院の権威は絶対のものではありません。朝政が大覚寺統から持明院統へうつる微妙な時期(延慶元年)に、留守職をめぐる訴訟がはじまります。訴訟の結果は、いちおう覚如の勝訴に終わりましたが、これとて絶対のものとは言い難いのではないでしょうか。
ところで、峰岸氏は、訴訟に破れて鎌倉に下向した唯善には、将軍家の保護があったとしますが、時の将軍守邦王は前年就位したばかりで、まだ十歳の子供に過ぎません。峰岸氏の論を擁護しようとすれば、唯善を保護したのは、将軍の背後にいる得宗・貞時もしくは執権・師時としなくてはならないでしょう。彼らの唯善支持は、嘉元の専修念仏停廃令時以来、一貫しているのです。

興味深いことに、真宗教団内で大谷廟所留守職相続が大問題となっていたのと重なる徳治二年(1307)、後伏見院が『法然上人絵伝』を企画したという伝承があります。徳治二年当時朝政をになっていた後宇多院(後二条天皇の父)だけでなく、それと敵対する立場にある持明院統側も、留守職相続問題(真宗教団の動向)には大きな関心をもっていたのではないでしょうか。
(ちなみに覚如は、正安三年(1301)に法然の伝記『拾遺古徳伝』の詞書を撰しており、一連のできごとと『拾遺古徳伝』詞書執筆との関係も興味深いものがあります。後伏見院は、この『拾遺古徳伝』に相当の関心をはらっていたのではないでしょうか。)

こうしてみると、親鸞没後の真宗教団の動きは、常陸の在地のみならず、京都(大谷廟所、朝廷)、幕府の動きをからめて、総合的に検討していかなくてはならないのではないかという感が強くします。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/23(土) 08:42:22|
  2. 仏教史&仏教思想
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