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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読むーーその8

この辺で、峰岸論文を読みながら考えていることをまとめておきます。

親鸞に関して私が最も興味があるのは、20年間も東国でいったい何をしていたのかということなんですけれど、いわゆる「史料」からはこれは皆目わからないんです。だから教団のことを分析して間接的にせめるしかないんだろうと思います(そんなわけで親鸞教団にこだわっている)。
ところで、親鸞の門弟について最もはっきり記した史料は「親鸞聖人門侶交名牒」です。そしてこれまでもたびたび指摘したように、この交名牒によれば、親鸞の高弟のほとんどは武士階級に属する人なわけです。
それと、親鸞の門弟の実態を考えるうえで欠かせないのは、親鸞の書状ですが、その大半は京都から関東の門弟に宛てたものです。ところでこの書状ですが、書状を書きかつ親鸞からの返事を読むことができるというのは、ある程度の知的階級に属した人なわけで、これらの人は生活にもゆとりがあり、かつ大半が交名牒記載の高弟と重なっているのではないでしょうか。となると、親鸞と書状のやりとりをした人々も、大半は武士と考えられます。少なくとも、農民、商人、猟師といった人々はそうした数に入らないでしょうし(繰り返しますが、それらの人たちは読み書きができないわけですから、農民らとかわした書信もほんとうはあったのだけれど時間経過とともに紛失してなくなってしまったという可能性は、この場合無視できると思います)、これらの人々に対する直接的な教化は、書状からは読み取れないと思います。
親鸞の門弟を探るもう一つの手がかりは『歎異抄』ですが、『歎異抄』執筆者とされる唯円にしても、その同輩にしても、とある事件を契機に京都にのぼって親鸞と対面したからこの書ができあがったわけで(『歎異抄』第二条参照)、するとここからも、親鸞の主要な門弟は遠くまで旅行するだけの経済的にゆとりのある人々、おそらくは武士ということになってしまうのですね。

この門弟たち、今井雅晴氏によれば、善光寺如来との雑修(真仏ら高田門徒)、真言宗との兼修(性信ら横曽根門徒)、鹿島信仰との融合(鹿島門徒)の可能性が高いといいます。私は、それはおそらく事実だろうと思います。
ところで、これら門弟たちの信仰が専修でないのは親鸞が教化不十分のうちに関東を離れたからかというと、そうではなくて、彼らは親鸞が関東に来る以前から雑修であり、そのなかで、念仏をも信仰していたのだろうと思います(真言宗に関しては、おそらく、阿弥陀仏を教主とする覚鑁流の真言宗だったのでしょう)。
それが、自分たちの念仏信仰に対する権威づけを欲していたとき、たまたま越後に配流されていた親鸞が赦免になったのを知り、法然直系の弟子として常陸に迎えたのではないでしょうか。親鸞=善光寺聖説によれば、親鸞の存在に最初に注目して親鸞を常陸に招聘したのは高田門徒で、横曽根門徒と鹿島門徒は、その後、親鸞教団に組み込まれたと考えられます。

で、「大宗教家」が20年間も常陸にいたからには、そこで何か布教活動をしていたのだろうと考えるのはある意味で当然で、いろいろな人が親鸞の布教活動をさまざまに想像していますが、端的にいうと、私は親鸞は常陸でほとんど布教活動をしなかったのではないかと推測しています。
でもちょっと考えてみてください。
そもそも、常陸に大勢の人が集まる、布教に適した場所や機会などあったでしょうか。田植えのときとか、祭りのときとか、市がたつときとか、なんらかの機会が考えられなくはありませんが、おそらくそれは例外的なケースでしょう。それ以外の日常の布教というと、私にはちょっと思いつきません。浄土宗の布教というと辻説法的なイメージを思い浮かべるのは、われわれに『法然上人絵伝』のイメージが強く焼きついているからで、それは京という大都市では可能でしょうが、常陸では不可能に近いと思います(地方でそうした「布教」をしようとしたら、一遍教団のように、人が集まるようななんらかの仕掛けをしなくてはならないのではないでしょうか)。
それでも一歩譲って親鸞が何らかの布教活動を行ったとしてもよいのですが、とすればそれは、民衆ではなく領主階級に属する武士(たとえば上に上げた横曽根門徒や鹿島門徒)を対象としたもので、それも、布教というより組織化に近かったのではないかと私は思います。ただしこの辺は判断が難しいところで、親鸞が武士を組織化したのか、雑修のなかでもともと念仏信仰をもっていた武士たちが権威づけや思想的バックボーンとして親鸞を利用したのか、二つのパターンを想像することが可能だと思います。
で、民衆との結びつきということでいえば、親鸞の直接の門弟(面授の人々)が、それぞれ支配下の民衆を集め、親鸞はそうした席に招かれて説教したのではないでしょうか。おそらく、親鸞が民衆を直接組織化したり教化しようとすることは、こうした面授の門弟たちによって忌避されていたのではないかと私は思います(その忌避に触れた有名な例が善鸞事件でしょう)。
話を少し前に戻して、親鸞の書状のことを考えると、読み書きを知らない民衆は、物理的に親鸞と書状のやりとりができるはずがないというのは一面の事実ですが、実は、親鸞と書状のやりとりをすることができる人というのは、教団のなかの特権階級だったのではないでしょうか。彼らは、親鸞と対面して教理について質問したり、書状をやりとりする特権をもつが、逆に、親鸞を扶養する義務をももつ。親鸞はそれ以外の人々とは直接接触しない。
親鸞教団とは、いってみれば将軍と御家人の関係にも似た、明確な双務関係で成り立つ集団だっのではないかというのが、現在のところの私の結論です。そしてその関係は、親鸞没後も親鸞の子孫と教団の間で続くのですね。峰岸氏がとりあげて浮き彫りにしているのは、そうした親鸞没後の教団のいくつかの側面ではないかと思います。
要は、『歎異抄』の「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第六条)という言葉、普通は比喩的なものと解されているわけですが、私は、これは親鸞の本音だったのではないかと思うのです。この言葉に前後する「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり」(同条)「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるゝことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり」(同条)というのも、私が考えているような事実関係にもとづくものだったのではないでしょうか。

ところで、峰岸純夫氏は、本年五月、吉川弘文館から『中世東国の荘園公領と宗教』を上梓しており、一段落したら、こちらも読んでみたいと思っています。ちなみにこの本には、当ブログで取りあげている論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」も収載されています。

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/09/28(木) 15:18:17|
  2. 仏教史&仏教思想
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