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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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大峯顯氏の『花月のコスモロジー』を読む

『親鸞のコスモロジー』(法蔵館、1990年)を読んでから気になっている大峯顯氏のエッセー集『花月のコスモロジーーー哲学の仕事部屋から』(法蔵館、2002年)を読みました。本書は、吉野の浄土真宗寺院で住職をつとめながら、哲学、俳句、浄土真宗の三分野で独自の活動をしている大峯氏の比較的短い文章を、星、花、月、海、真、光のテーマでまとめたものです。タイトルからいっても、『親鸞のコスモロジー』との連続性を意識した本といっていいでしょう。
冒頭大峯氏は、「「二兎を追うものは一兎をも得ず」という諺を苦い思いで噛みしめてきて何年になるだろう。二兎どころか三兎を追いかけてきたからである。「君は二足の草鞋ではなくて三足だね」と言われたりするときも、やはり忸怩たる思いである。三兎とか三足か言うのは、私の仕事が哲学、俳句、浄土真宗の三つだからである。今となっては、三足の草鞋の紐は深く肉に食い込んで、脱げそうにもない。どの一足を脱いでも、自分自身でなくなるような気がする。三匹に見えるのは外見だけであって、「自己」という名の一匹の兎だけを追い続けてきたと思っている。むろん、それを得たなどとは思っていない」(「ヘール・ボップ彗星]<星篇>、本書2頁)と自己を語っています。
『花月のコスモロジー』そのものも、バラバラの三つの主題を語りながら、いつしかそれが、それを語る大峯顯という人の自己に収束していきます。巧みな構成というべきでしょう。そしてその巧みさが、ほとんど自然体で行われているところに、大峯顯という人のすごさを感じます。
以下、気の向くままに、本書から目についた文章を抜き出してみます。

まずは俳句論から。俳句に関する文章では、俳句の特徴は短いということもさることながら、季語をもつことだとする考え方が興味深かったです。これは、院政期の和歌を中心に短い形式の詩を考えている私には、ちょっと思いつかない視点なのです。氏のもとを訪ねたウクライナからの留学生にむかって、大峯氏は次のように語ったことがあるといいます。
「日本人の季節感が詩歌のテーマになってくるのは『古今集』からである。けれども和歌では、季節は詩の内容になっているが、詩の形式にはまだなっていない。つまり、季は詠われる対象であるだけで、すべての事柄をそれを通して詠うところの形式としては自覚されていないのである。俳句において初めて、季が詩の形式となった。季節の言葉を必ず一つ入れるという約束が生まれたということは、詩というものについての今までになかった新しい考え方が生まれたということである。これは季節の自然の物たちと交流し、共生しようとする日本人の伝統的な生き方が、一つの文学形式にまで結実した注目すべき事件だと思う。季語というものによって一つの広大な詩的宇宙を開くという方法の発見は、江戸時代の日本人の独創に帰せられてよいのであって、これは世界の文化に対する日本人の貢献の一つだと思う。」(「ウクライナの乙女との会話」<月篇>、本書100頁)
季語の難しさは、それが日本独特のものだからというだけではありません。最近は、日本人でも季語のもつ意義がわからなくなってきていると大峯氏は指摘します。
「季語に対する無理解は、ひとり外国人だけでなく、案外、俳人たちにもあるのではないか。有季定型派の俳人の中にも、季語という形式は大事だが、それよりもっと大事なのは、この形式の中にいかに新しい内容を盛るかだ、と言う人がいる。この意見はちょっと見るとわかりやすいが、実は詩の形式というものの生理に対する根本的な誤解だと、私は思う。季という詩の形式は、既成のものとしてあるのではない。それはわれわれがそれを生かしたとき、初めてあるのである。」(同上101頁)

季語としてあらわれるような自然や外界は、親鸞の思想とどのようにかかわってくるのでしょうか。そこで大峯氏は「海」に注目します。「親鸞の著作を読んで驚くことの一つは、海という言葉が圧倒的に多いことである」(「親鸞の海」<海篇>、本書142頁)というのです。
「たとえば道元にとって、仏法は決して遠い世界ではない。山がそこにあり、水がそこにあるというその事実に、仏法は現前している。現にある山水は、われわれに自己本来の面目への覚醒を要求している。しかし親鸞の仏教においては、このような発想は見られない。親鸞にとっての自然は、そのような形ではなかったのである。
 この宗教的天才の世界経験は、光の意識と闇の意識とからできている。彼は自分の心の内にある底知れない煩悩の闇黒の中で、すべてを照破する不思議な阿弥陀の光明に出会った。自分の内に暗黒がなければ、光を受けとめることはできない。逆にまた、光を受けなければ、闇黒であること自体がわからない。闇を知ることと光を知ることは、同じ一つのことである。つまり、光と闇との交代があって、光と闇との中間というようなものはないのである。闇と光との境い目に、両者の混合として浮上してくる種々の形、山川草木や花月は、この激しい内省の天才にとっては、ほとんどリアリティをもたない。形をとった自然は、煩悩や罪業の闇黒と阿弥陀の輝く光明の内へ姿を消してしまうのである。
 このようにして、残されてくる唯一の自然は海である。その海とは色や形ではない。むしろ力とはたらきである。親鸞にとって、海とは、そういう形をもたない実在というもののシンボルである。そういう形なき実在を、われわれは、肉眼や心眼でもって観想することはできない。われわれの実存そのもの、いわば内臓でもって感得する他ないものである。親鸞は煩悩と如来との二つをそのような仕方で知ったと思う。こうして海は、彼の浄土真宗を表現する絶好のメタファーとなってくるわけである。」(同上146-7頁)


そうした大峯氏が蓮如を観る視覚にも、独自のものがあります。
「あんなにたくさんの一般大衆を教化した人だから、さぞかし大衆のニーズに応えて現世利益を説いたにちがいないと思いきや、正反対である。蓮如はこの世の幸福を手に入れる道なぞ、一つも説いていない。たとい、どんなに幸福な一生であっても、死はいつやってくるかもしれない。死はすべての幸福の幻想をいっぺんに空しくしてしまう。あらゆる弁解は無効である。そういう大きな不安をかかえたままの人生はお先まっ暗であって、要するに地獄が待っているだけではないか。われわれのこの現実をとっくに見抜いて、安らかな浄土の命の中へ救いとろうと誓った弥陀の本願を信じる以外に、われわれの安心はどこにもない。蓮如はこのはっきりとした真理をはっきりと説いただけである。その他の余計なことは説かなかった。
 大衆が気に入ることを説いて大衆と結びついたのではなく、大衆が気に入らない「後生の一大事」という真理を説いて大衆と結びついたところに蓮如上人の真の偉大さがある。宗教家の魅力を庶民的とか人間的とかいうところに見出そうとするのは、現代社会の一種の流行である。人間親鸞、人間良寛、人間蓮如といった具合である。思うに、平和ボケの現代人の発想である。そんな、ものわかりのよい「人間蓮如」が当時の門徒たちにとっての魅力だったとは、私は思わない。蓮如上人の真の魅力は、いかなる人間も本願を信ずることによって救われる、信心がなければ地獄があるだけだと言い切った、単純率直な言葉の比類なき衝撃力だったのである。(「蓮如の魅力」<海篇>、本書153-4頁)


哲学と宗教が結びついた地点では、大峯氏は次のように語ります。
「いったい、われわれは何のために生まれてきたのでしょうか。早晩、死で終わるこの短いいのちに、いったい何の意味があるのでしょうか。われわれ一人ひとりのいのちをして尊厳たらしめているゆえんのものは何なのか。それを見つけないかぎり、どんなに生命の尊厳と言っても、本当は「おたがい、死にたくありませんよね」という心情を言いかけただけのことでしかありません。しかし、ただ死にたくないという消極的な心情と、いのちが尊いという自覚の積極性とは決して同じとは言えないと思います。(中略)
 カントが言ったように、他のものの手段となる事物は価値(Preis)を持っているのに対して、人間の人格性はその自己目的性のゆえに尊厳(Wurde)を持っているわけです。その場合、人格とは個人を個人たらしめている超個人的な、永遠不滅なもののことです。仏教で言う「仏性」に似ています。たんにこの世だけで消えてしまうものは、どんなに高価なものであっても尊厳とは言えないでありましょう。
 そうしますと、個人のいのちが尊厳であるのは、死ねばそれっきりになってしまうからではなくて、個人を超えた大きないのちによって貫かれているからだということになります。個体をはなれていのちはありませんが、それにもかかわらず、個体のいのちは個体以上の次元に由来しているわけです。個体の内に生きていながら、しかも個体の枠の外にあふれているものであって初めて、物でなくいのちと言うことができるのです。個人のいのちを尊厳たらしめているゆえんのものは、実にこの超個体的な大生命に他なりません。」(「なぜ「いのち」は尊厳か」<真篇>、本書184-5頁)


実は、大峯氏の俳句論や宗教論、ギリギリのところで私には理解(体感)できないものがあるというのは事実です。それは結局、私は俳句をつくらないし、浄土真宗の信者ではないというころからくるのかもしれません。
では、大峯氏の考え方はまったく私に引っかからず、なんの説得力もないかというと、そうではないのです。身体的なものをも含む共感や了解というのは、思想理解のなかでもある意味で最も深いものかもしれませんが、大峯氏の文章を読んで、立場は違し、私はそういう考え方はしないけれども、氏の世界観が整合性をもった独自の世界観であることを私は了解し、私の世界観とは別に、そうした世界観が存在することを納得するのです。
その意味で、本書の最後におかれた大峯氏の鈴木大拙論は、思想理解とはどのような事態であるかという問題とも結びつく、深い考察であるというべきでしょう。
この小文の冒頭で大峯氏はまず、「浄土真宗に属する人びとは、大拙の真宗は禅の立場からの見方だというかもしれないが、私は決してそうは思わない。そうではなくて、禅とか真宗とかいう既成のドグマの枠から自由になって、真宗信仰の本質を発見しようとする志願がどの作品にも感じられるように思われる」(「『浄土系思想論』の大拙」<光篇>、本書220-1頁)と指摘します。
そのうえで、大峯氏は、鈴木大拙の主張を次のように要約します。
「これまでの真宗教学では、浄土は時空の世界の彼岸におかれ、これについては普通一般の論理を適用することを拒絶するというところでとどまっている。浄土は地球上の存在ではないし、弥陀は歴史上の人物ではない。だから論理や科学的知性をもって、これらのものの有無を論ずるべきではないというのが、伝統教学の立場である。しかるに大拙によれば、この種の考え方だけでは、知識人を納得させることはできない。知識人を納得させることができないということは、大拙が自然科学的なものの考え方を是としているという意味ではない。そうではなくて、真宗教学のこのような発想は、宗教経験や仏法の真理というものを本当に解明するやり方としては不十分なのだ、という意味である」(同上222-3頁)
「つまり、大拙によれば、真宗経験の事実はたんなる形式論理をもってしては決して解明できないのに、宗学者は論理の方式は一つしかないものと初めから決めてかかって、どこまでも形式論理にとらわれているわけである。真宗経験の世界は形式論理をもってしてはつかめないとしても、いかなる意味でも論理がない世界ではない。浄土の存在、弥陀の本願は不可思議と言われる。しかし、不可思議とは非合理とか無理とかいうことではないのである。人間の知的分別を超えた生命の論理、事実そのものの理法になかった自然なことである。信仰経験について何も論じないというのならともかく、いやしくも真宗教学を組織しようとするのならば、弥陀の本願や他力の信心そのものが、それに従っている超論理の論理、矛盾の論理というものを発見して、これにかなった教学を生み出さなくてはならない。しかるに、従来の真宗学者には、そういう大切な仕事をおこなうだけの知的用意や思考力が欠けている、と大拙は述べている。大拙の「即非の論理」は、自力聖道門の論理というようなものではない。宗教の真生命に肉薄せんとしたものである。親鸞聖人が他力の世界を「義なきを義とす」というふうに表現しているのと別な事柄ではない」(同上223-4頁)
大拙の浄土仏教理解は、浄土仏教の内在的論理に即したものではないかもしれないが、それとは別の角度から浄土仏教の本質をつかんだ、非にして即の議論であり、真の思想的議論とは、そうした非にして即という面をもつということを、大峯氏は主張しようとしているのではないでしょうか。
このようにして、大峯氏は、浄土真宗教学の外にある鈴木大拙の思想(教学批判)を真宗思想の内部に取りこみ、真宗の信徒としてそれを生きようとします。私は、そうした大峯氏の思想を、もう一度浄土真宗の文脈から説きはなって読んでみたいのです。

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