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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその4

さて、平松令三氏の『親鸞』<歴史文化ライブラリー>(吉川弘文館、1998年)の紹介(抜書き)を再開しましょう。前の記事では、「越後から関東へ越えて二十年」の章までをとりあげましたが、「帰洛の理由と京の生活」から再開します。

【一切経校合】
まずは一切経校合の節。
「親鸞の帰洛について「伝絵」は、「聖人東関の境を出でて、華城の路におもむきましましけり」とあっさり片付けていて、いつごろ、どういう理由で京都へ帰ることになったのかにはまったく触れていない。」(平松氏、同書184頁)
これに関して平松氏が注目しているのが、これまで紹介してきた峰岸純夫氏の論文「鎌倉時代東国の真宗門徒」です。
峰岸氏が紹介・分析している覚如『口伝鈔』の記事は、それまで真宗史の学界ではほとんど事実として採り上げられることがなかったのですが、平松氏によればそれは、「教義面からは、袈裟の徳用が説かれている部分が、どうも親鸞の思想とは一致しないのではないか、と考えられることと、歴史学の方からは北条時頼には早くから廻国伝説がつきまとっていて、カリスマ化傾向が指摘されることや、この説話の冒頭が「西明寺の禅門の父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」となっているのだが、時頼が九歳になったときには、父時氏はすでに死去してしまっていて、歴史事実と喰い違う、ということなどが手伝っていた」(同書186頁)といいます。また、「しかしそれにもまして、この話は真宗教団に属する研究者の多くが抱いている親鸞像に照らしてみて、そんなことはあり得ないことのように思われたからではなかっただろうか。関東での親鸞は、片田舎で農民たちを相手に、ひたすら念仏の道を説いて廻っていただけで、政治権力とはまったく無縁の生活だったにちがいないから、鎌倉幕府のような権力中枢からお呼びがかかるはずがないし、仮にお呼びがかかったとしても、親鸞の信念からすればそれに応ずるようなことはあり得ない、という先入観があって、学者たちはこの話を歯牙にかけようとさえしなかったのであった」(同書187頁)といいます。ところが、「峰岸氏は真宗教団とは別世界の人であったために、従来の親鸞像にこだわることなく、無頓着にこの『口伝鈔』の説話に取り組んだ。そして父時氏というのを祖父泰時を誤解したものと訂正さえすれば、あとはこの記事は事実として何ら不合理なところはない、事実と認めてよい、という結論を出したのであった。まことに注目されるべき提案といえる」(同書187頁)と高く評価しています。
続いて平松氏は、テクスト・クリティックの観点から峰岸論文を点検します。
「じつは『口伝鈔』について、現存諸本を対校してその成立過程を研究してみると、「父修理亮時氏、政徳をもはらにせしころ」という文言は、改訂本に見られるものであって、覚如の初稿本には「祖父武蔵守泰時世をとりて、政徳をもはらにせしころ」となっていたことがわかっている(龍谷大学善本叢書『口伝鈔・改邪鈔』平松令三執筆「口伝鈔」解説)。北条泰時が執権として在職中に、一切経の校合を行うことになり、武藤左衛門景頼や宿屋入道光則に親鸞を探させた、という初稿本の記載は、この当時の事情によく符合していて誤りはない。覚如がそれをなぜ「父修理亮時氏」と誤った方向へ改訂したのか、その事情は審らかでないが、こういう初稿本の記載からも、この一切経が鎌倉幕府で行われたものであり、それは峰岸氏の言うように文暦二年に明王院五大尊堂で供養されたもの、と認定して差支えないと思われる」(同書188-9頁)と、峰岸説を補強しています。
前述のように『親鸞伝絵』では、この一切経校合は全然触れられていません。これは『伝絵』が『口伝鈔』より36年前に成立し、その成立時点では、このエピソードが知られていなかったためとも考えられますが、平松氏は、「(覚如は)「伝絵」初稿を制作してからのち、少なくとも二度以上増補改訂しているのだから、この話を追加しようとすればできたはずである」(同書189頁)と自問します。
そこで平松氏が注目するのは、京都仏光寺に所蔵されている「伝絵」です。実はこの仏光寺本は、奥書などを欠くため制作年代が明確でないのですが(ただし画の描法などから推して室町初期の制作と判定されます)、そのなかに、次のように、この一切経校合の話が採用されているというのです。
「関東武州禅門<泰時>一切経の文字を校合せらるゝことありけり。聖人その選にあたりて、文字章句の邪正をたゞし、五千余巻の華文をひらきて、かの大願をとげしめ給けり。」(平成元年同朋舎出版刊『真宗重宝聚英』第五巻収載)
この記載は、『口伝鈔』の初稿と合致しています。
また平松氏はこの場面に付された絵も紹介していますが、それは、「座敷の中に座る親鸞の前に、砂金の包かと思われる小袋三個が角盆に載せられており、戸外からは幕府方の召使かと思われる男が、衣類らしいものを捧げ持ってきている。この校合に加わって、多額の謝礼を受取っている場面のように見える」(同書192頁)といいます。平松氏はさらに、「詞書に「壱岐左衛門入道<法名覚印>沙汰として、さまさまに四事の供養をのべられけり」というのは、親鸞の参加によって泰時の念願が成就したので、多くの布施物がとどけられた、という意味らしい」(同書192頁)とします。
この小袋のことまで事実かはわかりませんが、少なくとも、この画を書いた絵師は、こうした場合には小袋(砂金)を差し出すのが当然と考えていたのでしょう。
これらからする平松氏の結論は次のようなものです。
「ともあれ親鸞は、『口伝鈔』に記されているように、鎌倉幕府の招きに応じて、一切経校合に参加したか、あるいはまた峰岸氏がいうように、「教行信証の完成のために、親鸞は一切経のもっとも得やすい鎌倉に移住し、幕府からその校合の機会を与えられ」たか、したのであろう。したがって、帰洛は文暦二年以降ということにならざるを得ない」(同書194頁)

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/01(日) 13:35:33|
  2. 仏教史&仏教思想
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