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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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平松令三氏の『親鸞』を読むーーその5

【親鸞帰洛の理由】
「帰洛の理由については学界に定説がない」(同書195頁)と、平松氏は述べます。
「かつては、『教行信証』を完成させるため、というのが有力だったが、関東滞在中に一応の成立を見たことが実証されてからは、学説としての成立の基盤を失った。親鸞も還暦の歳を迎えて、望郷の想いが強くなったのだろう、というのは、昔から言われ、それももちろんあったろうけれども、親鸞がそんな情緒だけで行動したとも思われない」(同書195頁)というのです。
親鸞の帰洛を鎌倉幕府の念仏取締りとの関連で考える説もありますが(笠松一男氏、赤松俊秀氏)、平松氏は、「念仏者への弾圧は、このころ関東よりもむしろ京都の方が激しいくらい」(同書196頁)と、これも否定します。
ではなぜ親鸞は関東を離れたのでしょうか。平松氏は、「それは20年以前、関東を志した理由に対応するものでなければならない、と思う。法然の弟子として専修念仏を弘めようという使命感を抱いて、そしてそのための手段として善光寺勧進聖の仲間に身を投じ、関東に入ったという目的が、20年間でほぼ達成した、という安堵感が関東から去らしめたのではないか、と私は思う」(同書196頁)とします。
ただし、この平松氏の考え方に対する私の疑問は、仮に親鸞が善光寺聖として関東入りしたということを認めるとして、この善光寺聖としての念仏は、はたして「専修」といえるのだろうかという点にあります。つまり平松氏の推測は、論として概ね正しいのではないかと私は考えるのですが、そのなかで、親鸞が関東で専修念仏を広めたという考え方に、私は疑問をもつのです。親鸞が関東で広めた念仏は、専修といえるようなものではなくて、もっと緩やかな念仏信仰だったのではないでしょうか(これは、先行する法然の布教に関してもいえると思います)。

この点について少し考えてみましょう。
法然・親鸞流の浄土思想をそれ以前の浄土思想とわかつ最大のポイントが「専修」にあるというのは事実だと思いますが、ではなぜ法然や親鸞は、専修を主張したのでしょうか。
これについては、通常、経典や善導ら先人の解釈を論拠として説明されることが多いのですが、私はそれは根本的説明に成りえていないし、だいいち、こうした権威主義的な説明で人々を十分納得させることはできなかったと思います(これは、仏教界内部に向けての、いわば論争にそなえた表向きの論拠というべきではないでしょうか)。
専修に関しては、もう一つ、念仏の易行性とむすびつけて、一種の平等主義、民衆主義の立場からとらえる見方も根強くあります。念仏は誰にでも実行できる容易な行為であり、しかも経典や論釈によって念仏によって往生できることが確実なのだから、往生するには念仏だけで十分と。しかしこの考え方は、たとえば「念仏は行者のために非行・非善なり」(『歎異抄』第八条)という親鸞の言葉に抵触するのではないでしょうか。というか、親鸞は、念仏が確実で容易な行為だからこれを選択するのだという考え方に備えて、「非行」ということを言ったのではないでしょうか。親鸞になぜこうした言い方が出てくるかというと、彼には往生だけを目的とした念仏の否定という考え方があるからではないかと思いますが、この点からすると、専修念仏の平等性を強調する捉え方は、いくら人道的で魅力的に響くからといっても、結局、親鸞の思想を表層的に把握したものでしかないのではないかと思います(ただし、法然に関しては、こうした見方もある意味で可能ではないかと思いますが、このブログではとりあえず親鸞中心に考えたいと思います)。
では親鸞の浄土仏教において、専修とは一体何だったのでしょうか。私はそれは、「如来よりたまはりたる信心」(『歎異抄』第六条)を自己のものとして感得すれば、それ以外のものは不要となるという意味において、結果的に専修だったのだと思います。したがって、この論理を逆転させて最初に専修を強調して雑修・兼修を排斥するような態度は、親鸞が感得した浄土信仰と反しているのではないかとも思うのです。
親鸞にすれば、如来から信心をさずけられていない人、あるいは「本願招喚の勅命」(『教行信証』行巻)が聞こえない人が念仏のみによる往生を疑うのはやむを得ないことで、だからといって彼らが行っている行としての念仏をやめさせることはできないということではないでしょうか。またさらには、人々が他の行や信仰と兼ねて念仏を行うことも容認せざるをえないということだったのではないでしょうか。
いってみれば、親鸞にとって「専修念仏」とは、それ自体が必須にして不可欠の原理ではなく、念仏者がめざすべき窮極目標として掲げられていたのではないかと私は思うのです。
ここでは詳論しませんが、法然に関しても、以上のような観点から「なぜ専修なのか」もう一度考えてみる必要があると私は思います。知られている法然の高弟のうち、たとえば藤原兼実の行実は、専修念仏者のものとはいえないですね。教団内の雑修、兼修を容認するというのは、親鸞が法然から引き継いだ布教方針だったのではないでしょうか。

専修の問題に関してはとりあえずこれくらいにして、善光寺勧進聖の経済面について、またそれと親鸞帰洛のからみについて、平松氏の推論を読んでみましょう。
「勧進聖の経済面については史料が乏しく研究が進んでいないが、勧進聖の中には上下のランクがあり、下級の聖は、勧進物の中から、自己の生活の資を差引いた残りを上級の聖に差出し、上級聖は一定額を自己の得分として差引き、残りを本寺へ上納する仕組みとなっていたものと考えられる。それはこの当時の荘園制経済がそうした仕組みだったことから、当然推測されるものである。」(同書198頁)
続いて平松氏は親鸞の次の書状をひきます。
「護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。さきに念仏のすゝめのもの、かたがたの御なかよりとて、たしかにたまはりてさふらひき。」(『親鸞聖人御消息集』第三通)
宮崎円遵氏は、この書状のなかの「こゝろざしのもの」と「念仏のすゝめのもの」を性質の異なるものとして区分し、「こゝろざしのもの」が個人の懇志であるのに対し、「念仏のすゝめのもの」とは念仏勧進によって得られた特殊な懇志と解しているといいますが、平松氏はこの解釈を一歩進め、「「念仏のすゝめのもの」とは、経済上は上級聖の得分に相当するのではなかろうか」(同書199頁)と推測し、さらには「関東の門弟たちの間に、そうした経済機構が安定的に形成されたことが、親鸞を安心して故郷へ帰らせた」(同書199頁)と想像しています。
この分析は、私には非常に説得的です。

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/10/03(火) 12:51:50|
  2. 仏教史&仏教思想
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