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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『言葉と物』とハイデガーの思想:その2

『存在と時間』の直接の大きな主題はもちろん、存在および時間の問題だが、これを解明するために次のような見通しで研究にのぞむことを、ハイデガーは『存在と時間』のなかで明らかにしている(原著39~40頁;ちなみに、このブログで『存在と時間』に言及する必要がある場合には、細谷貞雄訳のちくま学芸文庫版を用いる)。

第一部
 第一編 現存在の準備的な基礎分析
 第二編 現存在と時間性
 第三編 時間と存在
第二部
 第一編 カントの図式論および時間論ーー時節性の問題設定の前段階として
 第二編 デカルトのの存在論的基礎と、res cogitansの問題圏への中世的存在論の継承
 第三編 古代的存在論の現象的基盤とその限界の判別尺度としてのアリストテレスの時間論

しかし、実際の『存在と時間』は、この綱要の第一部第二編にあたる「現存在と時間性」で中断され、その後書き継がれることがなかったために、『存在と時間』について考察する場合、書かれた『存在と時間』の分析と同時に、その全体構想や照準がどのようなものであったのかも問題にされ、最近では、書かれた『存在と時間』は、ハイデガーの全体構想のなかで読み解かれるべきだとされることが多い。
ところでその全体構想だが、第二部の綱要をみると、ハイデガーの意図するものは西洋哲学史の再構築であり、それをカントからデカルトへ、デカルトからアリストテレスへと時間を遡ることではたそうと考えていたことが明白である。
フーコーの『言葉と物』は、ハイデガーが西洋哲学史の大きな切れ目と考えていたデカルトとカントに照準を合わせ、17~18世紀にかけての古典主義時代(=デカルト以降)の学問や思想と19世紀(=カント以降)の学問や思想のあいだになにが生じたのか、具体的に分析していく。
すなわち『言葉と物』の構想は、『存在と時間』第二部の第一編・第二編と対応し、ハイデガーが果たさなかった『存在と時間』の問題意識を批判的に継承しているのであり、西洋哲学史に対するフーコーの見通しとハイデガーの見通しの一致が偶然のものではなく、意図的なものであることを暗示するために、フーコーは「つねにすでに(toujours deja)」というハイデガー語(ハイデガーに即していうならばimmer schon)を用いているのだ。

この辺で、今回の私の『言葉と物』の読みの出発点となった『存在論的、郵便的』のなかの東浩紀の記述に戻り、東による『言葉と物』の要約をみておこう。この要約は、それ自体、非常によくできていると思う。
「彼(フーコー)は66年の『言葉と物』において、ルネサンス、古典主義時代、近代の三つの時代におけるエピステーメーの変遷をきわめて簡潔に描き出した。ルネサンス的知は言葉(=語mot)と物(chose)とを同じ空間に配置する。それゆえそこでは、語についての考察と物についての考察、例えば「蛇」の語源的探究と蛇の解剖学的特徴とが併置されて記述されることになる。対して古典主義時代は、語の世界と物の世界、表象の秩序と自然の秩序、メタレヴェルとオブジェクトレヴェルの二位相を峻別する。つまりそこでは「蛇」という語は蛇という物の透明な表象と見なされ、語源的探究と解剖学的特徴とは記述のうえで厳密に区別される。古典主義的知は、表象の秩序と自然の秩序とを別々に整理する。そして最後に近代、18世紀以降の西欧世界では再び二位相の峻別が揺らぐ。そこではもはや、表象の秩序の自律性、メタレヴェルのメタレヴェル性は自明と見なされない。したがって近代的知は、語の領域と物の領域の整理に別々に携わることができない。かわりにその知は、語/物(思考形式/思考対象)の二重性を産出する特殊な存在者、「経験的=超越論的二重体」としての「人間」の分析に向かう。すでに明らかなように、以上の「考古学的」記述は前期ハイデガーとまったく同じ論理展開で進められている。近代的知は、メタ/オブジェクトのレヴェル分けそのものの産出構造について探究する。このフーコーの主張は私たちの術語で表現すれば、近代的知が、総じて否定神学システムを扱うことを意味する。18世紀末には一方で批判哲学が、クラインの壺構造を純粋な形態で、すなわち「人間」として検討する知として登場する。そして他方で文献学・生物学・経済学が、クラインの壺構造を唯物論的に探究する知として、その構造の具体的現れの場所(言語・生命・労働)にしたがい配分され登場する。
 私たちは『言葉と物』と『存在と時間』とのこのパースペクティヴの類似性から、つぎの二つの帰結を引き出すことができる。一方でフーコーの認識は、前期ハイデガーの仕事、前述した否定神学的「超」の発見を歴史的に相対化するものだと思われる。ハイデガー自身が29年の『カントと形而上学の問題』で詳述したように、存在-存在者-現存在(メタ-オブジェクト-クラインの管)というクラインの壺的構造は、ある意味ですでにカントに潜在していた。それゆえ『存在と時間』の重要性は厳密には、新種の「超」の発見にではなく、形而上学的「超」の背後につねにすでに機能していた、別種の「超」の再発見にこそ求められねばならないことになる。
 しかし他方で『存在と時間』と『言葉と物』の類似性は逆に、つまりそこで、フーコーがハイデガー自身を用いてハイデガーの相対化を試みていたことをも示唆するように思われる。」(『存在論的、郵便的』256~8頁)
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  1. 2005/09/16(金) 10:55:38|
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