le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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「つねにすでに」ーーハイデガーにおける了解の構造

ここで『言葉と物』を少しはなれ、ハイデガーが「つねにすでに」という言葉を用いるときに意図するものは何か、なぜこの奇妙な二重副詞がハイデガー読解のキー・ワードでありうるのか、少し追ってみたい。その前提としてまずは、「存在と時間」のなかから、Zuhandensein(用具的存在)の定義に関するテクストを引用。

「道具がその存在においてありのままに現れてくるのは、たとえば槌を揮って槌打つように、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉においてのみであるが、そのような交渉は、その存在者を出現する事物として主題的に把握するのではなく、ましてそのような使用が、道具そのものの構造をそれとして知っているわけではない。槌を揮うことは、槌にそなわる道具的性格についてのたんなる知識しかもたないだけではなく、それ以上適切にはできないほどこの道具をすっかり自分のものにしている。このような交渉において道具を使用しながら、配慮は、それぞれの道具を構成している<…するためにある>という指示に服している。槌がたんなる事物として眺められるのではなく、それが手っ取りばやく使用されればされるほど、槌に対する関わり合いはそれだけ根源的になり、槌はそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。槌を揮うことが、みずから槌に特有の便利さ(「手ごろさ」)を発見するのである。道具がこのようにそれ自身の側から現れてくるような道具の存在様相を、われわれは用具性(Zuhandenheit)となづける。道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。」(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫版上巻、163頁、原著69頁)

さて、この用具的存在(道具)だが、人間(現存在)がとあるものを道具に仕立てるというよりは、ハイデガーによれば、ある意味で、道具が人間を人間たらしめるといえるのではないだろうか。つまり、道具は個人としての人間に先行して存在しており(われわれは道具に取り囲まれて生まれ・育つ)、人間がそれらに価値や意味を与えていくというより、人間の意味はその道具によって規定されているという面があるのではないだろうか。
人間が道具(たとえば槌)を使用するとき、道具を道具たらしめるその使用法(つまりその道具の意味)は道具のなかにすでに取り込まれており、道具を使用しながら、われわれはその使用法を実地で確認していく。それが「道具に呼吸を合わせ」「すっかり自分のものにしていく」ことである。こうしたなかで、ある道具がある形状をもつのは(たとえば、この文章を読んでいるときにあなたの目の前にあるPCのキー・ホードがそうした形状と文字の配列をもつのは)、それを使用する人間の手や指などの形や動きとその手や指を動かす能力が、その道具のなかにあらかじめ取り込まれているからであり、ここで視点を反転させれば、道具を使用しながら、われわれは、われわれがそうした能力をもった人間であることをつねに確認している(道具の使用によって、われわれはつねに、「人間である」という事実性のなかに送り返される)。
道具を使用するときに端的にあらわれてくるこうした道具と人間の関係(道具と人間のトラック・バック)は、ものごとの根源的な了解というはたらきを結び目として、われわれがなにものか(なにごとか)を了解するとはどのような事態であるかという問題と、深く関わってくる。

「およそ了解において開示されたもの、すなわち了解されたものごとは、いつでもそれについてそれの<…として>(als)が浮かびあがりうるようなありさまで与えられているのである。この<として>は、了解されている事柄の表明性の構造をなしている。そしてそれが、解意を構成するのである。」(上掲訳書上巻、322頁、原著149頁)

私は、このというフレーズは、『存在と時間』のなかでも最も重要な指摘の一つだと考えている。
われわれが「○○とは何か」という問いを発し、それに解答が与えられるとき(=われわれが○○を了解するとき)、その解答は「○○は△△だよ」という構造をもつが、この△△はわれわれに既知のものでなくてはならない(そうでない限り、われわれは○○を心の底からは了解できない)。これを言い換えれば、つまり、有効な解答とはつねに、既知の概念を用いて「△△として」与えられるということになる。
ということは、われわれはつねに、○○を問うとき、○○という未知のものへの解答をすでにあらかじめもっているということであり、実はこの「あらかじめ」の構造が、問うという行為を成立させているということになる。
つまり、われわれが問いを発するということ、そしてそれにある解答が与えられ、われわれがその解答を了解するということは、「つねにすでに」という構造のなかで行われているのであり、「問いと了解」、言い換えれば「未知と既知」の問題は、「つねにすでに」を問うかたちで行われなくてはならない。

かくて、「つねにすでに」は、『存在と時間』の生命線ともいえるような、非常に重要な用語(概念)なのである。
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  1. 2005/09/18(日) 11:01:23|
  2. 哲学
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コメント

はじめまして

はじめまして。ブログ、興味深く読ませていただきました。
ハイデガーの「常にすでに」(immer schonでいいのかな?)というのは、カントにおける「アプリオリ」に近いものとしてとらえていいのでしょうか?
ただ、ハイデガーの場合は、道具連関ということですから、アポステリオリなもののような気もしますが・・・かといって、それを「習慣」としてとらえるのも的外れですよね?どうなんでしょうか?
あと、このブログのどこかで、「ジョゼ虎」に厳しい評価をしていましたよね?ぼくは、あの映画、高得点つけますが、否定的である理由を教えてください。
ということで。
  1. 2005/11/21(月) 11:03:34 |
  2. URL |
  3. ヨシノスケ #-
  4. [ 編集]

「つねにすでに」の構造

ヨシノスケさん、ようこそ。
これは私が考えたことではなく、某ハイデガー研究者の受け売りなのですが、私は、カントであれば「アプリオリ」と表現するものをハイデガーは「つねにすでに」と表現しているというふうに理解しています。
ところで、ハイデガー哲学全般に関しては、現在の私は経験論との関連でとらえたいと思っています。ですから、道具関連だけじゃなくて、習慣との関連といってもいいし、さらには言語との関連といってもいいんですが、それらが「個」に遡ることが「つねにすでに」じゃないかと思うんです。つまり、この「個」という問題、ハイデガーは「世界内存在」の問題としてとらえなおしますね。「つねにすでに」というのは、そのとき、「世界」という概念が現存在に先行しているということなんだろうと思います(だから、「現存在」という概念は生物としての「人間」じゃなくて、おそらく「人格をもった人間」ということで、この人格形成に、道具、習慣、言語等がかかわっているということなんだろうと思います。非常にラフな単純化ですけど)。
『ジョゼと虎と魚たち』に関していえば、私のなかには、この映画を評価する基準がないというのが正直なところでしょうか。この映画に関しては、むしろその良さをみなさんに教えていただきたいと思っています。
ただし、この作品にいわば人称の乱れのようなものを感じるということはありますね。恒夫の一人称の作品としてはじまったものが、いつのまにか三人称の語りになってしまうようで、そこは少し抵抗がある。だから、ジョゼをもっと徹底的に突き放して描けばよかったのではないかという気はしています。
  1. 2005/11/21(月) 14:05:31 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

ご回答ありがとうございます。
「ジョゼ虎」の「人称の乱れ」には気づきませんでした。あの映画は、身障者をヒューマニスティック描かなかったという一点だけでも、良心的だったと思います。
ハイデガーにかんしては、世界(存在)の了解がアプリオリで、道具性がアポステリオリということかな、と思いました。
  1. 2005/11/21(月) 22:23:01 |
  2. URL |
  3. ヨシノスケ #-
  4. [ 編集]

客観性と用具性

『存在と時間』の読み、私はVorhandenheit(客観性)とZuhandenheit(用具性)という区分に重きをおいているのですが、それからすると、生物としての「人間」という概念はVorhandenheitの範疇にはいり、人格をもった人間がZuhandenheitの範疇として、存在を考察する際に考察の主体になったり対象になったりするということではないかと思います。
そうした人格をもった人間は、すでに世界のなかにあって、言葉やさまざまな道具をもちいてしまっているわけですね。結局、そのことが「つねにすでに」の構造であって、そこからすると、単純に「アプリオリ」とも言い切れないところがあるということじゃないでしょうか。
「現存在」の定義として「問いを発する存在」というようなものもあるようですが、結局、問いを発するということは、世界のなかにすでに投げ込まれ、世界を了解している(使いこなしている)という事実があるからで、それを考えれば、私のようにこれを「人格をもった人間」ととらえることも許されるように思っています。
  1. 2005/11/22(火) 14:56:08 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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