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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『言葉と物』とハイデガーの思想:その3

この辺でもう一度『言葉と物』に戻ろう。
しかし、ここでは、これまでの書き込みとは少し視点をずらしてみる。
フーコーの『言葉と物』がハイデガーの『存在と時間』を意識していることはこれまでの書き込みで了解していただけたのではないだろうか。ではなぜ、フーコーは、『言葉と物』は『存在と時間』を意識した著作だと明言せず、「つねにすでに」という術語の使用によって『存在と時間』を暗示するという複雑な戦略(=見せない、外す、踏み込まない)をとったのだろうか。
著作のなかに『存在と時間』の参照箇所を明記し、『言葉と物』がハイデガーの影響を受けているといわばカミング・アウトするのは、ある意味で容易なことである。
しかしここでフーコーがおそれたのは、ハイデガーからの影響を明白にカミング・アウトすることで、読者の了解が「なんだハイデガーか」ということに安住してしまい、それより先に進まなくなってしまうことだったのではないだろうか。
そうではなく、『言葉と物』を書く際にフーコーが考えたのは、ハイデガーがたてた重要な問い(問題意識)を、ハイデガーという固有名詞をはずすことによって、読者がフーコーとともに自己の問題として新たに問い直すことではなかったか。
ここで、このブログの最初の方に書き込んだ、『言葉と物』の書き出し「シナのある百科事典」の引用にもどっていただきたい。
「シナのある百科事典」を紹介しながらフーコーが示しているのは、モノは最初から明確なかたちで分類され、とあるモノとして明確に存在しているのではなく、分類も規定も、いかに恣意的なものであるかということだ。
ハイデガー哲学の分類や規定に関しても問題はおなじであろう。「これがハイデガー哲学だ」と指摘し、分類した瞬間、ハイデガーがたてた根源的な問題は、するりと手からすべり落ちてしまう。
したがって問題は、ハイデガーからの影響をいかに明言するかではなく、いかにその問題意識を共有するかなのだ。そのとき、ハイデガーという固有名詞(既知の概念)の明示は、妨げにこそなれ、なんのたすけにもならない。

こうしたフーコーの言説戦略が、大島弓子のそれと親和性があるといったら、「そんなバカな」と一蹴されてしまうだろうか。
すでに書いたように、大島弓子の作品は、世界の崩壊に対する一種の警告であり、その警告は、真剣になればなるほどメルヘンの色調をおびる。彼女の作品においては、大きな声で明確に語られるものではなく、小さな声でひっそり語られるものこそ、実は重要である。
われわれは、大島弓子の作品を読むように、繊細な眼で、かつ既存の価値観から自分を解きはなって、『言葉と物』を読まなくてはならない。
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  1. 2005/09/18(日) 13:13:51|
  2. 哲学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
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コメント

フーコー

lunatiqueさんこんにちは。
映画学メモのタカです。

一連の、フーコーとハイデガー関連のエントリー読ませていただきました。自分は哲学の方は興味がありつつも不勉強でよく知らないのですが、フーコーの時代ごとのエピステメーという考え方は前に映画関連で出てきたことがあって興味があったところでした。また、フーコーだとやはりシュールリアリズムつながりで「これはパイプではない」がやはり親しみ深いところであります。親しみ深いっつっても難しいですが。

時間論、というのもベルグソンを経てドゥルーズの「Cinema」で映画との関わりがクローズアップされてくるところなのではないでしょうか。Cinemaは読まなきゃなー読まなきゃなーと思いながらまだ読んでいないのですが・・・。

道具が人間を規定する、という考え方もとても面白いなと思いました。

自分にはとても難しいお話ですが、それでも楽しんで読ませていただいています。

映画学メモの方に先日いただいた書き込みにも遅れましたがお返事させていただきました。ご覧くださいませ。
  1. 2005/09/20(火) 13:20:57 |
  2. URL |
  3. タカ@映画学メモ #6SWgxDAM
  4. [ 編集]

世界=内=存在

タカさん、こんにちは&書き込みありがとうございます。

「道具が人間を規定する」ということ、「道具は人間の使用を前提としてつくられていからあたりまえじゃん」と読んでしまうと身も蓋もないんですね(笑)。
実は、道具の話に入る前に、ハイデガーはモノを客体的存在者(Vorhandensein)と用具的存在者に分け、それまでの哲学は客体的存在者(およびその本質)ばかり問題にしてきたけど、そんなものはどこにもないんだ、要は、人間は道具に囲まれて生まれ・育ってきて、それらの道具とかかわりをもつ(使用する)ということが、モノの意味であると同時に使用者である人間の意味なんだと主張するわけです。
ですから、ここでの「人間」というのは、homo sapiensという意味じゃないですね。そのことをより明確にするために、ハイデガーは有名な「世界=内=存在(In-der-Welt-Sein)」という術語をもちだしてきます。
人間を裸にして、そこで人間とは何かを問題にしてもやせたこたえしか帰ってこない。そうではなくて、実際に生き・動いている局面で人間をとらえたいというのが、ハイデガーの戦略じゃないですか。とすると、道具は、この課題にうまくこたえてくれるわけです。

このところ、なんかややこしいことばかり書いてますけど、懲りずに、これからもどうぞよろしく♪
  1. 2005/09/21(水) 09:06:00 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

言葉と物

lunatiqueさん こんにちは

『言葉と物』は学生の時に図書館で借りて以来 読んでません。
借りて読んだ時は 歯が立たず判らないまま返してしまいました。
またチャレンジしてみようかしら。

最近読んだフ-コーの本は『真理とディスクール』は楽しく読めました。

lunatiqueさんが 展開されるお話楽しみにしてます。
  1. 2005/09/21(水) 23:32:01 |
  2. URL |
  3. iwasabi #-
  4. [ 編集]

多少、異論はあるんです…。

『言葉と物』で展開される18世紀論には、実は私は少し異論があるんですよ♪なんか、はじめに結論ありきで、後からいろいろな事例をはめこんだような気がしないでもない。
でもまあ、あれだけいろいろな内容をつめこめば、多少がたぴししてくることはしかたないんじゃないですか。
ともかく、一般論としてはやはりすごいと思います。
私としては、フーコーを読むのは、とりあえずこれで終わりにして、長い間積ん読状態だったクリステーヴァに挑戦してみたいと思っています。
  1. 2005/09/22(木) 14:42:18 |
  2. URL |
  3. lunatique #KAqg7Yzw
  4. [ 編集]

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